gooたら日記

日々のつれづれを気ままに

阪神淡路大震災のとき聴いた心に染みる歌

2005年01月30日 19時33分05秒 | 音楽
~1995年1月28日(土)の日記から~
 震災後、ずっとぼくはラジオ(おもに関西の民放AM局)を聞き続けてきた。ラジオの地震関連の番組の中で、いろいろな音楽が流れた。
 応援メッセージ風の、がんばれがんばれ!といった元気一杯の曲も多くかかった。被災者を励ましたいためなのだろうけれど、しかしこれはちょっと違うのではないかと思った。被災者の心境にそぐわないのではないか。もう少し後になってからならいいのかもしれないが、少なくとも今はまだ早い。歌っている側と、聴いている側との心のギャップがありすぎて、それを聴いた被災者たちはかえって打ちのめされるのではないか。被災者の心に染み込まないのではないか。僕が被災者だったら絶対聴きたくない、と思った。

 そんな中で、ひとつだけ心に染みた曲があった。それは中島みゆきの「時代」という曲だった。
 僕はそれまでこの曲にそれほどの関心を持っていなかった。
 ある民放の震災関連の番組の中で、被災者たちのためにボランティアで救援活動をしている、ある医師からのメッセージが読み上げられた。彼は現場のテントにラジカセを持ち込んで、救援活動に疲れたときの慰めに音楽を聴いていた。あるとき中島みゆきの「時代」がラジカセから流れた。現場の状況と歌の内容がオーバーラップして、思わず泣いてしまった……そんな内容だった。そしてメッセージ紹介のあと、その「時代」がラジオから流れてきた。

 今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて
 もう 二度と笑顔には なれそうもないけど

 そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ
 あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ
  
 はじめてぼくはこの曲に感動した。こんなに心に染みる曲だったのだ。
 まさに震災のためにつくられた曲のようだった。
 聴きながら僕も泣いてしまった、不覚にも。

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(この時以来、この曲が私にとって特別の存在になったのはいうまでもない)


梅にウグイス

2005年01月29日 14時20分35秒 | 季節の話題
 そろそろ梅の季節だ。
 梅の花にやってくる淡い緑色の小鳥をウグイスだと思っている人がけっこういる。実はこれはほとんどがメジロだ。ウグイスはもっと地味な茶色っぽい色の鳥。
 昨年も大阪城公園に梅見に行ったのだが、満開の梅の木に、おそらく蜜を求めてやってきたのだろう、けっこうたくさんのメジロたちが遊んでいた。
 梅見に来ていた人びとは、その姿に気づいて、口々に「あ、ウグイスやウグイスや!」と叫んでいた。
 昨日の夕刊の記事(2005年1月28日朝日新聞夕刊「花おりおり」)によると、梅とウグイスがセットになった歌は『万葉集』に12首、『古今和歌集』に3首、『山家集』に3首あるそうである。そんな昔から日本人は、「梅にウグイス」という組み合わせを刷り込まれているのである。間違えるのも無理はない。

阪神淡路大震災 10年前の日記から

2005年01月27日 23時17分21秒 | 地震
1995年1月27日(金) 死者5000人という数字に、このところ麻痺しかかっていたが、2百何十人の生徒、学生が亡くなったという報道に、改めてことの重大さを再認識させられた。

 朝刊「1月17日午前5時46分の証言」から。阪神高速を走行中、高架が横転し、車ごと11m下の地上に転落した西宮市、製菓工場勤務、Mさん(40)の話。
 「その瞬間、稲光が光り、空全体が白くなった。信じられへんかもしれへんけど、七色のオーロラのようなものが揺れて見えた。(以下略)」

 このところの僕は、得意先の人や親戚の人たちに「もうあんな大きな地震は来ない。本震よりも大きい地震は絶対に来ないから」と説得する側に回っている。みんなあの夜の恐怖が体に染みついているのだ。

 被害にあった人も、あわなかった人も、平凡な普通の暮らしがどんなに幸せなことなのかといいうことを、しみじみと噛みしめていることだろう。
 あれ以来、我々の心の中の何かが確実に変わってしまった。

