世の終わりのキリスト全能神

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられます。考察したい者は全能神教会にご連絡してください。

出生:第1の節目

2018-09-30 13:20:55 | いのちの認識

 

 

 今日お母さんから電話が来て、従妹が赤ちゃんを産んだとお知らせがありました。うれしかったです。誰が世に来ても神様の定め、按配があります。みんなに神の言葉を分かち合います。
1.新たないのちは創造主の計画から生まれる

 第1の節目の詳細すなわち、ある者の出生地、家族、性別、容姿、出生期日のうち、人間が選択出来るものはあるだろうか。ある者の出生は、明らかに受動的な事である。その者は、自分の意志とは関係なく、ある時、ある場所で、ある家庭に、ある容姿で生まれ、ある家庭の一員となり、ある家系を継ぐ者となる。第1の節目において、人間には選択の余地が無く、創造主の計画に従って決定された環境で、特定の家庭に、特定の性別と容姿で、特定の時期に生まれるが、このことは、その者のその後の人生と密接な繋がりがある。この重要な節目に、人間は何が出来るだろうか。先述の通り、そうした出生の詳細に関して、人間には選択の余地が一切無い。創造主による予定と導きが無ければ、この世に新しく生まれるいのちは、どこへ行き、どこに留まるかを知らず、全く無関係で、どこに属する事もなく、自分の家も無いであろう。しかし、創造主の周到な采配のため、新たないのちは、留まる場所、両親、そのいのちの属する場所、親戚が揃った状態で、人生の旅路に就く。この過程全体を通して、新たないのちの誕生は創造主の計画により決定され、そのいのちが持つあらゆる物事は、創造主によって新たないのちに与えられる。影も形も無い浮遊物体の状態から、次第に血と肉を持ち、目に見える、神の被造物である有形の人間となってゆく。その人間は考え、呼吸し、寒暖を感じ、物質世界での日常活動に参加可能であり、造られた人間が人生で体験する必要のあること全てを体験する。ある者の出生に関する創造主による予定は、生存に必要な物事の全てを、創造主がその者に対し与えることを意味する。同様に、その者が生まれるということは、生存に必要な物事の全てを、創造主からその者が授かること、そしてその時点からは、別の形態で、創造主の備えのもとに、創造主の支配の下で、その者が生きるということを意味する。

2.人間が個々に異なる状況下に生まれる理由

  人々は、もし自分が生まれ変わったならば、名家に生まれる、あるいは女性の場合は、白雪姫のような容姿で皆に愛されること、男性の場合は、全世界を意のままにし、何ひとつ不自由のない、白雪姫に登場する王子のようになる、などと想像することが往々にしてある。自分の出生について多々幻想している人は多く、彼らの多くは自分の出生に大いに不満を抱いている。自分の家族や容姿、性別、さらには出生時期までも不満なのである。しかし人々は、自分が特定の家族に生まれた理由や、なぜ自分がそのような容姿を持っているかを全く理解していない。そうした人々は、出生地や容姿の如何を問わず、創造主による経営のもとで、自分が様々な役割を担い、様々な使命を果たさねばならず、その旨は決して変わらないということを知らない。創造主の観点から見ると、人間の出生地、性別、肉体的な外観は、全て一時的なものである。こうした事は、神による全人類の管理の各段階における一連のささいなもの、僅かな象徴である。また、ある者の真の終着点と終わりの時は、どの段階においてもその者の出生により決定されていないが、それぞれの人生において全うする使命や、創造主の経営(救いの)計画が完了した時点における、その者に対する創造主の裁きにより決定される。

  あらゆる結果には原因がある、結果に原因が無いことは無い、と言われている。したがって、ある者の出生は、必然的にその者のその時点における人生や前世と結びついている。ある者の死がその人生の終わりであるとすれば、その者の出生は新たな周期の始まりである。従前の周期がその者の前世であるとすれば、新たな周期は必然的にその時点における人生である。ある者の出生は、その者の前世と、その時点における人生と関連しているため、その者の出生に関連する場所、家庭、性別、容姿その他の要素は、全てそれらに関連している。つまり、その者の出生は、その者の前世に影響されるだけでなく、その時点の人生の宿命によっても決定される。このことにより、人間が生まれる様々な環境が説明される。貧しい家庭に生まれる者もいれば、裕福な家庭に生まれる者もいる。一般的な家庭に生まれる者もいれば、名家に生まれる者もいる。南部地域で生まれる者もいれば、北部地域で生まれる者もいる。砂漠で生まれる者もいれば、緑の生い茂る場所で生まれる者もいる。喝采、歓喜、祝賀を伴って生まれる者もいれば、悲哀、災難、苦悩を伴って生まれる者もいる。生まれてから宝のように扱われる者もいれば、雑草のように見捨てられる者もいる。端正な容姿で生まれる者もいれば、奇抜な容姿で生まれる者もいる。愛らしい外観で生まれる者もいれば、醜い外観で生まれる者もいる。深夜に生まれる者もいれば、真昼の陽光の中で生まれる者もいる。様々な人間の出生は、すべてその人間のために創造主により準備された運命により決定される。その者の現在における人生の運命、その者が果たす役割、遂行する使命は、その者の出生により決まる。こうした物事は、すべて創造主による統治の対象となり、創造主により予め定められたものである。そうした定められた場所から逃れられる者、[a]その者の出生時の状況を変更出来る者、自分自身の運命を選択出来る者は、存在しない。


