別冊 どうも |^・ω・)/

今関心ある事を、まぁなんとなく、適当に。

アンチ切腹派だって武士なのだ (* ̄. ̄)"b"

2012-07-28 15:40:35 | 歴史の疑問
この思い指しという方式はいつ始まったかわからないが、自分が尊敬・愛情・憎悪など何等かの感情を抱く相手を、自分の死出の友としようという気持ちから発生したようで、心中と似ているが、切腹に限って行われたもののようである。この形式は最終的には次のように変形した。

すなわち相手を倒したいが、自分にはその手段のない武士が、まず自分で切腹し、その血刀をそのまま憎む相手に送付する。
それを送りつけられた者は近日のうちに腹を切って死ななくてはならなぬ。
それを拒否した者は、武士にあるまじき卑怯者として、その社会集団から抹殺され世に立つ事ができなくなる。

この不文の法は近世初期まで、もとは上越下越の領土に君臨して武を誇った上杉氏の領内に行われたものが、その後の転封(関ヶ原戦のあと)によって米沢盆地に寛永二十年(1643)まで存続したのである。
(日本人はなぜ切腹するのか / 千葉徳爾 P203~204)


家康くんは三河~江戸育ちなので、その手は使えません


 この記事 のつづき
やっと切腹ネタに手を付け始めました。
一応三回でひと段落させる計画。


一言で切腹だの腹切りと言っても、そのやり方や作法やルールは地方によって、また、個人の事情によってまったく異なっている様子。
武士の本懐には、ご当地ルールってのがずいぶん色濃く影響するようです。
もとより現代においても日本のローカルルール優先体質(郷に入っては郷に従え)は、会話の端々はおろか自治行政でも伺えるし、新参者は市町村レベルで異なるゴミ出しに始まり、地元行事への参加の仕方やお付き合いなど、しばしば戸惑ったり驚いたりします。

切腹もその例外ではなく、「武士ルール」という括りよりも、ローカルルールと申しますか、共同体の掟と申しますか、そういう「風土的色彩」の方が強いようです。
さらに個人の美意識だったり哲学だったり拘りだったりがフンダンに入り混じり、同郷であっても10人いれば10通りの切腹模様があったと見るのが無難そう。
そもそも全国区的な「武士の作法」なんてものでハラキリを画一化させる必要はなく、切腹に必要なのは風土で培われた本人のアイデンティティだった、と言えましょうか。


「いや待て、切腹にも作法くらいあっただろ。wiki でも作法が紹介されている」
ごもっともでありますが、こちらは徳川幕府の刑罰としての切腹。
お江戸スタンダード版切腹「刑」といいますか。

幕府主導で行われる、言わばVIPクラス限定の処刑法ですから、執行側は手続きを明記し、手順をマニュアル化する必然や、執行に関しては記録を残す必要からも「作法」として洗練させざるを得ない経緯がある。
切腹に立ち会える人員はそう多いわけでもないし、そもそも非公開処刑なので誰でも立ち会えるわけでもないだけに、特級幹部(大老とか)宛てになされる執行報告書の作成は必須。

また、執行不備や不手際の補正補完は、執行件数に比例して微調整され、改良されていくのが常。
とくに頻繁に行われない刑罰(徳川250年の治世中、幕府掌握切腹刑案件は20件程度しか記録にないらしい)には、
切腹者の身分や立場によって、その手順がより厳格になされたり、もったいぶった形式や格式も加味されるだろう。
武士の公務員化が定着し、武士や兵法が精神論(もはや実戦不要の机上の空論)で語られるようになる江戸中~後期には、より面倒くさい形式ぶったモノに変形している可能性は高い、と思います。


さて、一方、地方公務ともいえる藩レベルの切腹刑は、その土地の風習や藩作法、家伝にのっとったローカルルール・・・もといファミリールール優先。
時代によっても大きく変化するところでありますが、藩主レベルのVIP階級でもなければ、幕府推奨の面倒くさい法定手順に付き合う必要もなかった。
徳川御三家ならいざ知らず、とくに外様大名だの旗本クラスでは、藩主が流行に流されやすいタイプでない限り「当家・当藩のしきたり」の方が重みと有難みがあるものです。
そんなわけで、なかには八戸藩のような壮絶な切腹刑(詳細知りたければ本書購入してください)もあれば、
足利義明(義昭じゃないよ)のエピソードや薩摩藩(一部エリアか?)のように、「うちには切腹なんてない。武士の名誉は討ち死になり」ってな家訓や土地柄もあったり、千差万別。
杓子定規に「すべての武士は切腹を名誉刑だと考えていた」と思い込むのは、ちょっと早計かもしれないです。

おそらく重要ポイントとなりそうなのが、このマイナーな武将・足利義明(1538年没)や薩摩藩の「切腹なんて敵にひれ伏すも同様=死に恥だ」とする気風が、日本では殆ど日の目を見ていない現実。
石田三成も小西行長もこの思考系列の武将だったと言うと、多少はイメージしやすいでしょうか。
このような死に恥を選ばなかったアンチ切腹派は、「徳川推奨武士道精神」からみれば、「生き恥さらし」のいい見本というところでしょうか。
ぼんやりと「切腹=武士」の構造輪郭が見えてきたような・・・と、ここは、今はまだ臭わせるだけw


補足
やはり解りにくいなと思い、足利義明の部位を抜粋しました↓ ご参考まで。

天文六年(1537)下総鴻の台(今の国府台)の合戦に、足利義明(小弓御所と呼ばれた)が北条氏綱に敗死する時のことである。これは文章からみて、語りものの一種であったらしい。
(中略)
若君、つまり義明の息子は、負傷したから自分で切腹しようと言いだした。
それがこのころは一般の武家の慣いだったが、叔父の元頼は、それは当家の一族ではやらない行為だとたしなめたのである。
最期まで戦って、相手と相討ちになって死ぬべきである。自分で腹を切るのは、北条に服従したことになるというわけで、切り込みをして乱軍の中で討死にした。
主将義明も矢に射られて長刀を杖に立ち往生をとげ、自害はしていない。
(P176~177)



脱線しますが、切腹刑様式には「扇腹」ってのもあって、
これは「短刀の替わりに扇を置き、扇に手を伸ばした瞬間に首を討つ」という切腹刑の亜流。
扇のほかに木刀もあったそうな。
もはや、これって斬首刑だろってとこですが、wikiには「江戸中期には形式的になったのでお扇や木刀を代用した」なる解釈が載せられてます。
うーん、これだけの説明で、誰が納得できるのだろう。

個人的には「代々うちでは切腹は禁止されている。こんな死に方、先祖に顔向けができない」とか「武士の誉れは討ち死になり」とかの、アンチ切腹派の人のための例外法だったような気がしてます。
頑なに「切腹なぞせん」と駄々をこねられるのも迷惑だし、切腹に「武士の誉れ」なんて美意識を持たない奴に刃物なんて持たせたら、逆に立会人が道連れに刺されかねない。
そんな奴も相手にしなくてはならない、苦肉の策から生まれた作法だったのではなかろうか。

単に「刀剣に手を伸ばした瞬間を討つ」という形式流儀に時代が変容したのであれば、飾りとして置くのは真剣だって構わないはず。
短刀に手を伸ばす位なら、「腹を刺す勇気もないヘタレ」でもできそうなものです。
「討たれるのが怖いビビり」は、どのみち木刀であろうが扇であろうが、手は伸ばせない。

ここは 切腹拒否者や刃物を持たせたくない危険人物に、「これは斬首ではない」という幕側の方便として扇や木刀を用意した、と解釈した方が合理的な気がします。
やむを得ぬ事情でもない限り、「武士の誉れの切腹刑」を命じておきながら、小刀すら用意せず、わざわざ安全な「扇」や「木刀」を置いていては、武士の体裁と作法の辻褄があわないと思うのだが?


