別冊 どうも |^・ω・)/

今関心ある事を、まぁなんとなく、適当に。

次回予告となるか?

2013-06-21 12:38:53 | ご挨拶

 

教科書にも出てくる長篠の戦いは、今時分の梅雨の季節の合戦だったのですね。
旧暦5月21日、新暦7月9日。
知らんかった・・・。

さらに、長篠の戦は「長篠城の戦い」と「設楽原の戦い」の二部構成になっていて、
信長が3000丁の鉄砲で3段打ちして武田(勝頼)軍を壊滅させたとかいうめちゃくちゃ有名な戦いは、「設楽原の戦い」というのが正解のようです。
知らんかった・・・。

長篠の戦っていうと、織田信長vs武田勝頼だと思ってたら、家康も大きくかかわってたのか。
つか、これって、家康がメインじゃないか?
知らんかった・・・。

そもそも「長篠にお城があったのか」ということを現地行って知りました。
無知もここまで来ると開き直れます。
すびばせん(。´・ω・`。)


今回は高根城に行った帰り、夕方にちょっくら立ち寄ってみただけですが、次回、少し勉強してから長篠城・設楽原へリベンジです。
遅すぎて資料館も開いてなかったし。
各砦も見ようと思うと、結構広範囲のようなので、1回や2回ではまわれなさそう。
賤ヶ岳もそうでした。

信長系は勉強不足甚だしいどころか、規模が大きくてなかなか関心が追い付かず、相変わらずハードル高いままなのですが( ̄- ̄;)、
ずっと戦国末期=三成所縁地へだんなを引き回していたこともあり、そろそろ信長贔屓のダンナに気を使ってみるかね。
つか、奴は奴で、信長ネタをビジネストークで活用しようという下心丸見えなんで、そんな姑息さが面白くないのだが(`ε´)
ともあれ、次行くところは、長篠城・設楽原河川探索で決定したようです。


さて、先週は高根城へいってまいりました。
長篠リベンジの前に、高根城の記事やります。
とはいえ、いつ手をつけられるか解りません・・・。


ちょっくら熊本城 3/3

2013-06-11 11:53:30 | お城・史跡>熊本城

 梅が綺麗な季節でした・・・(〃´・ω・`)ゞ

月日の経つのは早いもので、今は桜も終わり、百合も終わり、寿命の長いバラと紫陽花がぼちぼち・・・

 

みちゅなりくんはおにぎり奉行なので、融通はつけません。


サボり呆けていたら、2月の旅行記事が6月になっちゃったよーって訳で、さして反省する様子もなく、忘れられたころUPする熊本城記事 ( ̄ω ̄;)エー。


熊本城と言えば 、圧倒される素晴らしい石垣群が見どころですね!
縄張りからして日本最強の城って説も・・・。
日本が誇る堅固な要塞です。

私もぜひそんな有名な石垣群を拝見してみたくてやってきました。

  名物の二様の石垣も梅苑も、天守のすぐ近く。

天守からはまさしく熊本城が一望できるので、縄張りもわかりやすく、にょきにょきしてる石垣群が楽しい。
本当は、石垣の上には櫓とか立ってて、見渡す限り甍の波って感じなんでしょうねー。

さて、全国大名たちの見栄と威信と技術を競い合わせたと言われる名古屋城築城の際、天守台の石垣担当となった清正くん。
周囲に幕を張り、決して人に石積みの現場を見せなかったそうです。
石積みの技法は門外不出、藩のトップシークレットだったんですね。

そんな石垣の代名詞・清正くんは、土木の神様とか言われちゃったりしてますね。
実際は彼の取り巻きたちの技術や才能が抜きん出てすっごかったわけですが、なるほど、気性も荒く気位も高かったであろう技術屋や職人どもを統制できた清正くんは、まさしく神だ、と思う。


そんな当時の石垣技術の粋を極めた熊本城ですが、

   高い石垣とか

  苔むした石垣とか

  複雑な石垣とか

  長い石垣とか

  西南戦争で焼けた石垣とか 

やっぱり石垣だらけだ。 

 さすがに視界が石ばかりなので、

  

みちゅなりくんでなくとも少々飽きるというか・・・なんというか。
一生分の石垣を鑑賞した気分になります。
もうおなかいっぱい。
素人はズサンな見方をしながら、お散歩よろしく通り過ぎてしまいますよ。 


でもま、せっかくなんで、ちょっとだけ石垣のお勉強してみました。
相変わらず家に帰ってからです。
努力はしてみたが石垣マニアには到底なれそうもない人でも、戦国ファンならちょっとは楽しめる(かもしれない)熊本城石垣鑑賞方法。
参考文献は 城のつくり方図典