キリストは、真理を以て裁きの働きを行う

2018-09-29 12:00:23 | 全能神御言葉

キリストは、真理を以て裁きの働きを行う

終わりの日の働きとは、時が近づき神の日が来たので、神の経営(救いの)計画を完成させるべく、その者の性質に応じて全ての人を分けることである。神はその国に入った者、すなわち神に最後まで忠実であった全ての者たちを神自身の時代に連れて来る。しかし、神自身の時代が来る前に、神がしたい働きとは、人の行為を観察したり、人の生活について尋ねたりすることではなく、人の神に対する背きを裁くことである。なぜなら、神は自分の玉座の前に来る者全てを清めるからである。今日まで神に付き従ってきた全ての者は、神の玉座の前に来た者であるから、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神によって清められる者である。すなわち、神の最後の働きを受け入れる全ての者が、神の裁きを受けることになる者である。

以前に話した通り、裁きは神の家により始まる。この「裁き」とは、終わりの日に神の玉座の前に来る者に対して今日神が下す裁きのことを指す。終わりの日が来た時、神は天空に大きなテーブルを用意し、その上には白いテーブルクロスが広げられ、神は偉大な玉座につき、全ての人は地に跪く。そこで神は、その者が天国に昇るべきか燃える硫黄の湖に送られるべきかを決めるため、各々が犯した全ての罪を明らかにする—そのような超自然的な様子を想像する人がいるかもしれない。人の想像がどのようなものであろうとも、神の働きの本質は変わらない。人の想像は、人の思考による構築物にすぎず、人の脳に由来しており、人が見聞きしたものから組み立てられている。だから、いかに素晴らしくイメージが構想されていたとしても、それはやはり絵画にすぎず、神の働きの計画の代替物にはなり得ない。結局のところ、全ての人はサタンにより堕落しているのだから、どうして神の考えを推し量ることができようか。人は、神による裁きの働きを特に素晴らしいものと想像する。人は、神自身が裁きの働きをするのだから、とてつもない規模の、人間には理解出来ないようなものに違いないと考える。天に鳴り響き、地を揺らすはずだ、そうでなければ、神による裁きの働きにはなり得ない、そう考える。これは裁きの働きなのだから、神の働く様子は特に堂々と威厳のあるもので、裁かれている者は泣き叫び、ひざまずいて哀れみをもとめるに違いない、そう考える。そしてその光景は厳粛で熱気を帯びる。誰もが神の裁きの働きは伝説的なものだと感じる、そのようなもののはずだと。しかし、神が人の間で裁きの働きを始めてから長い時間がたっても、あなたはまだ眠りを貪っていることを知っているか。あなたが神の裁きの働きが正式に始まったと思う時には、神が天と地を変える時が既に来ていることを、あなたは知っているか。その時、もしかしたらあなたは人生の意味をようやく理解したところかもしれないが、容赦ない神の懲罰の働きが、まだまどろんでいるあなたを地獄に送る。その時あなたは、神の裁きの働きが既に終わったことに突然気づくのだ。

貴重な時間を使ってこんな忌まわしく嫌な話をするのは止めよう。それより、どのようなことが裁きを構成するかについて話そう。「裁き」という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず、神が終わりの日に人を裁くときにキリストが語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。もしあなたがこうした真理を重視せず、避けたり、別の道を考え出そうと常に考えたりしているなら、あなたはひどい罪人だとわたしは言おう。もしあなたが神を信じていても、神の真理やその心を追求せず、あなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている者だとわたしは言おう。あなたは、偉大な白い玉座から逃れる操り人形であり裏切り者で、神は自分の目から逃れようとする反抗者を誰ひとり容赦しない。そうした人は、更に重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来たもので清められている者は、永遠に神の国に住むことになる。もちろん、これは将来のことだ。

