いつものごとく、駅路の通行料を安く済ませたいので、3時40分に幕府を出て、3時50分には高尾山の関を通過しました。
圏央道では夜間の舗装工事をやっており、少し渋滞。
こんな夜中でも結構車が走っているのですが、そのほぼすべては物流関係の車です。
この人たちが夜中に頑張ってトラックを運転してくれているお陰で私たちの生活が成り立っているんだなあと感謝の気持ちで走るため、たまに追い越し車線を塞がれても怒らないようにしています。
バスとかもそうですが、大型の車を運転する人たちは自分たちの車が一般車と比べてもはるかに恐ろしい凶器になることを知っているので、むしろ一般のドライヴァーよりも慎重に運転しているような気がします。
トラックが車間距離を開けて走っているのは、一般車のようにクイックに止まれないためにそれを考慮して走っているわけですから、信号が多い道路でトラックの前に割り込むのは危ないからやめましょうね。
ところで、私の雷電は先日初の車検を通過し、ついでにエンジン制御のソフトウェアにもパッチを当ててもらいました。
こうやって操縦していても運動性能がアップしたのが分かります。
とくに停車状態からの発進のときの引っ掛かりが低下し、操舵も軽くなった気がします。
より一層、走るのが楽しくなった。
圏央道から関越というルートは上毛野方面に行くときにしょっちゅう走っているルートですが、前橋を過ぎたあたりから未知の道になっていきます。
そろそろ休憩を取ろうかな。
赤城山の駅家に入ります。
高原地帯ということもあって肌寒い。
駅家の敷地内を散歩。
もうすぐ日の出。
まだ5時過ぎですが、異様にお腹が空いている。
散歩して寒くなったので温かいものが食べたいなあ・・・
ということで醤油ラーメン!
美味いねえ。
お腹いっぱいになり、再び巡航開始。
少し走るとカーナヴィが「越後国に入りました(意訳)」と言祝ぎ、生まれて2度目の新潟県に侵入しました。
新潟には25歳の時に青春18きっぷを携え、東京を出発して、新潟、会津と乗り鉄をしたときに来たのが初めてです。
そのときの出発の前日、会社の忘年会で私が幹事だったのですが、渋谷の韓国料理屋「オジョリ」でたらふく飲み食いし、出発当日目覚めると風邪気味でした。
一日電車に乗っていると、どんどん体調が悪化していき、新潟について夕飯を食べるために寿司屋に入ったのですが、せっかく新潟で寿司を食べているのに味わうことができないという悲惨な状況でした。
そんななか八海山を飲んだところ、翌日の午後には風邪がよくなったので、私の脳内には、「風邪をひいたときは八海山」という思い込みが醸成されてしまいました。
あ、話を元に戻して、新潟にも気になる遺跡はたくさんあるのですが、近いのでいつでも行けると思っていて後回しになっていたところ、ようやく新潟の古代史めぐりができるということで、とてもワクワクしています。
前方が雲海チック。
本日の一発目として、八幡林官衙遺跡を目指しますよ。
長岡の追分で関越道は終わり、北陸道となります。
北陸道に入って最初の関所である中之島見附ICを降り、あとは下道。
わーい、越の国だー。
車から降りて早朝の越の国の空気を吸います。
では、事前に準備した地図を見ながら現地へ向かいますよ。
やった!
運よく、踏切が鳴った!
普段であれば踏切で遮られるとイラつきますが、旅先では電車が見られるので嬉しい。
しかしどちらの方向から来るのか示されていません。
音が近づいてきたと思ったら、左から湘南色が来ました。
色が変わった!
JR越後線です。
新潟方面へ向かっていったのですね。
7時半、八幡林官衙遺跡の付近までやってきました。
幕府を出陣してから約4時間ですね。
近いもんだ。
養鶏所の前までやってきて舗装道路が終了。
森の中へ道は続いていますが、この道は雷電では入って行けません。
歩いて行ってみましょう。
地面は結構湿っています。
蜘蛛ちんが巣を張って待ち構ているので、「ご免!」と言いながら木の枝で蜘蛛の巣を破壊しながら進みます。
ご苦労だけどまた作ってちょうだいね。
しかし、本当にここでいいのかなあ?
そう思い薄暗い林道を歩いていると、標柱らしきものを発見。
よし、見っけ!
