日本史大戦略 Side-B 附 歴史を歩こう協会 ~日本各地の古代・中世史探訪~

『日本史大戦略』のB(Blog)面です。城・館・古墳・古道・官衙・国分寺・神社・寺院・民俗・エミシ・南部氏・後北条氏など

【クラブツーリズム】稲用章のツアーおよび座学講座の予定(10月20日更新)

2019-10-20 22:25:36 | 作者プロフィール詳細

 クラブツーリズムでの私のツアーは、通常はカタログ「歴史への旅」(奇数月の10日に発行)に掲載され、座学の講座はカタログ「旅の文化カレッジ」に掲載されますが、それ以外の媒体に掲載されることもあります。

 そういったこともあり、こちらのページに現在分かっている範囲でツアーと講座の情報を掲載します。

 また、予定は組まれていてもまだ正式に発表していない、かなり先のツアーを掲載している場合もあります。

 このページは不定期に更新するため、更新頻度によっては実際の状況と齟齬が発生するかもしれませんので、正確な情報はクラブツーリズムにてご確認をお願いいたします。

 

■ツアー

コース番号シリーズ名
タイトル(クリックするとクラツーの該当ページを表示します)
日程催行状況
40453 日本列島旧石器時代発見の地・岩宿遺跡と東日本最大の前方後円墳・太田天神山古墳 日帰り

※このツアーはテレビ東京「旅スルおつかれ様」にて放送されたツアーです。
11月17日(日)
12月12日(木)
1月12日(日)
催行決定
受付中
受付中
40469 古代出雲の王墓「よすみ」と伯耆を代表する弥生遺跡・妻木晩田遺跡 3日間 10月25日(金)~27日(日)
催行決定
40455 流域の古代史⑭ 阿賀野川編
新潟から会津へ 古津八幡山遺跡・会津大塚山古墳 2日間
11月2日(土)~3日(日)
催行決定
40458 流域の古代史⑧ 渡良瀬川編
栃木県内最大の前方後円墳・吾妻古墳と国内屈指の巨大円墳・車塚古墳 日帰り 
11月24日(日)
受付中
40459 奈良・纏向遺跡を訪ねる 2日間 11月30日(土)~12月1日(日)
催行決定
40456

流域の古代史⑮ 木曽川・庄内川編
邪馬台国時代の東海の王墓・東之宮古墳と濃尾の古墳三昧 3日間

12月6日(金)~8日(日)

受付中
40463

謎の女王「卑弥呼」と九州に残る邪馬台国「吉野ヶ里遺跡」 3日間

12月13日(金)~15日(日)
1月17日(金)~19日(日)

受付中
受付中
40457 流域の古代史⑯ 養老川・小糸川編
内房航路掌握を目論むヤマト王権の橋頭保・神門古墳群と千葉県最大の前方後円墳・内裏塚古墳 日帰り
12月22日(日)
受付中
  これ以降のコースは11月10日に発表します!

 

 

 

■座学講座

 クラブツーリズム本社が所在する西新宿のアイランドウイングにて座学講座もやっています。

 講座会場:東京都新宿区西新宿6丁目3番1号 新宿アイランドウイング ※何階のどの部屋で開催されるかは当日現地でご確認ください

 

 以下に、「旅の文化カレッジ」8月10日号の一部を掲載します。

 本講座では、歴史や遺跡を楽しみたい方向けに初歩的な知識や遺跡の楽しみ方のコツなどをお話ししますので、例えば、「日本書紀って何だろう?」とか、「古墳って何だろう?」という方が聴いてくださるとありがたいです。

 そういう基礎的な話にマニアックな話や稀にエグイ話を織り交ぜて、退屈せずに聴いていただけることを主眼としています。

 例えば、テレビ番組で言えば、お勉強を兼ねたエンタテイメント番組のような感じです。

 ですので、より学術的で高度な内容だったり、ある対象に関して非常に細かい内容をお望みの方は大学の講義などへのご参加をお勧めします。

 今まで受講してくださったお客様からは、

 ・刺激的な内容で面白かった

 ・説明が分かりやすい

 ・断片的だった知識が繋がってきた

 ・90分があっという間に過ぎた

 ・この内容でこの受講料は安い

 ・家でテレビを見ているより面白い

 ・これはテレビでは放送できない内容だよね

 などのお声をいただいています。

 現在は下記の通り、5種類の講座を行っています。

 【その1】「さかのぼって学ぼう 東北の古代史・中世史」は、あまり知られていないであろう東北地方の歴史を16世紀末の「九戸政実の乱」から始めて、旧石器時代まで毎回時代を遡りながら解説する講座で、全15回の予定です。

 ⇒「さかのぼって学ぼう 東北の古代史・中世史」の詳細・申し込みはこちら(クラツー公式サイト)

 【その2】「日本書紀を紐解き古代史を探ろう」は、とっつきにくいイメージのある『日本書紀』を丁寧に解説し、日本の古代史の謎について想像を膨らませて楽しんでいただく講座で、古墳の話も多くします。全20回の予定。

 ⇒「日本書記を紐解き古代史を探ろう」の詳細・申し込みはこちら(クラツー公式サイト)

 【その3】「遺跡で見る関東の古代史」は、関東地方の旧石器時代から奈良時代までの歴史を遺跡の話を中心にしながら解説する講座で、全12回の予定です。

 ⇒「遺跡で見る関東の古代史」の詳細・申し込みはこちら(クラツー公式サイト)

 【その4】「陰謀の都・奈良 続日本紀講座」は、「日本書紀」の続編である「続日本紀(しょくにほんぎ)」をベースに奈良時代の歴史を解説する講座で、全20回の予定です。

  ⇒「陰謀の都・奈良 続日本紀講座」の詳細・申し込みはこちら(クラツー公式サイト)

 【その5】「古代中国史」は、日本の古代史を考える上では知っておいた方がより歴史を楽しめるであろう同じ時代の中国や朝鮮の歴史を解説する講座で、全12回の予定です。

  ⇒「古代中国史」の詳細・申し込みはこちら(クラツー公式サイト)

  なお、各講座とも興味のあるテーマの回だけのご参加も歓迎いたします。

 

■「流域の古代史」シリーズ

 ① 多摩川編

 

 ② 多摩川編Ⅱ

 ③ 多摩川編Ⅲ

 (画像準備中)

 ④ 相模川編

 ⑤ 那珂川・久慈川編

 ⑥ 那珂川編Ⅱ

 ⑦ 相模川編Ⅱ

 ⑧ 太日川編

 (画像準備中)

 ⑨ 利根川編

 ⑩ 笛吹川編

 (画像準備中)

 ⑪ 利根川編Ⅱ

 ⑫ 荒川編

 (画像準備中)

 ⑬ 阿武隈川編

 (画像準備中)

 ⑭ 阿賀野川編

 (画像準備中)

 ⑮ 木曽川編

 (画像準備中)

 

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【石見・出雲歴史探訪 その2】ロマンティックが止まらないけど今日のところは何も語れない出雲大社【島根県出雲市】

2019-10-18 19:34:17 | 歴史探訪
 今週の火曜日は、クラツーにていつもの講座をやらせていただき、15名様のご参加をいただきました。

 また、水曜日は同じく講座で、38名様のご参加をいただきました。

 台風の影響で大変な状況の方もいらっしゃいますが、皆さまご参加ありがとうございました。

 今月は今日が18日ですが、これまで講座をやった日が2日、お掃除で出勤した日が2日しかなく、あとは先週末の福島の古代史ツアーが中止になったこともあり、ずっと自宅で仕事をしています。

 自宅で仕事をしていると、母からは「あれ?今日は休みなんだね」と言われるし、前妻からは「家での作業は仕事として認めない」と言われた経験もあり、遊んでいるように思われるようです。

 それは誤解だ!

 私の場合、歴史の仕事は仕事でありながら楽しくて仕方がないわけで、傍から見てると趣味をやっているように見えるんでしょうね。

 自分自身は明確に仕事だと意識して作業をしていることが多いわけですが、趣味で遊んでいるつもりでも結局、仕事に関係することをやっていることが多く、家にいて仕事とまったく関係ないことと言ったら、ギターを弾くことくらいだと思います。

 それもいずれ仕事になったりして・・・

 まあそれは冗談としても、それくらいの領域にまで高める努力は怠りませんよ。

 ギターの練習、超楽しい。

 それでは、前回の記事の続きをお届けします。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 ご先祖様の土地を出て北東へ向かいます。

 出雲大社のある出雲市は、今では大田市の隣なのですが、過去の形跡が残っていました。

 2005年に出雲市と合併して消滅した多伎町(たきちょう)の名残です。

 またまた海を見るために寄ってみます。



 付近の観光案内。



 気のせいかもしれませんが、同じ海でも太平洋より日本海の方が綺麗に見えるんですよね。



 まあ、気のせいでしょう。

 日御碕(ひのみさき)に至る島根半島が近くなってきました。



 すぐ下には山陰本線の線路があります。



 タイミングよく気動車が走ってきてくれないかなあ・・・



 今はもう特急は走ってないのかなあ?



 来ませんね、行きましょう。

 大田市役所から50分ほど走り、前方に出雲大社の大きな鳥居が見えてきました。



 初めて来ましたよ!

