goo blog サービス終了のお知らせ 

ロータリープロジェクトアーカイブ

国際ロータリー第2670地区(四国)におけるロータリーアンの奉仕プロジェクトをご紹介します。

2015年2月 月次レポート

2015-03-02 11:18:07 | 奨学生(地区補助金)
【2014-2015年度】地区補助金奨学生 木原 慎一朗さん(今治南ロータリークラブ推薦)

前ターム(Autumn Term)の成績が返ってきました。
英国で論文が採点されるのは初めてのことだったので緊張していましたが、3教科とも納得のいく点数がつけられていてほっとしました。
教授陣のコメントについては、今後の論文に生かせそうなものばかりで、今から今ターム(Spring Term)の論文課題に取り掛かるのを楽しみにしています。

英国の大学の成績評価では、100点満点中、50点以上が合格で、それより低いと落第させられます。
日本の大学で言うところの「優」「良」「可」のように、合格点の中でもランク付けがあり、50~59点が「pass(良)」、60~69点が「merit(優)」、70点以上が「distinction(秀)」となります。
「merit(優)」と「distinction(秀)」については、卒業証書に記載されるそうです。

このまま今の成績を維持すると、「with merit(優)」で卒業できそうなのですが、何とか「with distinction(秀)」で卒業できるよう、前ターム以上に気合をいれて勉学に励もうと思います。
今回の成績発表によって、モチベーションを上げることができました。

インターネットのブログに掲載されている日本人の英国留学体験記を読んでいると、ほとんどの日本人が、日本の大学と英国の大学のギャップに対して、衝撃を受けていることがわかります。
確かに、日本と比べると、英国に集う学生の国籍の豊かさには驚かされます。
しかし、授業での教授とのやりとりや学生同士のディスカッションの様子、論文の書き方はほとんど変わらないため、日本での経験がそのまま生かされていると実感しています。
違いと言えば、それらが全て英語で行われることくらいです。

実を言うと、留学前は、英国の大学は良くも悪くも自由放任主義で、研究の進め方は各学生の自主性に任せるというドライな姿をイメージしていたのですが、現実は全くその逆で、ある意味、過剰なほどに親切です。
授業で論文の書き方を指導するときは、まるでそれまで1度も論文を書いたことがない学生を相手にするように、手とり足とり進めていきます。
そのあまりの親切さに、拍子抜けすると同時に感動すら覚えました。
日本では、学部の段階でみっちり論文の書き方を叩き込まれますが、修士の段階で1からその指導をする大学院はほとんどないでしょう。
この英国流の文章指導が、私の今までの文章構成を再考するきっかけになっているため、非常に助かっています。

このような指導法は他の学生にも好評で、大学寮のフラットメイトも、試験や論文課題を無事に乗り越えられたようです。
安心したところで、皆でスコッチを飲みながら盛り上がりました。
中でもお気に入りは、「ザ・フェイマス・グラウス(THE FAMOUS GROUSE)」という銘柄で、スコットランドで最も人気の高いスコッチとして知られているものです。
ラベルには、スコットランドの国鳥である雷鳥(grouse)が印刷されています。
グラスゴー時代は、週末にクラスメイトとよくこの「ザ・フェイマス・グラウス」を飲んでいたので、スーパーマーケットに並んでいる雷鳥のラベルを見るたびに、懐かしい気持ちにさせられます。
日本同様、英国でもハイボールは人気ですが、ウイスキーはストレートが基本スタイルのようで、日本で水割りしか試したことがない私にとって、当初はかなり抵抗がありましたが、今ではその文化にも慣れてきました。
昨年、ウイスキーのガイドブックである「ワールド・ウイスキー・バイブル2015(2015 World Whisky Bible)」にて、サントリーの「山崎」が本場のスコッチを抑えて世界1のウイスキーに選ばれたことは、多くの英国人を驚かせました。
NHK連続テレビ小説「マッサン」の話題も相まって、日本でのウイスキー人気はますます過熱するでしょう。
ニッカウヰスキーの創業者である竹鶴政孝氏も学んだ思い出のグラスゴー大学で、「マッサン」の撮影が行われるのを心待ちにしています(残念ながら、このレポートの作成中にクランクアップしたようです)。