そういえば、本書、赤穂浪士にも少し触れられていた。
彼ら(赤穂の浪人ども)には幕府法定切腹刑手順が適用されているはずですが、本当は大石内蔵助すら切腹させてもらえなかったんじゃないか、なんて推測も可能です。
それこそ短刀に手をかけた瞬間首を討たれた、と。
「一味徒党して大名の邸に乱入し殺傷を行ったものとして切腹刑を科したことに疑念が感じられた」とか
「浪士等が処刑を不満としていた場合には、刀剣を手にするとそれに乗じて敵対行動にでる可能性がある」(P44)
を、浪士どもを「切腹させなかった」理由としてあげてます。
「切腹刑」は赤穂熱に浮かされている庶民向けの体裁名目にほかならず、「武士でもないものに腹を切らせるわけにはいかない」という多数派武士の面目のため、実態は斬首刑であった可能性もある。
現代でもよく騒がれる、二枚舌行政やマスコミ操作って奴ですかね。

はてさていかがなものか。
どのみち、死人に口なし。
本当のことは立会人にしか知り得ないことですな。
そもそも改易された藩の武士、「浪人」って、司法行政サイドから武士として扱っていい人なんですか?
不明瞭な身分制度の謎((φ(..。)メモメモ


さて、そもそも私が切腹に興味持った発端は、「処罰としての切腹刑」ではなく、「自傷行為としての切腹」でした。
風習として定着した腹切り文化の実態を、発生起源を、次以降、ちょっとでも触れてみれたらと思ってます。

参照・参考書として「日本人はなぜ切腹をするのか」をメインに使いました。
サブで 切腹 日本人の責任の取り方  切腹論考 武士道   などにも目を通してみました。
ご参考まで。


また、今この時期に扱うには不適切な内容だとご批判受けるかもしれませんが、とはいえタイミング計ってみたところで「適切な時期」なんてものが来るとも思えず。
現代では禁忌である「自殺」を扱おうと、それも「古きよき武士道精神」として単純美化されやすい切腹を扱おうというのだから、なかなかリスキーな記事です。
しかしながら、日本人がノスタルジックに妄想する「切腹ファンタジー」は、未だに自殺者を情緒的に美化する現代メンタリティーに脈絡していると感じているところもあり、あえて今「切腹」に触れることで、私自身の混乱を少しでも整理できたらいいなと思うところでもあります。

不適切な用法、表現等ございましたら、随所にて鞭撻いただければと存じます。
また適材文献などご紹介いただければ幸甚に存じます(5000円以上の高価な専門書は買えませんw)

1st contact 長浜ヾ(〃^∇^)ノ小谷城編

2012-07-24 13:41:34 | お城・史跡>長浜

小谷城編とか謳ってますが、山に登ってません。
今回は、小谷城のふもとにある小谷城戦国歴史資料館館内まで。
山登りは次回です、次回。



「小谷城野外博物館」とは、小谷山の小谷城跡全般を指してたんでしょうか?
ふもとの箱物には「小谷城戦国歴史資料館」ってありますな。
「なんかやっちゃったかな?Σ( ̄Д ̄;)」と思いながら、館内へ。

中の展示物は浅井3代の略歴がメイン。
パネル展示館だし、ある程度歴史を知っている方なら、「歴史民俗資料館」の方だけ見ればいいのかな?と思ったりはします。
でもある程度の歴史も知らないと、パネル展示って、実はなんの学習効果もなかったり。
「見ただけ」という・・・ヾ(´▽`;)ゝ ←たとえばこいつ。

そんな訳で、こちらでもガイドさんが手取り足とりで小谷城の歴史や姉川合戦・小谷城戦の解説をしてくれます。
私は、小谷城はもちろん、浅井家も不勉強なんで参考になりました。
やっぱ、初心者にはガイドさんがいるって、大事なことだと思うわ。
活字だらけの展示とは、関心濃度も違ってくる。

「民俗資料館」では、浅井長政の人柄や大雑把な興亡等がメインな解説だったように思うんですが、
こちらは浅井三代の奮闘ぶりや合戦の様子がより詳細に理解できるようになっている感じです。
浅井興亡の歴史は、なんだか家族経営会社の興亡史まんまですねぇ…。
初代がガツガツの偉業をなし、二代目のヘタレ経営で弱体化し、三代目が立て直し図って奮闘するもあえなく解散 みたいな。
なかなか示唆に富んだ興亡史で、「ふーん」で終わらせるのは勿体ないです。
ひと段落したら、ちょっと浅井を調べたいと思います。

お急ぎの方は、こちらの資料館は飛ばして、いきなり小谷城跡へ向かわれるのもありでしょう。

とはいえ、こちらでしかもらえない地図は、これから小谷城跡を見学しようと思う人には大変重宝。
ここで貰えるパンフと小谷城地図

地図はA3サイズということもあり全部は紹介しませんが、
小谷城の細部まできっちり案内してくれているうえ、裏面は各所の解説がびっちり!
これから小谷城まで登ろうと思っている方には、ガイドブック以上に簡潔で心強いアイテムです。
これをもらうためだけに資料館立ち寄っても、損した気分にはならないはず。

そんなわけで、初めて行かれる場合は、歴史民俗資料館+小谷城戦国歴史資料館のセット券400円は、お得感満載なのでおススメできます(≧∇≦)b 断言
そうとう安いと思うよ、400円って。
そうそう、駐車場もどこも広くて、車で行っても苦労しません。
もちろん、どこも無料でした。


小谷城へはバス(500円)が中腹まで連れて行ってくれて、小谷城の主要個所は小一時間で見れるようになってます。
でもできればゆっくり歩きながら登ってみたいものです。
これは当館に陳列されてたパンフから拾ってきたんですが、ハイキングコースがいくつも案内されてて、歩いて登りたい人には便利なのでおススメ↓
小谷城跡、ハイキングコースプラン
各コースの所要時間の目途が付くのも嬉しいです。
虎御前山は外せない当家(なんだかんだ言って、ダンナは信長贔屓)としましても、
次回、小谷城跡めぐりの参考になります。c( ̄▽ ̄)

