すなわち相手を倒したいが、自分にはその手段のない武士が、まず自分で切腹し、その血刀をそのまま憎む相手に送付する。
それを送りつけられた者は近日のうちに腹を切って死ななくてはならなぬ。
それを拒否した者は、武士にあるまじき卑怯者として、その社会集団から抹殺され世に立つ事ができなくなる。
この不文の法は近世初期まで、もとは上越下越の領土に君臨して武を誇った上杉氏の領内に行われたものが、その後の転封(関ヶ原戦のあと)によって米沢盆地に寛永二十年(1643)まで存続したのである。
この記事 のつづき
やっと切腹ネタに手を付け始めました。
一応三回でひと段落させる計画。
一言で切腹だの腹切りと言っても、そのやり方や作法やルールは地方によって、また、個人の事情によってまったく異なっている様子。
武士の本懐には、ご当地ルールってのがずいぶん色濃く影響するようです。
もとより現代においても日本のローカルルール優先体質(郷に入っては郷に従え)は、会話の端々はおろか自治行政でも伺えるし、新参者は市町村レベルで異なるゴミ出しに始まり、地元行事への参加の仕方やお付き合いなど、しばしば戸惑ったり驚いたりします。
切腹もその例外ではなく、「武士ルール」という括りよりも、ローカルルールと申しますか、共同体の掟と申しますか、そういう「風土的色彩」の方が強いようです。
さらに個人の美意識だったり哲学だったり拘りだったりがフンダンに入り混じり、同郷であっても10人いれば10通りの切腹模様があったと見るのが無難そう。
そもそも全国区的な「武士の作法」なんてものでハラキリを画一化させる必要はなく、切腹に必要なのは風土で培われた本人のアイデンティティだった、と言えましょうか。
「いや待て、切腹にも作法くらいあっただろ。wiki でも作法が紹介されている」
ごもっともでありますが、こちらは徳川幕府の刑罰としての切腹。
お江戸スタンダード版切腹「刑」といいますか。
幕府主導で行われる、言わばVIPクラス限定の処刑法ですから、執行側は手続きを明記し、手順をマニュアル化する必然や、執行に関しては記録を残す必要からも「作法」として洗練させざるを得ない経緯がある。
切腹に立ち会える人員はそう多いわけでもないし、そもそも非公開処刑なので誰でも立ち会えるわけでもないだけに、特級幹部(大老とか)宛てになされる執行報告書の作成は必須。
また、執行不備や不手際の補正補完は、執行件数に比例して微調整され、改良されていくのが常。
とくに頻繁に行われない刑罰(徳川250年の治世中、幕府掌握切腹刑案件は20件程度しか記録にないらしい)には、
切腹者の身分や立場によって、その手順がより厳格になされたり、もったいぶった形式や格式も加味されるだろう。
武士の公務員化が定着し、武士や兵法が精神論(もはや実戦不要の机上の空論)で語られるようになる江戸中~後期には、より面倒くさい形式ぶったモノに変形している可能性は高い、と思います。
さて、一方、地方公務ともいえる藩レベルの切腹刑は、その土地の風習や藩作法、家伝にのっとったローカルルール・・・もといファミリールール優先。
時代によっても大きく変化するところでありますが、藩主レベルのVIP階級でもなければ、幕府推奨の面倒くさい法定手順に付き合う必要もなかった。
徳川御三家ならいざ知らず、とくに外様大名だの旗本クラスでは、藩主が流行に流されやすいタイプでない限り「当家・当藩のしきたり」の方が重みと有難みがあるものです。
そんなわけで、なかには八戸藩のような壮絶な切腹刑(詳細知りたければ本書購入してください)もあれば、
足利義明(義昭じゃないよ)のエピソードや薩摩藩(一部エリアか?)のように、「うちには切腹なんてない。武士の名誉は討ち死になり」ってな家訓や土地柄もあったり、千差万別。
杓子定規に「すべての武士は切腹を名誉刑だと考えていた」と思い込むのは、ちょっと早計かもしれないです。
おそらく重要ポイントとなりそうなのが、このマイナーな武将・足利義明(1538年没)や薩摩藩の「切腹なんて敵にひれ伏すも同様=死に恥だ」とする気風が、日本では殆ど日の目を見ていない現実。
石田三成も小西行長もこの思考系列の武将だったと言うと、多少はイメージしやすいでしょうか。
このような死に恥を選ばなかったアンチ切腹派は、「徳川推奨武士道精神」からみれば、「生き恥さらし」のいい見本というところでしょうか。
ぼんやりと「切腹=武士」の構造輪郭が見えてきたような・・・と、ここは、今はまだ臭わせるだけw
補足
やはり解りにくいなと思い、足利義明の部位を抜粋しました↓ ご参考まで。
天文六年(1537)下総鴻の台(今の国府台)の合戦に、足利義明(小弓御所と呼ばれた)が北条氏綱に敗死する時のことである。これは文章からみて、語りものの一種であったらしい。
