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SENgoKU anD VISIon -乱世を追う-

戦国・江戸時代 武将 甲冑・刀剣・茶道具 博物館・美術館・城・茶室などを巡る拝見記。その他の雑記もあり。

信濃行3

2007-11-30 | 探訪

3日目

別所線にて下之郷駅下車

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「生島足島神社」日本の中心にあるとの事です。この日は七五三だったのか着飾った子供をつれた家族が何組もいました。


真田昌幸・信之等歴代の上田城主が神領を寄進し、社殿を再建したそうです。

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「歌舞伎舞台」ここには武田信玄関係の起請文及び願文・朱印状が数多く展示されています(複製)。

上田に戻りしなの鉄道で坂城へ。
長野県一帯、武田氏ゆかりの人物の幟を掲げる中、ここは一味ちがいます。

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「村上義清 誕生の地」まさに反旗を翻していますね。

坂城町鉄の展示館 記念展「村上義清と風林火山の時代」

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村上義清は武田信玄を2度も破った猛将、信玄の北信濃進出は彼の為に遅れる事を余儀なくされた。砥石城を真田幸綱(幸隆)の謀略で失って以降、次第に武田軍に圧され越後に亡命。上杉謙信を頼る事となり、これが川中島での5度にわたる武田・上杉対決の一因となった。

展示品では城坂稲荷神社に奉納された、義清・信玄一騎討ちの絵馬や村上十八将図(複製)などが見ごたえありました。

しなの鉄道で小諸へ

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「小諸城」写真の三の門への道は下り坂になっており「穴城」と呼ばれていたのが理解できます。

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この城は武田信玄の命により山本勘助が縄張りをおこなったといわれています。

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「鏡石」山本勘助が小諸城築城の時に研磨したと伝えられています、隕石との説もあるそう。

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小諸を後にし、上田に戻りました。
翌日上田より長野を経由し特急しなので帰途につきました。


信濃行2

2007-11-29 | 探訪

2日目

※行程の中で一部を省略していますが略部分は別途アップ予定です。

長野からバスで松代へ。松代を一回りした後、再びバスに乗ります。千曲川に架かる松代大橋を渡ってすぐに降ります。


「典厩寺」武田信玄の弟で八幡原の戦いで討死した武田信繁、通称典厩(古典厩とも)の墓があります。もともと鶴巣寺といわれていたこの寺は松代藩主真田信之によって「典厩寺」と改められたそう。

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兄信玄を支える副大将として武田家の中枢を担った彼の死を誰もが惜しんだそうです。信玄の近習であった武藤喜兵衛は典厩の武勇と人望にあやかって次男を信繁と名付けた。真田信繁(幸村)その人です。

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「閻魔大王」日本一の大きさだそうです。ほんとにデカかったです。

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寺には川中島合戦記念館があり信繁や武田氏関係の資料が展示してありました。

次は八幡原史跡公園です。
ここは武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の戦いの際信玄の本陣があったところだそうです。観光客の数がハンパないです。

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「信玄・謙信一騎討ちの像」実際に一騎討ちが有ったかは疑問ですが「有った」ほうがロマンがありますよね。

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「上杉謙信」愛馬「放生月毛」にまたがり名刀「小豆長光」で信玄を三度切りつける。

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「武田信玄」床几に腰掛け軍配で受ける。

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園内には長野市立博物館があり、川中島の戦いが詳しく分かります。一番良かった展示物は何故かあった「長篠合戦図屏風」でした。真田信綱・昌輝兄弟討死が描かれてます。2人の死によって三男だった武藤喜兵衛、後の真田昌幸が真田家の家督を継ぐことになる因縁の戦い。更には武田家滅亡の始まりの戦いです。ってここ川中島だよね???

公園を後に千曲川沿いの堤防を北へ、更埴橋を渡り対岸の堤防を南下します。

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「山本勘助の墓」第四次川中島の戦いで討死した勘助の墓。来るまではひっそりとした所かと思っていましたが、お店があったりして結構な観光地となってます。テレビの影響って凄いですね。

もう一箇所廻って、長野電鉄金井山駅で電車に乗り屋代へ。そこからしなの鉄道に乗り換え上田を目指します。


3日目に続く。


信濃行1

2007-11-28 | 探訪

長野に行ってきました。
大河ドラマ「風林火山」の影響でしょうか、史跡の至るところに武田関係の幟がたっているのが印象的でした。

名古屋から特急しなのに乗って塩尻まで、そこから上諏訪まで移動します。
駅からの道すがら幟には「由布姫」の文字が、ここは諏訪一族の町ですね。


「高島城」。元々諏訪湖に面した水城で別名を「浮城」と云うそうです。

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復興天守ですが、色のせいか一種独特の雰囲気があります。でも、あまり近くで見ないほうがいいかも(汗)堀と橋を入れた絵図らが一番良いと思われます。

