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風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

りえちゃんの恋

2012年01月31日 08時46分36秒 | エッセイ、随筆、小説



りえちゃんの恋

それは無理だよ、とわたしは思わず口にした。りえちゃんは「なぜ?」と言わんばかりの表情を浮かべる。右斜めに傾けた顎先は憤慨を主張、それはお決まりのパターンだった。子供の頃からそれで親や周囲の人は騙せたかもしれないけれど、わたしには通用しないからね。

声が響いたのか、満席の店内は一瞬静寂に包まれた。すぐさま、一斉にわたしたちの席へ視線が集まり、りえちゃんは梅干を頬張ったみたいに表情を鼻のあたりに集め、くしゃくしゃした顔の前で、右手を下から額まで引き上げ、すみませんという意味の手話の仕草をした。

なんで?とりえちゃんは続ける。わたしは長い溜息を吐いた後、冷めたコーヒーを啜った。マグの底にへばりついている茶色の液体を、だれが最初に飲んでみようと思ったんだろう。しかも、焙煎すると味が引き立つことを発見するなんて。このままくだらないどうでもいいことを、真剣に考えていたい。りえちゃんがわざとらしく咳払いをふたつした。

なんでってさ、自分の障害の重さを考えてみてごらんよ。ご両親が亡くなった後、ひとりで生きていく自信がないからといって、寂しがりやだから彼氏が欲しいって? それも、健常者で長生きしそうで、しかも背が高い人。8歳くらい下って、そもそもりえちゃんは今年42歳になるわけだよ? その8歳歳下の彼はどこで出会うわけ?

熱くなると、話ながら息を器用に吸い込めなくなるわたしは、軽く走った人みたいに、ぜいぜいと胸を鳴らした。だからね、まゆみちゃんに見てもらいたいのよ。だ、か、ら、いつもみたいにあれお願い。

メニューを開き、本日のオススメデザートを指差した。仕方ないなぁ~と言いながら、りえちゃんは店員さんに手を振る。これふたつ、とメニューを指差して、コーヒーのおかわりをお願いする。また、なぜかわからないが、手話のすみませんが出た。りえちゃん、聴こえるでしょ? なんで指先で言葉を奏でるわけよ?

透視は疲れるから嫌なのよ。しかも、りえちゃんのわがままに付き合えない。心の声が聴こえたのか、そう嫌がらずに。注文したケーキ二個を差し出し、これ全部、まゆみちゃんが食べていいからね。だから、お願いします。りえちゃんの首からぶら下げている携帯がぶるぶると震えた。あっ、と声をあげ、この人ね、8歳下なの。りえちゃんは着信ボタンを押した。

もしもし、りえです…







僕とサラのひまわり

2012年01月16日 00時24分44秒 | エッセイ、随筆、小説





余命宣告を撤回するって。
いまね、主治医と会ってそう言われたの。
今夜、8時にピャチェーレに来て。
シャングリラで夜景を眺めながら一緒に乾杯、お祝いしようよ。

ピャチェーレとはイタリア語で「喜び」を意味する。
サラはこのレストランをよく利用していることは何度か聞いたことがあった。
けれど、僕がこのホテルへ行くことは初めてだった。

サラの人生に関わる大切な時に訪れる場所。
決め事としてサラが守り抜くルールが確かあったはずで、僕は不意に、なぜかそれを思い出した。
今日はやけにそのルールとやらが無性に気になり出してしまった。

仕事中の僕にサラが連絡をすることは皆無だった。
メールすら寄越さないサラから電話がかかってくるなんて、よっぽど嬉しかったのだろう。
サラの長年の夢、医療に関わるあらゆる面倒から解放される。
ようやく自由になれる。
日常から「通院」の二文字がなくなる爽快感がたまらなく嬉しい。
サラはそう言って、明るく弾む声を受話器の向こう側から響かせていた。

表参道にいるのか、
華やかな街の賑わいや人混みが目に浮かんでくるものの、
サラの姿や表情は漆黒で、
暗く閉ざされた闇の中へ閉じ込められていく情景が浮かんでは消えていく。
なぜだろう…
僕は嫌な汗をかき、胸騒ぎを覚えた。