裁きの働きは神自身の働きなので、当然、神自身が行う。神の代わりに人が行うことはできない。裁きは真理を通した人への征服なので、人の間でこの働きを行うため、神はやはり受肉した姿で現れることは疑う余地がない。つまり、終わりの日には、キリストが真理を用いて地球上の人を教え、真理を用いて彼らに真理を全て明らかにする。これが、神による裁きの働きだ。多くの者が、神の二度目の受肉について受け入れ難いものを感じる。なぜなら、神が受肉して裁きの働きを行うことは、人には信じ難いからだ。しかしわたしはあなたに告げなければならない。神の働きは往々にして人の予測をはるかに超えるもので、人の頭がそれを受け入れるのは難しいのだと。というのも、人は地上のウジ虫にすぎないが、神は宇宙を満たす至高の存在だ。人の頭は、ウジ虫しか生み出さない汚い水たまりに過ぎないが、神の考えに支配されたひとつひとつの働きは、神の知恵による結晶だ。人は、常に神に敵対することを望む。それなら結局誰が負けることになるかは自明だと、わたしは言おう。わたしは強く勧める、あなたがたがみな自分を金より重要だとみなさないようにと。もし他の人たちが神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたはできないのか。彼らに比べてあなたがどれほどの高みにいるというのか。もし他の人たちが真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたも同様にできないのか。神の働きの偉大な潮流を止めることはできない。神は、あなたの「功績」のために裁きの働きを繰り返すことはなく、あなたはそんな好機を逃したことを痛烈に後悔するだろう。もしあなたがわたしの言葉を信じないなら、天の偉大な白い玉座があなたの上に「裁きを下す」のを待つが良い!あなたは、全てのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したにも関わらず、イエスによる人類への贖罪はいまだに世界の果てまで広がっているという事実を知るべきだ。これは、神がはるか昔に実現した事実ではないのか。もしあなたがまだイエスによって天に引き上げられるのを待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木[a]だとわたしは言おう。イエスは、あなたのように真理に忠実でなく、祝福だけを求める偽の信者を認めないだろう。それどころか、神は容赦なく、何万年も焼かれるために火の湖にあなたを投げ入れるだろう。

これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりも、ずっと多く、ずっと重い。なぜなら、彼らは神を裏切り、神に背いたからだ。仕えさえするに値しないそんな人間は、さらに過酷で終わることのない懲罰を受ける。言葉で忠誠を誓いながら裏切るような者を、神は見逃さない。そのような者は報いとして、霊、魂、そして体に懲罰を受けることになる。これは、神の義なる性質を明示しているのではないだろうか。これこそ、まさに神の裁きと人の明示の目的ではないのか。神は、裁きの時にあらゆる邪悪な行いをした者全てを、邪悪な霊が生きる場所に置き、彼らの肉体を霊の意志により破壊されるようにする。彼らの肉体は、死臭を放つ。それが彼らにふさわしい報いなのだ。神は、不忠実な偽の信者、偽の使徒、偽の働き人の罪をひとつ残らず彼らの記録に書き留め、その時が来れば、霊が彼らの肉体をそっくり霊により思うままに汚されるよう、神は彼らを不潔な霊の渦中に放り込む。その結果、彼らは二度と肉体をもつことはなく、二度と光を見ることはない。一度は神に仕えたが、最後まで忠実であり続けられなかった偽善者は、神により悪人として数えられるので、彼らは悪人とぐるになり、烏合の衆となる。最終的に、神は彼らを滅ぼす。神は、キリストに一度も忠実でなかった者や神のために何の努力もしたことのない者を排除し、顧みることはなく、時代が変わる時に彼らをひとり残らず滅ぼす。彼らは、もはや地上に存在せず、神の国へ入れてもらうことなど無論ない。神に対して誠実であったことはないが、強引に神により取り扱いを受けた者は、神の民のために奉仕する者として数えられる。そうした者たちのごく一部だけが生き延び、大多数は奉仕をする資格さえない者たちと共に消えゆくだろう。最後に神は、神と同じ心を持つ全ての者、神の民と子ら、そして祭司として定められた者たちを、自分の国に迎え入れる。これが、神の働きを通して生まれる神による結晶だ。神が定めた種別のどれにも属せない者については、異邦人として数えられる。彼らの結末がどうなるか、もちろん想像できるだろう。わたしは既に、あなたがたに言うべきことを全て言った。あなたがたがどの道を選ぶのか、それはあなたがたの決断次第だ。あなたがたは次のことを理解しなければならない。神の働きは、神についていけない者のために待ってくれることはなく、神の義なる性質は、誰にも哀れみをかけない。