 私は仕事柄、メジャーな遺跡や神社やお寺にはほとんど行っていると勘違いされることがあるのですが、本当にそれは勘違いで、お金をたくさん稼いでいた若いころは旅行などに行く時間はありませんでした。

 このお仕事をやらせていただいているお陰で、ここ2年くらいで「仕事」としてようやく遠くまで行けるようになったのです。

 そんなことで、超メジャーな出雲大社も初めてです。

 駐車場に車を止めて参拝開始。

 門前はきれいな街並みですね。



 お、あの緑色の人たちはボランティアガイドの人たちかな?



 では、もう一つ鳥居をくぐります。



 参道が続いていますね。



 境内の案内図がありました。



 コアゾーンはこちら。



 いずれここもクラツーでご案内する日が来ると思いますが、今日は予備知識なしで来ました。

 予備知識なしで来る歴史探訪が一番楽しいのです。

 今日参拝してグッと来たものは、ツアーで私が案内するときもお客様がグッとくる可能性が高いので、感覚を研ぎ澄まして歩きます。

 少し地形が落ちていきますね。



 また一つ鳥居が現れました。



 気持ち良い広場が展開しています。



 園児たちが遊びに来ているようですね。

 さあ、人手が多くなってきましたよ。



 お、あれが噂の注連縄ですね。



 私はクラツーの仕事で福岡県福津市の宮地嶽神社を案内することが多いのですが、宮地嶽神社では自分のところの注連縄が日本で一番大きいと称しています。

 ※宮地嶽神社の拝殿はこちら。



 それについては、宮地嶽神社の拝殿の前でよくお客様と話すのですが、「こっちの方が大きいね」と、宮地嶽に軍配を上げる方が多いです。

 ただ、たまに「出雲大社の方が大きい」と仰る方もいて、「大きい」というのは太さなのか長さなのか、はたまた重量なのか、そういう話をすることがあります。

 私の感覚では、出雲の大神の前で言うには憚られますが、宮地嶽の方が・・・

 いやいや、何でもないです。

 拝殿前も気持ちいいですね。



 と思ったら、さっきの注連縄が飾ってあった場所が拝殿で、こちらは拝殿じゃないんですね。



 案内図には単に「八足門」と書いてありました。



 こちらにも説明板がありました。



 空から見るとこんな感じ。



 この八足門と接続されている瑞垣の内側には入れません。



 では、瑞垣の外側を時計回りで歩いてみます。

 ※後日註:すべての建物を巡ったわけではないのでその辺はご了承ください。

 摂社が祀ってありますね。

 氏社(うじのやしろ)で、天穂日(アメノホヒ)を祀ってあります。





 こちらも氏社で、宮向宿禰(ミヤムクノスクネ)を祀ってあります。





 お、多紀理比売(タギリヒメ)について説明がありますよ!



 宗像三女神の長女神で、宗像大社ではタゴリヒメと言いますね。

 大国主の妻です。

 ところで、社殿は瑞垣の中にあるんですね。



 特別待遇じゃないですか。

 奥さんだからということが理由だと思いますが、そもそも出雲大社の神と宗像大社の神が夫婦とされていることが、古代史マニアとするとロマンティックが止まらないわけです。

 そしてまた、この説明を読むと面白い。



 本殿自体は南向き(完全な南ではなく微妙に東に振れています)なのに、建物の中にいる神様は西を向いているわけです。

 西というと九州ではないですよ、朝鮮南部です。

 スサノオは朝鮮半島から来たと考えている人は多いですが、それが本当かどうかは別としても、出雲という土地柄、半島と無関係であることはまず考えられません。

 ここにも本殿周辺の配置図があります。



 北西の角に来ました。



 彰古館。



 本殿を裏側(北側)から見ます。



 ウサギさんがたくさんいますね。



 「因幡の白兎」に関連付けているわけですが、境内には46羽のウサギがいるそうですよ。

 いる、といっても生きていませんよ。

 本殿の背後には摂社である素鵞社(そがのやしろ)があります。



 スサノオを祀っています。



 何も書いていませんが、もしかしてスサノオも西へ向いてるのかな?

 北東の角まで来ました。



 日の丸がはためいていますね。



 本殿の東側の瑞垣内には2つの社が見えますが、その説明はこちら。
 






 釜社(かまのやしろ)と呼ばれていますが、稲荷神社と同じくウカノミタマを祀っています。





 ほー、なるほど!



 神無月(こちらだと神有月)には全国の神様が出雲に大集合しますが、その際に滞在してもらう社まであるんですね。



 確かに、これがないと各地の神様は野宿することになってしまいます。

 ※註:紹介はしていませんが、西側にも十九社があります。

 はい、これでグルッと一周ですね。





 改めて、どっちが大きいかな?





 さて、本レポートはほとんど写真の羅列だけで詳しい解説はしていません。

 なぜしていなかというと、今日の段階ではまだできないのです。

 こうして初めて出雲大社に参拝することができたわけですから、これからじっくりと出雲の神や出雲とヤマト王権との関係などを考えていきたいと思います。

 私自身がもっと勉強して努力すれば、いずれ出雲の神様もいろいろと教えてくださるようになると思います。

 では、つづいて古代出雲歴史博物館へ行ってみましょう。

 (つづく)


出雲大社の謎 (朝日新書)
瀧音能之
朝日新聞出版

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【石見・出雲歴史探訪 その1】20年来の宿願達成!稲用城跡【島根県大田市】

2019-10-18 12:50:20 | 歴史探訪
 すでに何本か記事を書いていますが、昨年(2018年)の10月に山陽・山陰地方へツアーの下見に行ってきました。

 本日はそのなかの3日目、島根県をめぐったときの様子をお伝えします。

 なお、このページでご紹介する場所は、来週末の中国地方ツアーの行程には含まれていません。

 ⇒1日目の備前・備中編はこちら

 ⇒2日目の安芸・備後編はこちら

*     *     *


 湯迫(ゆざこ)温泉旅館で目覚めました。

 部屋からの風景はご覧の通り。



 山深い場所なのだ。

 朝ご飯をいただきに下の座敷へ行きます。

 こういう「ザ・旅館の朝ごはん」みたいな朝飯は普段は食べないので嬉しい。



 甘露煮もある!

 私は川魚の甘露煮が大好きなのです。

 そして、梅干しがまた美味・・・

 梅干し1個が美味しいと、それだけで支払額がペイできた気分になります。

 お櫃のご飯をすべて食べつくし、出発!



 私の宿泊プランは最も安いもので、富裕な方向けにもっと良いお部屋やお料理があるようです。

 他の部屋のことは分かりませんが、料理に関しては最もリーズナブルなプランでも満足でしたので、上のランクだとどんなものが食べられるんだろうと気になります。

 それと、ここのお湯はお肌がスベスベになりますよ。

 私はそれほど多くの温泉に浸かった経験があるわけではないですが、私の中ではここのお湯のスベスベ度が一番です。

 自分で自分の顔を触って気持ち良い・・・

 今度来るときは妻を連れてこよう。

 ※後日註:そう思って帰宅した翌月、妻はいなくなってしまいました。

 それでは、本日最初に向かう場所をカーナヴィにセットします。



 稲用へ行きます。

 稲用が稲用へ行くのです。

 それでは、稲用へ向けて巡航開始!

 今日は良い天気ですよ!

 日本海もきれいだ。

 しばらく走り、駐車場があったので少し海でも眺めてみようと思います。

 遠くの方には出雲の日御碕の半島が見えています。



 日本海はきれいだなー!



 こうやって旅に来た時しか海は見られないので、今日は天候もバッチリで良かった!



 こちら側から来ましたよ。



 それでは再び出発。

 うわっ!

 おそらく、日本最強の交番じゃないでしょうか。



 五十猛駐在所!

 イソタケルはスサノオの息子です。

 イソタケルが交番にいたら悪いことをしでかす人などいないでしょうね。

 旅館を出て30分ほどで目的地の「大田市長久町稲用(おおだしながひさちょういなもち)」にある稲用城跡に到着しました。

 稲用城は山城で、一応ここが登山口のようですが・・・



 どこに登り口があるんだろう?



 え?

 ここですか?



 確かによじ登ろうと思えばよじ登れそうですが、登山口の体をなしていませんね。

 私は山城歩きも好きなので、たいていの場所は行けると思っていますが、ちょっとここは止めておきます。

 怪我でもしたら大変だ。

 親切に「稲用城山遺跡」の石碑が建っています。



 写真に撮りづらいんですが、高級タイプの石碑ですね。



 石碑にはこう刻されています。

 「鎌倉時代、伊東祐盛公この城山を居城として、稻用郷三百町歩を所領、姓氏を稻用と改め数代八十有余年の間統治す。後日向国に移るも代代稻用を姓とし、今にその子孫は日南市にあり。江戸時代に至り、一時浜田藩の出城として、松平氏の一族が居城したとも伝えらる。山頂の城址は往時の面影をとどめぬが、貴重な郷土の遺跡として、その史実を後世に伝えんとここに碑を建つ。

 なお、山上にありし稻用氏の守護神若宮八幡宮は稻用八幡宮境内に遷座祭祀す。

 昭和五十九年十月吉日 稲用住民一同」



 稲用住民の皆さん、こうやって歴史を残してくださって本当にありがとうございます!