脇坂コースなんてのもあるんですねぇw( ̄Д ̄;)w
李舜臣ネタ(秀吉の唐入りを韓流ドラマで学習しようという計画)でこの先お世話になる可能性が高い武将だけに、大変気になるところではあるんですが・・・
やはり関ヶ原寝返り組だけに、いまひとつ食指が動かないので困ります。


そうそう、石田町から姉川へ向かう途中、信長たちが姉川戦で陣を張ったといわれる龍ケ鼻にも寄ってきました。
横山城のある山裾の方みたいですね。
また横山城へ行った時でも立ち寄るかもしれん。
龍ケ鼻の鼻っ先と解説。

←字、間違えた。

虎御膳じゃなくて、虎御前山です(-"-;A ...アセアセ



天気悪いこともあってか、姉川は見えません・・・。
結構近くにあるはずなんだけど。
小谷城も結構遠くに見えるものです。
実際歩くと、きっといい距離だと思う。

家康が陣をはった勝山も途中にあったので行った。

姉川合戦は姉川合戦でウォーキングコースになってるんですねぇ!
ちょっと歩いてみたいんだけど・・・だんなが面倒臭がってるんでこちらは今のところ未定ですが、
もしかしたらウォーキングにトライするかも(* ̄m ̄)
姉川合戦ウォーキング地図

まぁ、今回は資料収集がてら、ざっくり見てきただけですが、次回以降のプラン参考になりました(≧ω≦)b OK!!

帰りは長浜城近くで夕飯食って帰ることに。
ダンナは地ビールをたっぷり堪能。
かなり美味しかったそうですよ。
じいちゃんのお土産も、ここのビールを買ってきました。
帰りの運転は私の担当なんで、私はウーロン茶・・・まぁ、どうせ下戸なんでいいんですけど・・・。

ところで長浜って、「海洋堂ミュージアム」があるトコだったんですか!∑o(*'o'*)o
入館料800円っ!!!!Σ(- -ノ)ノ 高っ!
いや、でも、これはちょっと外せない・・・。
次回、ダンナにおねだりして、なんとか入りたい。


8月はダンナの土日日程が詰まっていることもあって遠出は無理そうなので、2nd attack 長浜は9月に入ってからです。
帰省予定の息子との協議次第では、小谷城の前に上田城(息子は真田贔屓)行ってくるかも・・・>やはり無謀な日帰り日程
長浜は長期プランなんで、焦らない、焦らない。

それまで私はまったりと、放置しっぱなしの切腹ネタで遊んだり、DVDを鑑賞したり、租税史の本を読んでみたり(想像以上に超難解だ)、そもそも大名って何する人?レベルの勉強をしていたいと思いますm(__)m

gooブログへは、GWに行った関ヶ原記事を整理がてら並行してアップしたいと思いますm(__)m


1st contact 長浜ヾ(〃^∇^)ノ 浅井編

2012-07-21 00:29:59 | お城・史跡>長浜

石田町離れると、一気に姉川・浅井色。
姉川最寄りの資料館、浅井歴史民俗資料館、俗称 戦国大河あざい館。

初登場、ながまちゃくん
ぼちぼちコーエーからクレームくるかしら?・・・似てなさ過ぎて

「小谷城野外資料館」って書いちゃってますね。
「小谷城野外博物館」が正解です。
失礼しましたm(__)m・・・ミス多いなぁ・・・

入り口の横看板に一瞬怯む。
「戦国大河」って・・・まさか三姉妹がメインだったりして・・・。
商戦張ったネーミングに、最近経験した「俗趣味」と「バブリーな拝観金額設定」が蘇る・・・( ̄- ̄;)ンー

ぶっちゃけ、期待してませんでした。
展示内容も、接客サービスも期待してはいけないと、お告げが聞こえました。
いや、だって、もう「どっかの協賛混じってんな」って思っちゃうと、その時点で商業的何かを警戒しちゃうじゃないですか・・・。

入場料300円。
「小谷城野外博物館と共通券だと400円ですよ」とおススメされたものの、「民俗資料館か野外博物館、どっちか見ればいいんじゃない?」って思ってたので、最初断ろうかと思ったのですが(これも安土で学習した)、
「200円もお得になるのか・・・」という所でつい共通券を買ってしまった。
貧乏人の足元見たような価格設定・・・(´Д`|||)

そう、期待せず、期待せず・・・と思って中に入って、すぐに己の度量のせまさを反省しました。
浅井資料館・・・もとい、長浜のみなさん、すみません、すみません。

ワタクシ、ここだけで400円以上楽しめました∑d(≧▽≦*)

  ← 入館時にもらったパンフレット

パンフにも園内案内ありますが、敷地の右半分が民俗資料館。
当時の建物(江戸末期らしい)を移築したり再現した建物ブースは、生活感を壊さないよう内装工夫されとりますよ。
等身大お人形さんも、やたらリアル。
振り向いたら突然いたりして、ぎょっとしたりします。

もともと民俗学には大変興味がありますので「ほうほう( ̄▽ ̄*)」と楽しく見学していたら、
途中からガイドさんと合流・・・つか便乗。
とても丁寧に説明くださり、こちらの下らない質問にも真摯にお答えくださいました。
通り一遍な説明でなく、学芸員さんのように(実は学芸員だったりして)、大変細かく、詳細に。

    

移築された江戸後期の庄屋屋敷
6畳4間つづき(襖取っ払い)、
縁側は半間廊下、12畳くらいの板の間、土間には台所・風呂・男性用トイレ付き。
右奥の蚊帳張りしてる部屋は、若夫婦の部屋だそうだ。多分北西部屋を宛がわれてる。
主の部屋は(多分)南西側、縁側付き。
扇の欄間って初めて見た。カッコいい。
鴨居には武具。以上覚書


この規模で明治位までは、立派に「お屋敷」だったのですねぇ。
質素簡潔です。
現代人が勝手に抱くお屋敷「大型感覚」は、「何かの歴史認識を歪めていないか」と反省してしまいます。
もちろん、敷地自体は広大だったろうし、蔵だの小屋だのも点在してたと思うけど。

  こういうレプリカ、大好き!ヾ(@^▽^@)ノ

鮒ずし(右前)もどうぞ・・・食った事(今後食べる予定も)ないけど・・・。



御膳に乗ったのは日常食(一汁一菜・・・って、メザシか漬け物だけど)
庶民の食事(おかず)の支度は、実は現代人の方が大変かもね。
これを常食にしてたら、「児童虐待」だの「鬼嫁」だの叩かれるよ、絶対。
下にある大皿料理は、結婚式などで振る舞われたご馳走。
鮭はご馳走で、焚いてそうめん(刺身のツマだと思ってた)と煮て食べるらしい。

さて、こちらで見せてもらった浅井枡↓(当時のものらしい)


凶作で年貢の納めに困っている農民の負担を少しでも軽くしてあげたいと、浅井が用いたとされる八合枡。
年貢が二割程軽減されます。
領民思いのよい主君・浅井さん。

似たような年貢の軽減話は三成にもあり、「治部少枡(八合枡)」と呼ばれているそうな。
浅井の治世術は、三成(佐和山統治してたの、実質父ちゃんの正継(浅井元家臣)なんだけど)にもちゃんと踏襲されていた・・・と見るのが、やはり無難な気がしますな。
つか、凶作のとき八合枡使わなかった場合、後々の領民の反応の方が怖いような気も・・・( ̄-  ̄;) ウーン

