【2014-2015年度】地区補助金奨学生 木原 慎一朗さん(今治南ロータリークラブ推薦)
前ターム(Autumn Term)の成績が返ってきました。
英国で論文が採点されるのは初めてのことだったので緊張していましたが、3教科とも納得のいく点数がつけられていてほっとしました。
教授陣のコメントについては、今後の論文に生かせそうなものばかりで、今から今ターム(Spring Term)の論文課題に取り掛かるのを楽しみにしています。
英国の大学の成績評価では、100点満点中、50点以上が合格で、それより低いと落第させられます。
日本の大学で言うところの「優」「良」「可」のように、合格点の中でもランク付けがあり、50~59点が「pass(良)」、60~69点が「merit(優)」、70点以上が「distinction(秀)」となります。
「merit(優)」と「distinction(秀)」については、卒業証書に記載されるそうです。
このまま今の成績を維持すると、「with merit(優)」で卒業できそうなのですが、何とか「with distinction(秀)」で卒業できるよう、前ターム以上に気合をいれて勉学に励もうと思います。
今回の成績発表によって、モチベーションを上げることができました。
インターネットのブログに掲載されている日本人の英国留学体験記を読んでいると、ほとんどの日本人が、日本の大学と英国の大学のギャップに対して、衝撃を受けていることがわかります。
確かに、日本と比べると、英国に集う学生の国籍の豊かさには驚かされます。
しかし、授業での教授とのやりとりや学生同士のディスカッションの様子、論文の書き方はほとんど変わらないため、日本での経験がそのまま生かされていると実感しています。
違いと言えば、それらが全て英語で行われることくらいです。
実を言うと、留学前は、英国の大学は良くも悪くも自由放任主義で、研究の進め方は各学生の自主性に任せるというドライな姿をイメージしていたのですが、現実は全くその逆で、ある意味、過剰なほどに親切です。
授業で論文の書き方を指導するときは、まるでそれまで1度も論文を書いたことがない学生を相手にするように、手とり足とり進めていきます。
そのあまりの親切さに、拍子抜けすると同時に感動すら覚えました。
日本では、学部の段階でみっちり論文の書き方を叩き込まれますが、修士の段階で1からその指導をする大学院はほとんどないでしょう。
この英国流の文章指導が、私の今までの文章構成を再考するきっかけになっているため、非常に助かっています。
このような指導法は他の学生にも好評で、大学寮のフラットメイトも、試験や論文課題を無事に乗り越えられたようです。
安心したところで、皆でスコッチを飲みながら盛り上がりました。
中でもお気に入りは、「ザ・フェイマス・グラウス(THE FAMOUS GROUSE)」という銘柄で、スコットランドで最も人気の高いスコッチとして知られているものです。
ラベルには、スコットランドの国鳥である雷鳥(grouse)が印刷されています。
グラスゴー時代は、週末にクラスメイトとよくこの「ザ・フェイマス・グラウス」を飲んでいたので、スーパーマーケットに並んでいる雷鳥のラベルを見るたびに、懐かしい気持ちにさせられます。
日本同様、英国でもハイボールは人気ですが、ウイスキーはストレートが基本スタイルのようで、日本で水割りしか試したことがない私にとって、当初はかなり抵抗がありましたが、今ではその文化にも慣れてきました。
昨年、ウイスキーのガイドブックである「ワールド・ウイスキー・バイブル2015(2015 World Whisky Bible)」にて、サントリーの「山崎」が本場のスコッチを抑えて世界1のウイスキーに選ばれたことは、多くの英国人を驚かせました。
NHK連続テレビ小説「マッサン」の話題も相まって、日本でのウイスキー人気はますます過熱するでしょう。
ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝氏も学んだ思い出のグラスゴー大学で、「マッサン」の撮影が行われるのを心待ちにしています(残念ながら、このレポートの作成中にクランクアップしたようです)。
大学寮のフラットメイトの話に戻りますが、私のフラット(同一階)は、アジアからの留学生のみで構成されており、その国籍の内訳は、中国、台湾、インド、そして私を含めた日本です。