「余命」の二文字に僕は愕然とさせられていたと同時に、
サラの一見、天真爛漫な笑顔につきまとう影のような存在に気付き、
その影を見なかったことにはもはやできないと覚悟はしていたが、
それが余命を含めた命の長短が関与したものであるとは想像していなかったことに
あらためて気付かされた。
僕は自分の甘さを一瞬で思い知らされたような気がした。
自分の残酷さに身震いを覚え、
サラのことをなにも知らなかったと自分を責めた。
そういえば、サラを怒らせたのは、僕がサラとの将来の話を持ち出したその一度だけだったこと、
サラとは将来の話はおろか明日の約束すら交わせず、
いつも行き当たりばったりで、思いつきでいて、
計画性とは無縁の毎日なのにもかかわらず、不思議と順調で、
しかも笑いに満ちた楽しく幸せな日々を過ごしてきたからこそ、
いつも大事なことを聞けぬままに3年の月日を過ごしてしまったのだとあらためて思った。
それを理由にするつもりはないが、僕はいまだにサラを知らなかった。

一体、僕はサラのなにをみてきたというのだろう。
自省に苛まれながら、笑顔以外に浮かぶサラの表情は確かに僕には覚えがなかった。





突然、膝がカタカタと笑い出し、全身の力がするりと滑り出すように抜け落ちていった。
シャングリラのロビー階に到着していた僕は、
床に膝を付き、しばらくそのままの態勢でいた。
窓外に広がる音のない美しい東京の夜景の中に、暗く閉ざされた漆黒の闇を見つけて、
そこへ閉じ込められていくサラの姿をみつけた。
サラ、どこへ行くんだ? 

そう声をかけようとした瞬間、サラは後ろを振り返り笑った。
なにか言いたげに口元をキュッと引き締め、
いつもとはすこし様子の違うサラが僕を悲しそうにみつめる。
物言いたげな表情で、でも僕はサラの視線を直視できずにいた。

笑顔以外のサラの表情を受け付けなかったのは、僕の方だった。
目を逸らした状態で、ぼんやりと視界の内側にかろうじて入り込むサラの姿を見て、
目に熱いものを感じた。
3年も一緒に生きてきて、笑顔以外のサラと出会ったのは、これが初めてなのだから。

ごめん…
なぜかわからなかったが、サラに謝りたい衝動が僕に襲いかかる。

着信を知らせる携帯の待ち受け画面に表示された名前は「サラ」だった。
シャングリラまで車で向かうと言っていたから、道でも混んでいるのだろう。
「もしもし、サラ?」
僕はサラのあの天真爛漫な明るい声を期待して着信ボタンを押した。
ごめん、道が混んでいて。月末の、しかも金曜日だから仕方ないでしょう? 
でも今日は違った。
「もしもし、矢嶋さんの携帯電話でよろしいでしょうか?」
聴き覚えのない声、男からの連絡、なぜサラの携帯を。
僕は冷静でありながら、同時に動揺を隠せなかった。
携帯を持つ手元が小刻みに震える。
「水越サラさんのご家族ですよね?」
僕は事態がつかみ切れぬまま、「はい」とだけ短く返事をした。
「携帯されていた診療情報の緊急連絡先に、矢嶋さんのお名前が記載されていたもので…」
電話の向こう側から闇が手招きしているのか、
ぴんと張り詰めた空気が海鳴りのように耳奥で静かに回転した。
根拠はないもののわけのわからぬ恐怖心が胸ぐらを掴んだ瞬間、
「オーバードーズとみられる行為に走った後、ホームに飛び込みました」




続く…

僕とサラのひまわり

2012年01月13日 14時08分26秒 | エッセイ、随筆、小説


ありがとうといって死んでいきたいの。
そして、またふたたび会いたいと思ってもらえるような女になりたい。
いまからでも間に合うかな、わたし?