 地震以来、暴走バイクが、まったくといっていいくらい鳴りをひそめている。他の車も夜になると、ほとんど走らない。街が静まりかえっている。バイクはともかく、車は少しくらい走ってくれないと、夜が寂しすぎる(特に今は)。みんな夜に脅えている。
 地震以来、昼も夜もひっきりなしに聞こえていた、2号線を神戸方面へ急ぐ消防車のサイレンの音が、今日はまったく聞こえない。深夜に聞くサイレンの音は不安感をあおるものだが、まったく何も音がしないというのもかえって不気味だ。

MS04-011_LSASS_EXPLOITをブロックしました

2005年01月27日 10時01分48秒 | インターネット
 ウィルスバスターを2005にバージョンアップしてから、「MS04-011_LSASS_EXPLOITをブロックしました」というポップアップメッセージが頻繁に出るようになった。ほぼ数分おきに出る。出るだけならなんとかガマンもするが、文章を入力中などの時は、そのたびに作業が邪魔されてイライラする。
 このメッセージのみ出さないようにする方法がサイトに書いてあり、そのとおりに設定し直しても、なぜかまったく効果がない。
 また、ポップアップをまったく出さないようにすることもできるが、それだと他の検出メッセージもすべて出なくなってしまう。これも不安だ。なんとかならないものか。

 検出メッセージが出るということは、そのたびにウィルスの攻撃を受けていて、それをウィルスソフトが鉄壁の守りで防いでくれているわけだから、心強い限りなのだけれど…。
 憎むべきはウィルスとそれをつくりだしたやつらなのだ。こんなものつくって何が楽しいのかね。

阪神淡路大震災 10年前の日記から

2005年01月26日 01時14分30秒 | 地震
1995年1月26日(木) 今朝のOBCラジオで、我が家の周辺の地域にも住宅の半壊などの被害があり、地元小学校に80人が避難しているとの報道。みんなの目は神戸などの被害の大きかった地域にばかり行き、こちらには救援物資も届かず、住民は怒っていると伝えていた。地元の僕も知らなかった。
 そこで僕は実際に被害の様子を見てみようと、午前中郵便局へ行ったついでにそのあたりを歩いてみた。地震後でははじめてだ。
 驚いたことに、道路に50センチもの段差がついてしまっているところもあるではないか。また、明らかに液状化現象の起こった後と見られる、乾いた白い細かい土に薄く覆われた路面があちこちに見られた。また、ほんのわずかに傾いた家や、腰の高さまでの壁がごっそりと落ちて、下地の板が露出している家もある。T小学校あたりでは、ガスも止まっているらしい。自分の住んでいる地域でこんな被害が出ているなんてまったく知らなかった。マスコミの情報だけで、すべてを知ったような気になっていたことに気がつく。
 その他、家からはやや遠いが、淀川の堤防も一部崩壊しているところもあったようだ。

 阪神電車は今日、甲子園からさらに青木(おおぎ)までつながった。

阪神淡路大震災 10年前の日記から

2005年01月25日 01時12分15秒 | 地震
1995年1月25日(水) 自宅マンションのエレベーターに閉じこめられた人は、新聞配達の女性で、今日配られた理事会の広報によると、レスキュー隊が出動して、7階の扉を壊して2時間後に救出されたそうな。そのため、7階はまだエレベータが使えない状態だという。

 西淀川区にもやっと地震計が設置された。
 今日23時16分、強い余震あり。神戸震度4、大阪震度3。早速西淀川の地震計の値が発表され、震度4と出た。神戸と同じではないか。
 表のベランダからいつも見えているお風呂屋さんの煙突が、今日は足場が組まれて、青いビニールカバーですっぽりと覆われてしまった。おそらく地震で一部損傷したのだろう。