 石碑に出てきた伊東祐盛という人は、頼朝の下で働いた鎌倉御家人伊東祐時の次男で、石見国守護代に任じられ、伊豆の伊東からこちらへ赴任してきました。

 伊東氏は工藤氏の支流ですが、工藤氏は藤原不比等の長男武智麻呂の末裔です。

 つまり、稲用家は大きなくくりでは、南家武智麻呂流なわけです。

 鎌倉時代は各国に守護が置かれたのですが、守護自体は現地に行かず、守護代が代官のような形で地方に行きました。

 ですから、守護代というのは実質的には今でいうところの県知事です。

 祐盛がこちらに来てからの歴史については私は調べることができていません。

 石碑が言う通り、この地では滅亡してしまったため、現地にも史料や記録はほとんど残っていないのではないでしょうか。

 石碑には八十有余年統治したとありましたが、おそらく南北朝時代の騒乱で城を追われて、本家筋である伊東家が勢力を張っていた日向国に一族で逃げたのだと思います。

 では、城の内部に潜入するのはあきらめて、遠くから眺めてみましょう。



 いかにも山城といった風情ですね。

 もう少し遠くへ。

 東側の平野から見ます。



 稲用城は独立丘の上に築かれており、一見防御力が高そうに見えますが、いざというときに逃げることが難しいタイプの城です。

 少し左(南側)に目を移します。



 稲用城の東側に広がる支配地域の田んぼ。



 普通であれば、こういう山城に鎌倉時代の武士が住むことはありません。

 おそらく、居館は別の場所にあったのでしょう。

 そしてこの山城は南北朝時代に築かれたものではないでしょうか。

 南北朝時代であれば山城は普通に築かれます。

 あ、白い鳥!



 ここから見える特徴的な山というと、やはり三瓶山(さんべさん)ですね。



 三瓶山の中で最も高い男三瓶山の標高は1126mです。



 鳥取県の大山と並んで山陰地方を代表する山の一つですね。

 ところで、日向に移ってからの中世の稲用氏の歴史については良くわかりません。

 私は他人の家の歴史ばっかり調べていて、自分の家の歴史を調べることが疎かになっているのです。

 いずれはきちんと調べたいなあ。

 日向の伊東家に転がり込んだ後の歴史については、伊東家の家臣として稲用と称する戦国武将がチョロッと出てきますが、はっきりしたことは言えません。

 江戸期になると、古文書に稲用とか稲持という人がたまに出てくるのが確認できるので、それなりに繁殖していたことが伺えますが、石高はそれほど高くありません。

 昔、祖母から聞いたところでは、「稲用家は伊東家の家老だった」ということでしたが、これはよくある「我が家は家老伝説」の可能性もあります。

 どういうわけか、自分の家の先祖が大名の「家老」だったという話はあちこちでよく聞きます。

 そして、それは史実としては怪しいというのがよくあるパターンです。

 ただ、稲用家は家老職に就いたことはなかったかもしれませんが(もしくはあったとしても私が史料で見つけられていないだけかもしれませんが)、藩主の親戚ですので、「藩主御一家」という特別なカテゴリに入れられていたことは事実のようです。

 戦前の戸籍にはその人の社会的属性が書かれた欄があり、「士族」と書かれているのを私も確認していますので、古文書の記載を併せて考えると、江戸期には地味ながらも飫肥藩の藩士として命脈を保っていたことは確かです。

 ※先祖が勤めていた飫肥城は、大人になってからは2010年11月8日に探訪しています。



 つづいて、せっかく来たので集落にある浄土寺へ寄ってみます。

 ナヴィに脳内を支配されてやってきました。



 浄土真宗本願寺派のお寺です。







 山号は貴船山。



 本堂。



 何の予備地知識もなく来たので、浄土寺の来歴については分かりません。

 浄土寺の前からは稲用城跡も見えますね。



 浄土寺横の市道。



 しかし、今まで生きてきて、従兄弟の家族以外で稲用という人に会ったことは皆無ですし、ましてや地名なんかはここにしかないと思うので、こうやって町中に「稲用」という文字があると、気持ち悪いと言ったら失礼ですが、不思議な感覚に陥ります。



 最後に、現代の支配者のいる大田市役所の佇まいを確認しに行きましょう。

 ここだ。



 石見銀山は世界遺産になったら反対に観光客が減って苦戦しています。



 ちなみに、ここは「おおだし」と「た」を濁って発音し、群馬県にある太田市は、「大」じゃなくて「太」と表して「おおたし」で、東京にあるのは「大田区」で「おおたく」ですよ。



 というわけで、先祖について調べ始めたころからずっと来てみたかったご先祖様の土地に来ることができました。

 これも、たまたまクラツーの仕事で出雲のツアーをやらせていただくことが決まり、その下見としてついでに来ることができたわけですから、会社やお客様にはとても感謝しております。

 それでは、つづいて出雲大社へ向かいますよ。

 ⇒この続きはこちら

 
古代石見の誘い道―人麻呂と神々と道
関 和彦
今井出版


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【安芸・備後古代史探訪 その16】三次郡衙跡と推定される下本谷遺跡【広島県三次市】

2019-10-12 20:57:02 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 広島県内で見る予定の遺跡は残り一箇所でコンプリートです。

 到着した場所は現代の墓地でした。



 下本谷遺跡。



 三次郡の郡衙跡と推定されている遺跡です。



 こちらも資料館に展示解説がありましたね。

 標柱。



 ここはとくに目で見られるものはないようなので、遺跡に来たということでOKとします。

 というわけで、これにて本日の探訪は終了。

 時刻は16時半。

 これから宿へ向かいますよ。

 まずは予定到着時刻より遅れることが明白なので宿に電話します。

 今晩はビジネスホテルではなく温泉旅館で夕飯も用意していただくことになっています。

 「いま三次にいて、これから向かいます」と伝えると、言葉ではありませんが、何となく「三次ですか!」と驚かれたような雰囲気を感じました。

 確かにここから島根県大田市の湯迫温泉は遠いですよね・・・

 直線距離的には下道のほうが全然近いのですが、土地勘がまったくなく、山越えの国道がどんな道かも分からないので、安パイで高速を使います。

 中国道を西へ向かい、千代田JCTから浜田道へ入り、終点の江津まで行きますよ。

 当初の目論見では、浜田の辺りも探索したかったのですが、全然時間がなくなってしまいました。

 今日の日中は午後には曇り空の下探訪していましたが、1時間少し走り、日本海側に来た頃には天気がとても良いです。



 気持ちの良いドライヴ。

 日本海だ!



 夕日を浴びて山がオレンジになっています。



 三次を出てから2時間近く走り宿に到着!

 いつもは基本的に素泊まりのビジネスホテルに泊まるのですが、今回は訳あって大田市に宿泊する必要があり、大田市ではビジネスホテルが取れず、ここ湯迫温泉に決めました。

 ここに決めた理由は価格がリーズナブルだったことです。

 普通の畳の部屋。



 私はこういう普通の部屋が好きだ。

 畳はいいねえ。

 お腹ペコペコなので食事をなるべく早く食べられるようにお願いしました。

 約束した時刻になり、夕飯をいただきに下の座敷へ行きます。

 私以外に同時に食事を食べている人はあまりいないので、一人でゆっくり食べようと思います。

 お、美味そう。



 食前酒もついていますね。

 ビールを飲みながらゆっくり食べます。



 まずはデフォルトで並んでいるものを味わって食べますよ。



 このスモークのサバと栗、めちゃくちゃ美味い・・・

 大好きなカキだ。



 ちなみに私はお酒とご飯は同時進行です。

 刺身はご飯が進むのだ。



 料理が美味しいのでお酒も頼んじゃいましょう。

 「石見銀山」の純米酒。



 やはり、地元の酒は美味い。

 一品一品の作りが凝っており品数も多くていいねえ。







 陶板焼きは普通はお肉が多いと思いますが、なんとこちらはサバでした!



 これがまだ絶妙・・・

 デザートもあります。



 いやー、美味かった。

 私は温泉旅館に泊まった場合は居室よりも食事や温泉を重視するのですが、この食事は宿代の割にはすごく良いです。

 思い出に残る美味しいものをいただくことができてよかった。

 しかも、詳しくはまた明日お話ししますが、ここはご先祖様ゆかりの地なのです。

 部屋に戻ろうとすると猫ちんが近寄ってきました。



 旅館ってたまに猫ちんがウロウロしていますよね。



 それではお風呂へ行ってきます。

*     *     *


 本日のまとめ。

 中国地方の下見旅行の2日目は、広島県内の遺跡をめぐりました。

 朝、広島駅近くのビジネスホテルを出てからめぐった歴史スポットは以下の通りです。

 【府中町】
 1.安芸国総社跡
 2.安芸国庁跡(田所明神社)
 3.多家神社
 4.下岡田遺跡
 5.府中町歴史民俗資料館
 6.松崎八幡宮跡

 【東広島市】
 7.西条酒蔵通り
 8.安芸国分寺跡
 9.真言宗安芸国分寺
 10.三ッ城古墳

 【三次市】
 11.茶臼城跡(説明板のみ)
 12.旗返山城跡(説明板のみ)
 13.糸井大塚古墳
 14.広島県立歴史民俗資料館(みよし風土記の丘)
 15.七ツ塚古墳群(みよし風土記の丘)
 16.矢谷古墳
 17.花園遺跡
 18.下本谷遺跡(推定三次郡衙跡)

 なかなか充実した歴史めぐりで、そういえば昼飯って食べたっけな?

