日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

総社二子山古墳/総社古墳群|群馬県前橋市 ~総社古墳群最後の前方後円墳~

2020-08-29 10:08:37 | 歴史探訪


 

 総社二子山古墳は、総社古墳群の前方後円墳としては最後に築造された墳丘長90mの大型前方後円墳で、前方部と後円部の2ヶ所に横穴式石室を設けていますが、現在は石室を見ることはできません。

到達容易
墳丘登頂可能
石室観察不能
周堀観察可能
簡単な説明板あり

お勧め度:

 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


群馬県前橋市総社町植野368



現況


墳丘登頂可能
石室非公開

史跡指定


国指定史跡
史跡名:二子山古墳
指定日:昭和2年4月8日

出土遺物が見られる場所


総社歴史資料館にてパネル展示が見られる

 

2.諸元                             


築造時期


6世紀後半
前方後円墳集成編年:10期

墳丘


形状:前方後円墳
墳丘長:89.8m
後円部径:44.2m、高7.5m
前方部幅:60m、長45.6m、高8m
段築:前方部・後円部ともに2段
葺石:河原石使用
埴輪:円筒Ⅴ式

主体部


主体部1:横穴式石室(両袖型・自然石乱石積み) 木棺
主体部2:横穴式石室(両袖型・削り石互目積)

出土遺物


メノウの勾玉や頭椎大刀など多数

周堀


方形もしくは楯形

 

3.探訪レポート                         


2015年5月4日(月)



この日の探訪箇所
総社二子山古墳 → 総社愛宕山古墳 → 光巌寺 → 宝塔山古墳 → 蛇穴山古墳 → 総社城跡 → 遠見山古墳 → 山王廃寺跡 → 上野国分尼寺跡 → 上野国分寺跡 → 妙見寺および妙見社 → 上野国府跡 → 蒼海城跡 → 宮鍋神社 → 大友神社 → 総社神社 → 石倉城跡 → 王山古墳 → 前橋城跡 → 前橋八幡


総社古墳群まで3時間15分の乗り鉄


 今回は2泊3日の予定で、群馬県内をめぐります。

 予定しているルートとしては、初日に総社古墳群や国府・国分寺を見て「律令群馬」のコア部分を学習し、2日目からはいよいよ路歩き、国府の南門想定地から出発してまっすぐ南下し、初期の東山道にぶつかったら東進、伊勢崎方面まで歩き、最終日は伊勢崎市から太田市方面へ歩き新田の郡家などを見る予定です。