大学寮のフラットメイトの話に戻りますが、私のフラット(同一階)は、アジアからの留学生のみで構成されており、その国籍の内訳は、中国、台湾、インド、そして私を含めた日本です。
それ自体には何の問題もありません。ただ、気になるのは、大学寮のスタッフの間で、人種差別思想を持った人がいるかもしれないということです。
私が生活している大学寮は、1つの大きな建物の中で部屋が割り当てられる形式ではなく、敷地内に小さな建物が30棟ほど建ち並び、学生はまず各棟に配属され、そこからさらに部屋割りがされる形式です。
その内情はというと、欧米出身の学生とそれ以外の学生で、はっきりと棟が分けられています。実際、私が配属された棟に欧米出身の学生は1人もいません。
そのような要望を出していないにもかかわらずです。
しかも、大学寮の正面玄関を入って左右に棟が分かれており、左が欧米出身の「学生地区」、右が主にアジア出身の「学生地区」となっているため、
大学と寮を往復するだけの生活をしていると、敷地内で欧米出身の学生に会うことはほとんどありません。
敢えて人種について言及するとすれば、大学寮におけるコーカソイド(Caucasoid)、モンゴロイド(Mongoloid)、ネグロイド(Negroid)の学生の比率は、実感としてほとんど同じです。
そのような状況にあって、同一人種のみで固められている大学寮の現状を偶然として見るのは無理があります。
アジアの学生とは、いわゆる「無言の会話」が成立することが多く(私がそう思い込んでいるだけかもしれませんが)、お互いに楽と言えば楽です。
このようなこともあり、大学寮のスタッフとしては、むしろ気を利かせたつもりなのかもしれません。
私自身、個人的な侮辱を受けたわけではありませんが、あからさまな人種による区別をされると、あまりいい気持ちはしないものです。
もし、この状況が、本当に人種差別思想から来るものであれば、自身のアイデンティティをはっきりと確立させたうえで、強く主張・抗議しなければなりません。
自己が何者であるのかを把握し、立場を明確にしなければ、対立する相手との意志疎通を図るのは困難です。まして、それが英語となると尚更です。
ある言語学者は、「アイデンティティにしっかり根ざした言葉がないと、人は根無し草になってしまいます。」と警鐘を鳴らしています。

話が飛躍し過ぎとの批判を受けるかもしれませんが、大学寮が抱える人種意識の問題と、言語学者が提唱するアイデンティティの問題を通して、日本における英語の早期教育についての議論を考えずにはいられません。
小学校低学年に必修科目として英語を導入すると、母語(この場合は日本語)運用能力の低下につながると危惧する声があります。
関連の文献やニュースを見てみると、「母語運用能力の低下」とは、母語の文法の不正確さを指していることがほとんどです。
すなわち、小学校英語教育反対論者の主張の支えとなっているものは、言語的な懸念であると言えます。
この点、早期外語教育がその言語の習得に寄与し、母語習得にも影響はないと結論付けた先行研究があります。(これに対する反対論もあるため、それについては後述します。)
この理論を支持するとすれば、小学校英語教育についての議論に伴う言語面の論争は、一応決着がつきます。
私見では、懸念すべきは言語的事項ではなく、社会的・人格的事項であると考えます。ここで言う社会的・人格的事項とは、アイデンティティの確立を指します。

ロータリークラブの地区補助金奨学生の採用面接を受けたとき、早期英語教育のメリットとデメリットを尋ねられたことを思い出します。
情けないことに、そのときは、緊張と勉強不足のため、明確な回答をすることができませんでした。
渡英後、第2言語習得研究に触れることで、その質問への回答材料がある程度そろいました。
そこで、勝手を承知でこの場をお借りして、もう1度回答をさせて頂きたいと思います。