上諏訪から一路、松本へ

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「松本城」。4つある国宝の現存天守のひとつ。実はこの松本城で国宝天守を制覇できました。現存12天守はまだ道半ばなんですが。

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戦国時代は小笠原氏がこの地に深志城という名の城を築いたのが最初。現在の城郭は徳川から豊臣に転じた石川数正が整備・築城した。

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天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓を繋いだ結複合式天守はどこから観ても絵になる。本当に素晴らしい城でした。内部も昔ながらの状態であり、余計な展示物は最小限に抑えてある。

近くの蕎麦屋で天ざると馬刺しを食した後、長野へ、長野駅を降りると小雪が降っており少々寒い、どこかに寄る気持ちも失せたので宿(ホテル)に入りました。

2日目に続きます。


高野山 大名達の鎮魂歌3 徳川編

2007-11-22 | 探訪

いきなり奥の院から離れて徳川家霊台から。今回の主役は


「徳川家康」江戸幕府初代征夷大将軍。真田贔屓の私のからすれば憎き敵でございます(汗)

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「徳川秀忠」二代将軍、家康の三男。関ヶ原の戦いでは真田昌幸・幸村の居城上田城を攻めたが結局落とす事が出来ず、関ヶ原には遅参した為合戦には間に合わなかった。この事があり真田昌幸を赦さなかったようである。

ここから奥の院へ戻ります。

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「結城秀康」家康の次男であるが、長男信康死後も後継者になれなかった。さらに秀吉の養子(実質は人質)になったり結城家の養子になったりと秀忠に比べ扱いが悪い。

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「本多忠勝」徳川四天王。「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八(忠勝)」と賞賛される。名槍「蜻蛉切」を持ち生涯において参加した合戦は五十数回に及んだ。彼の娘小松姫は真田信之の正室であり、その関係から昌幸・幸村親子が関ヶ原の戦いで西軍に与し戦後、死罪となるところを信之と共に助命嘆願し渋る家康・秀忠より高野山配流まで処分を軽減させることに成功した。

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「榊原康政」徳川四天王の一人。第二次上田城攻めでは攻城に逸る秀忠に攻撃を取り止め、関ヶ原に急ぐよう進言した。また秀忠の失態に激怒した家康が対面を拒否した際、康政のとりなしで伏見城での対面が許されたそうである。忠勝とも仲がよく徳川武功派二巨頭といった感じがする。

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「井伊家」徳川四天王井伊直政が初代藩主(彦根藩)。武装を赤色で統一し「井伊の赤備え」と云われた。真田の赤備えと対をなす存在か。

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「酒井家」徳川四天王の一人酒井忠次の孫忠勝が初代(出羽庄内藩)。

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「鳥居家」関ヶ原の戦いの前哨戦となる伏見城の戦いにおいて、少数の兵をもって西軍と戦い討ち死にした鳥居元忠の孫忠春が初代高遠藩主。

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「尾張徳川家」家康の九男義直が初代藩主。徳川御三家筆頭だが唯一将軍を輩出していない。

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「徳川頼宣」徳川御三家紀伊藩初代、彼の孫が八代将軍吉宗である。越後流軍学者・宇佐美定祐を起用したり福島正則が改易されるとその家臣を登用したりとかなりの武断派であった。


高野山 大名達の鎮魂歌2 織田・豊臣編

2007-11-21 | 探訪

群雄が割拠した戦国時代。その時代を統一へと進めた一人の武将。


「織田信長」。桶狭間・姉川・比叡山の焼き討・長篠・石山数々の戦を勝ち抜き天下統一へと邁進したが、道半ば本能寺の変にて死去。

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「豊臣家」。太閤秀吉は百姓から天下人へと上り詰めた立身出世の見本のような人物である。そしてそんな彼の家族たちは天下人になった秀吉をどんなふうに思っていたのだろうか?