 さて、早起きは慣れっこになっているので、5時に起床して、高尾駅5時55分発の中央線に乗り込みます。

 高尾駅の2番線には老朽化した115系に代わって導入が始まった211系が停まっていました。



 でも、211系ももう古い感じがしますね。

 今日は211系には乗らずに、左の快速に乗ります。

 八王子駅では八高線に乗り換え。



 私は朝に電車に乗ると必ず眠りますが、眠っていたらアナウンスで「人身事故」という言葉が聞こえてきて、ビクッとして起きました。

 電車はいま、東飯能駅の手前ですが、八高線ではなく西武線の事故でした。

 こういうと不謹慎ですが、八高線じゃなくて良かったです。

 拝島駅からは、ゴルフが好きそうな社長っぽい感じの体格の良いおじさんと色白で華奢な中学生くらいの男子の親子が乗ってきました。

 しかし、父はスポーツ新聞を読み息子はゲームに夢中。

 結局高麗川駅まで一言も会話をしませんでした。

 なんか、こういう他所よそしい親子ですが、外に出ると様相が変わる親子もありますから、本当の親子仲は分かりません。

 高麗川では6時58分のキハ110系に乗り換えです。

 たまにしか乗れないディーゼルカー。

 運よくクロスシートに座ることができたので、早速コンビニで買っておいた朝ご飯を食べます。

 車内で食べるご飯はまた格別ですよね。

 サンドイッチを頬張りながら車内を見渡すと、「JR八高線 写真展示列車 2015」と称して、壁の天井近くに鉄道写真がたくさん貼ってあるのに気付きました。



 どうやら高校生が撮った写真のようですが、どれも上手く撮れていて、鉄道カレンダーに載せられそうなプロ並みの情緒ある写真も多いです。

 最近では車内に貼る広告も少なくなってきたので、殺風景な車内にしているよりか、こういうふうに使うのもよいアイデアですね。

 そういえば、昨日テレヴィで見ましたが、最近は若い女の子にも鉄道好きが広まっているようですね。

 少し前は、小さい子供さんがいる若いママたちの間でも、子供といっしょに電車を見に行っているうちに電車が好きになる人がいるというのをやっていましたが、私の娘もチビチビのころからよく私の部屋で鉄道の写真集を見ていたり、小学生の時は鉄道マニアの同級生の話なんかをよく家でしていました。

 ちょうど今は会津に行っていますが、今でも鉄道は好きみたいで、行きは新幹線を使い、帰りは在来線で栃木に南下し、その後は東武の特急で帰ってくると言っていました。

 お、あっという間に小川町駅。

 まだ7時25分です。

 高尾駅からはまだ1時間半しか経っていません。

 隣のホームには東武線がとまっています。

 東武線に乗り換えれば、一つ隣は菅谷館跡や杉山城跡がある嵐山駅です。

 この辺までは昨年の秋からちょくちょく来ているので、あまり遠い感じがしません。

 7時40分、折原駅着。

 山頂に大砲を据え付けて、鉢形城を砲撃したと伝わる車山が進行方向左手に見えます。

 昨年秋に鉢形城跡を探訪したのは、このサイトでもご紹介していますが、鉢形城跡に行くにはここで降りてテクテクと歩いていくのがお勧めです。

 ただし、折原駅にはトイレがないので、降りる前に車内で済ませましょう。

 折原駅を出発すると、鉢形城跡を通過!

 氏邦さんこんにちは!

 荒川を渡ってぐるっと回り込むようにして寄居の街に進入し、7時46分寄居駅到着。

 おや、向こう側にはクリーム色の昔の東武線を思わせる電車が止まっているぞ!

 秩父鉄道だな。

 さあ、ここから先に行くのは今日でまだ2度目です。

 最初に来た時から2年経っています。

 車窓の風景は今までとは違って視界が開け、かなり広い平野が広がります。

 この平原を氏邦たちは馬で駆けていたはずだし、もっと前は武蔵七党が活躍していたわけです。

 少し陽が差してきました。

 8時0分、児玉駅に到着。

 武蔵七党の児玉党の故地です。

 ところで、児玉という地名に関しては、椚國男さんは、「東山道武蔵路以前の多摩」(『多摩のあゆみ 第八十八号』所収)で、「古い多摩」の意味だとしています。

 椚さんによると、武蔵国には3つの「たま」があり、「多磨」と「埼玉(さきたま)」と「児玉」で、「たま」は水田地を意味する「田間」のことだといいます。

 つまり、北に古い多磨、東に先(前)の多磨、南西にそのものの多磨があり、それらの真ん中の原野に入間があり、その地には後に半島にルーツを持つ人びとが多く入植してくることになります(奈良時代の高麗郡と新座郡の建郡)。

 そう考えると、令制国を設置するときに、名称は武蔵国ではなく「多磨国」にしても良かったかもしれませんね。

 私の場合は、武蔵国内の加美郡(「上」を意味する)のすぐ南に那珂郡があり、那珂郡の位置が「中」にしては極度に北に偏っているので、令制国の武蔵国ができる前は武蔵は南北に分かれていて、その時代の地名の名残が那珂郡ではないかと思っていましたが、椚さんの説を聴くと、古い多磨、つまり古田間が、令制国の前に政治的な塊になっていて、その中での「上」や「中」として考えてもよいと思いました。