生きていてよいのかとの罪悪感を消しきれないサラとの出会いは偶然だった。
僕には10年付き合っていた9歳年上の彼女がいたが
ー 関係は至って良好だった ー
別れを切り出したのは僕の方だった。
サラとの出会いがきっかけになったのは紛れもない事実だったものの、
恋愛を超越した感情を自覚したのは初めてだった。
僕はまず僕自身に驚きを隠せなかったし、
サラの一見、天真爛漫な笑顔につきまとう影のような存在に気付き、
見なかったことにはもはやできないと覚悟した。
サラは交通事故から人生の変更を余儀なくされたと言うが、
それ以上の不幸を話すことは一度もなかった。

ー大変なことを抱えたり経験したのに、そうした負を微塵にも感じさせず明るく生きていますー
そうした感情が相手に芽生えると付き合い難いし苦手なの。
そう言って、あの笑顔を浮かべる。
屈託なく笑うサラは、かみさまの生まれ変わりのように僕には映った。
女神様と呼ばれることは満更でもないようで、
からかう振りをしながら、僕はときどきサラをそう呼んだ。
いや、呼びたくなる衝動に駆られた。
意味もなく無性に。僕の、サラの手の届かない領域へ。
なにかに囁きかけるように。
語りかけるように。
熱く、そして、深く。

過去や未来に縛られるのではなくて、いまを生きることに一生懸命でありたい。
意味から離れたとき、わたしは解放されたから。
サラは二杯目に注文したアロマティーをカップへ注いだ。
春から夏にかけて陽が満ちる色合いのものを
陰の時期に出来るだけ多く体内へ取り入れると身体は喜ぶのよ。
一通り茶葉の説明が終わると、快感はあの一瞬だと決め付けて生きるひとが可笑しくて、
と言って笑った。
ぬるいコーヒーを一口啜り、
ソーサーの上で行儀良く気を付けをしているスプーンがカップにぶつかり高めの音を弾かせた後、
決め付けているのではなくて知らないんだよ、と僕は言葉を挟んだ。
確かに…とサラが答えた。

テーブルの隅に飾られた一輪の花の名前を思い出すためなのか、
サラは長くすらりとした美しい指先で優しく花弁をなぞる。
上から下へ、下から上へと。
滑らかに、まるで逝くためのダンスを指先で奏でるように。
その連続性はみえない曲線を宙に浮かばせ、
サラの世界へ僕まで誘なわれていく。



続く…



心星のひと

2012年01月11日 01時34分29秒 | エッセイ、随筆、小説






その先には海があるのかもしれません。
宇宙への扉、ラコニアの鍵があることだけは確かなので、母と再会したような感覚、いや、もっともっと大きくて、深くて、奥行のある存在感が印象として残ります。なぜかわかりませんが、胎児のときの記憶を思い出したのです。その頃の感情は優しさだけで形成されていました。その頃は夢や希望が満ちていて、生まれることを誰もが強く希求しながら、私たちは私たちとして存在することになるのです。色彩は、黄道光の空のような人間の内面に言葉なく語りかける類のもので、魂がきゅんきゅんと音を立てて喜びます。形状は、緩やかな曲線の連続性であるはずの本来の世界を、生の実現後は奎宿の六角形を結ぶ鋭角さがその連続性に影を落とすのです。それは真綿のような感触でありながら、正見の目でわたしを見抜き、魂を綾し、解き、あらゆる感情の波を浮標へ響かせる。この世や世界を語らせる言葉を紡がせるためにまるで誕生したように。

わたしたちは存在していますが、まだ誕生はしていないのです。自らの力で誕生することが、生きるというそうです。

胎児のときの記憶が夢で再現された朝、
あなたを憶い書きました。

符合

2012年01月07日 00時51分55秒 | エッセイ、随筆、小説




カーティスのおじいちゃまが日本へ来たことがあるというので、
「いつ、どこに?」と畳み掛けるように聞くと、
「上空から」とポツリと言った。
大川の東側…といえば、
私が生まれ育った東京の下町を指している。

好奇心だけで何層にも色が塗り重ねられたパレットに、一瞬、風が通り過ぎていった。
さらさらした軽い風。
若い女の長い髪のような思わず触れたい衝動に駆られる風。
桜の花びらが優雅に宙に舞い、踊り、美しい日本の春を染め上げる風。
無を揺らす風。
記憶を運ぶ風。
人生を仕上げる風。