メリットについては、上述の通り、英語教育の時期が早ければ早いほどその習得が促され、母語運用能力が低下することもないということです。
したがって、早期英語教育には言語的価値があります。
これに対して、外語運用能力は母語運用能力と基盤を共有しているため、母語運用能力が不十分な段階で外語を習得しようとすると、セミリンガル(母語・外語共に欠陥がある人)になるとの主張があります。
確かに、それは理論上あり得るかもしれませんが、日常的に英語が使用されていない環境(この場合は日本)で英語を学ぶ場合にも同じことが言えるでしょうか。
実際のところ、1日のうちのたった45分もしくは50分で、母語運用能力に支障を来すほどインパクトのある授業を行うことは不可能でしょう。
加えて、外語と母語が同じ基盤の上にあるがゆえに、外語使用時に母語の影響を受けるとすれば、それは負の側面だけではないはずです。
英語を使用することで日本語の能力不足を自覚し、その結果、それが日本語運用能力の向上に寄与するということも十分考えられます。
二者択一の論争から抜け出し、外語教育の相乗効果に注目する必要があります。
日本語を巧みに操ることは相当難しく、正直なところ、私自身、正しい(ふさわしい)日本語が使えているかどうか自信がありません。
日本語の基礎を固めてから英語を学ぶべきとする観点では、英語を学ぶタイミングは、人によっては恐らく一生来ないでしょう。
そのような事態は、多様な価値観に接する機会を逃すことになるため、避けられるべきです。
言い換えると、外語との接触は、言語それ自体の能力向上だけでなく、その言語が使用される文化に触れる機会を得ることにもつながるため、その早期教育は検討するに値します。

一方、デメリットについては、外語教育がアイデンティティの崩壊を招くかもしれないということです。
上述の通り、言語は、特定の文化の間で使用される(文化の中で形成される)ものですが、言語そのものにも文化があり、それを使用することで特定の文化が形成される一面があります。
そう考えると、英語を学ぶことは、それまで築いた日本語によるアイデンティティを切り崩すことになるかもしれません。
特に、自己形成が発展途上の小学校低学年の生徒は、そのアイデンティティの切り崩し行為を比較的容易にやってのけるでしょう。
それが加速すると、前述した言語学者が言うところの「根無し草」になってしまい、自己を見失うことになりかねません。
こうした自己喪失状態は、同じく前述した人種差別思想などの問題に直面したとき、たちまち不利な立場に追い込まれます。
自身の主張の根底にあるアイデンティティが不確かなためです。
ややもすれば、現状放置の姿勢になりがちです。
この点、新たなアイデンティティを発見することで元のアイデンティティが失われるというように、減算的に考えるのではなく、それぞれのアイデンティティは共存し得るというように、加算的に考えることはできないのでしょうか。
現時点では、なげやりな言い方になりますが、それは現場の教師の腕の見せ所になるでしょう。この問題に取り組むためには、社会的・人格的側面に配慮した方法論の研究を進めることが課題となります。

バイリンガル教育の結果には2種類あります。減算的バイリンガリズム(subtractive bilingualism)と加算的バイリンガリズム(additive bilingualism)です。
減算的バイリンガリズムとは、2つ目の言語を習得する過程で母語を失うことを言います。反対に、加算的バイリンガリズムとは、母語運用能力を維持しながら2つ目の言語を習得することを言います。
言うまでもなく、日本の英語教育が目指すべきは、加算的バイリンガリズムです。ただし、それは言語的側面だけでなく、社会的・人格的側面でも実行される必要があると考えます。
日本語と英語を同時に学ぶ過程で、それぞれの言語を批判的に見ることができれば、異なるアイデンティティの共存が可能なはずです。

昨今、「グローバル人材」という言葉をいたるところで見かけます。それは多くの場合、多言語(multilingualism)に堪能な人材という意味で使用されているのが現状です。
もちろん、それは十分に価値が認められるべき存在なのでしょうが、私が思う「グローバル人材」は、言語運用能力が多少未熟であっても、アイデンティティを確立した、多文化(multiculturalism)を理解できる人材です。

最近、何のために言語を学ぶのかをよく考えます。言語は、言語学研究者のみが取扱い可能な専売特許ではなく、万人が自由に楽しめる道具であるはずです。
このため、学校教育における言語指導は、言語的側面と社会的側面の両方を意識して行われるべきだと思うのです。
その信念のもとでは、小学校低学年も大学生も平等です。全ての人種が平等です。
バーミンガム大学を卒業するまでの学びの中で、常にその両側面を意識して研究を進めていこうと考えています。


