⇒前回の記事はこちら
巨大な円墳である甲山古墳の大きさを堪能した後は、東松山市域に入り、雷電山古墳を目指します。
目標は川越CCです。
ゴルフ場へ向かう道をニョロニョロと登っていくと、大雷神社を指し示す看板がありました。
神社の境内に車を停めて散策開始です。
まずは説明板から。
三千塚とは大きく出ましたね!
実際にそう呼ばれるくらいの数多くの群集墳があったのでしょう。
似たような名前の古墳群は日本各地にありますが、せめて「千塚」ですよ。
クラツーでは、奈良県橿原市の新沢千塚古墳を何度かご案内しています。
※新沢千塚古墳群から見る畝傍山。
なお、新沢千塚古墳群を見学するツアーは、3月21日出発と5月16日出発が現在販売中ですので、気になった方はこちらで詳細を確認してください。
さて、雷電山古墳の形状はこの通り、帆立貝型古墳ですね。
後円部の北西方向に前方部が伸びています。
説明板によると墳丘長は80mということですが、85mという説もあります。
築造時期は5世紀初頭とあり、前方後円墳集成編年では5期にあたり、埼玉県内では雷電山古墳が築造された時点では、4期の前方後円墳である野本将軍塚古墳が最大で、その次がこの雷電山古墳になります。
雷電山古墳からは埴輪が見つかっているのですが、それが県内最古の埴輪とのことです。
実はその実物は私は見ていないので偉そうなことは言えないのですが、ちょっと変わった形状をしているとのことで、また、説明板にある通り底部穿孔の土器が見つかっていることもあり、中期とはいえ前期の雰囲気を引きずった古墳なのかもしれません。
おや、この標柱は古そうだ。
おー、明治45年!
では、ここで周辺地形の確認。
さきほどの甲山古墳とともに、丘陵の高所に君臨しているのが良く分かりますね。
それでは、墳丘へ向かいます。
ここもまた、墳丘は神社となっています。
大雷(だいらい)神社。
大雷神社の祭神は、大雷命(おおいかづちのみこと)で、いわゆる雷様のことでしょう。
埼玉県には雷様を祀った神社が多く、平野部であるので昔から雷が恐れられていたということが分かります。
墳頂に社殿があります。
中期の古墳なので、この社殿の下に竪穴式石室があるんでしょうね。
雷電山古墳の墳丘長は85mですから、この大きさは東京でいえば世田谷区の野毛大塚古墳をイメージすればいいでしょう。
※野毛大塚古墳を訪れるツアー・レジュメの表紙に使用しているコラージュには野毛大塚古墳をフィーチャーしています。
私と一緒にクラツーの宗像のツアーに来てくださった方は、新原奴山古墳群の22号墳がちょうどこれくらいの大きさです。
※墳頂のこの小祠は今はありません。
ちなみに、新原奴山22号墳は、地元の学芸員さんによると今後きれいに整備する予定があるとのことですよ。
前方部が伸びている方向を見下ろします。
前方部がそこそこの長さがあったとしても、帆立貝型古墳の場合は、その高さが著しく低いため、私は前方後円墳と呼ぶことはできません。
前方部側に降りると、道路の方にもう一つ説明板がありますよ。
前方部には土俵があったんですね。
帆立貝型古墳は、古墳時代中期(おおむね5世紀)になってから現れた新型デザインなのですが、時期的には形象埴輪の出現の後であるので、円墳に形象埴輪を使った祭祀の場を作るために、造り出しよりも大きなこういった前方部が造られたとの説があります。
なお、古墳時代の話は、基本的に「説」ですよ。
本当のところは誰にも分からないということが多すぎるのです。
そのため、偉い先生も私たちのような在野の研究家も皆「平等」に好きなことが言えるところが面白いところなのです。
ちなみに、形象埴輪の一つの種類で人物埴輪がありますが、そのなかには力士の埴輪もありますので、前方部に土俵を造ったというのはある意味、古代の祭祀を踏襲しているともいえるでしょう。
そういえば、今日は大相撲の千秋楽です。
相撲の話で盛り上がります。
この前方部から見たアングルというのは、前方後円墳の場合は最も素敵なアングルなのですが、帆立貝型でも雷電山古墳はこの角度が映えますね。
今までいつくかの帆立貝型古墳を見ていますが、私が見た中では雷電山が一番素敵。
古墳好きにはとてもお勧めしたい古墳です。
いやー、良かった!