ともあれ三成の政治力・治世能力云々が評価される昨今、浅井統治時代の影響力は無視できない気がいたします。
浅井長政に興味が湧いた瞬間。

ところで私、この時代(現代もだけど)の税制をまるで理解してないんですが、不足分は殿さまが補填してたんでしょうか?
そもそも殿さまって納税義務あったんですか?誰に?
気になるんで、今度調べよう・・・〆(・ω・。)メモメモ


さ、大好き古民家もずいっと堪能でき、たっぷりお話も伺えて、浅井升まで拝見できて、すっかりご機嫌(´∀`) ←そうとう単純。
メインの浅井資料館へ移動。


館内撮影禁止なんで画像ありませんが、こちらも断然おススメです(*`д´)b
何がいいって、浅井長政奉納の刀身が二振りも展示されてるとこと、
雑兵のものと思われる一風変わった鎧が展示されてるとこ。

なんたって本物。
これだけでも見る価値ありっす。

こんな感じ↓
  現物は、鉄板が錆び朽ちてるし、ところどころ欠けてるし。血痕もこびり付いてて、生地もヨレヨレ

この雑兵の鎧、一般本などでは見たことない珍しいスタイル。
木綿(麻かも?)の着物の主要部位に小さい鉄板をびっしり張り付けている(スパンコールのように)だけという簡易さ。
絢爛豪華な武者装束の固定概念はびこっちゃってる頭には、この防具はちょっと衝撃でした。

雑兵(つか百姓?)のものと言われているそうですが、おかあちゃんが、一枚一枚薄い鉄板を縫いつけたんでしょうか。
どんな気持ちでこれを作っていたんだろうかと思うと、切なくなってしまいます(買ったのかもしれんけど)。
「多分咽喉を刺されたのだろう」というべっとり血糊のついた後襟や、裾にこびりついてる血痕も生々しく、がっつり見入ってしまいます。
雑兵の意味の幅広さをお勉強した気分です。


さて、こちらでもきっちりと、ガイドさんの説明付き。
展示物の説明もしてもらえて、大変有意義で楽しかったです。
小谷山(でいいの?)の模型で小谷城攻めの様子を熱心に説明くださり、初心者にはたいへん解りやすい。
周囲が「無理」と一蹴した秀吉の崖登り本丸攻めも、この説明で「無理」が理解できた。
小谷城は、思ってた以上に険しい山のようでした。


2階は、まぁ、なるほど協賛・・・ってな浅井三姉妹系のジオラマ展示ですのでざっくり見ただけですが、1階の濃度はおススメできます。
ガイドさんのお話は外せない(≧ω≦)b

満足すると、お土産買います↓(ゲンキンな性格)


  ←長浜おなじみ、郷土歴史雑誌、み~な の姉川編(信長vs長政)と賤ヶ岳編(秀吉vs勝家)

この雑誌、地元密着取材や御当地情報満載で、読みやすくて便利。
通販あり

お土産選んでいる時、たまたま館内ガイドされてた方と立ち話。
毎度どっかで誰かと駄弁っていますが(〃⌒∇⌒)ゞエヘヘ、今回はこちらの方とお土産選びながらダラダラと無駄話してました>私的にはこれが結構重要な情報源・・・。
秀吉vs勝家は、ガイドさんもおススメの逸品。
まだ読み始めたばっかですが、なるほど実地検証的で面白いっす>賤ヶ岳への関心が高まります

「長浜は、まだ小谷城も見てないし、何度か来る予定です」など申したら、
「2か月おきに展示内容替わりますから、ここにもまた来てくださいねー!」って。
そうか、展示内容替わるのか・・・( ̄。 ̄ )へー
小谷城跡見学前に、是非また立ち寄りたいです。


ってところで、歴史民俗資料館だけでいいボリュームになってしまった・・・。
口直しに ゆるキャラ おいちごちゃん をどうぞ↓
 言わずと解るお市のゆるきゃら

「いちごちゃん」↑になってるけど「おいちごちゃん」が正解っす。失礼しましたm(__)m
可愛いのに、市ファンのダンナは反応せず。
ノリの悪い奴め。


しまった、すっかり3時を過ぎている。
またもや、予定時間2時間以上オーバーだよ。


コンビニおにぎり食って、急いで野外博物館へ移動します( ̄- ̄)ゞ
    ・・・(記憶が飛ぶ前に)つづくし


1st contact 長浜ヾ(〃^∇^)ノ三成編

2012-07-17 13:49:16 | お城・史跡>長浜

  やっと行ってきました!三成出生地(≧ω≦)b

↑みちゅなりくん里帰りの図
ちびの隣は、長浜公式キャラ、三成くん
小僧版、佐吉くんもあるよ



長浜は大変ディープな所ですので、一回やそこらじゃとても周りきれません。
無計画な当家でも、シズガタケ編/小谷城~姉川編/石田町~横山城編と、エリア・目的別に分割して行く事に。
効率よく周って3回、おそらく我が家は5回位通いそう・・・。
気長にお世話になりますm(__)m

本日はファーストアタックという訳で、大雑把に資料館めぐりがメインです(*`д´)b
つか、観光地図・地元情報探りがメインです。

地図は、現地調達。
タダで貰う物(パンフレットや案内地図)が、一番親切で解りやすいっすね。
我が家はマイペースの度が過ぎていて、ガイドブック通りにすら行動できません・・・。

 ←歌もあるよ、三成song・・・譜面がないのが残念です。

さて、長浜ICから車で10分程でしょうか、石田三成生誕地の石田町、石田会館
一部では聖地とも言われているようですが、見たとおり、普通に田舎の公民館です。
多分、公民館として常用されてます。

土日はどうやら午後から開館らしく、行った時はまだ閉まってました。
「どうしよー、また午後来てみようか」とうろうろしていたら、たまたま中にいた方(当番さん?)がカギを開けてくれました。
いや、もう、開館時間の確認もせず、すみませんー・・・(;´Д`A ```
まるで特別拝観・・・VIPです・・・

土日でも午前中しか開いてない日もあるようなので、石田会館行こうと思ってる方は、事前に電話で開館時間確認された方がよいです。

↑石田三成40歳         
苦労人らしく老け気味(に見える)。
この右手奥には遊具なんかがあって、ちょっとした児童公園
左手(壁がちょっと見える)は、数年前焼けてしまった八幡神社の仮祠か?