それ自体には何の問題もありません。ただ、気になるのは、大学寮のスタッフの間で、人種差別思想を持った人がいるかもしれないということです。
私が生活している大学寮は、1つの大きな建物の中で部屋が割り当てられる形式ではなく、敷地内に小さな建物が30棟ほど建ち並び、学生はまず各棟に配属され、そこからさらに部屋割りがされる形式です。
その内情はというと、欧米出身の学生とそれ以外の学生で、はっきりと棟が分けられています。実際、私が配属された棟に欧米出身の学生は1人もいません。
そのような要望を出していないにもかかわらずです。
しかも、大学寮の正面玄関を入って左右に棟が分かれており、左が欧米出身の「学生地区」、右が主にアジア出身の「学生地区」となっているため、
大学と寮を往復するだけの生活をしていると、敷地内で欧米出身の学生に会うことはほとんどありません。
敢えて人種について言及するとすれば、大学寮におけるコーカソイド(Caucasoid)、モンゴロイド(Mongoloid)、ネグロイド(Negroid)の学生の比率は、実感としてほとんど同じです。
そのような状況にあって、同一人種のみで固められている大学寮の現状を偶然として見るのは無理があります。
アジアの学生とは、いわゆる「無言の会話」が成立することが多く(私がそう思い込んでいるだけかもしれませんが)、お互いに楽と言えば楽です。
このようなこともあり、大学寮のスタッフとしては、むしろ気を利かせたつもりなのかもしれません。
私自身、個人的な侮辱を受けたわけではありませんが、あからさまな人種による区別をされると、あまりいい気持ちはしないものです。
もし、この状況が、本当に人種差別思想から来るものであれば、自身のアイデンティティをはっきりと確立させたうえで、強く主張・抗議しなければなりません。
自己が何者であるのかを把握し、立場を明確にしなければ、対立する相手との意志疎通を図るのは困難です。まして、それが英語となると尚更です。
ある言語学者は、「アイデンティティにしっかり根ざした言葉がないと、人は根無し草になってしまいます。」と警鐘を鳴らしています。
話が飛躍し過ぎとの批判を受けるかもしれませんが、大学寮が抱える人種意識の問題と、言語学者が提唱するアイデンティティの問題を通して、日本における英語の早期教育についての議論を考えずにはいられません。
小学校低学年に必修科目として英語を導入すると、母語(この場合は日本語)運用能力の低下につながると危惧する声があります。
関連の文献やニュースを見てみると、「母語運用能力の低下」とは、母語の文法の不正確さを指していることがほとんどです。
すなわち、小学校英語教育反対論者の主張の支えとなっているものは、言語的な懸念であると言えます。
この点、早期外語教育がその言語の習得に寄与し、母語習得にも影響はないと結論付けた先行研究があります。(これに対する反対論もあるため、それについては後述します。)
この理論を支持するとすれば、小学校英語教育についての議論に伴う言語面の論争は、一応決着がつきます。
私見では、懸念すべきは言語的事項ではなく、社会的・人格的事項であると考えます。ここで言う社会的・人格的事項とは、アイデンティティの確立を指します。
ロータリークラブの地区補助金奨学生の採用面接を受けたとき、早期英語教育のメリットとデメリットを尋ねられたことを思い出します。
情けないことに、そのときは、緊張と勉強不足のため、明確な回答をすることができませんでした。
渡英後、第2言語習得研究に触れることで、その質問への回答材料がある程度そろいました。
そこで、勝手を承知でこの場をお借りして、もう1度回答をさせて頂きたいと思います。
メリットについては、上述の通り、英語教育の時期が早ければ早いほどその習得が促され、母語運用能力が低下することもないということです。
したがって、早期英語教育には言語的価値があります。
これに対して、外語運用能力は母語運用能力と基盤を共有しているため、母語運用能力が不十分な段階で外語を習得しようとすると、セミリンガル(母語・外語共に欠陥がある人)になるとの主張があります。
確かに、それは理論上あり得るかもしれませんが、日常的に英語が使用されていない環境(この場合は日本)で英語を学ぶ場合にも同じことが言えるでしょうか。