 一人の場合はかなりストイックな歴史めぐりをするので、我ながらバカじゃないかと思うこともあります。

 でも好奇心が先に立って戦闘モードになってしまうと突撃あるのみなのです。

 ⇒翌日の記事はこちら

 ⇒上の探訪個所を最初から読みたい方はこちらからどうぞ


広島県の歴史 (県史)
岸田 裕之
山川出版社


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【安芸・備後古代史探訪 その15】400基以上の埋葬施設があると推定される弥生最大級の墓域・花園遺跡【広島県三次市】

2019-10-12 20:00:15 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 つづいて花園遺跡へやってきました。



 ここにも墳丘墓があるんですよ。

 ここはさすがに古墳とは呼びませんよ。

 さきほどの矢谷古墳の説明板にチラッと書いてありましたが、矢谷古墳よりも前の弥生墳丘墓がこちらにあるのです。

 説明板があります。



 最初は単に墳丘墓だけかなと思っていたのですが、説明板を読むと、2基の長方形型墳丘墓以外にAからFまでの区画された6つの墓域があり、全部で400基以上の埋葬施設があると推定されると書かれてあります。

 400基以上って凄くないですか?

 なんだ、この埋葬施設の多さは・・・



 これらのうち、目で見てわかるのはまずは第1号墳丘墓です。



 目で分かるといってもこの通りですよ。







 そして、第2号墳丘墓についても個別に説明板が設置されています。



 ここも凄い密集度。



 2号は1号よりも低い位置にあり、現状ではこんなです。



 2号から1号を見上げます。



 ここは見た目は地味ですが、とてつもない墓域ですね。

 400基以上というと、この近辺の村の成員の多くの人びとが埋葬されたと考えられます。

 しかしその中でも墳丘のある個所に埋葬された人びとが集落のリーダークラスの人たちなのでしょう。

 ただ、この墳丘墓は方形周溝墓ではないんですよね。

 あと、古墳時代の方墳は正方形かそれに近い形状がほとんどですが、弥生時代はむしろ長方形というのが普通だったように思えます。

 こういった弥生時代の墓制は今後もっと集中して取り組みたいジャンルです。

 さて、時刻は16時20分。

 もう一箇所行きましょう!

 ⇒この続きはこちら


広島県の歴史 (県史)
岸田 裕之
山川出版社


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【安芸・備後古代史探訪 その14】念願の「初よすみ」!三次のダニエル・矢谷古墳【広島県三次市】

2019-10-12 19:24:50 | 歴史探訪
 ⇒前回の記事はこちら

 ※矢谷古墳は2019年10月25日出発のツアーで探訪しますので、ご参加予定でネタバレが嫌な方はこれ以上読み進めることをやめておいた方がいいかも知れません・・・

 それではいよいよ、「初よすみ」です。

 「よすみ」というのは弥生時代の終わりごろに、出雲を中心として造られた四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)というお墓のことです。

 呼び名が長いので「よすみ」という呼び名が定着しています。

 また、「ダニエル」と呼ぶ人もいます。

 多分。

 ■古墳ギャルのコフィー 第1話(前編)



 これから、さきほど資料館で詳しく展示解説がしてあった「よすみ」の矢谷古墳へ行きますよ。

 やはり、弥生末期の王の墓にふさわしく、丘の上にあるようで上り坂を登っていきます。

 ここだな・・・



 階段を昇ります。

 あったー!



 念願のよすみだーっ!



 古墳が好きになって以来、ずっと見たかったのです。

 そのため、クラツーのお仕事でこちらのツアーをやりたいと志願しました。

 そしてお客様が集まってくださったお陰で、下見としてこうやって来ることができたのです。

 会社にもお客様にも本当に感謝です。

 そしてもちろん、矢谷古墳の被葬者にも感謝です!

 おそらく被葬者の霊力が働いてくださっていると思います。

 説明板を見ましょう。



 先ほどは模型で見ましたね。



 ところで、上の「古墳ギャルのコフィー」はご覧いただけたでしょうか。

 古墳マニアを自称していながら、まだ見たことがない方はどうぞ見てください。

 その中でダニエルのことを「墳丘墓」と呼んで笑うシーンがありましたね。

 こちらの説明板には「矢谷古墳」と書いておきながら、カッコ書きで「矢谷弥生墳丘墓」と書いてあります。

 私たちはあまり気にしませんが、呼び名に関しては考古学者の方々のなかにうるさい拘る方がいます。

 つまり、古墳とういうものは古墳時代に築造されたもので、古墳時代は3世紀半ばの築造と言われている箸墓古墳ができて以降のことをいうため、それ以前の弥生時代に造られたこういったお墓は「弥生墳丘墓」と呼ぶべきだと主張するわけです。

 そういう方への配慮(ビッグネームの方にイチャモンを付けられたら師弟関係が厳しい世界ですから失職しないためにも配慮せざるを得ません)のためにカッコ書きを加えたのではないかと「邪推」します。

 似た例は奈良県桜井市の纏向古墳群でも見ることができますね。



 今ではだいぶ「纏向型前方後円墳」という呼び名は定着した感があります。

 こういった説明をクラツーでもよくするのですが、そのたびにお客様からは「くだらない」とか「古墳でいいじゃん」という声が上がってきます。

 私自身はこれに関しれはあまりこだわっておらず、弥生墳丘墓のことを現地で古墳と呼んだり「古墳みたいな、これ」と呼んだりします。

 だって、もしかしたら箸墓古墳の築造時期はもっと遅いかもしれませんよ。

 では、墳丘へ登ってみましょう。



 おーっ、突出部!



 フフフ・・・

 突出している・・・



 墳頂には主体部の場所を示していると思われる表示があります。



 草に覆われていてよく分かりませんが、説明によると矢谷古墳では11基の埋葬主体が見つかっているようですね。



 こういった、一人の権力者のためというよりかは、多くの権力者やその家族かもしれない人びとのためにこういった墓を造るというところが弥生チックなわけで、こういうのを見ると、古墳とは違うなあと感じるのも事実です。

 ちなみに、よすみの場合は「葺石」とはいわず「貼石」といいます。



 現在見られる貼石は、整備の際に復元したものでしょう。

 墳丘からの眺め。



 いやー、感無量・・・





 なんか、もう一つ説明板がありますよ。



 須恵器の窯跡も見つかっているんですね。



 こちらは矢谷古墳(須恵器窯跡)という呼び名になっています。

 文化庁に登録してある正式名は「矢谷古墳」なので、このカッコ書きは公式なものではなく通称と考えていいと思います。

 いやー、しかし良かったー。



 ところで、よすみというと出雲のイメージが強いと思いますが、発祥を追っていくとどうやらここ三次あたりがそうらしいのです。

 よすみのなかでも特に古いものがこの地域に多いのです。

 それが出雲の方へ進出して大型化したと考えられます。

 三次市は今は広島県ですが、水系を見ても日本海側との文化的なつながりが深いことが理解できると思います。

 日暮れまでもう少しあるので、欲張ってさらに遺跡を見て回りますよ。

 ⇒この続きはこちら


広島県の歴史 (県史)
岸田 裕之
山川出版社


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【安芸・備後古代史探訪 その13】みよし風土記の丘にある群集墳の浄楽寺・七ツ塚古墳群【広島県三次市】

2019-10-12 18:14:53 | 歴史探訪
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 歴史民俗資料館の見学を見終えると、時間はもう15時20分です。

 本当はもっとじっくりと見学したかったのですが、時間の都合で30分しか見れませんでした。

 つづいて資料館の裏山にある浄楽寺・七ツ塚古墳群を見に行こうと思いますが、今日中に見ておきたい広島県内の遺跡がまだ数か所残っていますし、宿は島根県大田市内に予約していますので、時間的に見て広大な古墳群全域を徘徊することは無理です。

 仕方がないですが、浅く見学しようと思います。

 ※みよし風土記の丘は2019年10月25日出発のツアーで探訪しますので、ご参加予定でネタバレが嫌な方はこれ以上読み進めることをやめておいた方がいいかも知れません・・・

 古墳群の入り口では移築した石室がお出迎え。

 まずは篠津原第3号古墳の横穴式石室です。



 近世城郭の石垣のようにきれいに成形された石が積まれていますが、これを切石積みといいます。
 


 でも、切るといっても当時はカッターなんかありませんので、かち割ったあとはひたすら叩いて成形したようです。

 つづいて酒屋高塚古墳の竪穴式石室。



 竪穴式石室は埋葬後は墳丘の中に隠れてしまって出入り不可能になるため、普通はこういうふうに見ることはできませんよ。



 宗祐池西遺跡の箱形石棺。



 説明の通り、あまり箱形石棺という感じはしません。



 ではいよいよ七ツ塚古墳群へ!

 第20号古墳。



 古墳がポコポコありますね。





 浄楽寺・七ツ塚古墳群の中で最高所に築造された七ツ塚15号墳。





 最高所と知ったら墳丘に登らざるを得ないですね。

 葺石かしら?