入館は無料。
中は8畳間位のスペースに、ちょっとした三成解説資料があったり、三成の検地尺(実物)があったり、扇子があったり、石田家のお屋敷パノラマがあったり、佐和山城の絵図があったり、発掘された三成の頭蓋骨の写真があったり、三成の半生ビデオ(NHK?)も見れたり・・・けっこうあるな。
「誰の?つか、これ、井伊様の赤備えそっくり!」な、ふるーい具足も2体展示されてます。

畳敷きの広間の方は、公民館として常用されてる感じで、書状や絵図(いずれも写し)が鴨居の上に飾られてました。
うちの方の公民館でも、御当地ヒーローが同じように飾られてます。
量も質も、石田会館の方が全然充実してます>大事にされてて、いいなぁ・・・。
つか、主君の地元愛の濃度は、そのまま後世の地元民の、主君への愛の濃度ということでしょうか?
なかなか複雑な気分です。

  

↑石田会館に置いてある、三成所縁絵地図と解説チラシ
絵地図は、「別冊み~な・これぞ石田三成」にも掲載されてる
見やすいとは言えないが、なかなか便利な絵地図



個人的には、検地尺や扇子(伝?)が見れたりしたので大満足なんですが、資料館かと思って訪ねるとちょっと物足りないでしょう。
でもわざわざここまで来る人は、ほぼ三成ファンかマニアだと思いますんで、展示物云々より、ここに来る事に意味があるわけで。
ここに来たというだけで、本当は大満足です( ̄m ̄〃)
だからこそ、「聖地」なんて持ちあげられたりするわけですが。
お付き合いで来た方(うちのダンナ)や、歴史資料館を当てにしてた方には、ご足労さまでしたm(__)m

もちろんお土産も買います↓
 ←たぶんここ(石田会館)でしか手に入らない三成本(1000円)

欠点省いた、いい人三成満載。
昔の(つか戦前の)道徳教科書っぽいです( ̄∇ ̄ )
うん、確かに密林じゃ手に入らん内容の希少本
他にも武将ステッカーとか売ってた



石田のバス停↓から石田会館(下車2~3分)へ向かう道すがらにある八幡神社(下車1分)の裏口の、石田家供養塔へ移動。
  バス停、綺麗で可愛かった。

バスで来た人は、14本の街灯も要チェックですね!




反逆者三成の御先祖様のお墓は、地元の人が見つからないよう土中に埋めて守り、やっと外に出してもらえたのは昭和16年になってからだとか。
見つかってたら、徳川(つか、井伊様か)に粉砕されてたか、彦根城の一部になってたでしょう。
大事に守られてきたんですねぇ(ノω・、) ヨカッタ、ヨカッタ

旧石田村にも現石田町にも、石田姓の方はいないそうですね。
毎年井伊様に、「石田姓はいません」の誓約書提出が義務付けられていたそうです。
粘着質ですね、井伊様。
形式的とはいえ徹底した石田抹消著しい、暗黒時代を経てますなぁ。
つか、現代の石田さんは、さぞ石田町には越しづらいだろうよ・・・。

それより、そこまで虐げられてきた「石田」ですが、「石田」の地名はいつから名乗りを上げることができるようになったんだろう。
三成の出生地「(現)長浜市石田町」は、「(旧)坂田郡石田村」だそうですが、明治の(市町村)大合併で石田村は「北郷里村」に合併されている。
さすると「石田」の村名は、明治以前に使われていたことに。
相当古いのか?
地名から姓を名乗るなら当たり前なのか?
井伊様も、徹底した石田排斥や差別的であった割に、改名もさせず地名は残すって、なんか中途半端な温さだな。


さてさて、墓地には、三成の詠んだ自筆の歌碑とか↓
  ←達筆なのか悪筆なのか解らん。人に読ませる字じゃないのは解る。

辞世の句碑↓ とかありました。
  ←この人の字なら読める

なんとも三成濃度が濃いポイントエリアです。

ここから車でさらに5分程行くと、小僧見習いしてた三成が、秀吉にスカウトされたと言われている観音寺(木之本 法華寺説あり)

  ←ひなびた風情にぞくぞくします

人はいないわ、駐車場あるはずなんだけど見つからないわで、苦労しました。
お寺の右手はすぐ民家なんですが、たまたま外で作業してたおばあちゃんに駐車場の場所尋ねる。
「脇からはいってくと、中腹にもあるよ」って教えてもらって、ずうずうしく車で侵入。
「ここ停めていいの?」と、びくびくしながら強引に停めてしまったんだけど、本当によかったんだろうか?( ̄- ̄;)
もうしませんから赦してください。

門をはいってすぐ左折すると、三献茶の湯の井戸。
  三献茶。

賢い三成エピとして有名すぎて、説明するのも面倒なんで、
知らない方はクリックでどうぞ


これも井戸って言うんだ・・・( ̄。 ̄;)
ちょっとイメージしてた「井戸」と違ってたからびっくりした。
いや、原理は井戸ですね・・・。

参道(100m位?短いっす)から観音寺本堂へ。

  

質素素朴なよい風情なのですが、痛みもはげしいようで、離れの屋根にかかったブルーシートが痛々しかったです(´_`。)
ここが三献茶の舞台となるお寺。
実際お茶飲んだのは、本堂右手の離れだったかもしれないけど。

このお寺のすぐ右隣の山が「横山」。
信長の浅井攻めの時真っ先に落城させ、重要拠点として秀吉に番城させた横山城は、このお寺からも行けます。
でも、三成の生家御近所の石田公園から行く方が楽だそうです。

  ←この石仏さま(38体あったっけ?33体だったかも)を

辿って山を登ると横山城へ着くらしい。
4体位まで登ったけど、誰も登る人いないのか、結構荒れた狭いけもの道。
雨上がりでぬかるんでて足場悪いし、藪蚊が多くて途中で挫折。
蛇出そうだし。
いずれ仕切り直します、であります∠( ̄◇ ̄)



どうやらこの辺一帯は、石田氏の縄張りのようっすねぇ?
まぁ、土豪だったらしいしな。
三成の父ちゃん(正継さん、浅井家臣だったらしい)、結構早い時期に浅井から秀吉に寝返ったのか?
当時三成10歳(イメージ=小4)、兄ちゃん14歳(イメージ=中2)。
兄弟揃って、人身御供には程良いお年頃ですな。


信長さえいなければ、三成も浅井家臣としてもう少し長生きできたことでしょう>さぁ、どうかな?
そんな訳で、御近所の小谷城へ移動します。




安土城へGO 天主でlast

2012-07-11 12:05:35 | お城・史跡
安土城天主跡について、頭が混乱してしまい、整理するのに時間がかかってしまいました。
安土城天主の実測地積を知りたくて調べていたのですが、安土城関連は手持ち資料がなく、ネット検索程度では何らの情報も得る事が出来ず。

各安土城関連HPや、お城マニアな方のブログとか、信長ファンな方のブログも(ほんの一部ではありますが)拝見したりしましたが、地積や建物面積についてはまったくかすりもしてくれません。

なぜ?

こんなことなら巻尺もって行けばよかった・・・。
せめて靴使って簡単な寸法測ってくればよかった・・・。

悔いていても仕方ないので、手持ちのパンフ(安土公式資料)でなんとか対処します。


はい、画像だったらいくらでも拾える安土城天主跡地、礎石(柱建てる基礎石)↓



天主台に上がり、「えっ?狭っ!!Σ( ̄Д ̄;)」って言っちゃった人は、
十中八九「安土城郭資料館」で1/20の安土天主模型を見た人でしょ?