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「明智光秀」本能寺で主君信長を討ち、その後秀吉に討たれた光秀。本能寺の変については数々の謎があるそうですが、その謎が光秀の魅力になっているのでしょうねぇ。

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「柴田勝家」織田家の重臣であり北陸方面で上杉軍に対抗した。信長亡き後の織田家を必死に支えたが豊臣秀吉に敗れて、北ノ庄城でお市の方と共に滅んだ。無骨なイメージがあります。

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「蜂須賀家」矢作橋で少年時代の秀吉と野盗の親分蜂須賀小六は出会った。ってのはつくり話だそうですが、それほど蜂須賀正勝(小六)は秀吉との縁が深い。その正勝の子家政が徳島藩祖となった。

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「前田家」加賀百万石前田家。初代利長の父前田利家は織田信長家臣時代「槍の又左」の異名をとり秀吉時代には五大老筆頭として豊臣家を支えた。

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「黒田家」秀吉の軍師として有名な黒田孝高を父にもつ黒田長政が藩祖(筑前福岡)。長政と大坂の陣で活躍した後藤基次とは主君と家臣の関係であったが仲が悪く、それが結局基次を大坂城へと向わせる元になった。

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「藤堂家」次回徳川編にまわしてもと思うほど伊勢津藩初代藤堂高虎は家康に信頼されていた。その高虎は築城の名手としても有名。

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「山内家」土佐藩初代山内一豊は「内助の功」で有名。つまり奥さんとセットで語られてしまう。なんだか情けない感じがする武将である。

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「筒井順慶」。「洞ヶ峠(日和見)」の逸話で有名。史実では無いそうだが、これまた情けない感じの武将。ちなみにこの墓は信長の墓の隣にある。何故なのだろう?

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「石田三成」最初に言っておきます写真ブレまくり失敗しました。三成といえば関ヶ原の戦いですが、小大名の三成があの大決戦までよく持ち込んだと思います。企画力には優れていたのでしょう、ただ戦はそれだけでは勝てません。


高野山 大名達の鎮魂歌1 群雄編

2007-11-20 | 探訪

高野山に行ってきました。
高野山 奥の院には戦国武将や大名家の墓所が数多くあります。本当に沢山ありすぎて全部は見れていないし掲載も無理ですが一部を紹介します。


「伊達政宗」ご存知「独眼竜」。南奥州の覇者となり、秀吉・家康2人の天下人からも一目置かれる存在でした。

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「最上義光」伊達政宗の伯父であるが時に争いあった。山形57万石の初代藩主です。

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「佐竹家」戦国時代に常陸を支配下におき、北条・伊達と戦った佐竹氏は1602年出羽に国替え、秋田藩佐竹家となりました。

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「北条氏」初代早雲より関東の雄として上杉・武田・今川等と争った。氏綱・氏康まで三代に渡り名君続きだった。

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「上杉謙信・景勝」表示は「上杉謙信廟」となっているが景勝も入っているそう。「越後の龍」、川中島での武田信玄との名勝負でしられる謙信。その後を次ぎ戦国時代をサバイブした景勝。

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「武田信玄・勝頼」。「甲斐の虎」信玄は「風林火山」の軍旗でも知られる。偉大な父の後を次いだ勝頼は武田家を滅亡の道へ。

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「馬場信春」武田二十四将の一人であり四天王にも数えられる。長篠の戦いで死去。

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「真田家」。真田幸村(信繁)の兄信之が初代となる松代藩の墓所。だが信之とその子信政はここではなく高野山の他の場所にある。

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「毛利家」中国地方一の名将毛利元就で有名。孫の輝元の代に関ヶ原の戦いで失態があり減封されたものの江戸時代末期には再び重要な役割を担った。

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「立花家」北九州に勢力をもった大友宗麟。その家臣立花道雪を義父にもつ立花宗茂が初代藩主である筑前柳河藩の墓所。

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「鍋島家」九州三強の一つ龍造寺氏の重臣であった鍋島直茂が初代藩主(佐賀藩)

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「島津家」九州最強の島津氏。戦国時代は義久・義弘兄弟が有名。


秀吉お伽衆

2007-11-15 | 探訪

大阪城天守閣 特別展「秀吉お伽衆 -天下人をとりまく達人たち-」


お伽衆とは大名のそばに侍して話し相手を務めた人たちで、戦歴豊富であったり芸能を身につけていたり博学であったりした人物がなるそうです。秀吉の場合30人以上もおり、彼らから知識や教養を学び得たのでしょう。

紹介されている主な人物は、細川幽斎・大村由己・曽呂利新左衛門・千利休・古田織部・今井宗薫・荒木村重・織田信雄等。それぞれの縁の品が展示されており合間合間に「絵本太閤記」より関連する場面が紹介されている。