梅園のすぐ隣にある名物の「二様の石垣」↓

   クリックすると大きくなって、字が読める

※画像は ここから お借りしてます。
自分でも撮影したものの、人が多くて、どうにも加工ができんかったんです・・・。

手前が清正統治初期の石垣で、後ろが細川統治後に造られた石垣。
新旧2種の石垣の積み方の変容が一目で確認できるということで、名所になっとります。

細川統治時代に作られた新型の方は、「算木(さんぎ)積み」というそうで、この工法の特徴は、隅石の重ね方なんだそうな。
清正時代の旧式の隅石はほぼ同じ大きさの石を使って重ねていますが、新式では、短辺の石とそれの2倍以上の長さの長辺の石とを交互に重ねておりますよ↑。
直方体の煉瓦を長辺短辺交互に積み重ねている感じですね。
この積み方だと、崩れにくいより堅固な石垣になるのだそうです。

この算木積み技術が完成したのが、関ヶ原後(1600年)の1605年頃と言われております。
さすると、右側のほぼ同じ大きさの石を使う旧式は関ヶ原より前、規則正しい凸凹のあるものは明らかに関ヶ原以降。
そういわれると、なんだか石垣からも、戦国の臭いが鮮明にしてまいりますね。

関ヶ原直後から徳川秀忠による武家諸法度発令までの15年間、日本は空前の築城ラッシュで、 築城技術も石垣技術も一気に開花したと言われているそうです。
特に家康の天下普請(名古屋城や江戸城の築城を各大名に命じてやらせた奴)は、そこに集まった大名や職人たちの情報交換の役割も果たし、最先端の建設技術を全国が共有する機会になったともいわれとります。

まぁ、アレっすね、「お城って、なんか、どこもみんな似てるよね・・・」って、城素人の私は思ってしまうんですが、なんか、そんな理由がわかったような気がいたします。

 

どこも似たような形をしている日本のお城や石垣ですが、ほんのちょっとずつでも異なる特徴や個性がございます。
没個性とか言われる制服にちょこっとアレンジして私風を醸してみたり・・・ってのとなんか似てる・・・とかって思ってしまいました。


さて、関ヶ原以降日進月歩で発展した築城技術ですが、残念ながら大阪の陣後、築城を禁じる徳川秀忠の武家諸法度の発令で衰退の一途をたどってしまいます。
需要が減れば職人も減り、技術も承継されなくなってしまう。
天下泰平の時代に新たな要塞は必要ないですが、修繕・改修も厳しく取りまったので、リフォーム技術も江戸中期にはグダグダになってしまいますよ。

江戸中期以降に修復された石垣は、「算木積み」ではありながら、辺の長短の割合が1.5倍以下というお粗末な石の積み重ねになるんだそうです。
適当な石がみつけられなかった+金銭的理由もあるんでしょう。

「一応算木積みっぽいけど、石の大きさもバラバラであんまり規則正しくないよねーっ」て石垣見たら、ほぼ間違いなく江戸期に修復した石垣だそうです。
一目でわかるくらい違うんですって。

そんな衰退する武士と一緒に衰退していく残念な石垣を見に行くのも、お城の楽しみ方の一つですね。


おまけ

そうそう、中近世の西洋の歴史番組とか、中国・韓国ドラマとか見ると、城攻めの時、城壁に梯子かけてよじ登るのをよく見るんですが、日本ではそういうシーン、あまり見ないなぁ?
あったっけ?

日本の城壁もとい石垣って、高さもさることながら、壁面が垂直じゃないから、そもそも梯子がかけられない構造だったのね。
クライミング技術があれば登れそうな石垣もあったりするんですけど、やっぱよじ登るのって無理なのかしら?
あ、戦闘中さえよじ登れなければ、平時にわざわざよじ登るご用事なんて、天守や櫓にありませんでした・・・。(〃´・ω・`)ゞ

   ←天守の軒から突き出てる 忍び返し

インパクト重視のヴィジュアル硬派、清正っぽい・・・

忍び返し=「よじ登ったところで串刺し撃退だ」ってことだと思うんですけど・・・。

でも、これって、実用的じゃないっすよね?
普通に考えて、「飾り」っすよね?
「忍び返し」ってネーミングも、なんか狙ってるし。
ネーミングは結構最近の、作為的な臭いがしますが・・・。

 
あ・・・そういえば、大銀杏のご紹介忘れてた・・・。
まぁ、逸話もなんか、アレでしたし・・・ま、いっか。
気になる人は、「熊本城 銀杏」で検索してください

 

さて、来週はめずらしくダンナの週末予定がないらしいので、久しぶりに遊びに行こうと思っております。

まだ目的地が決定してないんですが・・・三重か岐阜か静岡か・・やっぱ滋賀?

なんか浜松にある高根城って、気になりますよね。

雨降らないといいんだけど・・・。