     ←これね

さて、実際の安土城天主跡地ですが、地階部分は綺麗に整備され、天主の地階部分の実測地積がわからないわけないだろ状態となっております。
なのにパンフレットでも、公式HPでも数字は拾えない。
とうぜん地階部分の土地面積と礎石の配列から、1階より上階の床面積の見当もある程度つけられるんじゃないの?ってのが素人推測。

そうなの、素人ですから、城郭資料館で見た安土城の模型の一間(柱と柱の間)を、勝手に180cm位(自分のおうち感覚)でイメージしちゃっておりました。

そしたら天主跡の一間は、どうやら「1m」だと言うではありませんか。
  ↓
←安土城跡に入る時貰ったパンフ(部分)。クリックで大きくなる

1mって・・・<( ̄□ ̄;)>

昔の武家家屋は6尺5寸(約1.97m)が一間だった(wiki)とすると、丁度その半分の1m=3尺3寸。
半間(襖一枚位)間隔で礎石置いてる。
建物高くしたければ、柱を太くして柱と柱の間隔を狭めるのは、理科で習う範疇ですんで、了解っす。

地階部分は正四角形の淵が欠けたような形状。
そこに碁石のように礎石が等間隔に縦横8~10個並べられてます。
細かい事は放っておいて、縦横礎石が10個ずつで単純計算すると、9m×9m=81㎡。
地階部分は(多く見積もって)約25坪の床面積になってしまいます。

庶民的なお手頃建坪・・・。
いや、でも、そんな位の広さだったような、もうちょっと広かったような・・・。
どうだったっけ・・・?

これはあくまで地階床面積。
1階の床面積は、模型安土城の床面積で計算すると、地階部分の2.5倍の面積になるそうなんで、81㎡×2.5=202.5㎡・・・約61坪? 
畳120枚程度の広さですな。

これが壮大な広さかどうかは、個人の生活環境と豊かな感性と知性にゆだねます。
いやいや、お城に詳しい方なら、「時代を考慮すりゃかなり広いよ!」ってのもありですな。


もうひとつの考え方。
「パンフレットには、『東西・南北それぞれ28mの台地』とあるのだから、784㎡(237坪)が1階床面積じゃないか」
とか、
「角から角を測って28mだったとしても392㎡。少なくとも1階床面積は100坪以上はあったんでは?」
と思いたくなります。
なんとか少しでも広い土地を確保したいです。

頭が混乱するので、公式発表されてる数字を入れて、平面図で整理しました↓
←滋賀県教育委員会 安土観光協会発行「特別史跡安土城跡」より


この図面(自治公式:作図年月日不明)をどう信用しようが個人の自由の範疇でしょう。
個人的には、天主礎石間隔と、本丸礎石間隔がほぼ一致するのが気になります。
本丸跡地と天主跡地がほぼ同じ広さってのも、気になる。
法務局行けば地積測量図出してくれるのかな?
そうすればより信憑性が高くなりますね!・・・地番わかんないけどww

薄いピンクが地階部分(25坪)、ピンク+水色部分(61坪~237坪)が1階の建築可能部分かと思われます。
地階を25坪とした場合、1階で100坪もとれるかどうか・・・説得力がちょっと・・・。
でもまぁ、これが匠の技にかかれば
「まぁ、なんてことでしょう!床面積が台地面積を上回ったではありませんか!」
ってなリフォーム超常現象が起こるかもしれないですね。

どのみち、地階部分面積さえ判明すれば、後はおのずと数字が出てきそうです。
公式発表が待たれるところです。


・・・o( ̄ー ̄;)ゞううむ
なんか、困ったな。
つか、なんで困ってるんだろ、私。


さて、視点をずらして。
城郭資料館に展示されてるの安土城天主模型(1/20)ですが、こちらは一間を2.1mで計算して設計してました↓

     安土町立城郭資料館 館内ごあんない より

実際の天主の約2倍の尺間法ですんで、面積は4倍ですか。
地下部分は約108坪、1階部分は約270坪(約540畳)となりますかね。
確かに壮大な巨大建造物です。

なんで7尺間法にしたかは、何らかの理由か事情があるんでしょうけれど、いささか大業なスケール。
いくらなんでもこの巨大なお城があの天主跡に収まる訳がないのは、小学生にもバレそうなものですが、
これも安土城を愛する大人のファンタジーでしょうか。


で、当時日本最高の高さを誇った、地上6階建て33mの高層建物。
あのスペース(61坪)に33mの建物建てるとどんな感じになるのか気になる所。

外観の高さ(33m)を変えず、幅を半分に変えるとこんなスレンダーなお城に↓
    

ただでさえ狭い5~6階部分が1畳程度のせまさになっちゃうんで、なんとかしといてください。
極楽の地獄度が4倍アップするじゃないか。
なにせこのままじゃ、襖の幅が45cm程度・・・家康も勝家も入んないしな。
間取りはまた、お城好きの各々方に空想しなおしていただくとして。

こんな感じのお城、なんかどっかで見た事あるような・・・σ( ̄、 ̄=)ンート・・・
と、考える。

↓藤堂高虎と宇喜多秀家が 朝鮮で建てた順天倭城

     ・・・似てる・・・≧(´▽`)≦

李舜臣ネタやっててよかった!


まぁ、そんな訳で、たまたまこのブログみちゃった&近々安土城行く予定の方、ぜひ巻尺持って、測量してきてください。
石の真ん中から真ん中まで2~3個をランダムに測ればいいんじゃない?って感じです。
そんでもって、簡単に測量されたらブログアップお願いしますm(._.)m
個人的には1.2~1.5m位は間隔あったような気がするんですが、公式発表が1mだけに、自信がありません。


そうそう!
↑のちび絵のの疑問ですが、天主跡実測地積をネットで探していて、偶然関連記事を見つけました。

天主は5層7階あったとされ、姫路城天守や東大寺大仏殿のような巨大建築だった。相当な重量だったはずで、焼失の際、柱を支えていた礎石の一部がひっくり返ったことも発掘調査で分かった。(一部コピペ)

ってことで、隊列乱してひっくり返っちゃった礎石だったようです。
問題解決( ̄▽ ̄)δ⌒☆


さ、やっと安土城、終了!
信長にもお城にも関心度が低い割には、とても楽しめました!

今週末は長浜へ行く予定です(≧ω≦)b
もちろん、ダンナに急な予定が入らなければ・・・。







安土城へGO! その3

2012-07-09 14:29:30 | お城・史跡
やっぱり降ってきてしまいました・・・(´Д`|||)

↑天主から見る琵琶湖の眺め・・・真っ白だし・・・
以後、画像が全体的に白っぽいです。
雨に煙る安土城を御堪能ください。

ちなみに晴天の安土城は、wikiのギャラリー画像で楽しめますよ!