 墳頂。



 古墳群最高所からの眺望。





 よし次。

 可愛らしい前方後円墳がありますよ。





 急げ急げ。













 全然ちゃんと見れていませんが、今日のところは引き揚げだ。

 住居跡も復元してあります。







 銅鐸の絵を元に復元したんですね。



 そういえば、浄楽寺・七ツ塚古墳群の基本的な話をしていませんでしたが、古墳時代の中期から後期にかけて(5~6世紀)の群集墳です。

 5世紀から造られ始めたということで、群集墳としてはかなり早い時期から造られたものとなります。

 七ツ塚古墳群は60基の古墳からなり、ほとんどが円墳で、目玉とすると先ほど見た墳丘長29mの前方後円墳の7号墳や直径31.2mの円墳です。

 一方、浄楽寺古墳群は116基の古墳からなり、こちらもほとんど円墳で、直径径45mの円墳が最大で、帆立貝式古墳2基と方墳4基があります。

 どちらかというと、浄楽寺古墳群の方が規模が大きいです。

 群集墳というと、関東の場合は6世紀のイメージがあるのですが、それよりも早いわけですね。

 こういった群集墳の被葬者像については、昔から「富裕な農民」という説があり、古墳時代が進行するにつれて、古墳を築造できる人々の階層が下がっていったと説明されることがあります。

 確かに、もし円墳だけで構成されていたらその可能性もあるかもしれませんが、こういった群集墳に前方後円墳が含まれていることを重く見なければならないと私は思っています。

 つまり、ことはそう単純ではなく、西日本で5世紀半ば以降に群集墳が造られ始めることを考えると、その時期はヤマト王権の代表者が中国の権力をバックにして「王」から「大王」へ移り変わる時代で、地方への支配力を強めていた時期に当たります。

 ですから、群集墳の被葬者は、中央と強く結びついた地方の人びとで、部民やそれに先んじる同様な身分の人びとであり、群集墳の中にみられる前方後円墳はそれを統括する人物ではないかと考えます。

 もちろん、このような考え方は昔から一部の研究者が考えていますので、とくに目新しい発想ではありません。

 さて、サラッとしか見ることができず残念でしたが、次はいよいよ、「初よすみ」ですよ!

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広島県の歴史 (県史)
岸田 裕之
山川出版社

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【安芸・備後古代史探訪 その12】広島県の古代史について知りたければまずはここへ!広島県立歴史民俗資料館【広島県三次市】

2019-10-12 17:25:13 | 歴史探訪
 ※みよし風土記の丘は2019年10月25日出発のツアーで探訪しますので、ご参加予定でネタバレが嫌な方はこれ以上読み進めることをやめておいた方がいいかも知れません・・・

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 三次市に侵入した途端に遺跡との遭遇が連続して、嬉しい奇声を発しながら14時50分、みよし風土記の丘に到着!



 まずは歴史民俗資料館へ行きます。



 おっと、「霧に包まれた古墳の謎」はまだ始まっていなかった!

 ともかく、展示を見ましょう。

 展示は地形の話からはじまって、古い時代から新しい時代へというオーソドックスな展示です。

 広島県の地形ジオラマ。



 手前が瀬戸内海で、少し広い平野が広島市街。

 内陸の方に赤い目印が見えると思いますが、そこが現在いる三次市です。

 現代人の感覚からすると、三次市は山の中の小さな町というのがあるようですが、古代においては非常に重要な場所で、日本海側と瀬戸内海側の各地を結ぶ交通の要衝なわけです。

 こういう場所っていわゆる「衢(ちまた)」ですから、古代の市場の形跡もあるかもしれませんよ。

 さて、地形の説明は第三紀とか第四紀とか、そういうとてつもなく古い時代から始まります。



 第三紀って、6430万年前から260万年前までで、260万年前っていうと、アフリカで私たちホモ・サピエンスの先祖かもしれないホモ・ハビリスが石器を造り始めた時代じゃないですか。

 つまり、旧石器時代の始まりは第三紀の終わりなわけですね。

 昔過ぎて意味が分からないので最近の縄文土器を見て心を落ち着かせましょう。



 そしてもっと新しい弥生土器。



 石包丁も見つかっていますよ。



 ここで展示室全景。



 お、いいのがありましたよ!



 特殊器台形土器です。

 器台の上に壺が乗っています。

 こちらの地方に来ないと見れないものですね。

 展示してあるのは矢谷墳丘墓から出たもので重要文化財ですよ。



 特殊器台が発展して古墳に並べる円筒埴輪になったといわれています。

 つまり埴輪のルーツなわけです。

 でも、こんなに大きいのに厚さが5㎜というのは凄い技術ですね。



 特殊器台形埴輪というのが、いわゆる円筒埴輪ですよ。

 円筒埴輪で最も巨大なのは上の図に書いてある通り、奈良県桜井市のメスリ山古墳の墳丘に並べられていたもので、普通であれば橿原考古学研究所附属博物館で見られるのですが、当該博物館は現在休館中で再開がいつなのか私は情報を掴んでいません。



 ※メスリ山古墳の円筒埴輪(人間と一緒に写すと巨大さがよくわかります)

 器台の地域色の説明。



 こういう展示は東日本では見れませんよ。

 貴重です。

 小さい銅鐸がある。



 出雲が銅鐸圏内ですから、広島でも銅鐸はたくさん出ているのかと思ったらそんなことはないんですね。



 弥生時代後期の広島県の地域色。



 広島県は令制の安芸国と備後国が合わさってできた国です。

 安芸南部の弥生土器。



 備後南部の弥生土器。



 備後の方は器台と壺との組み合わせです。

 西日本各地の墳丘墓と古墳。



 今日は生まれて初めて広島県の歴史めぐりをしています。

 来る前は漠然と、広島県と岡山県は同じ文化圏なのかなと思っていたのですが、ところがどっこい、今日一日いろいろ見たことにより、広島と岡山の文化の違いがちょっとずつ分かってきました。

 やはり、現地に来ると部屋に籠って本を読んでいるより100倍くらいの学習効果がありますね。

 さきほどの特殊器台形土器が出た矢谷墳丘墓の説明があります。



 ジオラマ。



 こういうのがあると分かりやすくていいですね。

 あとで現地に行きますよ。

 ローマで造られたガラス小玉!



 この小さなものが3個だけ見つかったのです。

 さあ、分かりやすいパネル展示がありますよ。



 出雲と吉備との文化の違い、そして広島県の古代勢力の立ち位置について想像を掻き立てられます。

 さて、つづいて時代は律令時代となり、備後国府跡から出た瓦です。



 こちらも本日探訪予定の下本谷遺跡の説明。



 下本谷遺跡は、三次郡衙跡と目されています。

 こんな感じ。



 寺町廃寺跡の説明。



 本日訪れた安芸国分寺跡出土の瓦。



 ところで、みよし風土記の丘には浄楽寺・七ツ塚古墳群という古墳群があります。



 「風土記の丘」という施設は全国にたくさんありますが、どこも遺跡と一体化していますね。

 あとで行ってみますよ。

 古代集落の復元。



 古墳の形状を浄楽寺・七ツ塚古墳群に実際にある古墳を元に解説してあります。

 円墳の七ツ塚15号墳。





 方墳の浄楽寺61号墳。





 前方後円墳の七ツ塚9号墳。





 帆立貝形の浄楽寺1号墳。





 浄楽寺37号墳の箱形石棺の実物大模型。



 三次盆地にはこんなに古墳があります。



 では、実際に浄楽寺・七ツ塚古墳群を見に行きたいと思いますが、その前に資料を集めていきますよ。

 「東京から来たんですけど・・・」と、受付の方と話していて、「”霧に包まれた古墳の謎”の展示を見たかったんですがタイミングが合わなかったです」と言ったら、部屋の中の方にいた方が「図録できてますよ」と教えてくださり、展示前でしたが図録を売ってくださいました。

 やったー!

 遠方から来たことを告げると、「あらまあ、わざわざお越しで!」といって特別に計らっていただけることが多いです。

 とてもありがたいです。

 それでは、実際に浄楽寺・七ツ塚古墳群を見に行きましょう。

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広島県の歴史 (県史)
岸田 裕之
山川出版社

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【安芸・備後古代史探訪 その11】街道沿いに遺跡三連発!茶臼城跡と旗返山城跡および糸井大塚古墳【広島県三次市】

2019-10-12 13:29:11 | 歴史探訪
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 三ッ城古墳を出た後は、三次市の「みよし風土記の丘」を目指します。

 国道375号線を北へ向かいますよ。

 特に意味はないのですが・・・



 この橋が気になりました。



 三次市に入り、少し走っていると左手に遺跡の説明板のようなものがチラッと見えました。

 路駐して確認しに行きます。

 おーっ、戦国期の城跡だった!



 茶臼城跡か・・・

 ていうか、何ですかこの西側の竪堀の並びは!



 これは目で見てみたいですねえ。

 でもさすがに今日は探訪は無理ですね。



 見に行ったら絶対に今晩の宿に到着できなくなる。

 あの山の中にあるのかなあ。



 ちなみに城の前の街道はこんな感じです。

 北方向。



 南方向。



 未練を振り切って出発!

 10分くらい走ると・・・

 またもや看板!

 路駐して確認しに行きます。

 うわーっ、また城跡だ!