実際のところ、1日のうちのたった45分もしくは50分で、母語運用能力に支障を来すほどインパクトのある授業を行うことは不可能でしょう。
加えて、外語と母語が同じ基盤の上にあるがゆえに、外語使用時に母語の影響を受けるとすれば、それは負の側面だけではないはずです。
英語を使用することで日本語の能力不足を自覚し、その結果、それが日本語運用能力の向上に寄与するということも十分考えられます。
二者択一の論争から抜け出し、外語教育の相乗効果に注目する必要があります。
日本語を巧みに操ることは相当難しく、正直なところ、私自身、正しい(ふさわしい)日本語が使えているかどうか自信がありません。
日本語の基礎を固めてから英語を学ぶべきとする観点では、英語を学ぶタイミングは、人によっては恐らく一生来ないでしょう。
そのような事態は、多様な価値観に接する機会を逃すことになるため、避けられるべきです。
言い換えると、外語との接触は、言語それ自体の能力向上だけでなく、その言語が使用される文化に触れる機会を得ることにもつながるため、その早期教育は検討するに値します。
一方、デメリットについては、外語教育がアイデンティティの崩壊を招くかもしれないということです。
上述の通り、言語は、特定の文化の間で使用される(文化の中で形成される)ものですが、言語そのものにも文化があり、それを使用することで特定の文化が形成される一面があります。
そう考えると、英語を学ぶことは、それまで築いた日本語によるアイデンティティを切り崩すことになるかもしれません。
特に、自己形成が発展途上の小学校低学年の生徒は、そのアイデンティティの切り崩し行為を比較的容易にやってのけるでしょう。
それが加速すると、前述した言語学者が言うところの「根無し草」になってしまい、自己を見失うことになりかねません。
こうした自己喪失状態は、同じく前述した人種差別思想などの問題に直面したとき、たちまち不利な立場に追い込まれます。
自身の主張の根底にあるアイデンティティが不確かなためです。
ややもすれば、現状放置の姿勢になりがちです。
この点、新たなアイデンティティを発見することで元のアイデンティティが失われるというように、減算的に考えるのではなく、それぞれのアイデンティティは共存し得るというように、加算的に考えることはできないのでしょうか。
現時点では、なげやりな言い方になりますが、それは現場の教師の腕の見せ所になるでしょう。この問題に取り組むためには、社会的・人格的側面に配慮した方法論の研究を進めることが課題となります。
バイリンガル教育の結果には2種類あります。減算的バイリンガリズム(subtractive bilingualism)と加算的バイリンガリズム(additive bilingualism)です。
減算的バイリンガリズムとは、2つ目の言語を習得する過程で母語を失うことを言います。反対に、加算的バイリンガリズムとは、母語運用能力を維持しながら2つ目の言語を習得することを言います。
言うまでもなく、日本の英語教育が目指すべきは、加算的バイリンガリズムです。ただし、それは言語的側面だけでなく、社会的・人格的側面でも実行される必要があると考えます。
日本語と英語を同時に学ぶ過程で、それぞれの言語を批判的に見ることができれば、異なるアイデンティティの共存が可能なはずです。
昨今、「グローバル人材」という言葉をいたるところで見かけます。それは多くの場合、多言語(multilingualism)に堪能な人材という意味で使用されているのが現状です。
もちろん、それは十分に価値が認められるべき存在なのでしょうが、私が思う「グローバル人材」は、言語運用能力が多少未熟であっても、アイデンティティを確立した、多文化(multiculturalism)を理解できる人材です。
最近、何のために言語を学ぶのかをよく考えます。言語は、言語学研究者のみが取扱い可能な専売特許ではなく、万人が自由に楽しめる道具であるはずです。
このため、学校教育における言語指導は、言語的側面と社会的側面の両方を意識して行われるべきだと思うのです。
その信念のもとでは、小学校低学年も大学生も平等です。全ての人種が平等です。
バーミンガム大学を卒業するまでの学びの中で、常にその両側面を意識して研究を進めていこうと考えています。
★ザ・フェイマス・グラウス

