みなさん、いつもコメントありがとうございます
楽しみに拝見しています
そして、自身いろいろと考えさせられます。
親鸞聖人の、み教えについて、、。
難しくも嬉しい疑問をまた、いただきました
あくまで、宗教のことというのは
デリケートなもので。決して誰かに証明、説得するものではなく
このわたしが、喜んでいただいているだけであります。
その方その方の道がある。
それを大前提に、でも、いただいた疑問について、、。
わたしは未熟で、何の中身もありません代わりに、
以前教えていただいた、滋賀県F先生のお言葉をお借りします。
「よく浄土はあるのかないのか、といった声を耳にしますが。
本願の救いに出あってこそ、浄土が私と関係をもってきます。
本願の教えなしに、浄土は存在し得ないのです」
このお言葉に、わたしは痛く感動しました。
ちょっと、これを引用・応用?してみると
「信心なしに、その人の救いにはならない」
のだと思います。阿弥陀様の願いに出あって、
それをそのまま、いただくのであれば、
それは間違いなく、その方にとっての救いになります。
良い薬があっても、病人がそれを飲まなければ(信心)
効くことはないそうです。
また、生きていることを前提とする世間一般の人生問題と
生死の問題(老病死)は別のものであり(無量寿経・稲城選恵著より)
「わたしの力」が及ばないとき、
果たして人間は、よりどころなしにいられるのか、、。
「2000年前の科学者と哲学者がバッタリ出会ったら
科学者はすごい進歩だと喜び、哲学者はなんだ何も変わっていない
と嘆くそうです。人間の本質は変わらないということです」(F先生)
時代が変われど、科学が進めど、
おぎゃあと生まれた者は、命を終える日が来る。
阿弥陀様の願いは、そんなわたしの救いであるなぁと思います。
また、お釈迦様は
「この真理は、むさぼりといかりのとりこになっている
世の人々には、理解できないだろう」
と、伝道するのをためらわれますが、梵天の説得を受けて
仏法を説く決心をされたのです。
いまの世に、救いを必要としている人がいるのか
→自分が迷っていることにさえ気づかずに
老病死の苦海で泳いでいる人が、大半であると思います。
これはでも、本当に、受け手の(世間の人の)問題ではなく。
われわれ僧侶が、命がけで念仏相続してきた先人達の思いを
受け継いでいかれるのか。発信側の問題であるとわたしは思います。
阿弥陀様から願われた命が、自分の命を超えて
他の命、次の命を願ってゆく、願い合ってゆける世界は
なにものにも変えられない、尊いものであります。
『歎異抄』という書物の第二条にもありますが、、
わたしも、例えだまされたとしても、何の損もありません。
むしろ、わが人生に光をいただいたことに感謝あるのみです。
お念仏者は命を終え仏となり、浄土からすぐこの世に戻り
あらゆる命、わたし達を願っておって下さいます。
今ここ、わたしの周りにも、無数の諸仏がおられます。
父は尋常じゃないほど厳しく、わたしを育てました。
ズボンの上からお尻を叩かれても、
もみじマークが(手形)くっきり残るほどでした。
確かに、短い時間の中で、最短で育ててくれたのだと思います。
あたたかいコメントをありがとうございました
父はまた、わたしにお念仏をのこしてくれました
楽しみに拝見しています
そして、自身いろいろと考えさせられます。
親鸞聖人の、み教えについて、、。
難しくも嬉しい疑問をまた、いただきました
あくまで、宗教のことというのは
デリケートなもので。決して誰かに証明、説得するものではなく
このわたしが、喜んでいただいているだけであります。
その方その方の道がある。
それを大前提に、でも、いただいた疑問について、、。
わたしは未熟で、何の中身もありません代わりに、
以前教えていただいた、滋賀県F先生のお言葉をお借りします。
「よく浄土はあるのかないのか、といった声を耳にしますが。
本願の救いに出あってこそ、浄土が私と関係をもってきます。
本願の教えなしに、浄土は存在し得ないのです」
このお言葉に、わたしは痛く感動しました。
ちょっと、これを引用・応用?してみると
「信心なしに、その人の救いにはならない」
のだと思います。阿弥陀様の願いに出あって、
それをそのまま、いただくのであれば、
それは間違いなく、その方にとっての救いになります。
良い薬があっても、病人がそれを飲まなければ(信心)
効くことはないそうです。
また、生きていることを前提とする世間一般の人生問題と
生死の問題(老病死)は別のものであり(無量寿経・稲城選恵著より)
「わたしの力」が及ばないとき、
果たして人間は、よりどころなしにいられるのか、、。
「2000年前の科学者と哲学者がバッタリ出会ったら
科学者はすごい進歩だと喜び、哲学者はなんだ何も変わっていない
と嘆くそうです。人間の本質は変わらないということです」(F先生)
時代が変われど、科学が進めど、
おぎゃあと生まれた者は、命を終える日が来る。
阿弥陀様の願いは、そんなわたしの救いであるなぁと思います。
また、お釈迦様は
「この真理は、むさぼりといかりのとりこになっている
世の人々には、理解できないだろう」
と、伝道するのをためらわれますが、梵天の説得を受けて
仏法を説く決心をされたのです。
いまの世に、救いを必要としている人がいるのか
→自分が迷っていることにさえ気づかずに
老病死の苦海で泳いでいる人が、大半であると思います。
これはでも、本当に、受け手の(世間の人の)問題ではなく。
われわれ僧侶が、命がけで念仏相続してきた先人達の思いを
受け継いでいかれるのか。発信側の問題であるとわたしは思います。
阿弥陀様から願われた命が、自分の命を超えて
他の命、次の命を願ってゆく、願い合ってゆける世界は
なにものにも変えられない、尊いものであります。
『歎異抄』という書物の第二条にもありますが、、
わたしも、例えだまされたとしても、何の損もありません。
むしろ、わが人生に光をいただいたことに感謝あるのみです。
お念仏者は命を終え仏となり、浄土からすぐこの世に戻り
あらゆる命、わたし達を願っておって下さいます。
今ここ、わたしの周りにも、無数の諸仏がおられます。
父は尋常じゃないほど厳しく、わたしを育てました。
ズボンの上からお尻を叩かれても、
もみじマークが(手形)くっきり残るほどでした。
確かに、短い時間の中で、最短で育ててくれたのだと思います。
あたたかいコメントをありがとうございました
父はまた、わたしにお念仏をのこしてくれました
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます