日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

狐塚古墳|山梨県笛吹市 ~謎ティックな形状の古墳~ 【近場のため油断していた甲斐歴史探訪⑨】

2019-11-29 19:53:14 | 歴史探訪


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 引き続き、古墳が連続しますよ。

 狐塚を見に行きましょう。

 実はこの古墳の場所は昨日の事前調査でもよく分からず、とりあえず近くを走って探してみようと思います。

 だいたいの場所は分かっているつもりなので、極力低速で走りつつ周囲に目を凝らしてみます。

 同じ地域を2周すると、墳丘らしきものを遠くに見つけました。

 邪魔にならない場所に雷電號を路駐させ、歩いて向かってみます。

 おー、見えてきた。





 しまった、こちらからは古墳へ近接できない・・・

 もう一度戻って違う道から近接を試みます。

 何か変な形だな。



 前方後円墳かな?

 墳丘に到着。



 おおっ、説明板はあるけど、かなりエグイ位置に・・・

 完全に木が邪魔している・・・



 普通はこんな場所に建てるはずがないので、もしかすると桜の木の方が後じゃないの?

 だとすると、桜の木を植えた人のセンスも不思議。

 斜め下から手を伸ばして撮影。





 あ、ここにも「蚕影山」。



 墳頂には小祠があります。



 墳丘から西側の眺望。



 中央道が走っていますよ。

 反対側の眺め。



 おや!

 何だお前!



 こちら側に前方部があったのか!

 しかもぴよーっと細長い。

 説明板が変な位置にあるためちゃんと読んでいなかったので確認してみます。

 なるほど、遠くから見て前方部に見えたのは後世の盛り土だと考えられているわけですね。

 いや、でもなんか変だなあ。

 説明板には「後円部は原形がほぼそのまま残されている」とありますが改変著しいし、5世紀の前方後円墳だとしたら前方部があまりにも貧弱です。

 下に降りて確認してみます。



 しかし不思議な形状の古墳だ。

 もし5世紀にするのなら、前方部が低いことから、帆立貝形古墳でもいいですが、そうすると帆立貝形としては前方部が異様に長い。

 突出するにも程がある。

 一度造った古墳を改造して再利用する「リサイクル墳」か?

 いや、前方後円墳に異様に長い造り出しを設けた他に類例のない古墳か?

 いやいや、この前方部は誰かがイタズラでくっつけたものじゃないの?

 謎だ・・・

 甲斐の古墳、面白いねえ。

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八代熊野神社|山梨県笛吹市 ~甲斐国熊野四所の第一霊場~ 【近場のため油断していた甲斐歴史探訪 ⑧】

2019-11-29 19:28:05 | 歴史探訪
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 小山城跡を見た後は古代の世界に戻ります。

 次は団栗(ずんぐり)塚古墳へ行きますよ。

 熊野神社が目印のようなので、ひとまず熊野神社を目指します。

 あった、これだな。

 境内の脇で雷電號から降りて古墳へ向かいます。



 うーん、それなりに大きいですが、何の変哲もない円墳という感じです。



 墳頂へ登ってみましょう。

 神様がいらっしゃいますね。



 大神社とあります。



 うーん、こんなもんかなあ・・・



 ※帰宅してから気づいたのですが、団栗塚古墳は、ここからもう少し北へ行った場所にあるようで、これは熊野神社境内で確認されている3基の円墳のなかの1基でした!

 つづいて、熊野神社へ参拝してみましょう。

 境内社の八幡社。





 熊野神社拝殿。





 本殿。



 本殿の脇にも円墳がありますね。



 説明板。



 ところで、今日は樹木の伐採作業を行っていますよ。



 説明板には御神木について書かれています。



 まさか御神木を!と思いましたが、ちょうど親方さんみたいな人が歩いてきたので尋ねてみると、朽ちかけていた杉を切ったそうです。

 おー、割竹型木棺が作れそう!



 その方は、御神木であるコウヤマキの方を見て、「あれも危ないんだけどなあ。でも御神木だからそう簡単に切れないよね」と話してくれました。



 私はコウヤマキというと、古墳時代前期においてもっとも豪華な木棺の素材という認識があります。

 百済の武寧王陵の木棺は日本産のコウヤマキ製ですし、武寧王自身も日本で生まれた可能性がありますが、韓国人の現地ガイドは日本人にはそういうことは一切説明しないらしいですね。



 なんか不思議な感じがする木だな。



 甲斐国第一!



