別冊 どうも |^・ω・)/

今関心ある事を、まぁなんとなく、適当に。

大阪城 feat.幸村くん 3/3

2014-05-27 01:07:33 | お城・史跡>大坂

大阪市民以外の大阪城への評価って、結局天守閣のセンスに尽きる、気がする・・・・・・( ̄- ̄;)・・・びみょー・・・

豊臣時代と徳川時代では、天守の規模も全然違ってて、徳川の残した天守台に乗っけるには豊臣天守は小さすぎたのでしょうか。
苦肉の策の上層階ってのは、なんとなく伝わりますが・・・・・本当にこれでよかったの?

そんな何か大事なことを歪めてまで愛されている太閤さん↓

 大阪城公園内、豊国神社脇にある「おのれ、家康」の像 (クリックででかくなる)

たいへんご機嫌悪そうに見えるんですが・・・気のせい?

あ、そうそう、淀殿(並びにその他)を弔う碑もありました↓
どこかに墓標もあるらしいんですが、そちらは確認できませんでした。

 淀君(並びに殉死者32名)の菩提碑 (クリックででかくなる)

御城主様は秀頼だと思うんだが・・・ま、いいけどね・・・。
ちなみに殉死者には、秀頼や幸村の息子・幸昌くんの名前もちゃんとありました。
いや、秀頼は殉死じゃねーだろ。


だんなが「大阪城の豊国神社には、幸村桜ってのがあるらしいよ」って言うので、
「どんな謂れのある桜なんだろうo(・∇・o)ワクワク」と楽しみにしながら隅々探していたのですが、境内では見つからず。
豊国神社の脇に観光案内所があったので、ドア口に立っていたボランティアガイドのおじちゃんに
幸村桜がある場所を尋ねたら、「幸村桜?聞いたことないなぁ?」とつれないお返事・・・。

ガセか?

ガイドのおばちゃんが代わって教えてくれたのですが・・・

ここらへんのどっかの桜らしいです・・・( ̄∇ ̄;)  
おばちゃーん・・・・(泣

どうやら「幸村桜」は、幸村つながりの友好のしるしとして、上田市から5年ほど前に寄贈された桜だったようです。

 ←詳しいことはこちら (クリックででかくなる)

幸村は、本当に大阪市民にも愛されているのだろうか・・・・・・・?
なんかちょっと、心配になってきた・・・


せっかく大阪まで来たんだから、真田関連の所へもちょっと行ってみたい。

幸村関連と言えば、
真田丸があった(かもしれない)三光神社の「真田の抜け穴」、
真田が休息中に討たれた(と伝わる)安居神社、
冬の陣では家康が、夏の陣では幸村が陣を張った茶臼山(これはほぼ確定でよさそう)  とか?

  (クリックででかくなる)

大坂の陣ゆかりマップがないから、適当に作った。大体の距離感が解ればいいよね?

大河イベントで、大坂の陣ウォーキングマップとか作って欲しです>商工会がんばれ

取りあえず三光神社へ行ってみようとタクシーに乗り込む。
ここには、幸村が大坂城へ内密にぬけられるよう掘ったとか、
この穴から徳川軍の陣へ神出鬼没にあらわれては徳川勢を翻弄したとか、
・・・って噂されてる「真田の抜け穴」があるそうです。
まぁ・・・講談レベルの伝承ですけど。

が、タクシーのおっちゃんに「三光神社へ」と言っても伝わらない・・・当たり前か。
「真田丸の碑だか抜け穴があるそうなんですが・・・」と言っても全く伝わらない・・・想像以上に認知度低いな。
「宰相山公園ってところににあるらしいです・・・」と言って、やっと公園に着いた。

大坂で真田所縁地へ行くなら、地図の事前チェックは必須で、行き当たりばったりは危険です( ̄-  ̄ ) ンー

三光神社は宰相山公園内の丘の上にあって、真田の像は神社の石段下にありました。

 静かできれいな公園です

この辺が真田丸だったという説がある一方、「宰相山」は徳川方の加賀宰相(前田利常) が、真田丸を攻めるために張った陣という説もあり。
ここが前田陣とすれば、この真田の抜け穴は「真田が掘った」ものではなくなってしまう可能性が高いわけで・・・。
一方徳川は、大坂城攻略のために、各将に大坂城に通じる穴を掘らせていて、あちらこちらに洞穴があったという説もあり。
そうなると今度は、徳川方が掘った穴説が有力になってしまう。

ちなみに「地名」にこだわれば、宰相山の南側には「真田山」なる町があり、ここらへんまで「真田丸だった」という説もあるようですが、残念ながら真田山町=真田丸ではない説が有力のようです・・・。

