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超一流の流儀

2014-09-02 19:50:53 | ☆カツ日記☆

ブルペン捕手から見た元阪神・藤川球児の「超一流の流儀」



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エースの響き~ブルペン捕手・中谷仁が見た「超一流の流儀」


 中谷仁です。私は今、子どもたちに野球を教えながら、自分自身も勉強の日々を送っています。

私は選手、ブルペン捕手として16年間プロの世界に身を置いてきました。

阪神、楽天、巨人、さらには2013年のWBCで数多くの超一流と呼ばれるエースたちの球を受け、彼らの凄さを知ることができました。

これまで私が彼らと過ごした貴重な時間を振り返り、彼らの人間性、能力の高さに迫りたいと思います。前回に続き、いまメジャーで頑張っている藤川球児についてお話させていただきます。




 球児が二軍から一軍に定着したのが、入団6年目、2004年のシーズン後半でした。

そして翌年にはジェフ・ウィリアムス、久保田智之とともに最強のリリーフ陣"JFK"を形成し、リーグ優勝の原動力となりました。

それでも彼は、常に向上心を持って野球に打ち込んでいました。


 2005年シーズンのある巨人戦でのことです。清原和博さんとの対決で、フルカウントからフォークで空振りを奪いましたが、清原さんは「男気がない!」と球児の投球を批判しました。これを聞いた球児は試合後、涙を流したそうです。ただ、このままで終わらないのが球児。

そして清原さんとの再戦で今度はストレート勝負で三振。その時、清原さんが「自分がこれまで見た中でナンバーワンのストレート」と言ったのですが、あの時は本当に自分のことのように嬉しかったですね。


 それがきっかけとなって、球児のストレートはさらに磨きがかかりました。

2006年にオールスターに出場した時、西武のカブレラ、日本ハムの小笠原道大(現・中日)さんといった強打者相手に「全球ストレートでいきます」と言って、本当にストレートだけで三振を取りました。

常時150キロを超す直球は"火の玉ストレート"と呼ばれ、わかっていても打てない魔球になっていました。

2005、2006年は最優秀中継ぎ投手、2007年、2011年は最優秀救援投手のタイトルを獲得するなど、球界を代表するリリーフ投手へと成長しました。



 これだけの結果を残したのだから、順風満帆なプロ野球生活を送っているように見えますが、その陰で球児は大変な苦労をしていたんです。球児が絶頂の頃、私にこんな話をしてきたことがありました。

「(中谷)仁さん、しんどくなってきた。抑えて当たり前、打たれたら酷評される。これがリリーフの仕事やから仕方ないのかもしれないですけど、僕が打たれた次の日、子どもが『学校に行きたくない』と言い出したんです」

 おそらく、阪神ファンの子から「お前のオヤジのせいで負けた」というようなことを言われたのでしょう。

この頃の球児は、甲子園のマウンドに上がるだけで球場の雰囲気を変えてしまう投手になっていました。しかも、投げる球のほとんどがストレート。ファンの期待は球児の想像以上に膨らんでいました。

期待に応えたいという思いはあったと思いますが、このままでは厳しいということを悟っていたとも思います。


「みんなアメリカに行ってしまって、相談できる人がいなくなった。僕もアメリカに行って、一から挑戦したい。このまま日本でやっていたら、自分で築いた山を削られるだけ」と私に打ち明けてくれました。

もう一度、自分のピッチングを見つめ直したい。そのためにも、環境を変えて挑戦したいという気持ちがあったのでしょう。



 ただ、2013年にようやくメジャー移籍を果たしましたが、ヒジを手術したり、まだ満足のいく結果を残せていません。

憶測ですが、年齢も年齢だし、球の速いピッチャーだけならアメリカにたくさんいる。やはりメジャーで成功するためには、変化球が必要だと思ったのでしょう。確かに、道は険しいですが、これまでの経験を生かして、メジャーでもう一度輝いてほしいです。このまま終わるヤツではないですよ。


 球児とは、私が楽天に移籍するまで一緒にプレイしましたが、彼から教えられたことはいっぱいあります。

なかでも、ある日ブルペンで話していたことが今でも強く印象に残っています。

普通、ピッチャーというのはいいフォームで投げれば、いいボールがいくと思うものですが、球児はまったく逆の考えをしていました。

「いいボールがいけば、それがいいフォームなんだ」とあくまで結果重視なんです。「どんな投げ方でも、キャッチャーの構えたところに投げるのが僕の仕事」と。「そう考えているピッチャーは少ないのでは......」と問うと、球児はこう言い返してきました。

「仁さん、考えてみてよ。バッターが空振りして、『いいスイングだったからOK』とはならないでしょう? ピッチャーだって同じだと思う」

 さらに続けて、「仁さんが構えたところに投げて打たれたら、100%、仁さんのせいだから、そこのところは頼みますよ」とも。

それだけコントロールに自信があったのでしょう。実際、私の構えたところに寸分の狂いもなく、球児は投げてきました。


 実は、私の一軍デビュー戦(2002年8月11日)、マウンドにいたのが球児だったんです。この試合、先発マスクは矢野(燿大)さんだったのですが死球で骨折。

私は3番手捕手としてベンチにいたので、次に出るのが2番手捕手。さすがに出番はないなと思っていたのですが、2番手捕手の方がワンバウンドの球をうしろに逸(そ)らしたんです。

そしたら星野仙一監督(当時)が怒って、捕手交代。急遽、私がマスクをかぶることになりました。

とにかく緊張して、周りを見る余裕などなかったのですが、マウンドにいる球児の姿を見たときはホッとしました。

何度も二軍で組んでいましたし、どうリードしたらいいかも大体わかっていましたから。


 なんて思っていたら、コントロールのいいはずの球児がワンバウンドの球ばかり投げてくるんです。「あれ、今日の球児は調子悪いのかな」と思いつつ、とにかく必死にボールを止めていました。

そして試合が終わり、球児に「調子悪かったん? ワンバウンドばっかりやったな」と言うと、球児はとんでもないことを言ってきたんです。

「仁さん、なに言うてんの。ワンバウンドはわざとやで。2番手捕手の方はそれが止められなくて、代えられたんでしょ。でも、仁さんは止めた。そうすれば、仁さんの良さがわかってもらえるでしょ」って。

 私は配球を考えたり、ボールを捕ることに必死だったりで、球児がそんなことを考えていたとはまったく想像できませんでした。

その頃の球児は、まだ"勝利の方程式"に組み込まれるような投手ではなく、負け試合に登板するような存在でした。

自分も必死なはずなのに、私がアピールできるようにわざとワンバウンドを投げてきてくれたんです。



 球児のおかげで、それからしばらくは試合に出させてもらったのですが、結局、定着することはできませんでした。

せっかく球児がチャンスをくれたのに......。あの時にチャンスをものにできていればと思うこともありますが......悔しいですけど、仕方ないですね。私は先にユニフォームを脱ぎましたが、球児はまだ夢の途中。

彼のこれからの野球人生をしっかりと見届けたいと思います。