秋の佐和山はほのぼの暖かい
感慨深い本丸跡です。
三成に過ぎたるものの代名詞として有名な佐和山城。
五重の天守があったとか。
慶長5年9月18日(1600年10月24日)落城します。
15日の関ヶ原の合戦直後、家康は17日に開城を申し入れる使者を佐和山城へ派遣。
家康は本気で佐和山へ攻め入る気はなかった、かもしれないですね。
三成父・正継はその使者から関ヶ原の西軍敗北を知り、自分の命と引き換えに、将らの助命を申し入れます。
が、どういう行き違いか、はたまた功を焦ったか、小早川・田中吉政軍が石田軍へ一斉攻撃。
一日の攻防で、石田軍2800人がなくなったとか。
正継さん、家臣の助命嘆願無碍にされ、さぞ無念だったでしょうね。
そうえいば佐和山落城の様子って、小説で読んだ記憶がない。
でも、ドラマでは結構扱ってくれてて、特に大河の「葵徳川三代」が印象深いです。
三成の嫁が、勇ましく格好良かったっす。
余談ですが、家康は三成に対して、そうそう悪意をもっていたようには思えなかったりします。
三成の子息は全員生きながらえてますし、長男からして出家したことを理由になんら制裁は加えてない。
次男は津軽藩の重臣として、ひっそりながら重用されております。
関ヶ原で逃げおおせた大谷吉継の息子なんて、大坂の陣で豊臣側について、幸村と一緒に奮闘したのに。
この時代、逆臣の子息にしては、ちょっと異例な待遇じゃなかろうか。
生きながらえた石田家臣団も、その後、あちこちの大名の家臣として重用されてる様子。
逆に、活躍した小早川や田中吉政のその後の扱いの方が、実は冷たいような気がします。
家康には、小説やドラマに描かれるような、三成憎しの執拗さをあまり感じません・・・と、ちょっとフォロー。
歴史は勝者によって作られるとは定説ですが、この定説を逆手にとって歪められた歴史もありそうですね。
歴史は、本当に勝者によって作られていると言えるのかしら?
さて、本丸跡地にはガイドさんがいらして、相変わらずがっつりガイドしてもらいました♪(* ̄∇ ̄)/
ほんと、ありがたいです。
そんなわけで、以下、ほとんどガイドさんの受け売り。
本丸跡地には小さな石仏様が祀られてます。
佐和山落城後も、領民たちが佐和山内のあちらこちに石仏様を作って、石田家や家臣たちの英霊を弔ったとか。
新領主の井伊様がそれを見つけては粉砕していたそうですが、つぶしてもつぶしてもあちらこちらから出てくる。
領民たちも、見つからないようにこっそりあちらこちらに祀っていたのでしょう。
さぞ井伊様は面白くない思いをしたでしょうが、領民から慕われていた三成美談の一つとなってます。
と、まぁ、ほとんど佐和山のお城に居つく暇なく、まさしく言葉通り東奔西走していた三成がどのくらい領民から慕われていたのか疑わしいですが、三成の父・正継は、領民からよく慕われていたというエピソードが数々残っております。
せっかく佐和山を廃城して彦根城をこさえたにも関わらず、100年間くらい彦根城は「佐和山城」と呼ばれていたそうな。
新しい赴任先で石田色払拭に焦る井伊様と、土着民の温度差というか。ズレ具合が痛々しいです。
さて、本丸の西側からは彦根城がよく見えます。
彦根山より佐和山のほうが高いこともあってか、石田家の痕跡をことごとく滅却したかったのか、佐和山城廃城の際、本丸跡地を15m位削ったそうで。
執拗で過剰な破壊工作ですが、ここまでしなくてはならない理由が、なにか他にもあったんでしょうか。
おかげで礎石も虎口もなにも残ってません。
ちょっと削ってみたところで、それでもやっぱり彦根城が下に見える。
「城を見下すのはけしからん」という理由か、石田信仰を戒めるためか、井伊様の時代、佐和山は入山禁止エリアになっていたそうな。
なんか、井伊様、必死だな。
佐和山時代、このふもとは琵琶湖の内湖だったそうで、人が住める状態ではない一面湿地帯だったそうです。
そんなわけで、佐和山城下町は、この栄えている西側ではなく東側。
現国道8号線方面だそうで。
彦根城からずいっと左へ目を移すと、佐和山城攻撃の際、家康がその様子を見るため登った言われる小山↓
山の名前もうかがったんですが、忘れた・・・だめじゃん。
便宜上、狸山と命名しました。
そうとう離れてますねぇ?
