小さな花の輝く世界

小さな植物や花の知られざる輝きをご紹介いたします。くわゐ(匙太sagittaria)です。お間違えなきよう

赤間川散歩㉑下水道竣功記念碑

2020-09-26 00:05:55 | 探求散歩

テーマを決めて細かく調べながら歩く「探求散歩」です。

最新シリーズの「旧赤間川」は、トピックが多くてなかなか終点まで行けません。

これまで何度も、もうすぐ終わりと書き込みましたが、既に21回目。

数字の21も㉑しか変換で出てきませんでした。

 

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今回の撮影地点になります。ついに「田谷用水樋管」へ到着しました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

もう「田谷用水樋管」の水門は、道路の向こう側。今回のスタート地点は、「宮元町児童遊園」からです。

多くの地図でこの場所は、単に”公園”としか書かれていませんが、正式な名前は「宮元町児童遊園」です。

道路(新河岸川)寄りに記念碑が建っております(❶)。

柵の感じが変。数本の石柱が間引かれて、脇に無残に放置されています。

電柱の支線(黄色いポール)を張るため、敷地を狭められたようです。

これは「川越市下水道竣功記念碑」らしいです(❷)。

「本市ハ従来 下水道ノ設備 完全ナラズシテ 市民ハ 雨水汚水ノ 排泄湛水二 悩ムコト久シ

 於茲 市会ハ 昭和五年六月 下水道法ニ依リ 完全下水道敷設ヲ議決シ 同七年三月起工

 総工費六十九万余円ヲ費シテ 同十三年五月竣功ス 

 其ノ地域ハ 全市ニ亘リ 面積三百十九ヘクタールニ及べリ

 昭和十三年五月三十日 川越市長 橋本定五郎」

 裏にはこう記されております(一部漢字を易しく書き直しています)。

橋本定五郎氏は、第6代川越市長で川越脳病院(川越同仁会病院)の開設者だそうです。

この碑は、再建されたモノらしく、もうひとつ石板が付いていました(❸)。

昭和59年(1984年)3月、河合喜一氏(第20~23代市長)の時に直されたようです。

 

川越の市街地というと、私には新河岸川の右岸(川で囲まれる)側というイメージがあります。

だから、この記念碑はもともと右岸側にあったのでは?と思いました。

この碑が修復される昭和59年(1984年)以前の画像を探してみました。

航空写真なのに結構ハッキリと、記念碑らしきものが写っていました。

昭和13年の建立以来、ほとんど同じ位置にあるようです。

「田谷用水(旧赤間川)」が役目を終えて、水路を整地した際に修復したようですね。

雨水貯留施設を建設するときに、少し移動した可能性もあります。

ただ、昭和初期の下水道計画で、新河岸川の左岸側まで下水管が敷設されたという裏付けは、取れませんでした。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

川越市の下水道の歴史は古く、最初に計画されたのは大正13年(1924年)です。

そして、大正15年(1926年)には、工事が行われております。

「広報川越」をみると、大工町と志義町界隈の下水を赤間川に導くものだったそうです。

昔、便所は汲み取りで、農地の肥料になっていたので、下水と言えば生活排水と雨水でした。

昭和末期の汚染度と比べれば、この当時はドブを川に流しても、問題にならなかったようです。

 

この記念碑に刻まれている下水道工事により、旧市街地の大部分が網羅されたとのこと。

しかし、終末処理場の施設まで及ばなかったのは、し尿が肥料として利用されたためでしょう。

昭和30年代になって、下肥から化学肥料へ転換が進み、一気に深刻な問題になったようです。

 

昭和35年の「川越市政だより」によると、8本の下水放流口から「赤間川(新河岸川)」へ流されていたそうです。

先日、「新河岸川」沿いを歩いていたら、古い水門を見つけました(❹)。

 

今回の撮影地点です。➍~➐と⓭は、「田谷堰」から離れたところの画像です。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

道を隔てて水路がありますが、5mほどで埋め立てられて無くなっています(❺)。

草ボーボーで、対岸からはうまく画像が撮れませんが、かなり古そうな水門(❻)。

田谷用水樋管などのゲートと形が似ています。同時期くらいの完成でしょうか?

この場所は堰の下で、緩い坂の下にあります。たぶん排水口ですね(❼)。

もしかしたら、昭和初期に作られた下水道の放出口のひとつかもしれません。

調べていないので、確証は全くありませんが・・・。

古い航空写真と比べてみます。

昔は水路のようですが、途中で切れているようにも見えます。

下水管と接続していたのでしょうか?

終戦時まもない画像にも、この水路があるようなので、下水路の可能性も高いです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

川越市の上水道が完成するのは、昭和29年(1954年)からですが、

水道が出来て排水が増え、都市化が進み、下水を自然放流している川は汚れてきました。

さらに、し尿の農業利用が激減すると、終末処理場建設の要望が高まります。

川越市の下水道は、昭和36年(1961年)に下水道課が新設。

昭和37年(1962年)から、使用料が徴収され、終末処理場の建設が進んでいきます。

昭和39年(1964年)から、順次水洗化が始まり、50余年後の現在は85%超の普及率です。

 

今回の撮影地点になります。⓭の「道灌橋」は「田谷堰」の上流に当たります。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

紆余曲折ありましたが、やっと「田谷用水樋管」に到着しました(❽)。

このゲートだけ表示板が金属なのは、もと「旧赤間川」の本流だからでしょうか?

また、ゲートもウォームギヤでハンドルを回す方式です(❾)。

他の二つは、弁棒に直接ハンドルが付いているタイプです。

右側に階段が見えますね。

対岸から「田谷用水樋管」を見てみました。階段は清掃作業用のモノみたいですね(❿)。

ゲートは下りた状態になっているようですが、堰板は朽ち果てて無くなっています。

樋管の中はガレキが入っており、草が生えています。奥は埋められているみたい。

目の前の「田谷橋貯留施設」と繋がっていることもないでしょう。

 

「田谷堰」にある三つある樋管を比べてみました(⓫)。

水面から樋管までの高さに微妙に差があります。

一番下流の「宮下用水樋管」の位置は高く、上流の「田谷用水樋管」は水面すれすれでした。

高さを変えることで、平等に水の分配が出来たのでしょうか?

 

「田谷堰」と「田谷用水(旧赤間川)」「二丁町用水」「宮下用水」の各樋管です(⓬)。

名物のポプラ並木は、残念ながら数年前に伐採されたようですね。

「赤間川物語」によると、上流の「道灌橋」(⓭)から、この辺りまでの川の右岸を「田谷」と呼んだそうです。

その地先にあるので、「田谷堰」「田谷橋」「田谷用水」の名がつけられたようです。

 

やっと「旧赤間川」の最上流まで到達できました。

一番最後まで「下水道完成記念碑」のような、本題から外れた話ばかりしてきましたが、やっと終わりました。

「田谷堰」についての説明や画像は、他のサイトでもたくさんありますので、割愛する予定でした。

でも、チョットしたまとめ、後から分かった事について、もう1回分記事を書きたいので、「田谷堰」の画像も次回に紹介いたします。

次が本当の「最終回」になります。どうぞよろしくお願いいたします。



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