 8時5分に次の丹荘駅に到着しました。

 児玉と同じく武蔵七党の丹党の故地です。

 昔、秋田県鹿角市の中世土豪を調べたことがあり、鹿角四頭の一つ円子氏は丹党出身だったので、当時丹党について少し調べたことがあります。

 このあたりまでくると、上野国はすぐ近く。

 8時8分、神流川を渡って上野国に入りました。

 しかし景色はほとんど変わりません。

 武蔵北部と上野南部は地勢的にはシームレスですね。

 8時11分、群馬藤岡駅に到着。

 この辺は住宅も多いし、久しぶりに市街地に入った感じです。

 イトーヨーカドーもあります。

 そうかと思っていると今度はまた田園地帯になりました。

 そして、再度住宅街となり、8時15分に北藤岡駅に到着。

 烏川を渡河します。

 烏川は橋の西側で二股に分かれています。

 右が本流で左が鏑川ですね。

 いや、正確には二股に分かれているのではなく、本流と鏑川が合流してるというのが正解です。

 8時20分に倉賀野駅に到着。

 ここからは電化区間となります。

 倉賀野からは高崎線に乗り換えることもできますが、先日上野東京ラインが開通したので、高崎からは一気に小田原まで行ってしまえるようになりました。

 後北条氏の最北の拠点から本城・小田原まで一本なんですよ!

 工場が立ち並ぶ工業団地を抜けるとそろそろ終点の高崎駅です。

 左手にノッポな高崎市役所のビルが見えます。

 8時25分、高崎駅到着。

 110系、今日もありがとう!



 反対側ホームには普段見ない電車が。



 と思ったら211系でした。

 色が違うので気付かなかった・・・

 高崎では上越線に乗り換えです。

 上越線に乗るのは初めてです。

 ホームで待っていると、107系が入線してきました。



 あれ、でもこの電車は何か変な感じが・・・

 入ってくる電車を眺めていて違和感を感じます。

 隣の電車と一緒に。



 電車に乗り込み座ると、私の好きな「ふわふわシート」です。

 最近の電車の椅子は皆硬いですが、昔はこういう柔らかい椅子でした。

 8時46分に電車は出発。

 走り出して車窓を眺めると、先ほど感じた違和感の訳が分かりました。

 窓が異様に汚れているのです!

 うわー、拭きたい。

 そう思っていると、井野駅の近くに私が勤める会社の他のお店の車が止まっていました。

 どこのお店の車だろうか?

 8時57分に新前橋駅に到着。

 やたらに高いビルが見えますが、群馬県庁、つまり現代の上野国庁ですね。

 新前橋駅から工業地帯を北上し、ようやく本日の最初の目的地である群馬総社駅に着きました。

 ちなみに、ドアは手動です。

 時刻は9時1分なので、家を出てから大体3時間15分くらいですね。

 さすがにこれくらい電車に乗っていると、ちょっと遠くまできた感があります。

 ホーム間の跨線橋を渡っていると、北側から電車が進入してくるのに気付きました。



 もちろん、来るのを待って激写。



 こうやって上から電車を見ると、子供のころに夢中になったNゲージを思い出します。

 群馬総社駅は東側に改札があります。



 駅前はこんな感じ。



 それでは、最初の目的地である総社二子山古墳を目指しましょう。

上野国府誘致勢力の墓域に進入


 群馬総社駅を出て、南に延びる道を歩きます。



 おや、神社がありますよ。

 説明板を見ると立石諏訪神社とあり、社殿は最近造り直したようですね。



 神社の創建時代は江戸初期で、獅子舞が前橋市の指定重要無形民俗文化財に指定されているそうです。

 ただ、私は着目したのは「立石」という地名です。

 これは古代の道の近くにありがちな地名なのですが、現在のところまだその辺については調べがついていません。

 県道15号線を東へ向かうと、すぐに「二子山古墳」を指し示す標識がありました。

 標識に従って右折すると、前方にこんもりとした森が。



 あれがそうでしょう。

 近づくと、目の前に墳丘が現れました。



 よし!