永井荷風の作品を読んでいたので、
大川とは江戸時代の隅田川の呼称であることは知っていた。
けれど、上空からとは一体どのような意味があるのだろう。

わたしはしばらく黙り込んだまま、
確か、カーティスのおじいちゃまがハワイのオアフ島に住んでいることを思い出した。
カリフォルニアの太陽よりもハワイの神様に護られた白い光の方が柔らかだから…と
言っていた老人のことを想った。

その老人とはパサデナロサビーチホテルという
高級リゾートマンションの屋上にあるジャグジーで出会った。
ハワイらしいパステルカラーの陽がさんさんと降り注ぐ夏の終わり、
わたしはワイキキを眼下に見渡せるジャグジーが
まるで日本にあるお風呂みたいだと老人に話していた。
老人はポール ハミルトンと名乗り、君は日本人なのか?とわたしに聞いた。
わたしは返事のかわりに微笑んだ。
サングラスを外し、目を細めてはいたものの、もう一度微笑んだ。

ワシントンDCにあるハワード大学医学部付属病院のドクター仲間とハワイで落ち合う約束をして、
仲間のひとりが所有するリゾートマンションに一ヶ月滞在する計画に乗った。
まだ若い私はアメリカ人の豪快なバケーションの過ごし方に度肝を抜かれていると、
これはアメリカ式ではなく、
自分たちもヨーロッパ人のスタイルを真似したものだとレニーが白状した。
レニーは私がニューヨークにいた頃のルームメイトだ。

私は仲間といるよりも、なぜかこの老人といたかった。
ジャグジー以外の場所へも誘い、
一緒にいることが多くなり、私たちはカフェやパブへ好んで出掛けた。ポールは、日本は大丈夫なのか?としきりに尋ねるものだから、「日本に来て」と旅の続きを提案すると
「私には日本へ行く資格がないんだ」と消えいるような声で答え、そして肩を落としていた。

「1945年3月10日未明、私はテニアン島から飛び立った。
君の祖父母はあの惨劇の中にはいなかったのだよな?」
私は痛いとは言えなかったので、少し顔を歪めた。
そんなに力を込めて腕を掴み振られたら痛いよ、ポール。

私の祖父はあの頃、満州でとある部隊に所属していた。
祖母は北アルプスを臨む長野県の山奥で、
祖父の帰りを待ちわびるだけの青春とは名ばかりの辛い時間を強要されていた。
ポールはカリフォルニアからテニアン島へ移送され、
出撃を待ち、東京を目指し、太平洋上空を飛行していた。
あの日の出来事は、心を傷める目前の老人の責任ではない。
けれど、時代が悪かったとは言えなかった。

私はポールの皺の目立つ指先をなぞり、掌を伝い、肩を引き寄せ、抱きしめた。
日焼け止め用の嗅ぎ慣れた甘い南国の香りが鼻先を擽り、
ポールのささくれ立ったまま鎮まる術を持ちえない魂が、
少しだけ丸みを帯びていく様を見たような気持ちになった。
いや、魂がそう感じた。

「カーティス、あなたのファミリーネームってなんだったかしら?」
なにをいきなり…と言わんばかりに目を丸くしたカーティスが
、コースターのわずかな余白に鉛筆を走らせる。
お世辞にも綺麗とは言えない字は、おそらくハミルトンと読む。








木洩れ日の中で

2012年01月03日 20時52分33秒 | エッセイ、随筆、小説






「まりさんは残酷だよ」
ぶがぶがと鼻を鳴らしながら佳生が感情を荒げる。
その様子がひどく人間らしくて、まりは好きだった。 

内神田に本店のあるビストロの日本橋店で、
まりは「いつもの」白身魚のソテーを注文した。
前菜のレバーパテが添えられたサラダが運ばれると、
佳生はまりの残酷性をもう我慢ならないとばかりに列挙しはじめる。
まりはお構いなしにレバーパテを一口で頬張り、
なかなかいけるじゃないと言いたげに満面の笑みを浮かべる。
テーブルに鮮やかな、華やかな色が加わる。
佳生が注文した肉料理には、
魚介を使ったマヨネーズソース添えのサラダが粉雪を連想させた。