家康は、わざわざ佐和山まで繰り出していたのかー・・・と、ちょっと意外。
佐和山落城のシーンで、家康が出てくるようなドラマとか小説とかないし。
盲点。
いやぁ、佐和山落城の様子って、本を読んでも結構ざっくり流されちゃうこと多いですからね。
ガイドさんから貴重なお話聞けました。
本丸下からは、貴重な隅石垣が見られます
ここにお城があったことを示す希少な証人です。
こんな石垣の名残がほかにも数か所あるそうですが、今は立ち入れないのかも。
それよりも、なぜこの二つの石だけが残されているのかの方が謎です。
佐和山城の石垣は、根こそぎ彦根城の石垣に持っていかれてしまってます。
佐和山の石を見たければ彦根城へ行くのが正解ですが、どの石垣が佐和山城の石垣だったかは全くわかりません。
彦根城へ行った時、石垣のところどころに焼けた岩が混じっていて、「もしやこの焼け跡の痛々しい石は佐和山の石?」とドキドキしましたが、それもどうだかわかったもんじゃありません。
そもそも佐和山城が落城の際、本当に炎上したか否かも判りません。
たまに石垣向きのこんな岩が転がってたりするんですけど、運ぶの面倒で放っていかれた?
さらに下ると、佐和山の水源、千貫井があります。
かなり横広に大きい井戸・・・というより、ほぼ池で、写真ではとても見づらいですな。
パンフレットの方がずいっと見やすいので、そちらを参照ください。
井伊家7代藩主が編纂させた「古城御山往昔咄聞集書」によると、「このような山で名水があるとは千貫にも代えがたい」と称賛されたところからこの名がついたのだとか。
貴重な水源です。
その千貫井から見る風景↓
のあたりから左へかけてが旧城下町だったそうな。
上では狸山と打っちゃってますが、本当にあれ、狸山だったのかな?
ちょっと自信ない。
偶然写真に入っちゃってた左端のお城は、知る人ぞ知る佐和山遊園。
この件に関しては、ガイドさんはもちろん、おそらく三成ファンなら誰しも触れたくない部分だったりします。
知りたい人は「佐和山遊園」で検索かけてみてください。
ブログアップしているご奇特な人が結構います。
千貫井からほど近いところに女郎ヶ谷がありました。
佐和山落城の際、女衆がここで集団自決したとも、本丸から身を投げてここで亡くなったとも伝えられている処。
先の井伊様の「古城御山往昔咄聞集書(1727年)」によると、
落城の時に塩硝櫓に火をかけると、すぐに火は本丸に移り、籠城していた諸氏の女中らは即時に天守とともに爆ぜ落ちた。その時の女中らの喚き叫ぶ声で、山も振動するほどだった。数多くの女中らが亡くなったので女郎ヶ谷というようになった。
そうです。
佐和山悲話の一つとして有名。
こんな逸話が100年後まで語り継がれていたとなれば、事件直後の初代井伊直政・直孝親子は、さぞ佐和山城では居心地悪かったであろうよ。
供養碑の一つでも建てて弔ってもよさそうなものですが、それをする心的余裕もなかったか?
そんな切羽詰まった井伊様の様子が、結果として石田地蔵の民衆信仰の逸話に連綿していくのでしょうか。
が、井伊様もまったくなにもしなかったわけでもないようで。
佐和山登り口の龍譚寺隣にある清涼寺には、井伊家11代藩主が建てたという「石田群霊碑」があるそうです。
当時お家騒動絶えなかった井伊家が、「これは成仏しきれない石田三成の怨念か?」なる理由で急いで弔ったとか。
なんとも手前勝手なご供養ですが、それまでなんにもしてこなかったのか、というのがよく判りました。
内輪トラブルのダシにされた三成もいい迷惑だな。
残念ながら、この「石田群霊碑」を確認しそこなってますが、次回確認したいと思います。
左近屋敷跡の清涼寺も、百橋も、国道側からの大手道も確認してないので、相変わらずあれこれ未消化です。
それどころか、花しょうぶ通りを何度も通り、戦国丸まで行っておきながらお隣の妙源寺の門すら写真撮ってないというひどい有様。
リベンジにて、近い将来挽回します(`д´ )ゞ