スティーブ・マックイーン監督、マイケル・ファスベンダー主演の問題作『SHAME -シェイム-』、3月11日、渋谷パルコのシネクイントにて、同好の方たちのお仲間に加えて頂き、観て来ました。
マックイーン監督は1969年ロンドン生まれ。アフリカ系英国人の映像アーティストで、『大脱走』等の物故有名俳優さんとは全くの別人です。
長編映画としては2作目となるこの『SHAME -シェイム-』、ヴェネチア国際映画祭での男優賞受賞をはじめ各国で高く評価されながら(各賞受賞結果およびノミネート一覧はこちら)、日本では「過激な性描写」がネックとなり、R-18指定を受けての公開でしたが、実のところ、その方面を期待したお客さんは、観終えて大いに気分が沈んだことと思います。この作品の本質はそこにはないからです。
とは言え、主人公の設定が「セックス依存症」ですから、そういう部分への言及や用語の使用は避けられません。また、彼の隠された暗部(SHAMEな部分)に触れるため、以下の感想では盛大にネタバレもしているので、閲覧には十分ご注意下さい。
ストーリー:ニューヨークのお洒落なアパートに暮らすブランドン(マイケル・ファスベンダー)。ハンサムで人当たりよく、勤務先での評価も上々、優雅な独身生活を満喫しているかに見える彼には、他人に言えない秘密があった。
夜ごとアパートに女を呼び、ゆきずりの女性と屋外セックスに及び、大量のポルノ雑誌を収集し、自宅でも会社でも暇さえあればPCでアダルトサイトを巡回し、画像や動画を集めるなど、仕事以外のすべての時間を「セックス」やそれにまつわることのために費やしていたのだ。しかし、そこには感情の昂揚も、対象との心の触れ合いも一切なかった。
そんな或る日、恋人に捨てられたばかりで行き場のない妹シシー(キャリー・マリガン)が、アパートに転がり込んで来る。兄と正反対に感情の揺れのまま行動するシシーは、リストカット癖もある恋愛依存症で、ブランドンの上司デイヴィッドとも会ったその日に寝てしまい、既婚者である彼に縋り始める。
妹の突然の出現は、ブランドンの日常生活にも内面にも変化をもたらした。当のデイヴィッドに会社のPCでのアダルトサイト閲覧がバレ、軽蔑されたことなどもあって、好意を寄せてくれる同僚女性とセックス抜きのデートを試み、ぎこちないながらもまずまず良い雰囲気でその日を終えることに成功。しかし、二度目のデートで行為に及ぼうとした時、心を通わせた「恋人同士のセックス」が出来ない自分に気づいてしまう。
衝撃を受け混乱したブランドンは、自分を振り回す妹に苛立ちをぶつけ、「出て行け」と叫んで、自らは夜の街へとさまよい出す──
クライマックス前までのストーリーをざっと書き出せば以上の通り。もちろんセックスシーンも全裸姿も随所に映し出される。しかしそこに煽情性は全くない。青色をベースとした抑えた色調の静謐な映像やファスベンダーの硬質な美貌のゆえでもあるが、確か海外では「性描写は多いがエロくない(下世話な言い方をすれば「ヌケない」)映画」の筆頭に挙げられていたと思う。
それはつまり、主人公自身がその行為に何の喜びも見出していないからなのだろう。セックスやマスターベーションにより、肉体は反応しても、それは感情の動きや精神の昂揚はおろか「スケベ心」とさえ連動しない。彼はただ淡々と、日常的な義務のようにそれらの行為をこなしているだけだ。
ブランドンにとってセックスとは快楽ですらなく、強迫観念でしかない。だからこそ彼は「依存症」なのだが、しかし問題はそれだけでは終わらない。
クライマックスの「地獄巡り」──一晩のうちに、ゆきずりの女性を変態的セクハラそのものの言動でナンパして彼女のBFに殴られ、ゲイクラブ(と言うよりいわゆるハッテン場か?)にさまよい込み、更に娼婦たちとの3Pにも及ぶ彼の姿は正視に堪えないほど痛々しく悲しく、ブランドンにとってセックスとは、シシーの恋愛依存やリストカットと同じく自傷行為でもあったことが理解される。
では、なぜこの兄妹はそのような人間になってしまったのか。
その背景は、作中では断片的な言葉や行動で暗示されるだけだが、行間を読むようにそこから推察できることはあると思う。