これで本日はすでに3基の古墳を見ました。
今回の探訪は当初は徒歩でめぐる予定だったのですが、その場合は以上の3基を見ることはできませんでした。
個人的にはこの雷電山古墳の探訪は懸案事項となっていたので、今回はオーメンさんが車を出してくださり、本当にありがたいです。
では続いて、野本将軍塚古墳へ行きましょう。
⇒この続きはこちら
巨大な円墳である甲山古墳の大きさを堪能した後は、東松山市域に入り、雷電山古墳を目指します。
目標は川越CCです。
ゴルフ場へ向かう道をニョロニョロと登っていくと、大雷神社を指し示す看板がありました。
神社の境内に車を停めて散策開始です。
まずは説明板から。
三千塚とは大きく出ましたね!
実際にそう呼ばれるくらいの数多くの群集墳があったのでしょう。
似たような名前の古墳群は日本各地にありますが、せめて「千塚」ですよ。
クラツーでは、奈良県橿原市の新沢千塚古墳を何度かご案内しています。
※新沢千塚古墳群から見る畝傍山。
なお、新沢千塚古墳群を見学するツアーは、3月21日出発と5月16日出発が現在販売中ですので、気になった方はこちらで詳細を確認してください。
さて、雷電山古墳の形状はこの通り、帆立貝型古墳ですね。
後円部の北西方向に前方部が伸びています。
説明板によると墳丘長は80mということですが、85mという説もあります。
築造時期は5世紀初頭とあり、前方後円墳集成編年では5期にあたり、埼玉県内では雷電山古墳が築造された時点では、4期の前方後円墳である野本将軍塚古墳が最大で、その次がこの雷電山古墳になります。
雷電山古墳からは埴輪が見つかっているのですが、それが県内最古の埴輪とのことです。
実はその実物は私は見ていないので偉そうなことは言えないのですが、ちょっと変わった形状をしているとのことで、また、説明板にある通り底部穿孔の土器が見つかっていることもあり、中期とはいえ前期の雰囲気を引きずった古墳なのかもしれません。
おや、この標柱は古そうだ。
おー、明治45年!
では、ここで周辺地形の確認。
さきほどの甲山古墳とともに、丘陵の高所に君臨しているのが良く分かりますね。
それでは、墳丘へ向かいます。
ここもまた、墳丘は神社となっています。
大雷(だいらい)神社。
大雷神社の祭神は、大雷命(おおいかづちのみこと)で、いわゆる雷様のことでしょう。
埼玉県には雷様を祀った神社が多く、平野部であるので昔から雷が恐れられていたということが分かります。
墳頂に社殿があります。
中期の古墳なので、この社殿の下に竪穴式石室があるんでしょうね。
雷電山古墳の墳丘長は85mですから、この大きさは東京でいえば世田谷区の野毛大塚古墳をイメージすればいいでしょう。
※野毛大塚古墳を訪れるツアー・レジュメの表紙に使用しているコラージュには野毛大塚古墳をフィーチャーしています。
私と一緒にクラツーの宗像のツアーに来てくださった方は、新原奴山古墳群の22号墳がちょうどこれくらいの大きさです。
※墳頂のこの小祠は今はありません。
ちなみに、新原奴山22号墳は、地元の学芸員さんによると今後きれいに整備する予定があるとのことですよ。
前方部が伸びている方向を見下ろします。
前方部がそこそこの長さがあったとしても、帆立貝型古墳の場合は、その高さが著しく低いため、私は前方後円墳と呼ぶことはできません。
前方部側に降りると、道路の方にもう一つ説明板がありますよ。
前方部には土俵があったんですね。
帆立貝型古墳は、古墳時代中期(おおむね5世紀)になってから現れた新型デザインなのですが、時期的には形象埴輪の出現の後であるので、円墳に形象埴輪を使った祭祀の場を作るために、造り出しよりも大きなこういった前方部が造られたとの説があります。
なお、古墳時代の話は、基本的に「説」ですよ。
本当のところは誰にも分からないということが多すぎるのです。
そのため、偉い先生も私たちのような在野の研究家も皆「平等」に好きなことが言えるところが面白いところなのです。
ちなみに、形象埴輪の一つの種類で人物埴輪がありますが、そのなかには力士の埴輪もありますので、前方部に土俵を造ったというのはある意味、古代の祭祀を踏襲しているともいえるでしょう。
そういえば、今日は大相撲の千秋楽です。
相撲の話で盛り上がります。
この前方部から見たアングルというのは、前方後円墳の場合は最も素敵なアングルなのですが、帆立貝型でも雷電山古墳はこの角度が映えますね。
今までいつくかの帆立貝型古墳を見ていますが、私が見た中では雷電山が一番素敵。
古墳好きにはとてもお勧めしたい古墳です。
いやー、良かった!
これで本日はすでに3基の古墳を見ました。
今回の探訪は当初は徒歩でめぐる予定だったのですが、その場合は以上の3基を見ることはできませんでした。
個人的にはこの雷電山古墳の探訪は懸案事項となっていたので、今回はオーメンさんが車を出してくださり、本当にありがたいです。
では続いて、野本将軍塚古墳へ行きましょう。
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