幸川玲巳のコトノハいろいろ日記

2013年4月~2015年5月まで
ヤプログで書いていた記事を
まとめております。

意味づけで人生の景色が変わる。

2015-05-08 10:53:24 | happpy

昨日の記事アップしたら

『え????そこ???』

って思うところに反応した人がいてびっくり!!!



ブログはコメント機能つけてませんけど

問い合わせ用メールアドレスには

時々、そういうメッセージ来ます。



反応があるというのはとってもありたがいことなんですけども

わたしはすべて受け入れる「よしよし」するタイプのカウンセラー

ではありませんのでこうして大人げなくブログに書いたりします。



昨日母のことをちょっと書いたんですね。

そしたら、その反応してきた人のお母さんはいわゆる毒親だそうで

(メールにはこの人の母親にされたひどいことが延々と書いてあった)

そんなお母さんに「会いに行け!大事にしろ!!って言われても

無理な人もいるんですからそういう人のことも

考えたらどうですか?」って書いてあるんですけど





・・・・ええええっと。


わたしそんなこと一言も書いてませんよね?????



この人にとっては

あのブログが「親に会いに行け!大事にしろ!!」って

ことを啓蒙したように感じたのかもしれませんが


これ今に始まったことじゃないんですけど


時々こういう「自意識過剰すぎる人」がいるんです。

ブログに書いてることは

全部自分に向かって書いてあるって勝手に思い込んでしまう方が。


そりゃ、読者の方に向けて書いてますので

そんなふうに受け止めて頂いて嬉しいこともありますけども



自分が出来ないこと、やれないこと

そんなふうに考えることができないことを

わたしがやってのけてるからって

勝手にいじけられてもわたし的には

「知らんわ!」って思いますけどもね。


わたしも、前ブログに書いたかもしれませんが

わたしも自分の親のことを「毒親」だと信じて疑わなかった時期がありました。


でも、そのやられたことは

100パーセント事実だったかもしれませんが

なぜ親がそうしたかという「事実の裏にある真意」なんて

わたしにはわからないわけですから、

真意の意味づけを勝手に変更しようって思ったんです。


お父さんやお母さんにイヤなことされた。

わたしの親は毒親だって意味づけするのに

なんか飽きちゃったんですね。

もっというと被害者意識持つのをやめたくなったんです。

だって被害者って「受け身」でしょ?

「受け身」っていうのは人や状況が変わるまで

何の変化も起こらないし、おもしろくもなんともないわけです。


だったら自分で変化を起こしたほうが面白いし

退屈しないし、どうせだったら

都合よく考えたほうがいいかなって思ったので、それをやめただけ。

事実や現実なんて

人が言った言葉や人が取った言動や行動だって

ある意味、受けとる側が勝手に

意味づけしていいんですよ。






「そんなひどいことする親なんて嫌い」

って意味付けしようが

「あれはわたしにも非があったからだ」

と意味付けしようが、要するに誰かがやったことに対して

意味を付けるのは200パーセント自分の責任ってことです。


まぁ、だからといってわたしの書いた文章に

勝手に意味づけしといて


「こんなふうに考える人=意味づけする人のことも

しっかり考えて文章を考えて書け!」

とかいわれてもわたしにはそんな技能がないので

そういうリクエストには一切お答えできませんが

わたしの書いた文章に勝手に意味づけするのは

全然好きにやったらいいんじゃないですか?って思います。

ただでさえ忙しいので

「私の場合は違うんです!」とか言われても

個人的なお返事はできませんけども。


昨日のブログでわたしが書きたかったのは

わたしが忙しくて母に会いに行けないことで

勝手に母が怒ってる、弟たちも迷惑してる

って「あきらかに間違った意味づけ」をしてました!

っていうことだったんです。

実際、母は怒るどころかわたしのことを心配してましたし

母を預かってくれている下の弟も同じように

わたしのことをただ心配していただけで

怒ってもないし、迷惑がってもいませんでした。

わたしが勝手に「怒ってるだろうな」

「無責任と思われてるんだろうな」と意味づけして

勝手に遠慮していただけなので

「被害者意識」の意味付けは本当に馬鹿らしいですね。

っていうことを書きたかったわけです。




いや、もしかしたら弟だって本当の真意は

「仕事を理由に自分にばっかり親の面倒おしつけやがって」

って思ってるかもしれませんよ。

でもたとえそれが彼の本音だったとしても

わたしが被害者意識を持つ必要はないんです。

仮に弟がそう思ってたとしても(違うと思いますが)

そう意味づけしてるのは彼の問題であり

わたしには関係のないことなんですね。




今後も物理的に母を預かることは厳しい日が続くのですが

それで自分を責めたり、勝手に母が怒ってるとか

弟が迷惑に感じてるという意味付けはやめて

母はいつでもわたしに会いたがってる

弟は仕事を応援してくれているという意味付けに

勝手に変更して、自分が会いたいときに

都合よいときに会いに行けばいいじゃんね。ってことを

書いたんです。

だから、メールをくれたあなたも

勝手に都合よく考えていいと思います。

親がどうであれ、他人がどうであれ

自分がいいと思うことをすればそれでいいんじゃないでしょうか。

ほんと、人の言葉をどうとるかで

景色って変わります。


昔はわたしも被害者目線=どうせわたしは嫌われている

どうせわたしには無理

どうせわたしは不幸

どうせわたしは邪魔者

といった価値観をベースにして人の言動や

行動に意味づけことが多かったので

いろいろと不快なことが多くて、それがずっと尾を引くというか

長期間うじうじすることが続いてたのですが


今は意味づけのベースになる価値観を総入れ替えしたので

ほとんど「不快」なことが長続きしません。

今は

わたしは好きなことやってるだけで愛されてる

わたしがわたしでいるだけで熱心なファンは増え続ける 


という勘違い炸裂な価値観がベースにあるので

母の事のようなちょっとしたエラーを起こしても

すぐに軌道修正ができるようになりました。


このベースがなかったら

たとえ母から電話をもらっても

「心配という名の束縛でわたしを支配してる!」とか

弟の言葉をきいても

「表面上はこういってるけどほんとは迷惑してるくせに」

という意味付けでますます意固地になってたと思うんですね。

ってことで、メールをくれた人も

そのままの意味づけで幸せなら

その意味付けのベースである価値観は大事にしてていいと

思いますけど、そうじゃないなら、価値観を変えて

自分がラクになったほうがいいんじゃないかなって思います。



昨日の海の景色だって

晴れてたらもっといいのにって

意味づけもできるし、ただただすがすがしいっていう

意味づけも出来ると思うんですよ。

ネガティブでいたい日もあるので

そういうときはぐずぐず言ってもいいけど

わたしは今後もできるだけ「快適」な意味づけを

増やしていきたいし、快適なことを選びたいです