★バーミンガム市庁舎

★大学寮正面玄関
前ターム(Autumn Term)の成績が返ってきました。
英国で論文が採点されるのは初めてのことだったので緊張していましたが、3教科とも納得のいく点数がつけられていてほっとしました。
教授陣のコメントについては、今後の論文に生かせそうなものばかりで、今から今ターム(Spring Term)の論文課題に取り掛かるのを楽しみにしています。
英国の大学の成績評価では、100点満点中、50点以上が合格で、それより低いと落第させられます。
日本の大学で言うところの「優」「良」「可」のように、合格点の中でもランク付けがあり、50~59点が「pass(良)」、60~69点が「merit(優)」、70点以上が「distinction(秀)」となります。
「merit(優)」と「distinction(秀)」については、卒業証書に記載されるそうです。
このまま今の成績を維持すると、「with merit(優)」で卒業できそうなのですが、何とか「with distinction(秀)」で卒業できるよう、前ターム以上に気合をいれて勉学に励もうと思います。
今回の成績発表によって、モチベーションを上げることができました。
インターネットのブログに掲載されている日本人の英国留学体験記を読んでいると、ほとんどの日本人が、日本の大学と英国の大学のギャップに対して、衝撃を受けていることがわかります。
確かに、日本と比べると、英国に集う学生の国籍の豊かさには驚かされます。
しかし、授業での教授とのやりとりや学生同士のディスカッションの様子、論文の書き方はほとんど変わらないため、日本での経験がそのまま生かされていると実感しています。
違いと言えば、それらが全て英語で行われることくらいです。
実を言うと、留学前は、英国の大学は良くも悪くも自由放任主義で、研究の進め方は各学生の自主性に任せるというドライな姿をイメージしていたのですが、現実は全くその逆で、ある意味、過剰なほどに親切です。
授業で論文の書き方を指導するときは、まるでそれまで1度も論文を書いたことがない学生を相手にするように、手とり足とり進めていきます。
そのあまりの親切さに、拍子抜けすると同時に感動すら覚えました。
日本では、学部の段階でみっちり論文の書き方を叩き込まれますが、修士の段階で1からその指導をする大学院はほとんどないでしょう。
この英国流の文章指導が、私の今までの文章構成を再考するきっかけになっているため、非常に助かっています。
このような指導法は他の学生にも好評で、大学寮のフラットメイトも、試験や論文課題を無事に乗り越えられたようです。
安心したところで、皆でスコッチを飲みながら盛り上がりました。
中でもお気に入りは、「ザ・フェイマス・グラウス(THE FAMOUS GROUSE)」という銘柄で、スコットランドで最も人気の高いスコッチとして知られているものです。
ラベルには、スコットランドの国鳥である雷鳥(grouse)が印刷されています。
グラスゴー時代は、週末にクラスメイトとよくこの「ザ・フェイマス・グラウス」を飲んでいたので、スーパーマーケットに並んでいる雷鳥のラベルを見るたびに、懐かしい気持ちにさせられます。
日本同様、英国でもハイボールは人気ですが、ウイスキーはストレートが基本スタイルのようで、日本で水割りしか試したことがない私にとって、当初はかなり抵抗がありましたが、今ではその文化にも慣れてきました。
昨年、ウイスキーのガイドブックである「ワールド・ウイスキー・バイブル2015(2015 World Whisky Bible)」にて、サントリーの「山崎」が本場のスコッチを抑えて世界1のウイスキーに選ばれたことは、多くの英国人を驚かせました。
NHK連続テレビ小説「マッサン」の話題も相まって、日本でのウイスキー人気はますます過熱するでしょう。
ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝氏も学んだ思い出のグラスゴー大学で、「マッサン」の撮影が行われるのを心待ちにしています(残念ながら、このレポートの作成中にクランクアップしたようです)。
大学寮のフラットメイトの話に戻りますが、私のフラット(同一階)は、アジアからの留学生のみで構成されており、その国籍の内訳は、中国、台湾、インド、そして私を含めた日本です。