神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる

2018-09-28 14:48:36 | 全能神御言葉

神を愛する者たちは永遠に神の光の中に生きる


 大抵の人の神への信仰の実質は、宗教的な信仰である。彼らは神を愛することができず、ロボットのように神に付き従うことしかできない。心から神を求め、慕い求めることができないのだ。黙って神に付き従っているに過ぎない。多くの人は神を信じているが、神を愛している者はほとんどいない。人々が神を畏れるのは、災難を恐れているから、あるいは、神が偉大な存在だから崇めている—しかし、その畏れや尊崇には愛も、心からの思慕もない。人々は信仰体験において真理のごく小さな部分、あるいは、些細な奥義を求めることでしかない。大抵の人は単に従うだけで、混乱の中ではとにかく恵みさえ受け取れれば良いという姿勢でいる。そうした人は真理を求めない。また、神の祝福を受けるために、誠に神に従おうとはしない。人々の神への信仰生活は無意味だ。無価値で、人々はただ自身の利益と目的だけ追求する。神を愛するために神を信じているのではなく、祝福を受けるために信じているのだ。多くの人は好きなように振る舞い、心の赴くままに行動し、決して神のためも、自分のしていることが神の心に適うかどうかも考えない。そうした人は、神を愛することができないのは言うまでもなく、真の信仰を持つことさえ出来ない。神の本質は、ただ人間が信じるためだけのものではない。それ以上に、愛すべきものなのだ。しかし、神を信じる者の多くは、この「秘密」を見いだすことができず、神を愛そうとせず、また、愛そうと試みることもない。人々は神には愛すべき点が数多くあることを見つけだしておらず、神が人間を愛していること、人間にとって神が愛すべき存在であることを見つけだしていない。神の優れている点は、その働きに示されている。神の業を経験してはじめて、人は神のすばらしさを見つけだす。実際に体験してはじめて、神のすばらしさを認識するのであって、実際に体験することがなければ、誰一人神のすばらしさを見つけだせない。神の敬愛するべき点はまことに数多いのに、実際に神に触れることがなければ、人々はそれを見つけだせない。それはつまり、もし神が受肉しなければ、人々は実際に神に触れることができず、神に触れることができなければ、その働きを経験することができず、そこで、人々の神への愛には偽りや想像が介在することになる。天にいる神への愛は、地上にいる神への愛ほどの真実味がない。天にいる神についての認識は、その目で見たり実際に体験したりしたことではなく、想像によるものだからだ。神が地上に来ると、人々は神の業とすばらしさをその目で見られる。神の実際的で正常な性質のすべてを見られるのだ。それらはみな、天にいる神についての認識より数千倍も現実的なものなのだ。人々が天の神をどれほど愛そうと、その愛に真実は何もない。人間の考えたものばかりだ。地上にいる神への愛がどれほどささやかなものであっても、その愛は実際的である。たとえごくわずかであっても、それでも現実のものなのだ。神は実際の働きを通して人々に自分を知らせになる。そして、その知識によって人々の愛を得られる。これはペテロと同じことだ。もし彼がイエスと共に暮らしたことがなければ、イエスを愛することは不可能だったろう。ペテロのイエスへの忠誠心もまた同じで、イエスとの交わりを通して築かれたものだ。人間が自分を愛するようになるため、神はおいでになって人々と共に生きた。そして人々が見て経験するものはみな、神の実際なのである。

 神は現実と事実を用いて、人々を完全にする。神の言葉は、人間を完全にするための働きの一部であり、これは導きの働き、道を開かれるということなのだ。いわば、神の言葉によって人は実践の道を見出し、ビジョンに対する認識を見出さなければいけないのだ。これらのことを理解していれば、実践の中に道とビジョンを得、神の言葉によって啓くことができよう。これらのことは神から出たものであると理解し、多くを識別できる。理解した後、ただちにこの現実に入り、神の言葉によって、現実の生活において神を満足させなければならない。神は、あらゆることであなたを導き、実践の道を示し、神のすばらしさを感じさせ、神の働きのあらゆるもの全ては、あなたを完全にするためのものであることが理解できるようにしてくれる。もし神の愛を知りたいのなら、もし神の愛を真に体験したいのなら、現実に深く入らなければならず、現実の生活に深く入らなければならない。そして、神のすることはみな愛であり、救いであり、人間が汚れたものを捨て去り、内にある神の心を満たすことのできないものを練られるようにするためだということを理解しなければならない。神は、人間にいのちを供給するために言葉を用いる。また、人間が体験できるよう、現実の環境を創る。そして、もし人間が神の言葉を多く飲食するならば、それを実践したとき、神の言葉を用いれば、現実の問題をみな解決できる。つまり、現実を深く入るには、神の言葉を身につけていなければいけないということなのだ。神の言葉を飲み食いしなければ、また、神の働きがなければ、生きるうえでの道を見いだすことがない。神の言葉を飲み食いすることがなければ、何か起こった時に惑うことになる。神を愛することだけを知り、識別することを知らなければ、また、実践の道を知らなければ、あなたは惑い、混乱して、時には肉の欲求を満たすことが神の心にかなうことだと思い込む。こうしたことはみな、神の言葉を飲み食いしていないから起こることなのだ。つまり、神の言葉を助けにすることなく、現実の中で手探りしているだけでは、根本的に実践の道を見出すことができないのだ。こうした人は、神を信じるということがどういうことなのかを全く知らず、まして、神を愛するということがどういうことかを理解していない。もし神の言葉の啓きと導きとに従ってしばしば祈り、探り、求め、それによって実践すべき事柄を見いだし、聖霊の働きの機会をみつけ、真に神と協力し、惑い混乱することがないなら、現実の生活に道を見出し、本当に神を満足させることになる。神を満足させれば、あなたの心の内に神の導きがあり、神から格別の祝福を受ける。すると、喜びを覚える。あなたは神を満足させたことを特に光栄に感じ、特に内に光を感じ、心は明瞭で安らかである。意識は穏やかで、責められることがない。また、兄弟姉妹を見ると、心楽しい。これが神の愛を享受するということであり、これだけが真に神を喜ぶということなのだ。神の愛を享受するということは経験によって得られる。苦難を経験し、真理を実践し、神の祝福を受ける。神が本当に愛してくれると神は人々に重い代価を払い、神は忍耐強く、やさしく多くの言葉を話し、いつでも人々を救ってくれると口にするだけなら、あなたが言うこれらの言葉は神にある喜びの一面に過ぎない。もっと現実的な喜びは、真理を現実の生活で実践することだ。そうすると、心は安らかで明晰になり、内に深い感動を覚えるだろう。そして、神はほんとうにすばらしいお方で、自分の払った代価は十分に価値あるものだと感じるだろう。大きな代償を払って努力したあなたは、とりわけ明るい気持ちになるだろう。自分が真に神の愛を受けていて、神が人々に救いの働きをし、神が人々を練るのは清めるためであり、神が人々を試すのは、本当に神自身を愛しているかどうかを調べるためだということがわかるのだ。もしあなたがいつでもこのように真理を実践するなら、徐々に神の働きについての明確な認識を身につけ、そうしたときいつでも、神の言葉が水晶のように明瞭であると感じるようになる。多くの真理を明確に理解できるなら、すべてのことは容易に実践でき、問題を乗り越え、誘惑に打ち勝てると感じ、また、困難なことは何もないとわかる。そうすると、ほんとうに解放され、自由な状態になる。そのとき、あなたは神の愛を享受し、神の真の愛があなたのものになる。神はビジョンを持つ者、真理を得、認識を得、心から神を愛する者を祝福する。神の愛を得たいのなら、日々の生活の中で真理を実践しなければいけない。進んで苦痛に耐え、愛するものを捨てて神を満足させ、たとえ涙することがあっても、神の心を満足させるのでなければいけない。そうすれば、神は必ずあなたを祝福する。そして、もしそうした困難を耐え忍ぶなら、聖霊の働きが行われるだろう。現実の生活の中で神の言葉を経験することで、人々は神の愛すべきことがわかるのであり、神の愛を経験してはじめて、人は真に神を愛せるのだ。