★ザ・フェイマス・グラウス


★バーミンガム市庁舎


★大学寮正面玄関

2015年1月 月次レポート

2015-01-30 10:15:05 | 奨学生(地区補助金)
【2014-2015年度】地区補助金奨学生 木原 慎一朗さん(今治南ロータリークラブ推薦)

新学期(Spring Term)が始まりました。
 
授業が行われるのは、このタームで最後です。
残りのターム(Summer Term)は、指導教授とマンツーマンで修士論文に取り組むことになります。

論文課題の提出から1週間の冬休みがありましたが、週明けの授業の予習範囲が既に発表されていたため、あまり気を休めることはできませんでした。

グラスゴー大学の友人の話では、新学期初めに前タームの試験があるそうです。
また、大学寮のフラットメイトも状況は変わらないようで、共有の台所で夜遅くまで勉強していました。
どうやら、学科によってスケジュールが違うようです。
短い冬休みでしたが、論文や試験のプレッシャーから解放された生活を送ることができたので、恵まれた状況だったと思います。

前ターム(Autumn Term)同様、授業は週3コマしかありません。
1つは、コミュニカティブ・ランゲージ・ティーチング(Communicative Language Teaching(CLT))に関する授業で、前タームで学んだ第2言語習得理論を実践に移すものです。
学期末には、チームで模擬授業(micro-teaching)をする予定なので、今からその準備に緊張しています。
2つ目は、学校の管理や経営に関する授業で、職員のストレス・マネジメントやリスク・マネジメント、大学の経営手法を学びます。
まさか、留学して経営学を勉強することになるとは思っていなかったため、新鮮さと同時に驚きがありました。
最後の1つは、社会言語学(sociolinguistics)の授業です(これについては後述します)。

文献を読むときやディスカッションをするとき、最も日本語訳に困るものの1つに「context」という英単語があります。
英和辞典を引いてみると、「前後関係、文脈、背景、状況」などが和訳例として出てきます。
英文に触れる際、この中では、「状況」が1番しっくりくることが多いのですが、同じ文章中に「situation」や「circumstance」、「environment」、「background」が出てくると、
ほぼ同じ意味になるため、日本語訳が適切かどうか、自信がなくなることがあります。
日本から持参した言語学の入門書を見てみると、そのままカタカナで「コンテキスト」となっていることが多いです。
意味としては、上述の「状況」や広義の「文脈」と解釈していいと思われます。
現在は、私もこの単語に出くわしたときは、とりあえず「コンテキスト」としておき、無理に日本語訳しないことにしています。

社会言語学の授業では、この「context」という単語が頻繁に使われます。
社会の中で言語が実際にどのように使われているかを追究する学問分野である社会言語学では、「context」を考慮することが不可欠です。
ある文献によると、「ほとんどの発話は、それがおこるコンテキストに関しての知識なくして、その意味、あるいはその意図していることを正確に理解することは不可能といってもいい。
このコンテキストだが、これはなにも言語的コンテキスト、つまり問題の発話の前後になにが話されているか、ということだけではない。
それに加えて、発話がおこっている実際の物理的状況、聞き手と話し手の間でその前にどんな会話のやりとりがあったか、また、今までの人生でおこった出来事のうち会話と関係があること、
当事者が正しいと思う行動のルール、世界がどのように機能すべきかということについての考え、などもコンテキストにはいってくるのである。」とあります。

関西学院大学の修士課程在籍時にも感じていたことですが、学士課程や語学留学と比べて、院生生活は孤独なものです。
授業のコマ数は極端に少なく、週のほとんどを自習に費やすためです。
もちろん、指導教授や同期の院生とのつながりはありますが、どうしてもコミュニティの狭さを感じてしまいます。
既に就職した友人の話を聞くと、その感覚はますます加速します。
世間の潮流に取り残されないようにするためには、自分から社会とのつながりを見つけていく必要があります。

この点、私の日本での専攻は知的財産法(特に商標法)であったため、ビジネス現場で直接かつ頻繁に使用される法律であることから、企業や公的機関に接する機会が多くありました。
実際、特許庁や日本音楽著作権協会、四国タオル工業組合、灘五郷酒造組合、企業(富士通、白鶴)の法務部などに訪問して、実務の問題を研究に取り入れることができました。