 旗返山(はたがえしやま)城跡。



 本格的な山城です。



 でもどうやって主郭部に到達するんだろう?

 説明板の図によると、あの辺りに城跡があるわけですね。





 山の裾には川が流れています。



 説明板には城の歴史が書いてありますね。

 尼子と毛利の戦い、興味あります。

 街道沿いに立て続けに2つの城跡が出てきたということは、この道は中世の頃もメインの道だったんですね。

 南側を見ます。



 北側を見ます。



 再度出発!

 あらま、今度は古墳だよ!



 全然先に進めない。



 でも、ちゃんと説明板があって、三次市いいね。



 糸井大塚古墳。



 例によって南側を見ます。



 北側を見ます。



 だんだん時間が無くなってきましたが、風土記の丘はすぐそこです!

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境目・広島県の古墳文化
脇坂光彦
溪水社

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【安芸・備後古代史探訪 その10】広島県最大の前方後円墳・三ッ城古墳【広島県】

2019-10-12 12:49:44 | 歴史探訪
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 東広島市西条の安芸国分寺の次は、同じ東広島市内の三ツ城(みつじょう)古墳へ行ってみましょう。

 ※三ツ城古墳は2019年10月25日出発のツアーで探訪しますので、ご参加予定でネタバレが嫌な方はこれ以上読み進めることをやめておいた方がいいかも知れません・・・

 三ツ城近隣公園に到着!

 公園の説明。



 中央に巨大な前方後円墳が鎮座していますね。

 立派な説明板もあります。





 ここに書いてある通り、史跡三ツ城古墳は3基の古墳からなり、1号墳は墳丘長92mの前方後円墳で、広島県内でもっとも大きい古墳です。

 地形についての詳細な説明もあります。

 50万年前。



 大昔は海だったんですね。

 かなり飛んで戦後間もないころ。



 周囲にも遺跡が結構あるようです。

 そしてこの公園ができたころ。



 ジオラマ。



 三ツ城古墳の位置はわかりますか?

 中央のやや右上ですよ。

 説明板に書かれている通り、周りの山々に囲まれて意外と奥まった場所にありますね。

 現在はかなり山が削られてしまっているのですが、往時の地形を見ると、三ツ城古墳の被葬者の主たる支配領域は、古墳北側の黒瀬川の流域ですね(上のジオラマ写真だと左側)。

 その方面は少し平野が開けているので、そこに集落や水田があったのではないでしょうか。

 この近辺だと現在の広島市街地がここよりも広い平野になっていますが、古墳時代はまだ海だった箇所も多かったと考えられ、むしろここ西条の地が安芸国内では最も農業生産力が高く、かつ黒瀬川で瀬戸内海ともつながっていますから、そういった地理的な理由もあって三ツ城1号墳のような大型の前方後円墳を築造することのできる支配者が存在し得たのでしょう。

 古代の山陽道もこの近くを通っていたはずです。

 それでは、いよいよ墳丘へ登りましょう。



 おーっ、立派だ!

 3段築成の上段と中段には葺石が復元されていますね。

 こちらは2号墳。



 それでは、まずは1号墳へ行きますよ。



 周溝の跡も分かるようになっています。



 周溝の外側には周堤もあったんですね。



 三ッ城はさきほど見た説明板でもわかる通り、くびれ部分に近い場所の両サイドに見事な造り出しがあります。

 それを墳丘側から見てみましょう。





 こういった整った造り出しがあるということは、古墳時代中期以降の築造だと想像できると思いますが、東広島市は1号墳は5世紀前半の築造と考えています。

 群馬県などでは丸い川原石で葺石されていた古墳をよく見ますが、こちらの石はごっついですね。



 中段テラスからのが眺め。



 この古墳には1800本の埴輪が立てられていたそうですが、ここまで埴輪を並べた復元は結構大変だったでしょうし、これを維持していくのもまた大変でしょう。



 前方部側へ回ります。





 上段へ上がり、前方部から後円部を見ます。



 前方部にも埋葬施設がありますよ。





 東側の眺望。



 私が子供の頃、広島東洋カープといえば衣笠選手!

 広島の古墳にも衣蓋形埴輪がありました!





 後円部に来ました。

 埋葬主体が見れるようになっているような雰囲気・・・



 あー、しかし残念ながら中は良く見えない!

 1号埋葬施設。





 この説明を読む限りでは、この1号埋葬施設は最初に造られたものなので、この古墳は女性首長のために造られたようにも受け取れます。

 ところが、2号埋葬施設の説明を読むと、どうやらそうではないということが分かります。





 2号は後円部中央部にあり、2号に葬られた人がこの古墳の築造主(つまりこの地の王)というわけです。

 状況的には、王のために生前から古墳が築造されたのですが、王よりも先に王の近親者の女性が亡くなってしまい、その人のために1号を拵えて、そこに埋葬したというストーリーが考え付きます。

 ただし、この場合の王の近親者は妻ではなく、姉か妹でしょう。

 妻は原則的に実家に葬られます。

 そして、3号埋葬施設。





 後円部には合計3つの埋葬主体がありました。

 しかし、こういった展示の試みは素晴らしいですが、時間が経つとこのように見えづらくなるのが難点ですね。



 2号墳とその先の3号墳を見ます。





 北川の眺望。



 こちらの方面が三ツ城古墳被葬者の支配下の村々が展開していた方面でしょう。



 ただし、向こう側の山が結構近くに見えますから、このコアな支配領域はあまり広くありません。

 では、1号墳から降りて、前方部側に回ってみましょう。

 あ、ここにも説明板があった。



 好きなアングルが見れた。



 可能な限り引いて、側面も。



 後円部側から。



 つづいて2号墳へ行ってみましょう。

 墳頂。



 2号墳は1号墳よりも先に築造されました。

 主体部の説明。



 こちらも箱形石棺ですが、槨はないようです。

 2号墳から1号墳の後円部を見ます。



 最後に3号墳。



 分かりづらいですが墳丘があります。

 こちらは6世紀前半ということで、やはり箱形石棺です。



 楕円形の古墳というのが面白いですね。

 主体部は写真でパネル展示されています。





 ここから奥はもう古墳はありませんよ。



 3号墳から2号墳、そして1号墳を見ます。



 それでは駐車場へ戻りましょう。

 あれ、もう1基古墳があった!



 でもこちらは移築復元ですね。



 あー、面白かった!



 三ツ城古墳はなかなか見ごたえのある古墳でした。

 今度のツアーは島根と鳥取の1泊2日で、ここ広島は入っていないのですが、来年はこの古墳を含めたツアーを創ろうと思います。

 ※2019年度はこのときの思惑通り、三ツ城古墳をツアーに含めることにしました。

 スーパースタミロン!



 では、広島県の山地側へ進みますよ。

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境目・広島県の古墳文化
脇坂光彦
溪水社

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【安芸・備後古代史探訪 その9】律令時代の国分寺の法灯を受け継ぐ真言宗安芸国分寺【広島県東広島市】

2019-10-12 10:46:27 | 歴史探訪
 既述した通り、本日(10月12日)出発の福島の古代史ツアーが未曽有の台風の接近により中止となり意気消沈しているわけですが、気分を切り替えて来週末の広島・島根・鳥取の古代史ツアーのための作業に入りたいと思います。

 似たようなツアーは昨年(2018年)の10月にも実施し、それに先立って、10月1日から3泊4日で当該地方の下見に行ってきました。

 その時の様子は以前少しだけアップしてあります。

 ⇒そのときの初日の探訪記事はこちら

 2日目の途中までアップしてあるので、今回はその続きを書こうと思います。

*     *     *


 安芸国分寺跡はきれいに整備されており、説明板も豊富にあってなかなか見ごたえがありました。

 ⇒安芸国分寺跡の探訪記事はこちら

 今度は現代の国分寺(所在地:広島県東広島市西条町吉行2064)を訪れます。

 いったん八幡神社を出ますよ。



 道路を歩いて山門へ。

 山門は仁王門ですね。



 律令時代の国分寺は、律令国家の崩壊によりだいたい10世紀前後にほとんどが終焉を迎えてしまい、現在「国分寺」と称しているお寺は、律令時代から続いているものはないと言っていいと思います。

 ただし、お寺によっては「法灯を伝えている」と称する場合もあるので、そういう場合は伽藍は無くなってしまったものの、辛うじて仏様を護って現代までつなげた可能性もなくもないでしょう。

 また、断絶はしてしまったものの、再興したと称する場合もあります。

 こちらの国分寺の場合は、現在は金嶽山常光院と号する真言宗御室派のお寺で、お寺の公式HPによると、律令時代の国分寺から現代まで法灯を守り続けてきたとしています。

 仁王門と護摩堂についての説明板があります。



 仁王門の向こうには本堂が見えます。



 アニキ。



 そしてまたアニキ。



 本堂。



 扁額。



 仏像についての説明。



 現代の国分寺へ行くと薬師如来が祀られているケースをよく見ます。

 現代の安芸国分寺は真言宗ですが、薬師如来は薬師経によって説かれている仏さまですから、普通は密教系の真言宗の人びとはあまり祀らないと思います。

 その辺の理由について詳しい方がいらっしゃったら教えてください。

 ちなみに私は薬師如来と如意輪観音が好きです。

 薬師如来は病気を治してくれるから好きで、如意輪観音は色っぽい。

 仏様は男性でも女性でもなく、性を超越しているのです。

 もはや、男性とか女性とか言っている時代ではないのかもしれませんが、仏教的には同性愛は地獄に落ちることになっています。

 ただし、普通に生きているだけで地獄行きの条件に当てはまってしまうようになっているので、そうなると世の中の人びとはすべて地獄行きになります。

 せめて、一段階でも軽い地獄へ行けるよう、毎日の生活で世の中のためにできることをしましょう。

 ところで、御本尊の薬師如来(上の説明板の下に書かれている方)は秘仏であり、次の御開帳は平成50年の予定!