硬く凍りついた心のような透明感を、この冬の陽射しに見つける。
悲しみとも喜びとも言えない感情がゆらゆらと揺らぎゆく中で、
人間について、
その残酷性をなにも新年の話題にしなければならない佳生が、
すこし哀れに映る。
窓から射し込む午後の木洩れ日が、
この世の無常を無意識へ問いかけてくる。

「まりさんはなぜ手を貸さないんだよ?」
佳生は店内に響き渡るボリュームで声を轟かせた。
まりは何度か溜息を織り交ぜた深呼吸をした後、ナプキンで口元を拭い、
白ワインを喉奥に流し込んだ一連の動作を二度繰り返した。
「友達なのに。そう言いたいんでしょ?」
当然だと言わんばかりに佳生は、鋭い眼光をまりへ向ける。
「ならば、あなたが手を貸せばいい。
理沙の友達になって、あなたが彼女の人生を明るく楽しいものに仕上げてあげればい。そう出来ると信じているのならば」

理沙はまりの友達で、12年前に都バスに頭をひかれたため、
重篤な後遺障害を請け負う人生を余儀なくされている。
このふたりは友達だとは言いつつも、二年前に通所先の自立支援センターで出会い、
特別な深い関係性を築いていたわけではなかった。
仲は良かったが、距離を置いていたのはまりではなく、むしろ理沙の方だった。
それを証明するように、理沙にはひとりも友達がいないと佳生に告白していた。

佳生は理沙が以前に取材を受けた朝日新聞社のコラムや書籍に強く影響を受け、
理沙に手紙を送っていた。
その返事が三年後にようやく届き、
面識のあるまりに佳生は初詣や食事の同席を哀願していた経緯がある。
残酷なことになるからと申出を断っていたのはまりだったが、
佳生は一度だけ同席すればよいと軽口をたたき、約束は実現された。
が、結局のところ、予想どおり、残酷性を攻撃する言動が抑制なく繰り返され、
まりに諭される始末だった。

初詣や食事を済ませ、両親に理沙を引き渡した後、まりは突如疲労感に襲われた。
自分の身体が崩れ落ちていく様を呆然と眺めていた。
緊張が解けたためだろう、
急遽、帰宅せずにビストロでの休憩を兼ねた反省会に予定を変更した。

佳生はすでに平静を装う無理を自覚している様子だった。
依存や感情移入を批判するつもりはない。
けれど、そのために他人を巻き込む必要があるのかとまりは心の中で静かに思う。
自分へ、佳生へ問いかける。

可哀想な人は世の中にはたくさんいる。
幸せそうに見える人にも枷のような存在のなにかに、
こころを削られ、すり減らす出来事からは逃れられない。
だからこそ、笑顔や幸せが尊いと思えるのだ。

「自立支援してやれよ?
働き口くらい、まりさんなら見つけられるだろうし、交渉は負け知らず。朝飯前だろ?」
「何度も言うように、私は他人の人生に立ち入る主義ではないのよ。
万が一、立ち入る場合は一生面倒を、責任をみれるかと考え抜いた末にようやく決断ができる状況で、
それは容易ではないのよ。
福島第一原発のある大熊町出身の仲間への支援だって、偽善ではないか、自己満足ではないかと、
いまでも眠れない夜を過ごすことがある。
私がすでに支援している人は3人もいる。
そこに娘の養育や事業計画の見直しが加わるから、安易な返事ができないのよ。
余裕のない状態だからこそ、佳生の申出には慎重なのよ。
信用を失うことも、失望されることも私が求めることじゃないから」

時々、会うくらいいいじゃないか。佳生はきっとそう言いたいのだろう。
それを楽しみにされればされるほどに、
まりは多忙さを極める自分の日常に、罪悪感を抱かされる。
理沙のために都合のつけられない自分へ。
理沙が傷付かないように、
社会復帰する話題には触れられない気遣いに苦しめられるのだ。

佳生はなにに残酷性をみたのだろうか。
それはおそらく、まりが理沙とは二度と交差しえない別の人生を歩み出した事実を、
実は佳生自身が受容できないという叫びではないかとまりは解釈する。
まりの人生から佳生もいずれ消えてなくなるのではないかとの恐怖心が、
もしかしたらまりに残酷性を見てしまう一因かもしれない。