それ自体には何の問題もありません。ただ、気になるのは、大学寮のスタッフの間で、人種差別思想を持った人がいるかもしれないということです。
私が生活している大学寮は、1つの大きな建物の中で部屋が割り当てられる形式ではなく、敷地内に小さな建物が30棟ほど建ち並び、学生はまず各棟に配属され、そこからさらに部屋割りがされる形式です。
その内情はというと、欧米出身の学生とそれ以外の学生で、はっきりと棟が分けられています。実際、私が配属された棟に欧米出身の学生は1人もいません。
そのような要望を出していないにもかかわらずです。
しかも、大学寮の正面玄関を入って左右に棟が分かれており、左が欧米出身の「学生地区」、右が主にアジア出身の「学生地区」となっているため、
大学と寮を往復するだけの生活をしていると、敷地内で欧米出身の学生に会うことはほとんどありません。
敢えて人種について言及するとすれば、大学寮におけるコーカソイド(Caucasoid)、モンゴロイド(Mongoloid)、ネグロイド(Negroid)の学生の比率は、実感としてほとんど同じです。
そのような状況にあって、同一人種のみで固められている大学寮の現状を偶然として見るのは無理があります。
アジアの学生とは、いわゆる「無言の会話」が成立することが多く(私がそう思い込んでいるだけかもしれませんが)、お互いに楽と言えば楽です。
このようなこともあり、大学寮のスタッフとしては、むしろ気を利かせたつもりなのかもしれません。
私自身、個人的な侮辱を受けたわけではありませんが、あからさまな人種による区別をされると、あまりいい気持ちはしないものです。
もし、この状況が、本当に人種差別思想から来るものであれば、自身のアイデンティティをはっきりと確立させたうえで、強く主張・抗議しなければなりません。
自己が何者であるのかを把握し、立場を明確にしなければ、対立する相手との意志疎通を図るのは困難です。まして、それが英語となると尚更です。
ある言語学者は、「アイデンティティにしっかり根ざした言葉がないと、人は根無し草になってしまいます。」と警鐘を鳴らしています。
話が飛躍し過ぎとの批判を受けるかもしれませんが、大学寮が抱える人種意識の問題と、言語学者が提唱するアイデンティティの問題を通して、日本における英語の早期教育についての議論を考えずにはいられません。
小学校低学年に必修科目として英語を導入すると、母語(この場合は日本語)運用能力の低下につながると危惧する声があります。
関連の文献やニュースを見てみると、「母語運用能力の低下」とは、母語の文法の不正確さを指していることがほとんどです。
すなわち、小学校英語教育反対論者の主張の支えとなっているものは、言語的な懸念であると言えます。
この点、早期外語教育がその言語の習得に寄与し、母語習得にも影響はないと結論付けた先行研究があります。(これに対する反対論もあるため、それについては後述します。)
この理論を支持するとすれば、小学校英語教育についての議論に伴う言語面の論争は、一応決着がつきます。
私見では、懸念すべきは言語的事項ではなく、社会的・人格的事項であると考えます。ここで言う社会的・人格的事項とは、アイデンティティの確立を指します。
ロータリークラブの地区補助金奨学生の採用面接を受けたとき、早期英語教育のメリットとデメリットを尋ねられたことを思い出します。
情けないことに、そのときは、緊張と勉強不足のため、明確な回答をすることができませんでした。
渡英後、第2言語習得研究に触れることで、その質問への回答材料がある程度そろいました。
そこで、勝手を承知でこの場をお借りして、もう1度回答をさせて頂きたいと思います。
メリットについては、上述の通り、英語教育の時期が早ければ早いほどその習得が促され、母語運用能力が低下することもないということです。
したがって、早期英語教育には言語的価値があります。
これに対して、外語運用能力は母語運用能力と基盤を共有しているため、母語運用能力が不十分な段階で外語を習得しようとすると、セミリンガル(母語・外語共に欠陥がある人)になるとの主張があります。
確かに、それは理論上あり得るかもしれませんが、日常的に英語が使用されていない環境(この場合は日本)で英語を学ぶ場合にも同じことが言えるでしょうか。