 うわーっ、20年近く先だ!

 護摩堂。



 そしてこちらが薬師堂。



 安芸国分寺の中世の頃の様子は不明ですが、戦国期に毛利家によって寺領として三百貫を拝領したということなので、その頃には寺としての体裁が再び整っていたことが分かります。

 では、次へ行きましょう。

 ちなみに今回借りているレンタカーはこちらです。



 高速道路での運転は難はあっても、遺跡めぐりには軽自動車がいいですね。

 ⇒この続きはこちら

国分寺を歩く (日本六十余州 全国分寺を完全収録)
かみゆ歴史編集部
イカロス出版

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【福島・思い付き古代史探訪 2日目 その10】こう見えても元々は墳丘長72mの地域ナンバーワンの前方後円墳だった下総塚古墳【福島県白河市】

2019-10-12 07:53:58 | 歴史探訪
 本当なら今日(10月12日)と明日は、福島の古代史ツアーへ行っているはずでした。

 ところが、未曽有の台風の接近により、中止となってしまいました。

 今回のツアーは、稲用ツアーのヘヴィーユーザーの方々も多く参加する予定で、皆さまもそして私自身も大変楽しみにしていたので本当に残念ですし、また、会社側も売り上げが立たず、ステークホルダーは全員「負け」という状況です。

 しかし、こういうことは旅行の仕事の宿命ですし、地球の運動は私たちの力ではどうすることもできませんので、運が悪かったというしかありませんね。

 今回は吉野ヶ里にいる卑弥呼様の呪力も及ばなかったか・・・

 このツアーはまた日を改めて再募集するつもりですので、来年の春以降にはなってしまいますが、その時はぜひご参加ください。

 ということで、本日は今回行くはずだった遺跡の中から下総塚古墳をご紹介します。

 5月に下見に行った時の様子です。

*     *     *


 ⇒前回の記事はこちら

 それでは、下総塚古墳を見に行きます。

 下総塚古墳は10月12日に出発するツアーで探訪予定なので、バスを降りる場所や古墳まで歩く道筋まできちんと見ておかないといけませんね。

 古墳方向へ適当に走っていると、田んぼの中に墳丘らしきものが見えました。

 全然小さいので下総塚ではないはずですが、念のため確認しに行きます。

 少し離れたところに車を止めて、徒歩で近接。



 神様がいらっしゃいますね。



 愛宕神社のようです。



 東側の眺望。





 向こうの山々の手前、ここから700mくらい先には阿武隈川が流れています。



 大岳山チックな形状の山が見えますよ。



 西側。



 おや、あれが下総塚古墳か?



 雷電號へ戻り、さきほど見えた墳丘らしきものの方向へ向かいます。

 車で墳丘のすぐ近くまで行けるようですが、行った先がどうなっているか分からないので、念のため田んぼの中の一本道に路駐して歩いて行くことにします。

 車はほとんど来ない道ですし、路駐しても対向車はすれ違うことができる道幅です。

 では、行きますよ。



 台地側から見るとあまり墳丘は目立ちませんね。



 相当削られているな。

 説明板はちゃんとあります。



 白河舟田・本沼遺跡群と書かれていますが、この遺跡群には下総塚古墳のほかに、ここに書かれている舟田中道(ふなだなかみち)遺跡、それと先ほど訪れた谷地久保古墳および野地久保古墳が含まれています。

 下総塚古墳は、現状はかなり破壊されてしまっていますが、元々は72mもあるこの地域では最大規模の前方後円墳です。

 築造時期は6世紀後半ということで、説明板にも書いてある通り、白河国造の墓である可能性は高いですね。

 ちなみに、『先代旧事本紀』を元にこの周辺の国造分布図を作るとこんな感じになります(推測を含みます)。



 『日本の遺跡10 白河郡衙遺跡群』(鈴木功/著)によると、この近辺では古墳時代半ばの5世紀中ごろから後半にかけて一度住居が造られ、それが一時廃絶した後、下総塚古墳が築造された6世紀後半から再び住居が造られました。

 住居の数がどれくらいかは分かりませんが、下総塚のような立派な古墳を造るくらいですから、集落と呼べるくらいの数はあったのではないでしょうか。

 しかし、水の張られた田んぼっていいですね。





 墳丘に登っても、削られすぎてどこまで墳丘があってどの辺から周溝があったのかも判然としません。



 形状は自然でないので、石室に使われた石でしょう。



 ああ、いっぱいある。





 一応、いつものように後円部から前方部を見ます。



 ほとんど形が分からず無残だ・・・

 ここにも石が。



 東側にはさきほど訪れた愛宕神社が見えます。



 しかし、豊かな景色ですね。

 古墳時代からお米はたくさん取れたのかな?

 往時のことは分かりませんが、今はこの周辺はコメどころです。

 この地域は他の福島県域と比べて積雪が少ないらしいですよ。



 向こうに雷電號が見える。



 では戻りましょうか。

 お顔がちょっと汚れていますが、遺跡めぐりをすると外も運転席内もグチャグチャになることがありますよ。



 ここはツアーで来るときは、少し離れた広い道にバスを停めて歩いていただかなければなりませんね。

 そういうケースもたまにあるのですが、その場合は、歩くとしても平地であることを個人的な条件にしています。

 私のように40代とか50代くらいですと全然歩くのは平気な方が多いのですが、70代や80代の方々も参加されますので、そうなるとなるべく歩く負担が少ない遺跡を選択することになります。

 ちなみに、私が造る古墳ツアーではなく、もっとメジャーな遺跡を訪れる観光寄りの歴史ツアーの場合は、遺跡めぐりに慣れていないお客様が結構参加されて、バスから遺跡まで10分も歩くと苦情を頂戴することがあります。

 私の常識では遺跡めぐりは歩くものなのですが、人によってはその常識も通用しないということで、なるべくお客様の負担が少なくなるように最大限配慮してご案内するように心がけていますよ。

 では、次へ行きましょう。

 (つづく)


白河郡衙遺跡群―古代東国行政の一大中心地 (日本の遺跡)
鈴木 功
同成社

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【福島・思い付き古代史探訪 2日目 その9】王家の谷の奥部に佇む谷地久保古墳【福島県白河市】

2019-10-10 21:38:37 | 歴史探訪
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 なんだかよく分からない野地久保古墳の次はこの近くにあるという谷地久保古墳を見に行きます。

 ノヂの次はヤチ。

 でもクボであることに変わりは無い。

 先ほどの分岐点まで戻り、雷電號に乗って進めるだけ進みます。

 これ以上は無理かなと思う場所で降りて、あとは徒歩で捜索。

 しかし、周りを見渡しても墳丘は見えませんね。

 どっこにもありません。

 困った・・・

 あ!

 説明板らしきものが遠くに!



 近接してみます。



 確かに説明板だ。



 しかし、墳丘はありません。

 そっか、山寄形の古墳か!



 山寄形というのは、山の斜面を多少整形して、そこに横穴式石室を構築するタイプで、何しろ築造してから千数百年も経っていますから、形も崩れてしまってなんだかよく分からなくなっている場合がある古墳です。

 この石は何でしょう?



 説明板を読みます。





 古墳時代の終末期(7世紀)になると、その地域の王の墓は、この谷地久保古墳のように山奥にひっそりと佇んでいるケースが良く見られます。

 中には、隠されたように構築された古墳もありますが、谷地久保古墳の場合は、谷の奥まった場所にあって、反対に古墳から見下ろすとこの通りの眺望です。



 まさに、「王家の谷」ですね。

 あの森あたりが野地久保古墳がある場所かな?



 ところで、この古墳は終末期どころか、8世紀にはいる可能性があるということですが、さすがに8世紀、つまり奈良時代までは行かないんじゃないでしょうか。

 そして興味深いのは野地久保古墳との関係ですね。

 いろいろ想像できますが、この古墳はもう少し古い7世紀前半の白河国造の墓であって、この次に築造されたのが野地久保古墳で、そちらには大化改新以後の白河評司が眠っていると私は考えます。

 というのは、この「王家の谷」に古墳を築造するとしたら、まず奥の方のこの場所に造り、その次代を少し離れた場所(つまり野地久保古墳の場所)に築造すると考えるからです。

 もちろん造る人の趣味趣向までは分からないので、これはあくまでも私だったらそうするという考えの上で仮説を述べているにすぎません。

 ところで、石室にはもう入れませんね。



 谷地久保古墳は、古墳自体のヴィジュアルは弱いですが、「王家の谷」の景観はいいですね。

 でもここもクラツーのお客様をお連れするには難しそうです。

 では、次は下総塚古墳へ行きますよ。

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白河郡衙遺跡群―古代東国行政の一大中心地 (日本の遺跡)
鈴木 功
同成社

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【福島・思い付き古代史探訪 2日目 その8】確かなものは全国で6基しかない上円下方墳の一つ野地久保古墳【福島県白河市】

2019-10-10 20:55:01 | 歴史探訪
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 先日、古墳界の重鎮である広瀬和雄先生の講演を聴いたときに、先生が「野地久保古墳にまた行きたいなあ」と仰っており、最近特に興味がある終末期古墳でしかも上円下方墳ですから、私もぜひ見たいと思ってやってきました。

 正確な場所は分からないのですが、適当に走ってきたら標識を発見。



 山の上に道は続いていますね。

 ここからは歩いていくか。



 あった!