一方、言語学は、常にはそういうわけにいきません。
ともすれば、チョムスキー(Chomsky)に代表される生成変形文法や統率束縛理論のように、純粋に言語構造そのものの研究になり(決してこの学問分野に否定的見解を持っているわけではありませんが)、
言語が使用される「context」を意図的に排除することがあります。
現在、私が研究しているのは、言語学の中でも応用言語学(applied linguistics)という分野で、第2言語習得やその指導法に焦点を当てるものです。
そのため、社会とのつながりが自然とある程度確保されています。
しかし、理論研究を突き詰めていくと、社会とのつながりを断たざるを得ないときがあります。
そのような状況にあって、社会言語学は、上述の通り、社会の中の様々な「context」(対話者の関係、文化的背景、政治制度など)での言語運用の違いに注目する分野です。
したがって、社会とのつながりを無視した研究はあり得ません。

日本の就職活動市場では、文系の大学院生は選考に不利だという噂を聞くことがあります。
その理由の1つは、院生は独りよがりで協調性に欠けるからだそうです。
私の経験から言うと、この主張は真実ではありません。しかし、前述した院生生活の実態を強く反映していると言えます。
日本では、文系の大学院への進学者数は理系に比べて多くなく、大学院そのものがある種のベールに包まれています。
このため、採用担当者がそのような幻想を抱くことは、ある程度仕方がないことなのかもしれません。
ならばこそ、それを打ち砕くべく、院生は積極的に社会とのつながりを求める必要があると思うのです。
社会言語学との出会いは、私にそのことを再認識させてくれました。

この出会いに感謝すると共に、それを生かし、様々な「context」に適応できる人間になろうと思います。


★ニュー・ストリート


★雪のバーミンガム


★自習

2014年12月 月次レポート

2015-01-23 15:50:11 | 奨学生(地区補助金)
【2014-2015年度】地区補助金奨学生 木原 慎一朗さん(今治南ロータリークラブ推薦)

英国の冬の寒さはかなり厳しくなりました。

毎回見るのを楽しみにしていたリスは皆冬眠してしまい、代わりに大学寮の敷地内にキツネが出てくるようになりました。
野生のキツネを見るのは初めてのことで驚きましたが、現地学生にとってはやはり当たり前の光景のようです。

英国でクリスマスを過ごすのは今回が2度目です。
シティセンターで開かれるクリスマスマーケットはある程度賑わっていますが、こちらのクリスマスは日本のような派手なお祭りムードではありません。
24日、25日、26日はほとんどの店が閉まっています。
昨年のグラスゴーでは、そのことを知らずに食事に相当苦労しましたが、今年はそれを想定して買い溜めをしておいたので、静かなクリスマス休暇を乗り越えられました。

年末年始には、大学寮にいながら花火や大音量の野外ライブが聞こえてきました。
この点、正月をまったりと過ごす日本での生活と対照的でした。

残念ながら、今回のクリスマス、年末年始はイベントを満喫することはできませんでした。
というのも、12月初めから論文課題に苦戦しており、1月5日の締め切り当日まで自室に籠って書いていたためです。

しばらく論文の執筆から離れていたせいか、久しぶりの達成感を味わうことができました。
今ターム(Autumn Term)の成績(教授陣からのfeedback付き)が発表されるのは2月に入ってからなので、まだまだ不安と緊張は収まりそうにありません。

その課題の1つについてですが、非ネイティブの中学生を対象に、読書による偶発的語彙学習の効果を測定しました。
実験により、読書は無意識下の語彙構築に効果的であるとの結論が出ました。
しかしながら、特定の単語を記憶として定着させるために必要な読書量については、研究の余地を残しました。
すなわち、特定の単語が頻出する1冊の本を読めば、その単語を覚えることができるのか、
それとも、1冊の本に占める特定の単語の頻出性とその記憶に相関性はなく、記憶のためには多読が必要なのかという議論です。
先行研究によると、多読を支持する論文が多いようです。
ここで、日本の学校の英語教育について、私の経験を振り返ってみると、多読よりも1冊の本の精読を強く勧められていたと思います。
学校のカリキュラムを考慮すると、教室で多読を指導するのは時間的に無理があるのは理解できます。
ただ、あの時、文法解析の精度を落としてでも多読に取り組んでいたら、それは単語の暗記につながっていただろうかといろいろ考えます。
この語彙習得(vocabulary acquisition)に関するテーマについてはまだ研究の入り口であり、先行研究を追う段階なので、私自身の論を展開することはできません。
未開発分野を解明していくことを楽しみに、これからさらに研究に励もうと思います。