 参道。



 では、雷電號へ戻りましょう。





 こちらも古墳でしょう。



 墳頂からの眺め。



 それでは引き続き、古墳探訪をします。

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小山城跡|山梨県笛吹市 ~穴山氏や南部氏が居城し鳥居元忠も守った~ 【近場のため油断していた甲斐歴史探訪 ⑦】

2019-11-29 18:45:36 | 歴史探訪
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 姥塚古墳の石室での感動の余韻に浸りながら、以前から気になっていた城跡へ向かいます。

 最近は城跡をメインとして歴史めぐりをすることはなくなりましたが、古墳を見に行った時に、時間があれば城跡も見ています。

 そのため、まったく訪れていないわけではなく、密かに探訪個所は微増しているのですよ。

 今回は小山城跡へ行って見ますが、なんでこの城が気になっているかというと、クラツーにて山梨県の古代史ツアーをやらせていただく際に、花鳥山遺跡というところをご案内します。

 実際には、花鳥山遺跡の見学時には強力な助っ人の方がいらっしゃって、私はほとんど何もしないのですが、その花鳥山遺跡という著名な縄文遺跡がある場所の近くは古戦場跡なのです。

 そのときの戦いに絡んで小山城が登場するので、以前から気になっていました。

 今度花鳥山遺跡を案内するときに、もし戦国に興味がある方がいればお話しできると思い、経験値を高めておこうと思います。

 でも多分、館のような小さな城なんだろうな・・・

 ほとんど期待せずに、カーナヴィに脳内を支配されつつ、小山城跡を目指します。

 位置的に近くなってきた場所で前方の丘の上を見ると、山城っぽい佇まいの場所がチラッと見えました。

 確かにこの先の道路は上り坂になり、途中から軽トラ道になっていきます。

 雷電號は軽トラじゃないのですが、結構平気にそういう道へ入っていくので慣れていますよ。

 地形的に見ても、もしかして期待できるかもしれない!

 そう思い、雷電號を進めていくと、虎口のような場所に到着し、空堀の跡のようなものも見えます。

 説明板もありますね。

 到着!

 雷電號を降りて探索開始です。

 ここは東側の虎口ですね。



 石碑。



 馬頭観音も移設してありますよ。



 そして説明板。



 文字が消されている部分は、昭和48年に当時の八代町指定史跡になっているのですが、笛吹市になったあと指定から外れたからではないでしょうか。

 穴山家というと、武田信玄に仕えて、のちに信長に降り、本能寺の変後の混乱で殺害された梅雪信君が有名ですが、信君に至る系譜は以下のようになります。

 義武 = 満春 = 信介 - 信懸 - 信風 - 信友 - 信君

 一方、武田家の系譜はこの通りです。

 信春 - 信満 - 信重 - 信守 - 信昌 - 信縄 - 信虎 - 晴信(信玄)

 穴山満春は武田信春の子ですが、穴山家に養子に入り家督を継ぎました。

 満春の次はこれまた武田信重の子である信介が養子として入り跡を継ぎました。

 この際に起きた事件が、説明板にある宝徳2年(1450)の件で、事件を巻き起こした穴山伊豆守(実名不詳)は、満春の実子だったとも言われており、自分を無視して養子である信介が跡を継いだことに腹を立てて、信介の実父である武田信重を攻撃して敗死させたといわれています。

 つづく永正の頃の信永は、信懸の子です。

 伊豆守の居城だった小山城がどういう経緯で信永が居城としたかは分かりませんが、大永3年(1523)に南部下野守が鳥坂峠を越えて進軍してきた際に、花鳥山で戦いがあったわけです。



 個人的に面白いと思うのは、その後は南部下野守が小山城を保持していたことです。

 南部氏といえば、江戸時代まで大名として残った北奥の南部氏が有名ですが、本貫地は甲斐です。

 北奥の南部氏については、以前かなり勉強したことがあって思い入れが深いのですが、その南部氏が小山城を保っていた時期があったんですね。

 甲斐の南部氏本家は武田信虎によって滅ぼされたと理解していたのですが、説明板によると天文17年(1548)年に晴信によって廃城の憂き目にあったということで、この時点まで南部氏はここに居城していたようなのです。