 真理を実践するほど、より多くの真理を得る。真理を実践すればするほど、より神の愛を得る。そして、真理を実践すればするほど、神の祝福を受ける。いつでもこのように実践するなら、徐々に神の愛を内に見出し、ペテロがそうだったように、神を知るようになる。ペテロは、神が天地万物を創造する知恵をもっているだけではなく、そのうえ、人々の中で実際的な働きを行う知恵を持っていると語っている。ペテロは、神が天地万物を創造したから人々の愛にふさわしいだけではなく、そのうえ、人間を創り、人間を救い、人間を完全にし、人間に愛を与えてくれる力がありだから人々の愛にふさわしいのだと述べている。だから、ペテロは、神には人間の愛を受けるに値する点が数多くあるとも言うのである。ペテロはイエスに言った。「主は、天地万物を創られた以上に人々に愛されるにふさわしいのではありませんか。あなたが愛されるべきに他の理由はあなたの中にあります。あなたは現実の生活の中で働き、動いておられます。あなたの御霊はわたしの内に触れ、わたしを懲らしめ、わたしを咎められます。こうしたことは、ずっと、人々の愛にふさわしいのではありませんか。」神の愛を見、経験したいと望むのなら、それを現実の生活の中で探し、求めなければならない。そして、進んで自分の肉を捨てなければならない。このように心を定めることができなければならない。固く決心し、あらゆる点で神の心にかない、怠ることなく、肉の喜びに貪欲にならず、肉のためではなく神のために生きることのできる者でいなさい。あなたが神の心にかなわない時もあるだろう。それは、神の心を理解していないからだ。次にはもっと努力が必要であっても、神に満足してもらえるようにしなさい。肉の欲望を満たそうとしてはいけない。このようにして経験していくと、神を知るようになる。神が天地万物を創造したことを知り、人々がほんとうに実際に彼を見、実際に交流することのできるよう、また、神が人々の間を歩きその霊が現実の生活の中で人々を完全にできるよう、人間が神のすばらしさを見て、その鍛えや懲らしめ、祝福を経験できるようになるために受肉したことがわかるようになる。いつでもこのような経験をしていれば、現実に神と分かち難くなり、いつの日か、神との関係が正常のものではなくなる場合、叱責を耐えることができ、悔いる気持ちを覚えるようになる。神と正常な関係にあるときは、決して神と離れようと思わず、ある日、神が去ろうと言われるようなことがあれば、恐れ、神と離れるよりは死にたいと言うだろう。そうした感情を持つとすぐに、神と離れることはできないのだと感じ、そうして基礎ができ、真に神の愛を享受できる。