映画「真珠の耳飾りの少女」を観た

2005年01月22日 01時41分51秒 | 映画
 サンケイホールで映画「真珠の耳飾りの少女/原題:Girl with a Pearl Earring」を観る。あの17世紀オランダの画家フェルメール(Vermeer)の「青いターバンの少女(Girl with a Pearl Earring)」を題材にとった、2003年イギリス/ルクセンブルグ制作の映画だ。
 この映画はフェルメールの絵の世界の見事な再現、ということにつきる。ドラマ展開にはやや不満もあるが、そんなことはどうでもよい。主役の少女をはじめ、絵の中の登場人物がそのまま動いているのだ! そしてあのフェルメール独特の光と影を忠実に再現した場面のなんと美しいことか(特に画室のシーンにおいて)。フェルメールファンにとってはおそらくそれだけで感動してしまうだろう。
 他にも「ミルクを注ぐ女(Kitchen Maid)」を思わせる場面など、あちこちに有名な絵のシーンが使われていて、ファンを喜ばせてくれる。

阪神淡路大震災 10年前の日記から

2005年01月22日 00時35分40秒 | 地震
 以下は10年前の今日の日記(一部省略)。
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1995年1月22日(日) 阪神大震災による死者、4915人(0時15分)。不明二百数十人。
 世界各国から救援物資が届けられ、救助隊も続々と駆けつけている。タイ、韓国からも毛布やインスタントラーメンなどの物資が届く。また、各国からのマスコミも続々と現地に入って被災地の現状を世界に伝えている。フランスのテレビは、家を失った人が泣き喚きもせずに前向きに生きていると伝えた。
 また地震後の秩序だった行動を見て、韓国のマスコミが感嘆していたという。つまり、韓国だったら、あの場合、奪い合いの喧嘩になるのだと。
 地震以来、なんだか体調がすぐれない。気分が重い。
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阪神淡路大震災 10年前の日記から

2005年01月17日 18時59分44秒 | 地震
 10年前の日記をもとに、当時を思い出しながら書いてみる。

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1995年1月17日(火) 
 私は徹夜仕事を終え、やっと午前4時頃に床についたばかりだったので、その瞬間は熟睡中だった。
 家人に揺り起こされたとき,すでに上下動の激しい振動が襲っていた。瞬間これは尋常な地震ではないと感じた。布団の上に上半身を起こした直後、今度はものすごい横揺れがきた。はじめて体験する激しい揺れだ。これは死ぬのではないかと思った。大げさでなく、生まれてはじめて死の恐怖を味わったのだ。これは私だけでなく、近隣に住む友人たちもみなそう思ったという。終わってみれば(私の住む地域では)たいした被害もなかったのだが、揺れている瞬間は次に何が起こるのか予想もつかないのだ。実際、もう少し震源が近かったらマンションは倒壊のおそれすらあったのだ。
 揺れている間は、布団の上に座って、薄闇の中で天井にぶつかるほど激しく揺れる電灯を見上げているだけだった。それしかなすすべがなかった。窓の外で青い閃光が2~3度ピカピカと光るのを見た。地震に伴う発光現象なのだろうか。

 揺れがおさまって我に返ると、布団の上にはタンスの上から落ちた衣装ケースが何個も転がっていた。タンスそのものでなくてよかった(このことがあってから、寝室をタンスの置いてない部屋に変えたのは言うまでもない)。窓の外は真っ暗で何事もなかったようにシーンと静まりかえっていた。まだ動悸が治まらない。
 すぐにラジオから地震の情報が流れはじめる。津波の心配はないという情報にほっと胸をなで下ろす。このときほど地震情報をありがたく思ったことはない。
 仕事部屋に置いてある懐中電灯を取りに行こうと、寝室を出る。何かが床に散乱しているようなので、足元に気をつけながら歩く。ただ、このとき停電していたのかどうか記憶にないのだが、懐中電灯を取りに行ったのなら停電していたということになる。このへんは少し記憶があいまいだ。
 仕事部屋のドアを開けようとするのだが、開かない。どうやらものが部屋中に散乱しているようだ。無理やりこじ開けて、なんとか机の引き出しから懐中電灯を取り出すことができた。

 リビングではテレビが床に転がっていた。食器棚から飛び出した食器が、粉々に割れて絨毯の上に散乱していた。醤油差しも割れて、醤油の匂いがあたりに漂っていた。

 私の住む地域は当初震度3と発表され、耳を疑ったが、さすがにあとで震度5(だったか?詳細は失念)に修正された。

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 このあとの日記もまた記載する予定です。