あ、そうそう、安土山入山料500円、信長の遺品だかを見たければさらに500円が必要です。
駐車場も500円(!)もするので、信長の館の駐車場(無料)に停めて、安土山まで10分歩くのがおススメです。
彦根ならまだしも、ぶっちゃけ、安土で駐車場(未舗装・それも調整区域だろ?ここ)で500円も取られるとは思わなかったよヾ(。`Д´。)ノ彡☆
なんか、いろいろぼってる安土城・・・これが近江商法か?
尾張人には普通に不評です>とくに駐車場!

さぁ、資料館から貰ってきた安土城案内地図↓を参考に、さっそく行ってみよう(*`д´)/
クリックすると大きくなります

入り口から見る参道の石階段。
←今回は使わなかったけど、やっぱり杖がある。

こんな感じの石階段が延々と続きます。
そう、延々と、延々と、延々と石階段。

段差がそうないように見えますけど、結構高低差がまちまちで、石階段は特有の登りづらさがありますね。
とくに上に行くほど、「よっこいしょ!」と掛け声かけないと足が上がらない段差になっていきます。
お年寄りとお子様には結構厳しいと思いますので、同伴者はそれなりの覚悟したほうがよさそうです。
(駄々をこねる4~5歳児相手に、ぐったりしているお父さんとすれ違った)
関ヶ原の松尾山(小早川陣跡)登山程度の経験があれば、安土山は楽勝・・・のうちです・・・たぶん・・・(;´ρ`)ゼイゼイ

↑写真中央部のちっちゃい石橋で左に入ると秀吉邸御殿跡地、道挟んだお向かいの右手は前田利家邸御殿跡地です。
かなりふもと、っていうか、とばっ口にお屋敷があったんですねぇ。
つか、楯代わり?

←秀吉邸跡地 結構広い

三成君が自由に出入りできたのは多分ここまでで、滅多に上(本丸)まで登らなかったんでしょうかね。
ところで、馬とかはどこで飼ってたんだろう。
馬って、(結構急な)石段登り降りできるの?

←秀吉御殿が建ってたらしい、石垣上部の更地(クリックで大きくなります)

←秀吉邸 CG再現画像 そうとう立派そうな御殿です。(クリックで大きくなります)

お向かいの利家邸はこんな感じ↓



この利家邸の上の方に、家康邸があったそうな↓



すごいなー。
有名人勢ぞろい。
超高級住宅開発地区ですねぇ!
田園調布同様、御用聞きが勝手口まで来てくれるから、買い物の不便なんてなかったんだろうなぁ・・・。
羨ましい別宅生活です。

そうそう、階段には安土城名物の石仏↓が点在してました。


たいていは石階段の端の方にちまっとあるんですけど、稀に階段の中ほどにいたりして、びっくりします。
まるで地雷です。
なぜ仏様を踏み石にしてるんだってのも、安土城の謎になってましたねぇ。
やはり「趣味がいい」とは思えません。


さて、さらに上に行くといよいよ側近邸宅街となり、
 森蘭丸邸跡↓とか、虎口っぽい壁↓にぶつかったりとか
  クリックで大きくなります
(どうやらこれが黒金門だったらしい?帰ってから知った)

だんだん天主跡に近づいてきた気がしてきますヾ(〃^∇^)ノ

「いい加減、疲れたわー」って思ったころ、
本丸跡地↓に着きました。


広いです。

礎石とかも残ってる。
後から知ったんだけど、礎石の間隔が2.2mあるそうですね。
(全部がこの間隔ではないとは思うけど)
現代では1間=1.8m位ですから、1間=2.2m って、かなり開放的な御殿が建ちそうですね。

本丸御殿の間取りは清涼殿と同じなんだそうで。
帝を招く迎賓館的な扱いで説明づけされてる本丸御殿ですが、個人的には天主よりもこっちの方が住み心地はよかったんじゃないかと思ってみたり。

そもそも天主と本丸御殿は内通路で繋がっていたみたいだし?
迎賓館(離れ)と天主(本宅)をわざわざ通路でつなげるって、普通はしないと思うんですけど?
本宅並みに使い回していたんじゃないかって気もしてしまいます。

見晴らしはいいとはいえ、あのクソ狭い上ケバケバした天主上階で常に寝泊まりしてたとは・・・未だに信じられない。
トイレは遠いし、布団しまうとこないし。
まさか信長、万年床?>まだ言う

あっち(天主)の方が、よっぽど迎賓館だわ。


ってところで、いよいよ天主なのですが、ちょっと疲れたので今日はここまでで・・・。

安土城へGO! その2

2012-07-06 08:27:27 | お城・史跡

↑信長の館 500円∑( ̄[] ̄;))(駐車場無料)
空模様があやしいので、サクッと観て、とっとと城跡へ行きたい。

館内入ると、真っ先に目に入る食品サンプル。
家康おもてなし御膳の再現とのこと。

安土に招待された家康の接待役を仰せつかった、光秀プロデュースの接待御膳ですね。
この献立が豪華すぎるとか、刺身が腐ってたとかなんだとかと信長から叱責され、接待役を中途解任させられたとか、領地をとりあげられたとか。
それが元で光秀が謀反を犯したと囁かれている、例のいわくつき御膳っす(ノ゜ο゜)ノ オオオオォォォォォォ-
←パンフより(クリックすると大きくなります)

館内撮影可(フラッシュ不可)なので、是非写真撮りたかったんですが、ショーケースが照明に反射して上手く撮れませんでした。残念

品目もさることながら、一回の食事でのお膳の数が半端ないっすね。
七膳出すなら、もう一膳増やして「末広がり」もありだな( ̄m ̄〃)
このボリューム見ちゃうと、「家康、接待太り?」と思う事必至。

サンプルにはなってませんが、3日分の献立全メニューも紹介されてます。
「魚介ばっかで、野菜が少ない」
「金掛かってるのは解るけど、変わり映えしない献立で目が飽きる」
「きっと味も見た目通りなんだろうなぁ・・・」
と、今どきのグルメ大国日本人は、つい思ってしまったり。
ずいぶん贅沢になってしまったものだ、と、反省してみたり。

ウナギのぶつ切りと、スズメ(?)の丸焼きは、なかなか グロい ワイルドな形相です。
魚のすり身のつくね風の奴は、ちょっと食ってみたいです。

お土産用に、おもてなし御膳の食玩とか作ればいいのに。
ぜったい全御膳コンプリートに走るよ。

さて、天主5階↓
←朱と金の間(もちろん、立ち入り禁止)

←パンフ説明図(クリックで大きくなります)

・・・派手っ・・・Σ( ̄Д ̄;)
まぶしいくらい、金色です。
間近でみると、目にも心にも優しくないです。
それでもって、漆塗りの朱色の柱が、チープな庶民にはプラスチックにしか見えないー・・・(´Д`|||)

見た目より、狭いです。
4畳半ない位?ってくらい狭いうえ、上下左右の金色の圧迫感が半端なくて息苦しい。
さらに赤と金のけばけばしい色味で、情緒不安定になっていくような、なんとも言えない不快感が・・・。
一人じゃ精神不安定になるし、二人いたら息苦しいしで、正直、1分とこの部屋にいる気にならんです。