 人々はよく、神が自分のいのちだと言うが、まだそうなるところまで経験していない。人々は単に神が自分のいのちであり、毎日自分を導いてくれる。自分たちは毎日神の言葉を飲み食いし、毎日神に祈っているのだから、神が自分のいのちになってきていると言う。こうしたことを言う人々の認識は表面的なものに過ぎない。多くの人々は基礎ができていない。神の言葉は植えつけられたが、まだ芽を出しておらず、まして実を結んでなどいない。今日、どの程度まで経験しているだろうか。ここまで神が強引に連れてきてやっと、神と離れることはできないと感じているのだろうか。いつか、一定のところまで経験したところで、神があなたを去らせようとするなら、あなたは立ち去ることができなくなるだろう。あなたはいつでも、神がいなければ生きていられないと心の中に感じるだろう。夫や妻、子供、家族、父母、肉の喜びはなくとも生きることはできるだろう、しかし、神なしでは、いられない。神なしでいるのは命を失うようなもので、神なしでは生きていられない。こういう状態になるまで経験を積むと、神への信仰の到達点の一つに至ったと言える。そして、このようにして神はその人のいのちとなり、存在の基礎となると、決して二度と神と離れることができない。こうしたところに至った人は、真に神の愛を喜んでいる。神との関係は真に密接になり、神があなたのいのち、愛となり、あなたはこう祈る。おお、神よ。あなたから離れることができません。あなたはわたしのいのちです。他のすべてがなくともやっていけます。でも、神なしでは、生きていけません。これが人々の真の姿、これがまことのいのちである。中には、今日まで、強制されてきた人々もいる。その人たちは望むと望まざるとに関わらず進まなければいけない。その人たちは、いつでも苦難の板挟みなっていると感じる。神が自分のいのちであること、神を奪われることは、命を失うようなものであることを経験しなければいけない。神は自分にとっていのちであって、神から離れることはできないという状態でなければならない。そうすれば、ほんとうに神を経験することができ、その時に、再び神を愛するようになれば、真に神を愛すのであり、それは唯一の純粋な愛であるだろう。いつの日か、そうした経験をして、いのちのある点に至り、神に祈り、神の言葉を飲み食いし、心が神を離れることができず、たとえそうしたいと思っても、神を忘れることができない。神はあなたのいのちになる。世界を忘れることはできる。妻や子供を忘れることはできる。しかし、神を忘れるのは難しいだろう。不可能なのだ。それがあなたの真のいのちであり、神への真の愛なのだ。神への愛がある点に至ると、他のどんなものへの愛も神への愛には及ばなくなる。神が最も愛するものなのであり、そうなると、あなたは他のすべてを捨て去れる。そして、神からなら、どんな取り扱いも刈り込みも受け入れられるようになる。神への愛が他のすべてより重要になったなら、あなたは現実の中に神の愛の内に生きるようになる。

 人々の内で神がいのちになるやいなや、神を離れることはできなくなる。それは神の業ではないのだろうか。これ以上の証しはない。神は一定のところまで働いた。神は人々に、仕えよ、罰を受けよ、あるいは死ねと言ったが、人々は退いていない。このことは、そうした人々が神に征服されていることを示している。真理を持っている人々は、実体験から証しに固く立つことができ、その信仰的立場をしっかりと守り、神の側に立ち、決して退くことがなく、神を愛する他の人々と正常な関係を持つことができ、自分達に何かが起こった時は、完全に神に従い、そして死にまでも神に従う。日々の生活におけるあなたの実践と表現は神への証しであり、教えを実践することであり、神への証しなのであり、それが真に神の愛を享受しているということなのだ。この点まで経験を重ねてくると、その経験は成果を生み出すようになる。真に神の愛を見た者は、教えを実践している者であり、その行いがみな他の人々から賞賛の目で見られ、外見は凡庸であっても、最上の敬虔な生き方をしているのであり、神の言葉を交わり、神に導かれ、神の啓示を受け、自分の言葉で神の心を語ることができ、現実的なことを語ることができ、霊において奉仕することを深く理解し、自然と語り、礼儀正しく高潔で、争うことがなく、品があって、何か起こった場合には、神の按配に従うことができ、証しに固く立つことができ、また、どんな場合にも穏やかで落ち着いていられる。また、まだ若くとも、年配の人のように振る舞う人々もいる。そうした人は成熟しており、真理を把握していて、他の人々から尊敬を受ける。そうした人々は、証しをすることができ、神の存在を示すことができる。それはつまり、ある程度の経験を積むと、心の中に神について理解力が養われ、そこで、外に現れる性質もまた、安定するのだ。多くの人は真理を実践せず、証しに立つことができない。そうした人には、神の愛、神についての証しが欠けているのだが、神はそうした人々を最も嫌われる。彼らは神の言葉を飲み食いするが、表に現れるのはサタンであって、神の言葉をサタンが汚すのを許しているのだ。そうした人々の内には、神の愛がかけらもない。彼らが表現するものは全てサタンから出ている。もし心がいつでも神の前で安らかであるなら、また、周囲の人々や物事、あるいは、自分の周りで起こっていることに常に注意を払っていて、神の負っているものについて心を留めているのなら、また、いつでも神を畏れ敬う心をもっているなら、神はあなたの心の中で教え導いてくれる。教会には「監督者」であるものがいて、他の人々の過ちに殊更注意を払い、それを真似て見せる。彼らは物事を識別できず、罪を憎まず、サタンに関わることを嫌いも不快に思いもしない。そうした人々はサタンの事がらに満たされており、ついには神から完全に見放されるだろう。ビジョンを基礎とし、進歩を求める人々は、神の前に畏敬の心をもち、言葉や行いが穏やかで、神に敵対したり、神を怒らせたり、あるいは、神の内なる働きを無にしたり、それまでに経てきた苦難や実践してきたことすべてを無にしたりすることを決して望まない。そうした人々には、進んでそれまで以上の努力を注ぎ、もっと神を愛そうという気持ちを持っている。