二人の生育環境、元の家庭環境があまり恵まれたものではなかったことは。何となく察せられる。二人とも自家用車はおろか免許さえ取得していないことにも、過去の何かが関係しているのかも知れないが、これについてはよく判らない。
シシーが登場して間もない頃、クラブ歌手である彼女が店で「ニューヨーク・ニューヨーク」を歌い、それを聴くブランドンが涙ぐむシーンがあった。
ライザ・ミネリやフランク・シナトラの歌唱で有名なナンバーだが、マックイーン監督はこれを「とても悲しい曲だと思っていた」と言う。実際、これほど物悲しい「ニューヨーク・ニューヨーク」を聴いたことはない。
成功を夢み、そうなりたい自分を思い描きながら、いまだそこに到達し得ない人間の歌。
それは彼らの現在の姿でもあるが、二人にしか共有できない「何か」がそこには流れていたと思う。
では、彼らの「本当の望み」とは何か。共有していたものとは何なのか。
なぜ二人は、自らを痛めつけるように不毛なセックスや恋愛を繰り返し続けるのか。
上記以外のシーンからも窺えるのは、おそらくは劣悪だったと推測される子供時代の環境の中で、この兄妹が互いに身を寄せ合い、依存し合っていた時期があったのではないかということ。
そして、この先に書くことは最大のネタバレであると共に、全くの憶測に基づくものであるという二つの理由から伏せ字にしておくが──
つまり、彼らの隠された秘密とは、この兄妹が近親相姦かそれに近い関係にあったということである。
「私たちは悪い人間じゃない。悪い場所にいただけ」
というシシーの台詞は暗示的だ。
その環境の中で、妹は兄に頼り、縋り、兄は妹を守ろうとしたがゆえのことだったかも知れない。
現在まで継続している関係ではないと思う。しかし、そういうことがあったからこそ、兄は「心」を通わせた相手とのセックスが不可能になってしまったのかも知れないし、またはそれ以上深入りしたくなかったから、愛のないセックスだけを求めるようになったのかも知れない。
そして妹は、兄と離れて感情の持って行き場を完全に見失ってしまったのかも知れない。
もちろん、実際の行為そのものはなかったとも考えられる。しかし、それがあってもなかったとしても、二人が互いに最も愛し、必要とし、依存するただ一人の相手と「結ばれる」ことはあり得ないのだ。
しかし妹は他の誰に縋り、依存しても満たされることはなく、兄はどれほどの悪徳を重ねようと「最大のタブー」でしか満たされることはない。或いは、何をしようとその罪悪感を拭い去ることはできない。それを超える地獄など何処にもない。
決して語られることはなく、成就されることもない二人の「本当の気持ち」「本当の欲望」。それこそが彼らの真の「SHAME」である。
恥の意識は罪悪感に結びつき、obsessionへと転じて行く。それは更なるobsessionを胚胎し、肉体的苦痛を伴って肥大化する。
情欲と受難を表す言葉は、英語では共にpassionであることを思い出した。
自らを痛めつけ続けることが浄化へと到る道を開くのか。それはまだわからない。
一方で、上で書いたようなことなど本当は一切なく、ブランドンにとってシシーはただ単に「逃れたい過去」または故郷の象徴というだけのことだという見方もあると思う。作品は何らかのヒントは与えてはいても、一つの方向へのみ誘導したりミスリードを図ったりしているわけではないのだから、それはそれで成立する話だし、私の解釈も「そういう見方もある」程度のことだとご理解頂ければ幸いである。
映画『SHAME -シェイム-』公式サイト
TBありがとうございました。
とても胸の痛い映画でしたよね。
>>ブランドンにとってセックスとは、シシーの恋愛依存やリストカットと同じく自傷行為でもあった
まさに仰る通りですね。
本来愛情の行為であるはずなのに、
かれにとっては、自分も相手も傷つける行為だったんですね。
ほんと切ないですね。
TBありがとうございます。
この映画についてのレビューや感想は幾つか目にしましたが、白木庵様の書かれた文章が最も納得でき、感銘を受けました。
彼らが何とか幸せに…なれないとしても、少しでも良い方へと向かうことは出来ないかと考えたり、いや現状ではやっぱり無理かも知れないと思ったり……
ラストの「地下鉄の女性」とどうするのか、その選択次第でまた変わってくるとは思いますが、本当に悲しく切ない作品でした。