まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

貞観園と貞観堂

2021-02-18 23:46:39 | 建物・まちなみ
2019年秋の長岡からの続き。



長谷川邸を出て、貞観園を目指しナビの言うとおり走るが、途中から何か道が細くなってきた。
ほんとにここでいいの!?と思うようなあんまりメンテナンスされてなさそうな細いくねくね道。。。
ガードレールもないし、対向車が来たら正面衝突を免れなさそう・・早くこんな山道抜けてしまいたい一心で走る。
峠を越え、ようやく人里に下りてきたときの安心感・・・長岡から行くのは本当にこの道しかなかったのか??(汗)

ここでも屋敷は水路と石垣に隔てられている。自然の林の中のような、静謐な雰囲気。


粗末な感じの建物が水路脇に建っており、小さな橋が渡っていた。えっ、これが貞観園の入口?


入口のひさしを支える柱には四角い穴が空いており、何かの古材を集めて作ったように見える。


格子戸を開けて入ると、これは蔵なのか?お堂なのか??ちょっと不思議な建物だ。




そして針葉樹の林の奥に貞観堂と呼ばれる建物の屋根が見えた。おや、屋根は鉄板葺きか。
ここも北方文化博物館(豪農の館)を建てた伊藤氏が庭を造るときに参考にしたと聞いていたので、見てみたいと
思っていたのだ。しかしこのあともう1軒行こうと思っているのであんまり時間がない。。。(汗)


車寄せのように張り出し入母屋屋根の載った玄関と、その向こうにももう1つ玄関がある。
そして見学の入口はもう一つ手前の土間の入口で、合計3ヶ所の入口がある。


建物内に入ると、土間は屋根裏まで吹抜けの大空間である。しかし土間は奥へ抜けていない。
この「貞観園」は庭園が国指定名勝になっているが、建物「貞観堂」は特に文化財になっておらずあくまで
庭園の一部なのだという。ええっ、そうなの!?こんなに古くて立派な建物なのに?
しかしこの家はどういう人の家だったのだろう?受付の年配の男性に聞いてみると、なんと、ここは松之山の
大棟山美術博物館になっているあの村山家らしい。ほほ~~~ぅ、ここも村山家だったのか!!


1673(延宝元)年に善右衛門正信が松之山の地を弟に譲りこの岡野町に移った。どういういきさつで兄が
居を移したのかわからないが、分家というのともまた違うのだろうか。
そしてこの方が第13代のご当主で、自ら来客の対応をされていたのだ!ありがたや~~。現在もここの裏手にある
建物にお住まいなのだという。



年表によると、貞観堂は1784(天明4)年に建てられたので、築235年ということになる。
こちらの村山家もやはり大庄屋を務めた豪農だったというが、この建物は生活感がなくもっぱらもてなしの場として
使われたと思われる。そして非公開の居住部分が「母屋」なのだろう、さらに古く260年もの歴史を経た建物と言う。
そこに今も住まわれているというのだからすごい!!
維持の負担を減らすため、2006~2009(平成17~20)年の修復工事で貞観堂の屋根を鉄板葺きにされた。
名勝庭園の附属建物に対する補助金が出ているのかどうかはわからないが、茅葺のやりかえは莫大な費用がかかると聞く。
将来にわたってのメンテナンスを考えると仕方あるまい。。。

上り口に鶴の絵の板戸絵が飾られていた。鶴の生き生きとしたしぐさ、松の古木の木肌の質感など見事だ。
保存状態もよい。


この家も近世の建物だが、さっきの長谷川邸よりも装飾的要素が多い。特に建具に素晴らしいものがたくさんある。
広間では鮮やかな緑色の葉をつけた松の枝が描かれた欄間に目を惹かれる。


欄間は透かし彫りや組子など木製で精緻を競っているのがほとんどだが、これはまるで天袋の襖のようだな。
繊細な筆致は高名な画家が描いたと思わせる。


座敷の方を見ていくと、部屋の中へは立ち入れないがどの部屋もとても立派で格式高い感じ。
こちらの三之間は仏間。ケヤキ材の仏壇が置かれ、家人が日々お勤めをされていた部屋である。
古紫檀の大卓は明治天皇が北陸御巡幸のときに使用されたものだとか。


二之間との境にある金色地の襖がゴージャス!!これは京都のお寺から明治時代に譲り受けたもので、中国の伝記
「列仙伝」を画題とし西王母と東方朔という仙人が描かれためでたい絵。狩野派の作品かと言われている。


床の間には、園名「貞観」の命名者、藍澤南城による808字の貞観堂号記が飾られている。
「貞観」の名は中国南宋の詩人謝康楽の詩句に由来し、「贅沢をしようという心を忘れて、そこで初めて丘や谷の
美しさを正しく見ることができる」という意味なのだとか。


その隣の「二之間」の廊下に面した襖は、強烈なインパクトでギョッとする。黒地に金色で描かれた龍が
ぐねぐねと体をくねらせ舞い踊るさまは、躍動感にあふれ迫力満点!春慶塗の赤い木部が黒と金色を際立たせる。
この「雲龍図」の西陣織は、5代当主が菩提寺である廣済寺に「柱隠し」として寄進したが、長年の使用で傷んだため
11代当主が新しいものを寄進して古いものを引き取り、襖に仕立て直したのだという。
古い布が目を瞠るインパクトのあるインテリアに生まれ変わったわけで、うまく再利用したものだな!!


この上にはまた可憐な白菊が描かれた板絵が嵌っている。


白菊はあちこちに描かれており、花びらは胡粉を盛り上げて立体的に描かれている。
大棟山にも同様の白菊の板絵があったし、村山家に何か謂れがあるのだろうか。




引き手も鳳凰が彫られた凝ったデザインのものが使われていた。



上段の間から畳廊下を挟んだこの小さな部屋は玄関の間で、右側の障子を開けると玄関である。
建物からここだけ張り出した形になっている。
貞観堂の玄関は「真之玄関」「行之玄関」「草之玄関」の3ヶ所があり、ここは一番格式の高い「真之玄関」。
式台にはケヤキの一枚板が使われ、お武家様、お寺の和尚様等の貴賓の出入用として使われた。


そしてこの玄関から入ると目の前にあの雲龍図の襖が見えるわけだ!


尚、さっき入ってきた土間の入口が「草之玄関」で出入り業者などが使用、板の間に上がる入口が「行之玄関」で
当主やお客が使用した。

続く

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