カラトリーがぶつかる金属音、
コーヒーを啜り、隣の席ではご婦人が話す家族の自慢話が漏れ聞こえてくる。
幸せの概念は人それぞれである。
佳生は窓外から視線を移そうとせず、視線の先になにを映しているのだろう。
その世界が美しく、穏やかで、温かいあなたの希求する世界でありますように。
まりは手を合わせる。






灯火の存在

2011年12月31日 10時10分48秒 | エッセイ、随筆、小説



わたしはひとを好きになってもいいのでしょうか。
ふともたげた自問に、
途方に暮れゆく道をどうも歩き始めてしまったようなのです。

その道の先には人影が見えました。
じっと、しばらく眺めていると、歩き方の癖、
右側をかばうようなわずかな傾きがたり、
その人がわたしの大切な人であると気付きました。

わたしの大切な人には身体の一部がありません。
心が欠けているわけではないので、わたしはさして苦にしませんでした。
安易に捉えてきたわけではありませんが、
そこに踏み込むことをせず、今日まで生きてきました。
わたしたちはお互いを尊重し、大切にし、愛し合ってきたからです。

わたしが切なさを覚えたのは、その声を聴いたある朝からです。
その日、いつものように他愛ない会話を交わし、
いつもの、なにも変哲もない一日がはじまるはずでした。
あなたはモチーフというフレーズを話題にあげ、
セザンヌが愛した言葉であることを添えました。
モチーフを軽く説明書きし、
その言葉がなぜか浮かんできたのかをわたしに告白したのです。
それはすこしでも手に力を入れると粉々になるような、
それを持続することの困難さ。
そこであなたからのメッセージは一旦途切れるのです。

わたしはシャングリラホテル ロビー階に到着したばかりでした。
ホテルクルーとしばし談笑し、眺めのよいとっておきの席、
アロマティーの誘いにときめいていたときでした。
ラウンジからは東京が一望でき、
幸せそうに見えるカップルや外国人旅行者が織りなす喧騒の世界を過ぎたその奥に、
とっておきの席は行儀よく、品格に溢れ、上質感漂う時間だけをそこに集めているようでした。
お台場の先には房総半島が見渡せ、
冬の、ぴんと張り詰めた透きとおる大気は、
わたしの心の投影そのものだと気付きました。そして、わたしはあなたを想うのです。

猫の背中でも撫でていたのでしょう。
手の甲にさらさらとした感触を覚えたとほぼ同時に、
あなたからのメッセージが届きました。

足をなくした不自由さは問題にしないたちですが、精神的な苦痛や仕事や恋愛で、
自分なりに自殺等も含めて苦悶しました。
そんなときにも自分の中に、消したくても決して消えることのない、
これが消えれば楽になるという灯火の存在に気付いてしまうのです。
この灯火が僕のモチーフだと思います。
この灯火は想像以上に深く、繊細なエネルギーであることに最近ようやく気付きました。
現れ方は違いますが、僕とあなたのモチーフは同質なのです。

途方に暮れゆく道の先には、もうあなたの姿はありません。
あなたが描く柔らかな色彩の世界、優しく、力強く、
すこしでも手に力を入れると粉々になるような繊細さを内に秘めた、
あなたの中にいます。
わたしの大切なあなたが描くあの絵の世界に。






記憶

2011年12月30日 00時55分32秒 | エッセイ、随筆、小説




エステと読書はお嫌いだったね。
それはつまり、彼女との思い出、その話をあなたがするたび、実のところついいましがた、
昨日の出来事ではないのかと錯覚した。
かと思うと、私は手を合わせ、祈らずにはいられない衝動に駆られた。
願いごとがあるわけではないのに。

そこには特別深い意味があるわけではないのに、すこしだけ胸が締め付けられる思いがする。
それなのに、心がほころぶわずかな音に耳を傾けてみたりして、
恋の、特有のあのほろ苦い感じではなくて、
無理やり人生の表舞台からあなたは引きずり落とされてしまったというのに、
カリフォルニアでみた太陽を思い出させてくれる。
陽に灼けた褐色の肌、爽やかな匂いが風に運ばれて、
細身の身体からは想像出来ないくらい底抜けのしぶとさを時々目に映してきた。
PIAに沈みゆく西陽に心を奪われていると、俺ならそう思うと言って、
事故にあってから、歯ぎしりがはじまったという話を皮切りに、
自分の彼氏が重度の障害者で、ろくな収入も無く、毎日神経痛に悩む。
それで幸せなの?
俺は彼女が信用できないでいて、別れを選んだ。
不自由な自分に腹が立つと言うけど、あの日は事故前で、
私たちはまだ出会ってはいなかったの。