 説明板も設置してあります。



 しかし、墳丘の復元図が載っているのは良いですが、あまりにも説明が淡白すぎますね。

 それと、初めて来た人のために現在地くらいは表示しておいて欲しいものです。

 と、一応文句を言ってみましたが、総社二子山古墳は総社古墳群に含まれる古墳で、墳丘長89.8mを誇る古墳時代後期の前方後円墳です。

 私は北の方からやってきたわけですから、今は前方部側にいます。

 上の図でいうと、左上に来たわけですが、横穴式石室が設けられている古墳は、ほとんどの場合石室は南側に開口しているため、それで方角を知ることができますよ。

 「史蹟」の標柱が神々しく佇立していますね。



 通常、単に史蹟(史跡)といった場合は、国指定のものを指します。

 つまり国家が未来永劫に渡って保存を決めた歴史スポットというわけで、指定された場合は破壊行為である発掘調査は容易にできなくなります。

 古墳王国の群馬県には史蹟の古墳が17個もあり、その一つがここ総社二子山古墳です。

 なお、「二子山古墳」という名前は全国に沢山あるので、地名を現す「総社」を冠して呼び名としていますが、正式な史跡名は「二子山古墳」です。

 ではさっそく墳頂を目指すと、2段築成になっているのが分かります。

 2段目テラス部分。



 さらに上がり、前方部の墳頂から後円部を見ると、ほとんど高低差がありませんね。



 スペック上は前方部の高さは8mで後円部は7.5mですが、こうやってみると差がほとんど分からず、さらに後円部の径が44.2mなのに対し、前方部の幅が60mもあって、まさしく後期古墳らしいどっしりとしたフォルムをしています。

 南東側の至近に見えるのは次の目的地である総社愛宕山古墳でしょう。



 墳丘から周りを眺めると、住宅が1~2軒立つ広さで古墳を全周するように等幅の帯状の区割りがあります。



 ※写りこんでいるボールペンの先端は気にしないでください。

 入口の説明板にも周溝があると書かれていたので、周溝の跡でしょうか。

 総社二子山古墳には紫色の花が咲いています。



 見渡すと、墳丘のところどころに咲いていて、綺麗ですね。

 後円部のテラス部分に降り、前方部の方を見ます。



 説明板の図で見た通り、前方部と後円部にそれぞれ1か所ずつ横穴式石室が設けられていますが、現在は見ることはできません。

 墳丘から降り、周辺を探ってみると、先ほど見た帯状の区割りの外側にも周溝跡に見える地形があります。



 でもさすがにここまで周溝だったら広すぎますね。

 それでは、総社愛宕山古墳へ行ってみましょう。

 

4.補足                             


総社古墳群の築造順 2020年4月3日


 総社古墳群の古墳を築造順に並べると、最初は6世紀初頭に造られた王山古墳で、つづいて6世紀第3四半期~第4四半期にこの総社二子山古墳ができて、以降、終末期の7世紀に方墳の総社愛宕山古墳、宝塔山古墳、蛇穴山古墳と続きます。

 問題は調査がされていない遠見山古墳と、王河原山古墳という調査されずに湮滅してしまった前方後円墳の位置づけですが、王山古墳と総社二子山古墳の間が少し空いているので、この2基がそこに入りこむ可能性があるとの指摘が従来からありました。

 しかし、最近の前橋市の見解では、遠見山古墳の築造時期を王山古墳よりも前と考えており、湮滅した王河原山古墳を除くと、下図のように考えています。


※『東国の雄 総社古墳群』(前橋市教育委員会/編)より転載

総社二子山古墳と同時期の近隣勢力との関係 2020年8月29日


 総社二子山古墳は、この地域で造られた最後の前方後円墳ですが、そもそも中央では6世紀の最初の頃から徐々に前方後円墳は造られなくなってきており、6世紀におけるこの規模の前方後円墳の数は、大和や河内といった中央よりも、上野の方がはるかに多いのです。

 その理由はまだ解明されていませんが、単に流行の伝播が遅いということでは無さそうで、何かしら政治的な意味があったと考えられます。

 総社二子山古墳が築造された6世紀後半の時点では、その被葬者はこの地域の有力者であったことには間違いありませんが、もう少し広い範囲で見てみると、似たような規模の古墳として高崎市の綿貫観音山古墳(墳丘長97m)があります。