 では、城を歩いてみようと思いますが、いきなり郭の中に入るということはしませんよ。

 まずは周りからです。

 城跡を歩くときは、まっすぐ中核まで行かず、周辺をじっくり楽しんでから内部へ進んでいく方が楽しいですよ。

 土塁の外側の空堀。

 いいねえ。



 少し歩き、南側の角に来ました。



 土塁の上には東屋のようなものがありますよ。



 こちら側(南側)も土塁が切れていますね。



 ただし、説明板に書いてあったように、こちらの土塁は後世に削平してしまったようです。

 空堀。







 では、本来の出入口ではありませんが、ここから郭内に潜入しましょう。



 野球場として利用されているようですね。



 見た感じだと、ここは100m四方くらいの郭で、周辺に他の郭がないとしたら単郭で、虎口も普通の直線的な「玄関」のような感じですから、やはり、城というよりかは館のように思えます。

 ホームベース側まで進み、振り返ります。

 土塁が切れている箇所が2か所ありますが、左側が正規の虎口で、右側が私が侵入してきた削平箇所です。



 土塁へ登って眺望を確認してみましょう









 ※↑当日確認するのを忘れていましたが、物見塚といわれている「ごんばち塚」は右側に写っているものでしょうか。



 こちら側の東屋の中には、説明板に書かれていた礎石と思われるものがあります。



 土塁の上を歩いて東側の虎口まで戻りますよ。



 現在残っている土塁はかなり高さがあるのですが、「広報ふえふき」所収「笛吹市探訪」によると、土塁や空堀が大規模に修築されたのは、本能寺の変のあとに入ってきた家康家臣の鳥居元忠と三宅康貞による改修とのことです。



 また、郭は現在は真っ平ですが、少し前までは有段構造の形跡が残っており、この面積で、かつ土塁や空堀の規模が小さいとしたら、やはり穴山氏時代は城というよりかは館といった佇まいだったと考えられます。





 虎口まで戻ってきました。





 あっちが花鳥山遺跡の方向ですね。



 つまりは合戦があった場所です。

 リニアモーターカーの線路が見えますが、今年の3月21日に花鳥山遺跡をご案内しているときに頻繁に往復していました。





 いやー、小さい城でしたが土塁がでかくて楽しかった。

 東側虎口の外側から眺める盆地。



 では、またまた古代の世界へ戻りますよ。

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姥塚古墳と南照院および國立神社|山梨県笛吹市 ~東日本三大石室と言っちゃっていいですか?~

2019-11-29 15:47:27 | 歴史探訪
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 甲斐国衙跡を訪れ、朝食を食べたあとは姥塚古墳へやってきました。

 姥塚古墳はの南照院の境内にあります。

 本堂の後ろに見える山が古墳ですね。



 立派な本堂です。



 南照院は、慈眼山と号する曹洞宗の寺院です。

 まずは仏様にご挨拶しましょう。

 おや、寺門は丸十ですね。



 南照院は、慶長16年(1611)に今川平右衛門が開基となり、薩摩出身の僧・了室宗源が開山したといいます。

 開山僧が薩摩出身ということですが、もしかして島津氏所縁の人なのでしょうか。

 では、古墳へ向かいますよ。



 説明板を読みましょう。



 「東日本随一の横穴式古墳」と記されていますが、そんな凄い横穴式石室が甲斐にあるのでしょうか?

 石室が開口していますね。



 扉のような石は往時のものでしょうか?



 閉塞石といって、川原石などを積み上げて開口部を塞いだ場合は、ちょっと大変ですが数人でも取り除くことができますが、こんな大きな石で塞いでしまったら祭祀や再葬する際に開けるのが大変でしょう。

 ともかく、失礼いたします。

 ん・・・

 うわーっ、広!



 いや、さきほどの説明は嘘ではないですね!

 ゴメンナサイ、謝罪いたします。

 これは大きい石室です。

 天井も高い・・・



 ♪そーおーね、天井石ならルビーなの

 そんな言葉が頭に渦巻くほど、この石室の大きさは感動的です!