 (クリックででかくなる)

 ↑ 真田丸があったんじゃないかなー?と言われてる辺り。ただし大阪城や真田丸の境界については諸説あるようです。

ようは今現在、真田丸の場所は特定されているわけではなく、最有力説も「明星高校の辺り・・・という漠然としたもの。
三光神社とは目と鼻の先なだけに、三光神社が真田丸に含まれていたか、前田陣跡か、で意見が対立してそうな微妙さです。

さらに、この洞穴、途中で土砂崩れで埋まってしまってて、この穴の先がどこへ向かっているのかすら不明なんですって。
実は大阪城へは向かってないらしいってな話も拾えます。
発掘作業くらいしておいてもらいたいところですが(井戸の金塊は探したくせに)、いつごろ掘られた穴なのかの検証もされないままみたいです。
穴の上が神社ってこともあり、地盤沈下の危険性があるからでしょうか、残念です。
「洞穴の奥に金塊が埋まってる」って言えば、絶対誰か掘ってたよな・・・。

という訳で、現段階では「真田の抜け穴」は、伝説の域を出ていない・・・ということになりましょう。

にも関わらず、やっちゃったよ  ↓

 史跡指定 「真田の抜け穴」

「先に杭を打った方が勝ち!」的な史跡指定ですな。
・・・・・ちょっと強引なような・・・・( ̄_ ̄ )。o0>杭を打ったら境界争い
これでは、「井戸を見たら清正と思え」の第二弾、「穴を見たら真田と思え」だな。

「史跡」というと、まるで史実のお墨付きを得たという印象感を受けてしまうので困ります。
だからこそ、伝承地や学問的解釈対立のある所は、どこでも慎重に扱っていると思っていた。
「昔から真田の抜け穴と噂されていた洞穴」という、「言い伝え・伝承」を根拠にした史跡指定なんでしょうかねぇ。
ちなみに大阪府の指定史跡にも、市の指定史跡にもなってないようです。

え・・・?
だれがここを、どんな権限で、なにを目的として「史跡」指定したの?

せっかく伝承地としてこの場所楽しみたかったのに、「史跡」の一言で、頭から水を掛けれられた気分で興ざめだわ。
なんだか卑しい気分になってしまった。

まさか「史跡」はダメだが「史蹟」はOKとかってオチ?
ふざけんな。


さてさて、帰る前に幸村が討ち死にしたと伝えられている安居神社へも足を延ばそう。
こちらは市が指定している「史跡」です。

さっそくタクシー拾って安居神社へ行こうと思ったら、タクシーのおっちゃんに知らないと言われる。
茶臼山の方で、一心寺の近所みたいなんですが・・・と訴えると
「ああ、一心寺ね!安居神社は聞いたことないなぁ」と、つれない。
真田が死んだっていう神社なんですが・・・。
「こんなところに神社があったんですねぇ。へー、ここで真田って死んだの。初めて知った」と喜んでいただけました・・・。
なんか切ない・・・。
本当に、真田って大阪で愛されてますか?

 やっとたどり着いたのに・・・

そんなわけで、休息中の真田像と石碑は見学できませんでした・・・(/ヘ ̄、)虚しい・・・
真田目的で大阪へ遊びに行く方は、まず先に安居神社へ行った方がよさそうです。


おまけ

真田所縁地については悲しい思い出ばかりになってしまった感もありますが、裏腹に実はとても楽しんでました。
接した人もみなさん親しみやすくて名残惜しかったです。
夕飯に入った海鮮居酒屋も、とってもおいしかったです。

で、接する人接する人、みなさん「またいらっしゃい。あべのハルカスもあるし」とおっしゃる。
アベのカルパス?
なにそれ。
なんだ、サラミじゃないのか。

最近できた日本一高いビルだそうで。
それまでは横浜のランドマークが一番高かったんですって。
へー、横浜のランドマークがそんなんだったなんて、知らなかったよ。
いや、どっかで聞いたような気もしてきた。

ダンナがどっかから、あべのハルカスのチラシを拾ってきました。
「美術館があるらしいよ?」
「へー、なに展示してるんだろう」
「オープニング特別展は、東大寺だって」
「東大寺?Σ( ̄口 ̄*) お隣から仏像借りてきたのー?」

大阪、なんか、悉く、やること微妙・・・。

なるほど、この微妙な環境が、あの大阪文化の支柱なんだ・・・
大阪はいろんな意味で、悉く、楽しかったですヽ(*⌒∇⌒*)ノ勉強になった