※綿貫観音山古墳(2020年8月22日撮影)

 両者は石室の構造に共通点が見いだせることと、綿貫観音山古墳から出土した頭椎大刀(かぶつちのたち)と瓜二つのものが総社二子山古墳からも出土しています。


※総社歴史資料館にて2017年10月25日に撮影

 上の写真は総社歴史資料館で撮ってきた二子山古墳出土の頭椎大刀の絵図とそれを元にした復元品です。

 原品は所在不明になってしまったのですが、幸いなことに精密な模写が残っていたため、それを元に復元品を造ることができました。

 観音山と二子山とどちらが力があったかですが、墳丘の大きさはほぼ互角であるものの、現状分かっている範囲では観音山の副葬品の豪華さがズバ抜けており、観音山の被葬者は朝鮮半島で百済の王族とも直接コミュニケーションが取れる立場だったことも想定できるため、二子山の被葬者は観音山の被葬者を盟主とする勢力内の有力なメンバーだったと考えられます。

 もしかすると、二子山の被葬者は観音山の被葬者に率いられ、一部隊を任される立場として半島へ渡ったことがあるかもしれません。

 なお、観音山を盟主とする勢力の領域は、おおむね広瀬川(当時の利根川)とその支流烏川とに挟まれた地域と想定され、その地域にある前方後円墳はみな同じ形式を持っており、その範囲から外れるとまた違う形式となります。

 さらに、他地域の勢力の動静を探ると、利根川支流の粕川流域勢力として前橋市内にある大室古墳群の存在がありますが、この勢力は6世紀初めごろに墳丘長94mで二重周溝を持つ前二子古墳を築造し、続いて築造された中二子古墳の墳丘長は111mまで拡大し、これも二重周溝を持つことから、大きな力を持っていたことが分かります。

 ところが、総社二子山古墳と同時期に築造された後二子古墳の墳丘長は85mとなり、周溝も一重となっていることから、少し力を落とします。

 とはいえ、この時点では総社古墳群と同じくらいの力を持つ、一方の雄であったことが分かります。


※後二子古墳(2017年4月2日撮影)

 さらに、5世紀後半から隠然たる力を持っていたと考えられる高崎市の八幡古墳群では、総社二子山古墳より一世代ほど遅れる形で、全長15.8mという巨大な横穴式石室を備えた観音塚古墳を築造し、存在感を見せつけています。


※八幡観音塚古墳の横穴式石室(2017年4月2日撮影)

 八幡観音塚古墳群の素晴らしい横穴式石室を見ると、総社二子山古墳の石室はどのようになっていたのか大変興味深いですが、後円部と前方部にそれぞれ1か所ずつある石室は、後円部の方が大きく、残存値で全長が9.4mです。

 ただし、玄室の大きさは6.8mあることから、石室内で最も重要だと考えられる玄室の大きさを見ると、総社二子山古墳の石室も決して小さいとは言えないでしょう。

 鮮明な画像でなくて申し訳ないですが、二子山古墳の石室については、総社歴史資料館のパネル展示の写真を示します。


※次に行ったときに撮りなおしてきます・・・

 このように6世紀の段階では、近隣には大きな勢力が拮抗している状況でしたが、7世紀になると俄然総社古墳群の勢力の存在感が増し、やがて律令国家が国府を設立する際にはそれを自分の勢力圏に誘致することに成功します。

 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『群馬県史 資料編3 原始古代3』 群馬県史編さん委員会/編 1981年
・『群馬県史 通史編1 原始古代1』 群馬県史編さん委員会/編 1990年
・『多摩のあゆみ 第八十八号』 1997年
・『古墳とヤマト政権』 白石太一郎 1999年
・『季刊考古学・別冊17 古墳時代毛野の実像』 右島和夫・若狭徹・内山敏行/編 雄山閣 2011年
・『東国の雄 総社古墳群』 前橋市教育委員会/編 2017年
・「国指定文化財等データベース」 文化庁
・「前方後円墳データベース」 奈良女子大学


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