(中略)
若君、つまり義明の息子は、負傷したから自分で切腹しようと言いだした。
それがこのころは一般の武家の慣いだったが、叔父の元頼は、それは当家の一族ではやらない行為だとたしなめたのである。
最期まで戦って、相手と相討ちになって死ぬべきである。自分で腹を切るのは、北条に服従したことになるというわけで、切り込みをして乱軍の中で討死にした。
主将義明も矢に射られて長刀を杖に立ち往生をとげ、自害はしていない。
(P176~177)
脱線しますが、切腹刑様式には「扇腹」ってのもあって、
これは「短刀の替わりに扇を置き、扇に手を伸ばした瞬間に首を討つ」という切腹刑の亜流。
扇のほかに木刀もあったそうな。
もはや、これって斬首刑だろってとこですが、wikiには「江戸中期には形式的になったのでお扇や木刀を代用した」なる解釈が載せられてます。
うーん、これだけの説明で、誰が納得できるのだろう。
個人的には「代々うちでは切腹は禁止されている。こんな死に方、先祖に顔向けができない」とか「武士の誉れは討ち死になり」とかの、アンチ切腹派の人のための例外法だったような気がしてます。
頑なに「切腹なぞせん」と駄々をこねられるのも迷惑だし、切腹に「武士の誉れ」なんて美意識を持たない奴に刃物なんて持たせたら、逆に立会人が道連れに刺されかねない。
そんな奴も相手にしなくてはならない、苦肉の策から生まれた作法だったのではなかろうか。
単に「刀剣に手を伸ばした瞬間を討つ」という形式流儀に時代が変容したのであれば、飾りとして置くのは真剣だって構わないはず。
短刀に手を伸ばす位なら、「腹を刺す勇気もないヘタレ」でもできそうなものです。
「討たれるのが怖いビビり」は、どのみち木刀であろうが扇であろうが、手は伸ばせない。
ここは 切腹拒否者や刃物を持たせたくない危険人物に、「これは斬首ではない」という幕側の方便として扇や木刀を用意した、と解釈した方が合理的な気がします。
やむを得ぬ事情でもない限り、「武士の誉れの切腹刑」を命じておきながら、小刀すら用意せず、わざわざ安全な「扇」や「木刀」を置いていては、武士の体裁と作法の辻褄があわないと思うのだが?
そういえば、本書、赤穂浪士にも少し触れられていた。
彼ら(赤穂の浪人ども)には幕府法定切腹刑手順が適用されているはずですが、本当は大石内蔵助すら切腹させてもらえなかったんじゃないか、なんて推測も可能です。
それこそ短刀に手をかけた瞬間首を討たれた、と。
「一味徒党して大名の邸に乱入し殺傷を行ったものとして切腹刑を科したことに疑念が感じられた」とか
「浪士等が処刑を不満としていた場合には、刀剣を手にするとそれに乗じて敵対行動にでる可能性がある」(P44)
を、浪士どもを「切腹させなかった」理由としてあげてます。
「切腹刑」は赤穂熱に浮かされている庶民向けの体裁名目にほかならず、「武士でもないものに腹を切らせるわけにはいかない」という多数派武士の面目のため、実態は斬首刑であった可能性もある。
現代でもよく騒がれる、二枚舌行政やマスコミ操作って奴ですかね。
はてさていかがなものか。
どのみち、死人に口なし。
本当のことは立会人にしか知り得ないことですな。
そもそも改易された藩の武士、「浪人」って、司法行政サイドから武士として扱っていい人なんですか?
不明瞭な身分制度の謎((φ(..。)メモメモ
さて、そもそも私が切腹に興味持った発端は、「処罰としての切腹刑」ではなく、「自傷行為としての切腹」でした。
風習として定着した腹切り文化の実態を、発生起源を、次以降、ちょっとでも触れてみれたらと思ってます。
参照・参考書として「日本人はなぜ切腹をするのか」をメインに使いました。
サブで 切腹 日本人の責任の取り方 切腹論考 武士道 などにも目を通してみました。
ご参考まで。
また、今この時期に扱うには不適切な内容だとご批判受けるかもしれませんが、とはいえタイミング計ってみたところで「適切な時期」なんてものが来るとも思えず。
現代では禁忌である「自殺」を扱おうと、それも「古きよき武士道精神」として単純美化されやすい切腹を扱おうというのだから、なかなかリスキーな記事です。
しかしながら、日本人がノスタルジックに妄想する「切腹ファンタジー」は、未だに自殺者を情緒的に美化する現代メンタリティーに脈絡していると感じているところもあり、あえて今「切腹」に触れることで、私自身の混乱を少しでも整理できたらいいなと思うところでもあります。
不適切な用法、表現等ございましたら、随所にて鞭撻いただければと存じます。
また適材文献などご紹介いただければ幸甚に存じます(5000円以上の高価な専門書は買えませんw)