あなたは強い人、明るい人、優しい人、面白い人。
それなのに、怪訝な表情を浮かべる一瞬だけは、凪の時刻のような物さみしさを纏い、
遠景からの構図に恐る恐る身体を沈めていくと、脳の秘密にたどり着く。

わたしとあなたの秘密。
わたしとあなただけにしかわからない未知の領域。
幸せではなく面倒を生む、美しい彼女を失ったあのこと。
わたしはあの日、見えない枷に心身の自由を奪われたまま、
結局のところ、枷につながれた人生に狂わされてしまう。

わたしの事故より十年前に交わしたわたしたちの会話を、あなたはどのように証明するの?


夜光盃

2011年12月28日 22時01分27秒 | エッセイ、随筆、小説


この本は私にとって奇跡の出逢いでした。
書き出しからあとがきまで、
いろんなことを考えさせられる本です。
手元において、ときにページをめくるのもよし。
あなたの文才が花開く日を信じます。

平成18年8月吉日、諒



確か本の内容は、
近親者を本気で愛したという実話でした。
私は寝たきりの日々を過ごしていた最中で、
私にはすこしヘビーな内容の本でしたが、
いつしか魅了されていました。
静かなる文体に、羨望や嫉妬が入り交じる感情に、
幾度となく押し潰され、叩きのめされていました。
まるで、なにかに憑かれたようでした。
この本を片時も離さず、そのせいで力尽き、
その後、この本の呪縛から解き放たれるまで
長い時間を要したことを思い出しています。

あなたの視線の先に映し出す世界を、
嫉妬に駆られるあなたの美しい文章を、
私は今日も待ちわびているのです。

取り返しのつかない時間は、
手の施しようもない速さで流れ去る。
その思いに、私はじっと身を打たせている。
彼が言った。愛している。
君を失うわけにはいかない。
ぷつんと携帯電話を切る音がし、後には、
脳の中をどこまでも水平に伸びていく、
機械の音だけが残った。

あなたの文章を、私は必要としています。















考える葦

2011年12月27日 21時55分03秒 | エッセイ、随筆、小説



僕にとって大切な異性があなたであってくれたら嬉しく思います。
そして、あなたの人生や心身、
いいや、もっと深い領域をも包む異性が僕であれば幸いです。

とはいえ、僕の物事を捉える視座が、
通常の、世の中を生きる上では、この感受性がときに邪魔をするでしょうが、
あなたの感性に触れる至福の享受は、
僕が僕であることを、なぜかあなたに赦されていると思える瞬間なのです。

あの日、僕との情交を成就させた夜、
なぜあなたは僕をあんなにも懐かしそうに見つめていたのですか。
あの日、肉体の深部で揺らぐ精神をあらわにしたあなたが、
ときに恍惚な表情を浮かべ、ときに苦悩の色で身体中染め上げながら、
僕の魂を深く愛撫し尽くすのです。

まるで僕を見通しているかのようにあなたは言うのです。
まだ、あなたの精神には、薄い衣が一枚纏ったままですよ、と。
僕は照れくさく、
おまけにあなたには敵わないとの思いを打ち明けようにもそれすらあなたは僕の先をゆくので、
告白もできやしないのです。
だからでしょうか、僕を赦してくれていると思えるのは。
僕はあなたが愛おしく、満珠を投げ入れた海の潮が満ちるように、
あなたをただひたすら大切にしたいとの思いが、溢れ出してくるのです。

僕にとって大切な異性があなたであってくれたら嬉しく思います。
そして、あなたの人生や心身、
いいや、もっと深い領域をも包む異性が僕であれば幸いです。

僕は弱い葦でしかないけれど、
あなたを考えるとき、思考の偉大さにふと気付かされるのです。
だから、僕にとってあなたは大切なひとなのです。