秀吉自筆辞世和歌(つゆとをち つゆときへにし ~)、幽斎の古今伝授関連品、小牧長久手合戦図屏風が良かったです。 

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二の丸 豊国神社の秀吉像。


豊国神社と方広寺

2007-11-09 | 探訪

豊国神社です。「狩野永徳展」の合間に行ってきました。


豊臣秀吉を祀る神社で、豊国は「とよくに」と読みますが地元では「ほうこく」さんとよばれています。

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国宝の唐門。伏見城の遺構と伝えられています。写真では見難いですが奥では結婚式が行われていました。

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方広寺にある鐘。白で囲まれた2箇所に有名な「国家安康」「君臣豊楽」の文字が。これが元で大坂冬の陣が始まり豊臣氏が滅亡したわけで、なんとも因果な鐘です。

豊国神社には宝物館があり、千成ひょうたん大馬印や秀吉所用の枕(獏の形をしています)。変わったところでは、秀吉の歯までありました。
しかし私がもっとも気になったのは

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伝・幸村所用の馬具(鞍)。真田家紋の六連銭がしっかりと入っています。秀吉に仕えていた時期のものか?大坂の陣の時か?それとも父昌幸のものか?私気になります。
真田幸村(信繁)は私が一番好きな武将です。どうして好きになったのかは、また別の機会に。


狩野永徳展

2007-11-04 | 探訪

京都国立博物館 特別展覧会 「狩野永徳」


「信長さま・秀吉さま ご推奨!!」「天下をとった絵師、京都に見参。」なんとも派手な事であります。かなりの盛況ぶりで待ち時間もあるとの事。

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京都国立博物館に到着。「待ち時間110分」長いとは聞いていましたが、これ程とは。しばらく廻りを散策して戻ってくると「待ち時間140分」長くなってるし。仕方ないので、少し早いが昼食をとる事に。近くのイタリアンでランチです。前菜とピザが美味しかったです。博物館に戻ってくると「待ち時間90分」なんとか2桁に(それでも長い)。並ぶ事にしました。90分間延々とならびます。

やっと入場・・・かなり疲れますね。

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洛中洛外図屏風 国宝。織田信長が上杉謙信に送ったものとされています。なんとも煌びやかです。精細にして精彩。永徳の代表作だけあって観覧している人も一番多く観るのに苦労しました。
織田信長画像 信長は永徳に数々の作画を要請した一人。安土城の天主障壁画も彼の作です。秀吉の大坂城にも数々の作品を描いたのですが、いずれの城も戦災で灰となり永徳の作品も運命を共にしました。
唐獅子図屏風 なんともデカイ作品で圧倒されます。秀吉依頼の作品で、この前に座り居並ぶ大名・家臣に偉大さを見せつけた事でしょう。

絵について私は素人で、この展覧会も永徳本人より信長・秀吉との関わり、安土桃山時代の気分を感じたくて行ってみましたが、なかなか良かったです。しかし人が多いのはなんともねぇ。


風林火山

2007-11-01 | 探訪

大阪歴史博物館 特別展
風林火山-信玄・謙信、そして伝説の軍師-


NHK大河ドラマ「風林火山」にちなんでの開催。大阪の前には、山梨・新潟でも開催されていたそうです。
最初に展示されているのは市河藤若宛の武田晴信書状、それまで存在を疑われていた山本勘助が実在した事を証明した資料です。ただしこの資料では「軍師」であったのかどうかは謎のままです。
吉良頼康画像 なんでこの人の画像が展示されているの?って方もいるかもしれません。実はこの画像に描かれているのは信玄と言われているからで、長谷川等伯作で有名な信玄画像は別の人物(畠山某)との説があるそうです。
上杉謙信画像(高野山清浄心院蔵) 一般的な法体姿のイメージとは違い、所々金をあしらった黒い甲冑姿。軍神のイメージに近く中々格好がよろしい。
川中島合戦図屏風 岩国美術館蔵と和歌山県立博物館蔵の2作。いずれも見ごたえがあり、前者は床几に座った信玄に馬上の謙信が斬りつける有名な場面が描かれている。対して後者は川の中両者馬上で太刀を交わすというもの。それぞれ甲州流軍学・越後流軍学に影響されているそうです。絵画的には和歌山県立博物館蔵の屏風が素晴らしい。
武田二十四将図 四天王をはじめ武田家の代表的武将がずらりと描かれている。真田一族からは信綱・昌輝そして武藤姓時代の昌幸、真田三兄弟が選ばれている。24人中3人が真田一族で占められているのは流石。

その他色々見所あり、宇佐美家文書なんて結構面白い。
実際の武田対上杉より甲州流・越後流軍学書に書(描)かれた武田対上杉(山本勘助と宇佐美定行両軍師)の世界に惹かれてしまいました。