 もし人々が神を畏れる心で神を信じ、神の言葉を経験するなら、そうした人々には神の救いや神の愛がもたらされる。そうした人々は神を証しすることができ、真理に生き、真理、神であるすべて、神の性質について証しし、神の愛に包まれ、神の愛を知っている。もし神を愛したいと願うのなら、神の愛すべきことを経験し、神の愛すべきことを理解しなければならない。そうしてはじめて、神を愛する心、忠実に神に仕えようという思いが生じる。神は文字、あるいは想像力に訴えて人々が神を愛せよとはさせない。神は自身を愛することを人々に強いない。むしろ、人々が自ら進んで神を愛するようにするのだ。自分の働きと言葉の内にその愛すべきことを見るようにし、その後で、神への愛が生まれるようにするのだ。そのようにしてはじめて、人々は真に神を証しできる。人々は、他人からそうするように駆り立てられて神を愛するのではない。また、一時的な感情の衝動に動かされて愛するのでもない。人々が神を愛するのは、神の愛すべきことを見たからであり、神には人々が愛するに値するものが数多くあること、神の救いと知恵、驚くべき業を見、その結果、心から神を讃え、心から神を求め慕い、神を自分のものとしなければ生きて行けないほどの掻き立てられた情熱が芽生えるのだ。真に神を証しする人々は、神についての真の認識と心から慕う気持ちとが土台にあるからこそ、素晴らしい証しをできるのである。これは、感情に突き動かされているのではなく、神とその性質についての認識によっている。その人々は神を知るようになり、まことに神を証しし、神を求めるすべての人々に神のことを知らせ、神の愛すべきことと神の実際を知るようにしたいと感じているからである。人々の神への愛同様、その人たちの証しは自発的で真実であり、本物の意義と価値がある。これは受動的なものでも、虚しく無意味なものではない。真に神を愛する者だけが最も価値ある意義深い人生を送ることができ、そうした人々だけが真に神を信じているというのは、その人たちが神の光の中で生きており、神の働きと計画のために生きることができるからだ。彼らは闇の中で生きているのではなく、光の中で生きている。無意味な生を生きているのではなく、神の祝福を受けた生を生きているからだ。神を愛する者だけが神を証しでき、彼らだけが神の証人であり、彼らだけが神の祝福を受け、彼らだけが神からの約束を受け取る。神を愛する者は神と親しい者であり、神に愛され、神と共に幸いを享受できる。こうした人々だけが永遠に生き、また、こうした人々だけが神の顧みと守りの下、永遠に生きる。神は愛するべき対象であり、人々に愛されるにふさわしい対象だが、すべての人が神を愛せるわけではない。誰もが神を証しして、神と共に力をもつわけでもない。神を証しできるので、すべての努力を神の働きに捧げられるので、真に神を愛する者は天下のどこを歩いてもあえて敵対しようとする者がいない。また、地において力を振るい、神の民みなを支配できる。こうした人々は世界中からやって来る。話す言葉は違い、肌の色も異なっているが、その存在は同じ意味を持っている。彼らには神を愛する心があり、みな同じ証しをし、同じ決意を持ち、同じことを願っている。神を愛する者は世界中を自由に歩くことができ、神を証しする者は、全宇宙を旅できる。こうした人々が、神の愛する者であり、その人たちは神の祝福を受けており、神の光の中で永遠に生きる。


終わりの日のキリストの語られる言葉 「神の働き、神の性質、そして神自身 2」 その4 パート1

2018-09-27 14:39:24 | 全能神教会御言葉朗読

3.サタンがもう一度ヨブを攻撃する(ヨブが皮膚病にかかる)

