100人いたら、
100通りの考え方があり
正解・不正解は
置かれた立場によって
180度、異なる事を大前提に。
まず、同じ子どもを持つ
ひとりの母として
この度の事件は恐ろしい。
もっとも身近で、子ども達を
見守っていた人による事件。
すぐに、わが子を捕まえて
いかなる理由があっても
お母さんが事故だとか
お母さんが呼んでいるとか
お母さんに頼まれたとか
言われても。
家族以外の人に
ついて行ってはならないと
厳しく伝えた。
道徳的に見れば、今朝の新聞に
掲載されてある様なことが言える。
が、残酷な様だけれど
ひとりの宗教者としては
ここに書かれてあるのは
きれい事、他人事だと感じる。
歎異抄(第13条)には
親鸞聖人のお言葉が
次の様にある。
『さるべき業縁のもよほさば、
いかなるふるまひもすべし』
これは、どこかの誰かじゃなく
まさに『この私』の事で
とても厳しいお言葉です。
この度の事件に
眉をひそめる『この私』こそが
縁に触れれば、
加害者にだって成りうる
危うく恐ろしい存在である、
だからこそ、ひとりひとり
わが心を問うてゆきましょう
という事です。
前例がない・特異・例外
→ 1例生じた
悪い人→ どこで判断できるのか
この度の加害者も、前日までは
事件の瞬間までは
善人だったはずです。
ここで簡単に、絶望するなとか
それでも人を信じましょうとか
私だったら言えない。
ひとりの親としては、子どもに
なにがなんでも、可能な限り
全力で、自分の身は自分で
守りなさいとしか言えない。
それでも、逃げられない事も
人生には起こるかもしれない、、
あとは、他人を指さして
信じる信じない、善人悪人と
言うよりも前に
『この私』が、子ども達の
信頼に値するのか
安心や温もりを与える事が
出来るのかどうかを
ひとりひとりが、自分の心に
問いかけてゆく所から始まる。
子どもに信じろと言う前に
信じてもらえる大人であるのか
常に問い続けるのが
私の、私たち大人の側の
責務であると思う。