ここからは、研究の話から少し離れて、英国人(特に男性)の生活姿勢についてレポートさせて頂きます。
大学の教授陣とお話していると、度々「ジェントルマン(gentleman)」という単語が使われます。
昨年のグラスゴー・インターナショナル・カレッジ時代も、男性の教員はよくこの単語を使っていました。
文字通り、「紳士的であれ」という意味合いで使用されます。
日本でも、「英国紳士」という言葉は有名ですが、本場の英国では、それは意識したうえで成立する立ち居振る舞いであることを実感しました。
男性を指す代名詞には「he、his、him」がありますが、場合によっては「gentleman」が使用されることがあります。
特に深い意味はないのでしょうが、先日の授業にて、私に対して「gentleman」という単語が使われた際、なぜか非常に心地よい気分になったことを覚えています。
そして、実際に「gentleman」であろうという気持ちにさせられました。言語の分野において、言葉が先か、実体が先かということはよく議論されますが、言葉が実体を作るきっかけになることを意識した瞬間でした。

新しい年が始まり、もうすぐ新しいターム(Spring Term)が始まります。
英国の大学で勉強できる機会を大切にして、常に紳士的であるよう心掛けていこうと思います。


★大学生寮


★大学生協


★自室

2014年11月 月次レポート

2015-01-23 15:37:13 | 奨学生(地区補助金)
【2014-2015年度】地区補助金奨学生 木原 慎一朗さん(今治南ロータリークラブ推薦)

11週間の今ターム(Autumn Term)が終了するまであと少しとなりました。
授業は週3コマしかありません。一見、少ないようですが、1コマ180分の授業なので、日本の修士課程のそれと比較すると、かなりの集中力が要求されます。

1月初めに、各授業の論文を提出する予定です。
被験者にテストを受けてもらったり、アンケートに答えてもらったりしなければならないため、時間と労力がかかりますが、クリスマス休暇を楽しめるよう、こつこつ進めていくしかありません。

つい先日、第2言語学習(Second Language Learning)の授業で、最も効果が期待できる英語教授法は何かと尋ねた学生がいました。
私が所属するコースは英語教授法を研究するコースで、入学してくる学生は、ここで学んだことを自国の英語教育に反映させようと考えているため、そのような問いが出てくるのは当然のことです。
この問いに対し、教授は次のように答えました。
「これまで、多くの研究者が様々な英語教授法を提案してきたが、それぞれがある程度の効果を上げている。しかし、それも学習者の社会的もしくは教育的背景や環境が変わると、全く機能しないことがある。
したがって、普遍的かつ絶対的に効果が望める英語教授法は見つかっていない。だからと言って、研究を放棄してはいけない。
現在実施されている英語教授法は、過去の研究の積み重ねによるものであり、それによって現場のカリキュラムが改善されている。」

その教授は続けて言います。
「君たち英語教師は、教師であると同時に科学者でなければならない。常に問題意識を持ち、その改善に努め、その方法論を世間に公表する必要がある。
その公表した成果を批判されることによって、より優れた教授法を生み出すことができる。それが実務に反映され、よりよい社会を作ることができる。」と。

確かに、手っ取り早く最善の方法論を見つけたいその学生の気持ちは十分に理解できます。
しかし、教授の言うように、状況を考慮しない方法論に効果を期待することなどできず、それは巷に溢れる科学的根拠のない英語学習論と大差ありません。
実務色の濃いコースに所属していると、科学者としてあるべき姿勢を忘れがちになることがあります。
大学で研究するとはどういうことなのか、改めて考えさせられた瞬間でした。