ドラマ(信長king of Zipangu)では「極楽浄土のようじゃ」と讃えられていましたが、現物を見て、極楽の地獄度がアップした。


さらに、外階段で6階へ↓
←最上階、黒と金の間

←パンフより(クリックで大きくなります)

さらに狭いです。
が、6階は四方が窓なので、開ければ意外と解放感はあるのかも。
色調もシックなので、5階の朱金よりは落ち着きます。
ほの暗いと、なかなか幻想的でもあります。


5階も6階も、金がかかってるってのは重々承知出来ましたが、常用で使っていたとは思えないお部屋。
これを作った意図と目的と趣味がわからん。
常人には長居するに耐えられん空間。
接待には向いてないし、密談するにも、独り本読むにも、思索に耽るのにも適しているとは思えない。

そう、そうなんだ。
なんかそういう、頭使う様なことするのが「バカバカしくなる」ような、非生産的な部屋。
そういう意味でなら、心理学的、哲学的意味のある空間とも言える。

あ、そっかー、
極楽浄土は、1分とその場に留まる気にならない程居心地が悪く、何も考える必要もなければ、何かを生み出す必要もない、進歩もなければ退行もしない停滞ゾーン、ということかー( ̄-  ̄ )フーン
やるじゃん、信長。

大凡「覇王」だの「魔王」だののイメージとは符合しない、壮大感も威厳も感じないケバケバしさに、ダンナは「理解不可能」と一蹴してました。
実際こんな部屋で暮らす現代人いたら、「趣味悪っ」でうっちゃるところですな。
まぁ、どう感じるかは見た人の自由ということで。
この部屋を自慢げに見せつけられた家臣や諸大名たちは、一体何を思いながら褒めそやしていたんでしょうかね。

「すっげぇなぁ」と感嘆しながら「よくやるよ」と呆れ付き放したくなるこの天主上階部と、私が信長に対して抱いているイメージが見事に合致したのが素晴らしいと思いました。
どういう感想を抱こうが、一度は観れてよかったです。

(追記)
5階の極楽浄土の上階に、中国古典の識者偉人がいるってのも妙なバランス。
といって、信長が、孔子や太公望を尊敬や敬愛している風でもないし。
一体なにをしたかったのか、ほんと謎。


さて、この信長の館のほかに、県立の考古博物館(400円)も別棟であります。
こちらは縄文だか弥生だかの古墳発掘調査系の展示がメイン。
もちろん安土城・信長関連のブースもあるんですが、別段これといったものは・・・。

安土には、「城郭資料館」「信長の館」「考古博物館」と3か所に安土城関連の建物あるんですけど、わざわざ三か所に分散展示するほどの内容ではないと思われます。
箱物事業を回収する行政手段ですか?
ここまで3時間、1000円以上を消費したわけですが、見てきた物がその金額と時間に見合っているかというと・・・。
不必要に移動時間と体力と金を消費しちゃった感が強いなぁ・・・。
失礼m(__)m


さて、本日のメインイベント、安土城址へやっと移動しまっす∠( ̄◇ ̄)

   つづく




安土城へGO!

2012-07-02 12:49:14 | お城・史跡

↑安土城内部構造
こちらの動画もどうぞ

懐かしいですね!
BGMに使うと、気分も盛り上がります。

さて、先週の土曜日、宣告通り安土城へ行って参りました。
車で約2時間。
彦根より遠出してしまいましたよ。
つか、ナビ設定してから、彦根より遠い事を知りました。
だいたいうちはそんな感じ。

安土城全く不勉強なので、取りあえずガイドブックの言うとおり、まず安土駅前の資料館へ行く事にしました。
← 安土城郭資料館 200円也(駐車場無料)

駐車場には、大阪・名古屋・豊田ナンバーの車が停車中。
そこへ尾張小牧参戦っ(*`д´)b
あとから一宮ナンバーまで来ました。
さすが、信長所縁地、尾張勢強し・・・。

資料館の中へ入ると、真っ先に目に入る20分の1スケールの安土城復元城。
侮るなかれ、迫力あるよ。
内部が分かるようになってて、ドールハウスのようで楽しい。
←クリックすると大きくなります
これでやっと「吹き抜け構造」の意味が解りました。
地下1階~3階、計4階をぶちぬいているんですねー。
間取りの贅沢さや奇抜さ、絢爛豪華さに圧倒されます。

ところで人形がやたら小さいのが気になる。
これもちゃんと1/20?
吹き抜けって言っても、これじゃ倉と同じで、昼でも真っ暗じゃないか。
通気悪そうだし、部屋中に湿気上がってカビ生えそう。
空中渡り廊下、縦に張っても意味なくね?
横通路の方が欲しいよねぇ。
それより、支柱ないんだけど、木造建築物の構造的に大丈夫なの・・・?
歪みそうで、なんか住みたくないんんですけど。

そんなどうでもいい余計なお世話を焼きながらとくとご鑑賞。
たかが模型でも、見ごたえあります。

模型の奥でお茶が飲めるそうなんで、そちらでアイスコーヒー飲みながら、安土城天主の説明DVD(10分程)を見る。
おまえどんだけ金色好きなんだ、って事をお勉強する。

←ローマ法王に信長が献上した陶板壁画の屏風(レプリカ)の一部/クリックで大きくなります

追記:↑うそ。単なる天正遣欧使節がローマまで行く旅の様子を、現代人がイメージして描いてみましたってだけの絵でした。


安土城は、結構いろいろな方が「もっとも実態に近い城」を提案されてて、外観もまちまち。
内部構造も、「吹き抜けはなかった説」「5階部分は8角形じゃない説」もあり、それぞれ説得力あります。
諸説あるということは、古文書文献の記載が一致しないとか、多様解釈可能な箇所が多いということなんでしょう。
安土城築城の小説や映画化されてたりもしてたんですね。
こんどDVD借りてみようっと。

↓資料館の2階では、信長関連のライブラリや、安土城レブリカ作成の時の襖絵や天井画の1/7スケール画が見れます。
...
安土城外観のでかさや、愛の巣部分(5~6階)の派手さが何となく解ったところで、次はこのド派手な5~6階部分を実寸で再現展示しているという「信長の館」へ移動することに。
見たい見たい!(ノ´▽`)ノオオオオッ♪ 
住みたくないけど、見たいですっ!


そりゃそうと、さすがにそろそろスキャナがないと不便です。
至急、やっすいやつ買ってこようかな。
またスキャナの使い勝手に慣れるまで時間かかるよ。
・・・というところでつづく。
なんとか今週中に続きをやってしまいたい。





おまけ

なんかあやしいゆるキャラ写真が展示されてたんで、思わず撮ってしまった。

↑真ん中の「らんまる」君は、ここのご当地キャラ。
左の「いくさ」君、なにものだ。
すいぶん漠然としたコンセプトキャラだな。
やたら2ちゃん臭いんですけど、やっぱりそっち方面から来た子?


ところで・・・グーブロ、記事作りが、なんか難しいっす・・・