八幡林官衙遺跡です。
官衙(かんが)というのは役所のことで、とくに律令時代(7世紀後半から10世紀)の役所のことをそう呼びます。
ということで、こちらはその名の通り律令時代の遺跡で、1990年の発掘にて「沼垂城(ぬたりのき)」と記された木簡が出た場所なのです。
沼垂城は「渟足柵」とも表記しますが、エミシの歴史を追い始めてからずっと気になっている城柵で、今回の旅で跡地をめぐる予定なので、その名前が記された木簡が出土した場所をどうしても見たくてやってきました。
立地的には、信濃川の支流である島崎川の流域にあたり、川の左岸の丘陵上になります。
その後の調査により、この遺跡は古志郡衙の郡庁の一部分か、もしくは大領(たいりょう)と呼ばれる郡の長官の館だった可能性が高まり、かつ古代北陸道の駅家(うまや)もほど近い距離にあることから、この遺跡の性格付けについていろいろと考察されているようです。
そのような重要性から、1995年に国史跡に指定されました。
もう少し周辺を探ってみましょう。
おや、芝生の広場が見えますよ。
道の駅「良寛の里わしま」の敷地に入っちゃいました。
道の駅から見る遺跡方面。
元に戻り、周囲を探ってみましょう。
いたるところに蜘蛛ちんが罠を仕掛けているので注意して歩きます。
しかし、他にヴィジュアル的に訴えかけるものはないようですね。
車へ戻ります。
途中、看板を見かけた与坂城跡も気になりますが、次は同じ長岡市内の藤橋遺跡へ向かいましょう。
⇒この続きはこちら
Coaltar Of The Deepers (コールター・オブ・ザ・ディーパーズ) – Penguin EP
圏央道では夜間の舗装工事をやっており、少し渋滞。
こんな夜中でも結構車が走っているのですが、そのほぼすべては物流関係の車です。
この人たちが夜中に頑張ってトラックを運転してくれているお陰で私たちの生活が成り立っているんだなあと感謝の気持ちで走るため、たまに追い越し車線を塞がれても怒らないようにしています。
バスとかもそうですが、大型の車を運転する人たちは自分たちの車が一般車と比べてもはるかに恐ろしい凶器になることを知っているので、むしろ一般のドライヴァーよりも慎重に運転しているような気がします。
トラックが車間距離を開けて走っているのは、一般車のようにクイックに止まれないためにそれを考慮して走っているわけですから、信号が多い道路でトラックの前に割り込むのは危ないからやめましょうね。
ところで、私の雷電は先日初の車検を通過し、ついでにエンジン制御のソフトウェアにもパッチを当ててもらいました。
こうやって操縦していても運動性能がアップしたのが分かります。
とくに停車状態からの発進のときの引っ掛かりが低下し、操舵も軽くなった気がします。
より一層、走るのが楽しくなった。
圏央道から関越というルートは上毛野方面に行くときにしょっちゅう走っているルートですが、前橋を過ぎたあたりから未知の道になっていきます。
そろそろ休憩を取ろうかな。
赤城山の駅家に入ります。
高原地帯ということもあって肌寒い。
駅家の敷地内を散歩。
もうすぐ日の出。
まだ5時過ぎですが、異様にお腹が空いている。
散歩して寒くなったので温かいものが食べたいなあ・・・
ということで醤油ラーメン!
美味いねえ。
お腹いっぱいになり、再び巡航開始。
少し走るとカーナヴィが「越後国に入りました(意訳)」と言祝ぎ、生まれて2度目の新潟県に侵入しました。
新潟には25歳の時に青春18きっぷを携え、東京を出発して、新潟、会津と乗り鉄をしたときに来たのが初めてです。
そのときの出発の前日、会社の忘年会で私が幹事だったのですが、渋谷の韓国料理屋「オジョリ」でたらふく飲み食いし、出発当日目覚めると風邪気味でした。
一日電車に乗っていると、どんどん体調が悪化していき、新潟について夕飯を食べるために寿司屋に入ったのですが、せっかく新潟で寿司を食べているのに味わうことができないという悲惨な状況でした。
そんななか八海山を飲んだところ、翌日の午後には風邪がよくなったので、私の脳内には、「風邪をひいたときは八海山」という思い込みが醸成されてしまいました。
あ、話を元に戻して、新潟にも気になる遺跡はたくさんあるのですが、近いのでいつでも行けると思っていて後回しになっていたところ、ようやく新潟の古代史めぐりができるということで、とてもワクワクしています。
前方が雲海チック。
本日の一発目として、八幡林官衙遺跡を目指しますよ。
長岡の追分で関越道は終わり、北陸道となります。
北陸道に入って最初の関所である中之島見附ICを降り、あとは下道。
わーい、越の国だー。
車から降りて早朝の越の国の空気を吸います。
では、事前に準備した地図を見ながら現地へ向かいますよ。
やった!
運よく、踏切が鳴った!
普段であれば踏切で遮られるとイラつきますが、旅先では電車が見られるので嬉しい。
しかしどちらの方向から来るのか示されていません。
音が近づいてきたと思ったら、左から湘南色が来ました。
色が変わった!
JR越後線です。
新潟方面へ向かっていったのですね。
7時半、八幡林官衙遺跡の付近までやってきました。
幕府を出陣してから約4時間ですね。
近いもんだ。
養鶏所の前までやってきて舗装道路が終了。
森の中へ道は続いていますが、この道は雷電では入って行けません。
歩いて行ってみましょう。
地面は結構湿っています。
蜘蛛ちんが巣を張って待ち構ているので、「ご免!」と言いながら木の枝で蜘蛛の巣を破壊しながら進みます。
ご苦労だけどまた作ってちょうだいね。
しかし、本当にここでいいのかなあ?