 扉の向こうにある玄室には入ることができませんが、写真だけ失礼させていただきます。



 聖観音が祀られています。

 いやー、いいねえ。

 ところで、石室のナンバーワンはやはり、馬子の石舞台だと思います。



 ※奈良県明日香村の石舞台古墳

 広瀬和雄先生曰く、「日本で唯一の金を払って見る石室」です。

 今年の4月に値上げして今は300円ですが、当然支払う価値はあります。

 大きさを見た場合、東日本の場合は、個人的には群馬県高崎市の観音塚古墳と埼玉県行田市の八幡山古墳がすぐに思い浮かびます。



 ※観音塚古墳の石室



 ※八幡山古墳の石室

 スペックを比較するとこんな感じ。

 姥塚 全長15m 羨道高さ2.5m 玄室高さはもっと高い
 観音塚 全長15.3m 玄室長7.1m 玄室幅3.4m 玄室高さ2.8m
 八幡山 全長16.7m
 石舞台 全長19.1m 玄室幅3.5m 玄室高さ4.7m

 もちろん、私が入ったことのある石室はほんの一握りなのですが、やはり石舞台は天井が高いせいか、非常に広く感じますね。

 石室の良さは、単純にスペースが大きいかどうかだけでなく、一個の石の大きさや石を加工したり積み上げたりする技術など、多方面から評価するべきですが、個人的には姥塚古墳の石室は、観音塚や八幡山と並べて「東日本三大石室」にしちゃおうかと思います。

 ※ちなみに、来年(2020年)2月22日(土)に、クラブツーリズムにて八幡山古墳の石室や埼玉古墳群のツアーをご案内しますので、興味があればこちらを見てみてください(他の日は私以外の講師の案内です)。

 それでは、外に出ましょう。

 墳丘の周囲を一周してみます。

 取り立てて、何かあるわけではないですね。



 南照院を跡にします。



 近くにある神社が気になるので、参拝してみようと思います。

 國立神社。



 村社ですから深い由緒がありそうです。

 これは「蚕」の字の難しい版かな?



 うわ、面白い!

 拝殿の前に立石がありますよ!



 これは何か、ひかれるものがある・・・

 本殿。



 境内社。



 では、次はちょっと気分を変えて、中世の城跡へ行って見ましょう。

 ※帰宅後、國立神社について調べました。

 山梨県神社庁のサイトによると、名称から想像できる通り、『甲斐国志』に国常立尊を祀るとあり、一説に国庁(国衙)に関連して創建されたそうです。

 ただ、面白いのは、同じ笛吹市の一宮町塩田にも国立神社があり、そちらは、国常立命とともに甲斐国造・塩海足尼が祀られているそうです。

 この日、本当は古墳まで車で行こうと思っていたのですが、どういうわけかこの神社の脇に車を停めたくなり、そこからわざわざ歩いて古墳まで行き、車に乗る前に参拝したのです。

 これはやはり、私は引き寄せられたに違いありません。

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甲斐国衙跡|山梨県笛吹市 ~考古学的には実証されていない推定地~

2019-11-29 14:33:17 | 歴史探訪
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 律令時代の代表的な遺跡としては国分寺跡以外にも国府跡や郡家跡、官道跡などがあります。

 今日は甲斐国の国分僧寺跡と国分尼寺跡を見たので、国府跡へも行ってみたいです。

 国府はときの政治情勢によって移転することがあり、例えば陸奥国は最初は7世紀後半に仙台市太白区の郡山遺跡がそうだったのですが、のちに724年に築城された多賀城へ移転します。



 ※仙台市太白区の郡山遺跡



 ※宮城県多賀城市の多賀城跡

 東北の場合は蝦夷との絡みもありちょっと特殊なのですが、相模国も2回引っ越したとの説もありますし、ここ甲斐国も2回引っ越したといわれています。



 ※神奈川県平塚市の相模国府跡

 つまり3か所が想定されるのですが、そのうちの一つが笛吹市内にあります。

 住所はズバリ「国衙(こくが)」。

 いいねえ。

 国府というのは律令時代の「国」の行政府で、今でいう県庁のようなものですが、そのなかで、幹部役人である国司らが政治を行う政庁とその周辺建物のことを「国庁」と呼び、国庁を含めその周辺の今でいう官庁街のことを「国衙」と呼びます。