a.神が語った言葉

(ヨブ記2:3)ヤーウェはサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。

(ヨブ記2:6)ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

b.サタンの言葉

(ヨブ記2:4-5)サタンはヤーウェに答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

c.試練に対するヨブの態度

(ヨブ記2:9-10)時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。

(ヨブ記3:3)わたしの生れた日は滅びうせよ。「男の子が、胎にやどった」と言った夜もそのようになれ。

   神の道に対するヨブの愛は他の全てを越える

   聖書には神とサタンの会話が次のように書かれている。「ヤーウェはサタンに言われた、『あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした』。」(ヨブ記2:3)。この会話の中で、神はサタンに対して同じ質問を繰り返している。この質問から、ヨブが最初の試練で見せた信仰に対してヤーウェ神が良い評価を与えたことが分かると同時に、試練の前の評価と何ら変わらないことも分かる。つまり、試練に遭う前のヨブは神の目に完全であり、故に神はヨブとその家族を守り、祝福した。ヨブは神に祝福されるに相応しかったのである。試練の中で財産と子ども達を失っても、言葉によって罪を犯すこともなく、ヤーウェの名を讃え続けたのである。神はヨブの行いを讃え、満点の評価を与えた。ヨブにとって、子ども達も財産も、神を捨てるほどの価値あるものではなかったのである。言い換えれば、ヨブの心にある神を、彼の子ども達も彼のどれほど価値ある財産も引き換えにすることはできなかったのである。ヨブは最初の試みの中で、自らの神に対する愛、神を畏れ悪を避ける道に対する愛が他の全てを越えることを神に示した。この試みは、ヤーウェ神から報いを受け、財産と子ども達はヤーウェ神に取り上げられるという経験をしたに過ぎなかった。

   ヨブにとってこの試みは、自らの心を洗い流す実体験となり、いのちのバプテスマで満たされる経験となった。更に、ヨブの神に対する従順と畏れを試すための壮麗な祝宴でもあったのである。この試みはヨブを富める者から無一文へと変え、サタンによる人間への虐げも経験させた。ヨブは追い詰められてもサタンを憎むことはなかった。むしろ、サタンの卑しい行いにサタンの醜さと卑劣さ、神に対する敵意と反抗を見たのである。それによりヨブは更に、神を畏れ悪を避ける道への決心を固くした。財産や子ども、家族といった外的な要因によって神を見捨てることも神の道に背を向けることもけっしてせず、サタン、財産やどのような人に対しても虜になるようなことは決してないことをヨブは誓った。ヤーウェ神が唯一の主であり神であると誓った。それがヨブの強い思いであった。この試練での別の側面は、その大きな試練の中で、ヨブが神からの豊かな富を得たということである。

   それまでの数十年間の人生において、ヨブはヤーウェの業を目の当たりにし、ヤーウェ神からの祝福を受けてきた。神に対して特に何もしていないと感じていたヨブは、自分に与えられている祝福は身に余るものと恐縮していたが、それでも膨大な祝福と恵みを享受していた。そのためヨブは、しばしば祈り、神にお返しできることを願っていた。神によってなされた業と偉大さを証しし、自分の従順さが試され、更には自分の信仰が純化されて自分の従順さと信仰が神に認められることを願っていた。試練がヨブに臨んだとき、ヨブは神に祈りが聞かれたと思った。長年の願いが叶うことを知ったヨブは何よりこの機会を喜び、決して軽んじることはなかった。この機会は神に対する自身の従順と畏れを試すものであり、純化される機会であったからだ。それだけでなく、神に認められ、近付く機会となるであろうからだった。そのようなヨブの信仰と求める思いにより、ヨブは試練を通して更に完全なものとなり、神の心に対する理解を大いに深めた。ヨブはますます神の祝福と恵みを感謝し、神の業を益々讃え、以前にも増して神を畏れ、崇め、神の愛と偉大さ、聖さを求めた。この時すでに神の目にはヨブが神を畏れ悪を避ける者として見られていたが、試練という経験を通してヨブの信仰と認識は急速に成長した。信仰が増し、その従順さは揺るがぬものとなり、神への畏れが深まった。ヨブの試練はヨブを霊的に成長させ、いのちの成長があったが、ヨブはそれだけで満足して前進するのをやめるようなことはなかった。試練を通して得たものは何かを考え、自身の弱さを考えながらヨブは静かにいのり、次の試練を待った。自らの信仰、従順、神への畏れが続く試練によってさらに成長することを願っていたからである。


中国における宗教迫害の実録その6「果てない逃亡の道」完全な映画のHD2018 日本語吹き替え

2018-09-26 19:40:40 | 中国における宗教迫害の実録

中国共産党は1949年に中国本土で政権を掌握して以来、宗教信仰への迫害を執拗に続けてきました。狂ったようにキリスト教徒の逮捕‧殺害、国内で活動する宣教師の追放‧虐待、聖書の大量没収‧破損、教会の封鎖‧取り壊しといった暴挙を行い、いたずらに家庭教会の全滅を図ったのです。本ドキュメンタリーは中国共産党に迫害されている中国のキリスト教徒ヤン‧ジンエンの実体験を再現したものです。ヤン‧ジンエンは幸せな家庭を持ち快適な暮らしをしていましたが、夫婦で神を信じ本分を行い始めると中国共産党に目を付けられ、そのため家を離れ逃亡生活を余儀なくされました。ヤン‧ジンエンは18年で国土の半分を回りましたが、どこに行っても弾圧を受け、絶えず危険にさらされ次々と災難に直面したのです...