そう思い薄暗い林道を歩いていると、標柱らしきものを発見。
よし、見っけ!
八幡林官衙遺跡です。
官衙(かんが)というのは役所のことで、とくに律令時代(7世紀後半から10世紀)の役所のことをそう呼びます。
ということで、こちらはその名の通り律令時代の遺跡で、1990年の発掘にて「沼垂城(ぬたりのき)」と記された木簡が出た場所なのです。
沼垂城は「渟足柵」とも表記しますが、エミシの歴史を追い始めてからずっと気になっている城柵で、今回の旅で跡地をめぐる予定なので、その名前が記された木簡が出土した場所をどうしても見たくてやってきました。
立地的には、信濃川の支流である島崎川の流域にあたり、川の左岸の丘陵上になります。
その後の調査により、この遺跡は古志郡衙の郡庁の一部分か、もしくは大領(たいりょう)と呼ばれる郡の長官の館だった可能性が高まり、かつ古代北陸道の駅家(うまや)もほど近い距離にあることから、この遺跡の性格付けについていろいろと考察されているようです。
そのような重要性から、1995年に国史跡に指定されました。
もう少し周辺を探ってみましょう。
おや、芝生の広場が見えますよ。
道の駅「良寛の里わしま」の敷地に入っちゃいました。
道の駅から見る遺跡方面。
元に戻り、周囲を探ってみましょう。
いたるところに蜘蛛ちんが罠を仕掛けているので注意して歩きます。
しかし、他にヴィジュアル的に訴えかけるものはないようですね。
車へ戻ります。
途中、看板を見かけた与坂城跡も気になりますが、次は同じ長岡市内の藤橋遺跡へ向かいましょう。
⇒この続きはこちら
Coaltar Of The Deepers (コールター・オブ・ザ・ディーパーズ) – Penguin EP
渟足の渟なんですけど、この字出てくるんですね。結構大事な字だと思うんですよね、奈良だか近畿でも。太田氏関係してくるかな?個人的のワークで関わる地の字が出てきたんで超楽しみです。蘇我氏関係にも関わるんじゃないかな?とは思ってます。歴史上とても大事な時期にその辺り関わっていないかなぁ?と。
でその上飯豊まで関わってくると更に勝手に盛り上がってきます。山形にも通じるので7世紀より前で何か分かるのでは?と。三島とおおやまつみでお水とお山とでワクワクします。楽しみにしてますよ。
八幡の文字もありますね、越や古志とも連動してきそうに思うんですよね。多摩川あたりとも関わって来るんだとも思ってます。
そうそうラグビーが調布で開幕戦だったんですけどあの辺りとニュージーランドが横浜でハカっていうのもなんか関わってくるんだろうなあと思っちゃいました。
ハカとお相撲はにわあたりで群馬にも阿賀野川からちょっとたどってみたい今日この頃です。
マオリ族日本に古代に来てませんかね?
タイミング的に勝手に楽しんでおります。
古墳遺跡の遺物で辿って何か分かると日本の歴史も盛り上がるでしょうね。
ニュージーランドとドイツ(スイスに近い方)と日本(安曇野や上高地)とカナダの自然はなんか魅力とてもありまして、火山への信仰とか地形への知識など個人ワークで追っている民族の気配は感じてしまってます。相撲からラグビーに興味が移りましたよ。
ただ今日御嶽海が勝ったみたいですね。御嶽山と聞くとどうも八海山って連動しちゃうんですよ。八海山が稲用さんにはいいパワー与えるんですね!ありかも?って思いましたよ。鏡や金属系の民族も見えてくるんじゃないかな?本当ワクワクしておりますね。
アルプス一万尺、小槍の上でっていつ出来たうたなのかなあ?アメリカなの?小槍とかってドイツでもなんかありそう。ファミリーの山もありましたね。山に対する信仰なのかな?父は伊豆の寝姿山好きでした。
で今天児屋命アマノコヤネさんをやたらたどってます。小槍さんっぽく思ってきましたよ。人間ウォッチからは稲用さんも関わりそうに思うんですよね。鉄道好きなんですね〜、さっきスイスのベルニナ鉄道やってましたけど山と移動と愛車の雷の付くお名前も不思議深読みしています。
新しい考古学ファンいっぱい出てくると実は自分の住んでいる土地も古代って探求と感謝にも繋がり愛着も全国各地で出てくるでしょうね。灯台下暗しって自分の各々が住んでいる所に最後は戻るのかも?ですけどそれが分かるまで各地に眠っている物いっぱい知りたいです。視点がとても好みと合致しています。どうぞ宜しくお願いいたします。