 つまり、国府のなかに国衙があり、国衙の中に国庁があったと理解しておけばよいです。

 三重構造ですね。

 それでは、甲斐の国衙跡を探しましょう。

 昨日出発前に今日の準備はあらかたしてきたのですが、どうやら自作してきた地図にプロットした場所が間違っているようです。

 見つけられません。

 とりあえず、近くのローソンに車を停めさせてもらい、後で朝食を買うので、その前に周辺を歩いて調べてみます。

 こういうときは普段使わないスマホが大変役に立ちます。

 GoogleMapを見ながら住宅街を歩いて行くと、遠くに標柱のようなものが見えました。



 もしかして、あれかな?

 近接します。

 やはりそうでした!



 石碑の裏には説明が彫られています。



 倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)には、国府の所在地は「八代郡」とあることから、該書が記された平安時代中期の承平年間(931~938)には、国府はここにあったことが想定できます。

 ただし、石碑に記されている通り、ここに造られる前には先ほど歩いた国分寺の近くにあり、さらに遡ると笛吹市春日居町国府(こう)にあったという説があるわけです。

 しかし、ここもそうですし、どの場所も文献や地名、それに条里制地割からの推定であって考古学的には「不明」ということになります。

 なお、「甲府」という地名がありますが、現在の甲府の場所に甲斐の国府があったわけではなく、中世に時代が移り変わったあと、甲斐国の守護・武田信虎が躑躅ヶ崎館を領国支配の拠点にしたため、その地名が起こりました。

 歩いてきた道はこんな感じ。



 では、ローソンに戻り、朝食を買います。

 寒い中行動していると、こういうものが食べたくなるんだな。



 最近のお気に入りの一つで、掃除の仕事の時もたまに食べます。

 自分の記録を見ると、麺屋武蔵は、2011年9月29日に千代田区周辺の神社めぐりをしていた際に秋葉原でつけ麺を食べたことが史実として実証できます。





 身体が温まったので、探訪再開!

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亀甲塚古墳|山梨県笛吹市 ~本当は前期の前方後円墳か~

2019-11-29 13:43:00 | 歴史探訪


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 甲斐国分僧寺跡を見学した後は、今度は亀甲塚(かめのこうづか)古墳を探しに行きます。

 律令時代と古墳時代を行ったり来たりですね。

 タイムマシンを使わなくても、私は脳内タイムトリップができるので便利です。

 さて、亀甲塚古墳ですが、見つけることができるかなあ。

 果樹園の中にあるようなので、ゆっくり雷電號を走らせながら果樹園内を注視します。

 あった!

 でも普通に果樹園内なので、入っていくのが憚られます。

 ところが、遠くを見るとちょうど作業中の方がいらっしゃいました。

 土地の方の姿があった場合はきちんと断って見させていただくことができるので逆にありがたいです。

 許可をいただいたので見させていただきます。



 頂部が平になっているのは、後世の削平でしょう。

 円墳のように見えますが、名前が「亀甲塚」なので、通常、「亀」と付く場合は前期の前方後円墳や前方後方墳です。

 前期の前方後円墳や前方後方墳は、後円部(後方部)と前方部との高低差が激しくて横から見た姿が亀のように見えるため、そういった名前になることがあるのです。

 前方部のようなものが見える。



 近くで見てみよう。



 うーん、微妙・・・

 いや、でも、可能性はあるな・・・

 山梨県のHP内の「遺跡トピックスNo.0264亀甲塚古墳出土の碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)」には、

 「1975(昭和50)年には墳丘の測量が行われましたが、不正形な楕円形をしており、造られた当時、この古墳が円墳なのか、帆立貝式の前方後円墳なのか、その形は現在も不明のままです。古い写真を見ると、方墳のようにも見えます。」

 とあります。

 また、築造年代は一般的に5世紀前半と言われているのですが、同ページによると、出土した碧玉製管玉の分析によって、古墳時代前期の築造と考えられるとしており、私も亀甲塚はその名が示唆している通り元々は前方後円墳で、その築造時期は前期だと考えます。

