
年末の風物詩と言えばこれ、という人も多いでしょう。
前ブログで書いたものに加筆しました。
ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付」
ウィルヘルム・フルトヴェングラー指揮
べルリンフィルハーモニー管弦楽団 ブルーノ・キッテル合唱団
「歴史的名演」と名高い1942年3月(戦時下)演奏会録音の、日本で一般的に知られているのは東芝EMI盤ですが、アマゾンでは現在入手できないようですね。
各CDショップでは、まだ普通に売っている(所もある)と思いますが、私が持っているのはオーパス蔵盤です。
上で「歴史的名演」と書きましたが、実のところそんな生易しいものではありません。
「異様な迫力」「デモニッシュ」などの評でも足りません。
確かに音質は良いとは言えず、咳払いなどのノイズもはっきりはいっています。
しかし、そんなことは本当にどうでもいいと思える、凄絶な演奏でした。
「鬼気迫る第九」って…想像できますか?
私は通常、音楽を聴いてトランスしてしまうようなことのないタイプですが、これを聴いているうち、歯の根も合わなくなるくらい全身が震え出し、涙が溢れてくるのに驚きました。比喩的表現でも何でもありません。本当に体がそう反応してしまったのです。
あまり大仰な形容は用いたくありませんが、「狂気の名演」という言葉以外では言い表せません。
いわゆるクラシック音楽の音盤で、これまで最高に凄絶な演奏だと思ったのは、ホロヴィッツ/トスカニーニ(NBC交響楽団)という義理の父子(ホロヴィッツが婿殿)による、1943年4月、カーネギーホールでの、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番だったのですが(何しろ第一楽章が終わった時点で、割れんばかりの拍手が来てしまったくらい)、その演奏の「狂気」は、原曲の中にあるものを逸脱するものではありませんでした。それが、天才ピアニストとカリスマ指揮者の凄まじい死闘の産物だったとしても。
しかし、フルトヴェングラーの「第九」は…
あれは「第九」ではない。少なくとも私たちの知る「第九」ではない。
この曲を演奏する時、多くの指揮者、オーケストラは、それをベートーヴェンに「捧げて」いるのだと思いますが、あの演奏は、おそるべき力でベートーヴェンをねじ伏せています。
「何なんだ」「これはいったい何なんだ」「私は何を聴いているのだろう」------
聴きながら、ずっとそう思っていました。あの逸脱は何なのか、と思いつつ、しかし、あれを聴いてしまったら、もうそれを知る前の自分には戻れない。そういう演奏でした。
そしてまた、フルトヴェングラーに「信者」とも言うべきファンが今なお存在する理由もわかった気がします。
更に、当時のドイツ、特に文化・宣伝部門の担当大臣だったゲッベルスが、様々な暗闘があっても彼を手放せなかった理由も。
(全くの余談ですが、私は高校時代にゲッベルスの評伝を読んだ為、およそすべての政治的スローガンやプロパガンダ、コマーシャルも含めての情報操作といったものを、かなり若い頃から醒めた目でしか見られなくなりました。それは寧ろ良いことだったと思います)
フルトヴェングラー指揮の「第九」としては、戦後のバイロイト音楽祭盤も名盤として知られています。一般にはむしろこちらの方が有名かも。