 あった・・・

 え、あった?

 ・・・墳丘らしきものはありませんよ。

 説明板は立派です。



 本当だ。

 図面では上円下方墳だ。



 しかしなんだかよく分からないなあ。

 近辺を歩いてみます。

 これは古墳の物だな。



 角度を変えて眺めても古墳という感じはしません。



 裏手に回ってみましょう。

 うーん・・・

 裏から見てもただの林ですね。

 墳丘は何処へ?

 調査時、すでに墳丘の東半分と上円部は破壊されていたそうなので無理もないことかもしれません。

 お茶を濁して上円下方墳コレクション!

 まずは、東京都府中市の武蔵府中熊野神社古墳。



 きれいに復元されていますね。

 実物大で復元された横穴式石室も見学できるので、都内近郊の方はぜひ行ってみてください。

 つぎに、東京都三鷹市の天文台構内古墳。



 宇宙関連が好きな方、ついでに見てきてくださいね。

 つづいて、埼玉県川越市の山王塚古墳。



 日本最大、一辺が63mの上円下方墳で、これから川越市がもっと力を入れて調査してくれることを信じています。

 そして、確実ではないのですが、蘇我馬子の石舞台も元々は上円下方墳だったといわれています。



 広瀬先生曰く「全国で唯一、石室の見学にお金を払う古墳」。

 今年の春に値上げして300円ですよ!

 でも文化財保護の観点からは、私たちも多少のカンパはする方がいいのではないかと思います。

 さて話を戻して、広瀬先生が喜んだ古墳を私も見ることができたので、留飲を下げて谷地久保古墳を探しに行きましょうか。

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白河郡衙遺跡群―古代東国行政の一大中心地 (日本の遺跡)
鈴木 功
同成社


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【福島・思い付き古代史探訪 2日目 その7】大網本廟跡・関和久官衙遺跡・借宿廃寺跡(白河郡衙遺跡群)【福島県泉崎村・白河市】

2019-10-10 20:37:35 | 歴史探訪
 明後日の土曜日から福島の古代史ツアーに行く予定なのですが・・・

 台風が・・・

 昨年は台風で2度ツアーが潰れました。

 明後日からのツアーは泉崎村の泉崎横穴の公開日に合わせて日程を決めたのです。

 今回ポシャってしまったらまた来年か・・・

 ヘヴィーユーザーのお客様も多数参加予定で、皆さま楽しみにしてくださっていますし、私自身も楽しみですので中止になったら非常に残念です。

 会社の方も経費だけ掛かって回収できないし、ツアーの仕事はこういうところが難点ですね。

 でも地球の現象には勝てないので、如何ともなし難しです。

 そんな絶望的な状況でも今日は14時間かけて当該ツアーのレジュメを作っていました。

 レジュメづくりは終わったので、探訪記事を一本アップします。

*     *     *


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 泉崎横穴の場所の確認ができたので、つづいて下総塚古墳を探しに行きますよ。

 大体の場所は手元の資料で分かるので、ひとまずそっちの方へ行ってみます。

 ん?

 説明板らしきものがある。

 駐車スペースもあるので寄ってみましょう。

 大網本廟跡?



 浄土真宗二世如信・・・

 おおーっ!

 完全に自分の知識外だ!

 確かに親鸞はビッグネームなのでほとんどの人が知っていると思いますが、二世となると知らないですね。

 親鸞の孫だったんですね。

 それはそうと、結城朝広の名が出てきますね。

 下総結城朝光の長男で、2代目を継いだ人物ですが、承久3年(1221)の承久の乱では北陸道の大将として活躍した武将です。

 結城氏は南北朝時代には庶流の白河結城氏が惣領になり、白河結城宗広が南朝側として後醍醐天皇の下で・・・

 おっと、南北朝時代を語ると長くなるので古代に戻ろう。

 もう一つ説明板があります。



 周辺遺跡の個別説明。







 いっぱいあるね。



 これらの遺跡は時間がある限りなるべく訪れてみようと思いますが、この説明板の主役はこちらです。

 関和久官衙遺跡。



 白河郡の郡衙跡ですね。

 おっと、ここに「白河軍団」と出てきました。

 軍団というと私の世代だと真っ先に思い出すのが「石原軍団」なわけですが、やたらに車が爆発したり拳銃を撃ちながらバイクに乗ったり、久しぶりに西部警察でも見たい気分を振り切って説明しますと、軍団というのは律令国家が定めた制度の一つです。

 軍団は全国各地に置かれ、徴兵された人がそれに配属されるのですが、陸奥国の場合はエミシの地に近いということで、とくに重点的に軍団が置かれました。

 時代によって定員が違ったりしますが、基本的には1000人で、陸奥の場合は最大で7つの軍団があったので、最盛期は陸奥国だけで常時7000名の兵力が動員できたということになります。

 彼らは一応、訓練もするので素人よりかは戦闘力が高いと思いますが、どうなんでしょうか。

 今現在も、白河軍団がどこに置かれたかははっきりと分かっていないようです。

 話を郡衙の方に戻します。



 遺跡は目で見られるものはないようですが、東門方向はこんな感じ。



 もうちょい南方向。



 説明板がある場所はこんな佇まい。



 そもそもこの場所は大網本廟跡。



 大網本廟跡についは説明できませんので、関和久官衙遺跡について述べますと、上の説明板に書いてあった通り、白河郡衙跡と考えられます。

 今の市役所は場所によってある程度自由に配置を含めて建物をデザインできますが、律令時代は基本的なフォーマットが決まっており、大別して郡司が政務を執るための政庁域と、集めた税などを治めておく正倉域に分かれます。

 政庁域は、正殿と脇殿2棟を「コ」の字配置にするのも基本なのですが、上の説明板を見ると、政庁域に関しては東門と南門、それに北側の柵列と溝が見つかっているようですね。

 東門はそこそこ格式の高い八脚門です。

 正倉域では溝が見つかっているようです。

 でも郡衙跡は礎石でも残っていればまだ良いのですが、大概はここみたいにヴィジュアル的に弱いのです。

 ですから、私みたいに郡衙が好きな「郡衙er」と呼ばれる人たち(?)は、想像力であっちの世界に行くわけです。

 あ、いま「あっち」と言いましたが、「こっち」もそうですが、一説には「ち」というのは日本の古語で「道」のことだそうです。

 「道」は「ち」に丁寧な「御」をつけて「みち」と呼んだのが始まりかもしれません。

 ところで、上の説明板にもありましたが、借宿廃寺跡と関和久官衙遺跡とを合わせて「国指定史跡 白河郡衙遺跡群」と呼びます。

 ついでなので借宿廃寺のことをお話ししますと、司東真雄先生は『東北の古代探訪 みちのくの文化源流考』の中で、奥州最古の寺院ではないかと考察しています。

 『日本書紀』を読むと、持統3年(689)正月3日、陸奥国優耆曇郡(みちのくのくにのうきたまのこおり=置賜郡)の城養の蝦夷脂利古(しりこ)の子麻呂と鉄折(かなおり)が出家を願い出て許されたという記事が出てきて、7世紀後半には米沢盆地に寺院が造られたことが想像できます。

 エミシへの仏像授与の記事はその後も連続して出てきて、天皇は同月9日には越(新潟県か)の蝦夷の僧道信に、同年7月1日には陸奥国の蝦夷の僧自得に仏像等を授けています。

 司東真雄氏は、単に仏像や仏具をあげて、ハイおしまい!ということは考えられないとして、寺院を建立したはずだと考え、上記の僧自得が借宿廃寺を建立したのではないかと推定しているのです。

 借宿廃寺跡からは7世紀末の塼仏(せんぶつ)と複弁六連文鐙瓦が出土しており、複弁六連文鐙瓦は、那須郡衙跡出土のものと似ていることから、那須郡衙の造営と同じ時期に白河に仏教文化が入ってきたと推定しています。



 ※那須郡衙跡(2017年5月20日探訪)

 該書は1980年に出版された本なので、この辺りの研究がその後どうなっているのかは分かりませんが、面白い推測ですね。

 ちなみに、その塼仏ですが、昨日福島県立博物館でレプリカを拝みましたよ。



 ※この日は結局、借宿廃寺跡を探訪することはできませんでした

 ※後日、9月23日に泉崎資料館を探訪し、関和久官衙遺跡と借宿廃寺跡の展示を見ました

 そういえば、下総塚古墳を見に来たんだっけ。

 でも志を変更して、谷地久保古墳を先に見に行きます。

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鈴木 功
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