 面白いねえ、謎の古墳。



 道路側には標柱があります。



 でも、説明板はありませんよ。

 作業をしている方にお礼を言って立ち去ります。

 つづいて、またまた律令時代。

 甲斐の国衙跡へ行って見ます。

 ※後日註:『帝京大学文化財研究所研究報告第19集』所収「山梨県笛吹市亀甲塚古墳の研究」(櫛原功一/著)をもとに補足

 該書によれば、墳形に関しては「現段階で言及するのは厳しい」とするものの、「あえて推測するならば」として、内径32mの周溝の内側に直径25m以上、高さ4m程度の後円部をもつ全長40m以上の前方部が低平な前方後円墳と考えられるとしています。

 そしてその築造時期は、3世紀後半から末としています。

 甲斐最大の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳がある中道地域では、上の平遺跡の方形周溝墓群が造られた後、小平沢古墳(甲斐唯一の前方後方墳)、天神山古墳、大丸山古墳、甲斐銚子塚古墳というふうに首長墓系列が復元できますが、亀甲塚古墳は小平沢古墳と同時期と考えられ、近辺には岡銚子塚古墳という墳丘長92mの大型前方後円墳もあることから、中道地域とは別系統の首長墓系列があったと考えることができます。

 つまり、笛吹市域にも有力な首長が存在したということで、彼が甲府盆地内でどのような地位にいたのか、ヤマト王権とどのような関係にあったのか、そういうことを考えてみるのも楽しいですね。

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甲斐国分寺跡|山梨県笛吹市 【近場のため油断していた甲斐歴史探訪 ③】

2019-11-29 13:07:39 | 歴史探訪
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 八角墳の経塚古墳を見て勢いづき、国分僧寺跡へやってきました。

 さきほど行った国分尼寺跡のすぐ南側にありますよ。

 原則として、僧寺と尼寺は歩いてすぐに行ける場所にありました。

 こちらも駐車場らしきスペースがあります。

 では、探訪開始。

 説明板。



 往時の想像図。



 もう一つ説明板。



 伽藍配置はこのようになっていました。



 おや、この小屋は何でしょうか?



 ボランティアガイドの方たちの詰め所でしょうか?

 誰もいないようです。

 まだ8時だし。

 でも看板が剥がされかかっているので現在は機能していないのかもしれません。

 さて、僧寺跡を見渡すと、段々に造成されているのが分かります。



 それらのほとんどは往時の基壇とかではなく、近代以降の農耕の際に造ったもののようで、その間には水路もあり、ある種の迷路のような状況になっています。

 まずは塔跡へ向かいましょう。

 礎石が残っていますよ。



 国分寺跡でもっとも好きなのは、やはり塔跡ですね。

 ここには寺院の中でもっとも重要な塔が経っていたのです。

 国分寺の場合は原則として七重塔ですが、もしかすると五重塔が建っていた国があったかもしれません。

 甲斐は七重塔かな?



 ここはちゃんと塔心礎もありますよ。



 標柱が見えるので行ってみましょう。



 国分僧寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」ですが、それを山号にしているのでしょうか。



 だとしたらやたら長いな。

 南側の参道入り口のような佇まいです。



 ただし、この場所は南門と中門の中間あたりに位置し、南門跡には何もないようです。

 中門跡へ来ました。





 門跡の礎石もある。



 おや、西側遠くにお坊さんの墓らしきものが並んでいますよ。



 説明板のようなものが見えるのでズームで撮影。



 倒れかかっていますが、説明は読めます。

 一人で強盗3人を相手にしたというのも凄いですが、彼らに金を渡して悔悛させたという話もカッコいいですね。

 金堂跡へ来ました。





 礎石だったものなのか、何か分からない石がたくさんあります。



 金堂跡から塔跡を眺めます。



 ♪塔跡、キャーラメールコーオーン。

 妙なフレーズが頭をよぎりますが、塔跡、かなり近いな。

 甲斐国分僧寺の伽藍配置は先ほど示した通りで、中門と金堂が回廊で接続され、その内部に塔を置く大官大寺式の伽藍配置なので、このプランを採用すると自然と金堂と塔は近くなってしまうのでしょう。