実際のところ、1日のうちのたった45分もしくは50分で、母語運用能力に支障を来すほどインパクトのある授業を行うことは不可能でしょう。
加えて、外語と母語が同じ基盤の上にあるがゆえに、外語使用時に母語の影響を受けるとすれば、それは負の側面だけではないはずです。
英語を使用することで日本語の能力不足を自覚し、その結果、それが日本語運用能力の向上に寄与するということも十分考えられます。
二者択一の論争から抜け出し、外語教育の相乗効果に注目する必要があります。
日本語を巧みに操ることは相当難しく、正直なところ、私自身、正しい(ふさわしい)日本語が使えているかどうか自信がありません。
日本語の基礎を固めてから英語を学ぶべきとする観点では、英語を学ぶタイミングは、人によっては恐らく一生来ないでしょう。
そのような事態は、多様な価値観に接する機会を逃すことになるため、避けられるべきです。
言い換えると、外語との接触は、言語それ自体の能力向上だけでなく、その言語が使用される文化に触れる機会を得ることにもつながるため、その早期教育は検討するに値します。
一方、デメリットについては、外語教育がアイデンティティの崩壊を招くかもしれないということです。
上述の通り、言語は、特定の文化の間で使用される(文化の中で形成される)ものですが、言語そのものにも文化があり、それを使用することで特定の文化が形成される一面があります。
そう考えると、英語を学ぶことは、それまで築いた日本語によるアイデンティティを切り崩すことになるかもしれません。
特に、自己形成が発展途上の小学校低学年の生徒は、そのアイデンティティの切り崩し行為を比較的容易にやってのけるでしょう。
それが加速すると、前述した言語学者が言うところの「根無し草」になってしまい、自己を見失うことになりかねません。
こうした自己喪失状態は、同じく前述した人種差別思想などの問題に直面したとき、たちまち不利な立場に追い込まれます。
自身の主張の根底にあるアイデンティティが不確かなためです。
ややもすれば、現状放置の姿勢になりがちです。
この点、新たなアイデンティティを発見することで元のアイデンティティが失われるというように、減算的に考えるのではなく、それぞれのアイデンティティは共存し得るというように、加算的に考えることはできないのでしょうか。
現時点では、なげやりな言い方になりますが、それは現場の教師の腕の見せ所になるでしょう。この問題に取り組むためには、社会的・人格的側面に配慮した方法論の研究を進めることが課題となります。
バイリンガル教育の結果には2種類あります。減算的バイリンガリズム(subtractive bilingualism)と加算的バイリンガリズム(additive bilingualism)です。
減算的バイリンガリズムとは、2つ目の言語を習得する過程で母語を失うことを言います。反対に、加算的バイリンガリズムとは、母語運用能力を維持しながら2つ目の言語を習得することを言います。
言うまでもなく、日本の英語教育が目指すべきは、加算的バイリンガリズムです。ただし、それは言語的側面だけでなく、社会的・人格的側面でも実行される必要があると考えます。
日本語と英語を同時に学ぶ過程で、それぞれの言語を批判的に見ることができれば、異なるアイデンティティの共存が可能なはずです。
昨今、「グローバル人材」という言葉をいたるところで見かけます。それは多くの場合、多言語(multilingualism)に堪能な人材という意味で使用されているのが現状です。
もちろん、それは十分に価値が認められるべき存在なのでしょうが、私が思う「グローバル人材」は、言語運用能力が多少未熟であっても、アイデンティティを確立した、多文化(multiculturalism)を理解できる人材です。
最近、何のために言語を学ぶのかをよく考えます。言語は、言語学研究者のみが取扱い可能な専売特許ではなく、万人が自由に楽しめる道具であるはずです。
このため、学校教育における言語指導は、言語的側面と社会的側面の両方を意識して行われるべきだと思うのです。
その信念のもとでは、小学校低学年も大学生も平等です。全ての人種が平等です。
バーミンガム大学を卒業するまでの学びの中で、常にその両側面を意識して研究を進めていこうと考えています。
★ザ・フェイマス・グラウス

★バーミンガム市庁舎

★大学寮正面玄関