国によるカリキュラムの違いを意識したのは、その時だけではありません。
前回のレポートにて、学校教育における教師/生徒間、生徒/生徒間のやりとり(interaction)について少し触れましたが、
あれからまた別の中等学校(Wheelers Lane Technology College)へ授業研究に行ったことで、言語教育に関する日本と英国の違いがはっきりと見えました。
英国では、外語学習として、主にフランス語、スペイン語、北京語のいずれかを勉強するようなのですが、たとえその言語の初級レベルの生徒であっても、その言語を使用して積極的に意志疎通することが求められます。
このような対人コミュニケーションによる言語学習の技法をコミュニカティブ・アプローチ(communicative approach)と言い、英国はこの技法を採用している学校が多いそうです。
この方法論が初心者の言語習得に寄与し得るのか疑問に思うところですが、先行研究によると、
初心者同士の意志疎通であっても、コミュニカティブ・アプローチによって、意味的にも文法的にも正確な言語を身に着けることが可能とのことです。
驚くべきは、ネイティブとの会話より、非ネイティブ同士の会話の方が、言語習得の効果が見込めるという研究もあることです。
重要なのはその理由です。非ネイティブが言語を習得するためには、その学習者にとって理解可能なインプットおよびアウトプット(comprehensible input、comprehensible output)が必要らしいのですが、
このインプットとアウトプットは、会話の中の意味交渉(negotiation for meaning)によって生じ、そしてその意味交渉は、非ネイティブ同士の会話で頻繁に観察されるようです。
この理論は、私自身の経験とほぼ完全に一致しているため、妙に説得力があり、納得させられました。
この研究結果が、多くの日本人にも適用されるとすれば、「生きた英語をネイティブ講師と一緒に学ぶ」とか「英語を身に着けるにはネイティブとの会話が1番の近道」を宣伝文句に掲げる英会話学校の意義を揺るがしかねません。
もちろん、これまでの研究が、ネイティブとの会話による言語習得を否定しているわけではありません。
経験則から見ても、細かなニュアンスや音声の習得、文化の理解については、ネイティブの貢献がかなり大きいと思います。

コミュニカティブ・アプローチの効果がある程度実証されているにもかかわらず、日本の学校教育になかなか導入されないのは、教育制度的側面と、多くの日本人の心情に関する側面が要因であると考えます。
日本の学校における英語教育の一応の最終目標が入学試験の突破であることを考慮すると、文法解析や長文読解に徹した教授法が望まれるのは当然の結果です。
スピーキングを試験科目に追加するべきとの主張もあるようですが、試験として採点する以上、結局のところ、文法の正確さを判断するものになることは目に見えています。
文法訳読法中心の教育の恩恵を受けて、今回の英国留学に至った私としては、これまでの日本の英語教育を否定するつもりはありません。
ただ、入学試験科目としての英語が、多くの日本人にとっての英語習得の障害の一因となっているということが、現時点での私の考えです。
コミュニカティブ・アプローチでは、アウトプットによって、自分の英語が相手にそのまま伝わります。
この点、日本人の心情として、自分の拙い英語が晒されることに抵抗を感じるのは無理もありません。
特に初心者同士だと、まともに意志疎通することは相当困難でしょう。
しかし、文法や発音の不正確さが相互の理解を阻害しているのであれば、上述の意味交渉で補うことによって、会話が成立し得ると思われます。
その際には、教師による足場かけ(scaffolding)が不可欠であるため、教師による訂正(corrective feedback)の種類とその効果を研究する必要があります。
「最初から正しく」ではなく、「最終的に正しく」話すことを目標に設定すれば、精神的に楽に英語学習に取り組めると考えます。
 
相互作用(interaction)同様、共通語としての英語(English as a Lingua Franca)についても、前回のレポートで言及しました。
これについて、私は、非ネイティブが意味交渉によって会話を組み立てていく英語であると解釈しています。
日本の英語教育に求められているのは、格好良く流暢にスピーチすることではなく、未熟ながらも相互に意志疎通の到達点を目指すことを促すことにあると思います。
 
今回のレポートは、第2言語習得論に関する先行研究を踏まえて書いたつもりですが、まだまだ私自身の根拠のない思い込みによる主張が多いのが現状です。
これについて、科学的根拠に裏打ちされた主張を提示することが、今後の研究課題です。