 金堂跡の北には講堂跡があります。









 おや、何やら祭祀の形跡がありますよ。



 こういった祭具を使用した祭祀が律令時代の国分寺跡であったということは寡聞にして知りません。



 講堂跡から金堂跡を見ます。



 ここから道路を北上していくと、先ほど訪れた尼寺跡に着きますよ。



 説明板が見えるので確認しに行きましょう。



 僧寺跡と尼寺跡の位置が確認できますね。



 さて、甲斐国分寺跡も意外と見ごたえがありました。

 山梨県の遺跡整備のプランを考えている方から聞いたのですが、国分寺跡はもっと整備したいのですが、なかなか手が回らないとのことでした。

 全国を見渡すと、武蔵とか伊勢とか整備を積極的にやっている場所もあるので、ぜひとも甲斐にも頑張って欲しいですね。

 でも今日歩いた感じでは、新しい目の説明板もあるので、整備に向けて何とかしようとしている雰囲気は感じ取ることができました。

 では、続いてまた古墳を見に行きますよ。

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経塚古墳|山梨県笛吹市 ~中部地方で唯一の八角墳~

2019-11-29 12:18:22 | 歴史探訪


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 国分尼寺跡を見学した後は、経塚古墳へ向かいます。

 経塚古墳は「どんぐりの森」という公園の中にあるようなので、公園の横の道を注意深く走らせていると、墳丘が視界に飛び込んできました。

 あれに違いない。

 適当な場所に雷電號を停め、確認しに行きます。

 あった、あったねえ。



 立派な説明板がありますよ。



 超珍しい、八角墳だ!



 大きさは13mということなので、決して大きいわけではありませんが、八角墳というところが凄いのです。



 石室が開口していますよ!



 覗き込むと入ってすぐの場所にフェンスが見え、お邪魔できるのは羨道の入り口付近までのようです。



 開口部をサイドから見ます。



 説明板には周溝については書かれていませんが、一瞬、周堤のように見える土の高まりがあります。



 でもこれは違いますね。

 では、石室内にお邪魔いたしまーす。

 と言ってもここまでです。



 カメラを突っ込ませていただき、中を撮影。







 石室内を撮ったときは、その場で画像の確認をするときにちょっとドキドキするんですよね。

 被葬者、写ってないかなって。

 外に出ましょう。

 八角形を忠実に復元しており、このように角がちゃんとあります。



 ところで、八角墳のどこがいったい凄いのでしょうか。

 八角墳として有名なのは、天智天皇の墓といわれている京都市の御廟野古墳や天武天皇と持統天皇の合葬墓といわれている奈良県明日香村の野口王墓古墳などがありますが、八角墳はこのように天皇の墓に特別に採用された形状であることが分かります。

 ただし、八角墳は絶対に天皇の墓というわけでもなく、関東では東京都多摩市に稲荷塚古墳があり、実際にはこの形状の古墳の持つ意味は良く分かっていません。



 ※多摩市の稲荷塚古墳

 でも数だけ見れば非常に珍しいことは確かであり、全国で20もないはずなので、その他大勢の円墳とは一線を画していることは確実です。

 この古墳の被葬者は7世紀の甲斐の最有力者であることは間違いないでしょう。

 ところで、八角墳は原則として前方後円墳が築造されなくなった7世紀のいわゆる古墳時代終末期に登場しますが、同じく終末期の上円下方墳との関係が注目されます。



 ※東京都府中市の上円下方墳・武蔵府中熊野神社古墳

 上円下方墳も非常に珍しい格式の高い古墳ですが、もともと八角墳には基壇があるものとないものがあり、基壇がある方が上位です。

 その基壇がある八角墳のバリエーションとして、上円下方墳が築造されたと考える研究者がいます。

 八角墳の基壇に関しては、畿内の天皇や貴族たちの八角墳は立派な基壇があるため、同じ八角墳でも経塚古墳はランクが下がることは確かですが、何度も言う通り八角形であることが重要なのです。

 でも・・・

 八角墳の意味は誰にも分からない・・・

 四の五の言わず、私が「凄い」と言っているのだからそれを信じなさい!

 頭が悪くて済みませんが、次はまたまた律令時代に戻って、国分僧寺跡へ行って見ますよ。

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甲斐国分尼寺跡|山梨県笛吹市 【近場のため油断していた甲斐歴史探訪 ①】

2019-11-29 11:21:48 | 歴史探訪
 いつもは高速料金を節約するため、4時前には高尾山ICを通過するのですが、本日は下道で行くため、いつもよりゆっくりの5時の出発です。

 今日は甲州も天気があまり良くないとのことですが、今日を逃すと他の日が取れない可能性が高いため、天気は気にせず歴史探訪を楽しんでこようと思います。

 甲州へは国道20号線をひたすら走っていけば到着しますが、途中の看板に「大月~初狩間 29日正午復旧」というような表示があり、だとすると甲州街道は先日の台風のあと、まだ全通していないということですよね。

 しまった。

 台風襲来からかなり日が経っているため、そんなことは考えても見なかった。

 まあとりあえず行きましょう。

 大月まで来ると「迂回路は中央道」と書かれた看板が立っています。

 地図で確認すると、下道で行くとしたら河口湖の方から回らなければならず、ちょっと遠いですね。

 仕方がない、予想外の出費ですが、勝沼までの一区間だけ高速を使いましょう。

 大月ICから入り、初狩PAで少し時間調整をして、再度出発。

 雷電號で高速を走るのも今日が最後か・・・

 ディーゼルターボはかなり馬力がありますよ。

 多分、運転してみると分かりますが、コンパクトカーとは思えないはずです。

 この車を失うのは本当に惜しい・・・

 感傷に浸る暇もなく勝沼ICを出ます。

 人間がいるゲートに行くのも久しぶりだな。

 料金を払おうとしたら係の人に「今日は一日無料です」と言われました。

 そっか、道路の場合も電車の振替輸送のようなことがあるんですね。

 助かったー。

 現金だと片道700円ですからかなり大きいです。

 というわけで、最初にやってきたのは甲斐国分尼寺跡です。

 時刻は7時15分。

 特段、「駐車場」とは書いていませんが、それらしいスペースがあったので駐車して探訪を開始します。

 大型はスペースが全部空いていれば止まれますが、ここにバスで来るのはきついかな。

 説明板があります。



 私は国分寺大好き人間ですが、既述した通り、甲斐はいつでも行けると思っていたため、今日は初めての探訪となります。

 全体図を拡大。



 では、いつものやり方と同じく、まずは北門か南門から抜けていったん外へ出ます。

 今日は北門跡へ行きましょう。

 形跡や説明は何もないですが、この辺が北門跡ですね。

 ここからスタート。



 この方向を見ると、国分尼寺の向こう側(南側)に国分僧寺があります。

 草地に入り少し歩くと基壇のようなものがあり、礎石が並んでいます。



 ここは講堂跡ですね。



 説明板に書かれている通り、礎石が残っています。

 この南側には金堂跡が展開しています。



 こちらも説明板があります。



 金堂跡も礎石の残りがいいですね。



 金堂跡からさらに南側の僧房があったあたりは民家になっていて何か見れるものはないようです。

 金堂跡から東側を眺めてみます。



 天気が良ければきれいな紅葉が見られたでしょう。



 それほど気温は低くないはずですが、やはり早朝は寒いですね。

 でも、とりあえず雨が降っていなくてよかった。



 北側の風景。



 甲斐国分寺があった場所は甲府盆地の東側で、尼寺跡のすぐ北側には国道20号が東西に走っており、東原交差点から南下するとすぐこの場所に来れます。

 笛吹川の本流は北西方面にあり、国分寺の西側にはその支流の金川が流れ、東側は同じく田垂(ただれ)川が流れており、大雑把に言うと、北・東・西は川で、南は山ですから、国分寺でありがちな四神思想に合う立地ではありませんね。



 道路側に標柱があります。





 ここに書かれている通り、尼寺跡は僧寺跡に比べて遺跡として分かっているものが少なく、こうやって礎石や基壇跡が確認できる場所は少ないですよ。

 そういうこともあり、甲斐国分尼寺跡は貴重な存在です。

 では普通ならこの次は僧寺跡へ行きますが、その前に古墳を一つ見ることにしましょう。

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