★教育学部棟


★大学図書館


★大学時計台

2014年10月 月次レポート 

2015-01-23 15:24:23 | 奨学生(地区補助金)
【2014-2015年度】地区補助金奨学生 木原 慎一朗さん(今治南ロータリークラブ推薦)

英国、バーミンガムに来て1ヶ月が経ちました。
スコットランドのグラスゴー・インターナショナル・カレッジ(2013年9月から翌年5月までの大学院進学準備プログラム)在籍時は、
頻繁に体調を崩していましたが、イングランドの生活は、昨年の生活環境とのギャップがほとんどないせいか、元気に毎日を過ごせています。

10月末でサマータイムが終わり、夕方5時にはほとんど真っ暗になります。
夜が長いと勉強も捗りますが、たまには息抜きでもと思い、つい先日、大学寮の近くで開催された花火大会に行ってきました。
花火と言えば、日本では夏の風物詩ですが、ここ英国では、どちらかと言うと秋・冬のイベントのようです。

私が通うバーミンガム大学は、赤レンガを基調とした校舎が建ち並ぶ緑豊かなキャンパスです。

バーミンガムは、産業革命の中心地であり、英国第2の都市として知られていますが、シティセンターのニュー・ストリートを少し離れると、このような田舎が広がっています。
この時期は、冬眠前の丸々太ったリスをキャンパス内でよく見かけ、その度に興奮して写真を撮っているので、そういう光景が当たり前の現地学生からは、奇妙な目で見られているかもしれません。


本題の研究ですが、現在、私は英語教授法(Teaching English as a Foreign Language (TEFL))を研究するコースに在籍しています。
実はこのTEFLは、英語学部と教育学部の2つに設置されています。
英語学部は、主に言語学の視点から英語教育を理論的に研究するコースで、教育学部は、第2言語習得に関する先行研究を踏まえ、教育学の視点から実践的に英語教育を研究するコースです。
私が在籍しているのは教育学部のコースで、様々な実地研修プログラムが用意されています。
例えば、大学周辺の小学校や中学校に授業研究に行ったり、博物館で学生向けに行われる講習の見学に行ったりします。
印象深いのは、日本の学校とも親交が深いロビンフッド小学校に訪問した時のことです。
その学校の教室は、生徒個人の学習机が用意されておらず、代わりに、5人掛けのテーブルが6つほどで構成されています。
ちょうど、一般的な日本の学校の理科室のような教室構成です。
この点、通常、各生徒に学習机が用意されている日本の教育と対照的です。
このテーブル構成を採用することにより、ロビンフッド小学校では、授業中の生徒間のやりとり(interaction)が盛んです。
加えて、授業の大部分が講義スタイルではなく、教師が各テーブルを順番に回って指導するグループワークスタイルであるため、教師と生徒の距離も比較的近いです。
このような学習形式と、日本で一般的に採用されている講義形式が、生徒に与える影響に違いはあるのか、
あるとすれば、どの側面でそれが観察されるかについて追究することが、今タームの私の研究課題の1つです。(これに加え、音読と黙読が記憶に与える効果の違いについても研究予定です)
日本の多くの修士課程は2年間ですが、英国は一般的に1年間であるため、ターム内の内容が濃く、正直なところ、必修文献を読むだけでも精一杯なのが現状です。
コースの特質上、同期は世界中から集まった英語教師(もしくは教師志望)であるため、いい刺激を受けながら、その課題をこなしています。
英国人は少数派で、それぞれの国の特徴的な英語に戸惑うこともあり、English as a Foreign Language (EFL)ではなく、
English as a Lingua Franca (ELF)として英語を捉えることの重要性を感じています。(これについては、今後の研究成果を踏まえて、次回以降で報告させて頂きます)

大変ながらも充実した毎日を送っています。
ロータリークラブの奨学生としての自覚を常に持ち、これからも勉学に精進する心構えです。
私が専攻する第2言語習得研究は、言語学、心理学、教育学、社会学、文化人類学、場合によっては脳科学からの知見が求められる学際的な分野です。
(白井恭弘(2008)『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』岩波書店より)
この視点を学問の世界に限定せず、日常生活にも広げ、物事を多角的に見ることができるよう、人間的にも成長していきたいです。