世の終わりのキリスト全能神

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられます。考察したい者は全能神教会にご連絡してください。

神によって預言された神の国の美しい情景は、どのように達成され成就されるのか。

2019-04-01 19:18:39 | 福音解答

神の御言葉による答え:

   神が激怒すると、その結果、全世界は火山の噴火のようなあらゆる種類の災害を経験することになる。天空の上に立つと、地上ではあらゆる種類の災難が人類全体に日ごとに近づきつつあることがよくわかる。高みから見下ろすと、地球は地震の前のさまざまな光景のようである。火の海が至る所に襲いかかり、溶岩がそこら中に流れ、山々は動き出し、冷たい光がそこここに光る。全世界は炎の中に沈んでいる。これは神が激怒した光景であり、神が裁きを下す時である。肉の姿の者たちは誰も逃れることはできないだろう。こうして、全世界を破壊するために国家間の戦争、人々の間の争いは必要ではなくなり、世界は神の刑罰のゆりかごを「意識して享受」するだろう。誰もそれを逃れることはできず、これを一つずつ経験するだろう。その後、全宇宙はもう一度聖なる輝きできらめき、人類は皆もう一度新しい生き方を始めるだろう。そして神は宇宙の上で休息し、全人類を毎日祝福するだろう。

『言葉は肉において現れる』の「十八番目の言葉の解釈」より

   一旦、征服の働きが完成すると、人は美しい世界に連れて行かれる。もちろん、この生活はまだ地上にあるが、今日の人の生活とは全く似ていない。それは全人類が征服された後の生活で、地上の人間にとって新しい始まりであり、人類にとってそのような生活を送ることは、彼らが新しく美しい領域に入ったという証拠である。それは地上における人と神の生活の始まりである。そのような美しい生活の前提として、人は清められ征服され、造り主の前に服従しなければならない。そして、征服の働きは人が素晴らしい終着点に入る前の、神の働きの最終段階である。そのような生活は地上における人の未来の生活であり、地上で最も美しい生活で、人が待ち焦がれている生活で、世界史上人が決して達成したことのない生活である。それは六千年の経営の働きの最終的結果で、人類が最もあこがれる、神が人に約束したものでもある。しかし、この約束は直ちには実現されない。終わりの日の働きが完成され、人が完全に征服され、つまり、サタンが完全に敗北して初めて、人は未来の終着点に入るのである。人は練られた後、罪のない性質になる。なぜなら、神はサタンを打ち負かしたので、敵対する勢力の侵略はなく、敵対する勢力による人の肉への攻撃がなくなるからである。そして、人は自由になり、聖くなり——永遠へと入ったことになる。暗闇の敵対する勢力が縛られて初めて、人はどこに行っても自由で、反抗的行為や敵対する者たちもいなくなる。人が無事でいるために、サタンは縛られるより他ない。今日、サタンは地上のどこにおいても問題を引き起こしており、神の経営の働きはまだ全て終わってはいないので人は無事ではない。一旦サタンが敗北すると、人が完全に解放される。人が神を得てサタンの領域から抜けると、義の太陽を見ることになる。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

   人が地上で真の生活を達成すると、サタンの全勢力は縛られ、人は地上で楽に生きることになるだろう。物事は今日ほど複雑ではなくなるだろう。人間関係、社会関係、複雑な家族関係などそれらは厄介で、本当に苦しい。ここでの人の一生はとてもみじめである。人が一旦征服されると、彼の心と精神は変わるだろう。彼は神を畏れ敬う心を持ち、神を愛する心を持つだろう。全宇宙で神を愛することを求めるすべての人たちが征服され、つまりサタンが敗北し、サタン——暗闇の全勢力——が縛られると、地上での人の生活は困難でなくなり、地上で自由に生きることができるだろう。もし人の生活に肉的関係がなく、肉の複雑さがないなら、どれほど楽なことだろう。人の肉的関係はあまりにも複雑で、人にとってそのようなものを持つことは、彼がサタンの影響からまだ解放されていないことの証拠である。もしあなたが兄弟姉妹と同じ関係を持っていたら、もしあなたが家族と同じ関係を持っていたら、あなたは何の心配もしないだろうし、誰かを心配する必要もないだろう。これ以上のことはないだろうし、そうであれば人はその苦しみの半分から解放されるだろう。地上で普通の人間の生活をする人は、天使のようになる。依然として肉体を持っているけれども、人は天使のようになる。これは最後の約束で、人に与えられる最後の約束である。今日、人は刑罰や裁きを受けるが、あなたはそのような人の体験は無意味だと思うのか。刑罰や裁きの理由が全くなくなるだろうか。以前、人に刑罰を与え、裁くことは人を地獄に落とすことだと言われてきた。それは人の運命や将来を取り上げることを意味する。これは一つのこと、つまり人を清めるためである。神は人間から自身の手を洗ってから、人を故意に地獄に落すのではない。人の中にある反抗心に対処し、最終的に人の中にあるものが清められ、神に対して真の認識を持ち、人が聖人のようになるためである。もしこれがなされるなら、すべてが成就するだろう。

『言葉は肉において現れる』の「人の普通の生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より

   安息の中の生活とは、戦いも道徳的堕落も、持続する不義もない生活である。そのような生活には、神に敵対するいかなる勢力の侵入もないだけでなく、サタン(サタンとは敵対する諸力を指す)による妨害もサタンの堕落も存在しない。万物がおのおのその同類のものに従い、造物主を礼拝する。天上も地上も平穏になる。これが人類が安息に入った生活である。神が安息の中に入った時、地上にはもうどんな不義も持続せず、もういかなる敵対勢力の侵入もなくなる。人類も新しい領域の中に入る。すなわち、彼らはもはやサタンに堕落させられた人類ではなく、サタンに堕落させられた後救われた人類である。人類の安息の日々は、神にとっての安息の日々でもある。神は人類が安息の中に入ることができないため、安息を失ったのである。つまり、神は本来、安息に入ることができなかったのではない。安息の中に入ることは、あらゆる事物の活動が止まることを意味しない、或いはあらゆる事物の発展が止まることを意味しているのではない。また、神がもう働くことをやめる、あるいは人がもう生活することをやめることを意味しているのでもない。安息に入ったことのしるしは、以下のようなものである。すなわち、サタンは滅ぼされてしまう、サタンに同調する悪人たちがみな懲罰を受けて一層されてしまう、神に敵対するすべての勢力がもう存在しなくなる、ようなことである。神が安息の中に入ることは、神がもう人類を救うという働きをしないことを意味している。人類が安息の中に入ることは、全人類がみな神の光の中と神の祝福の下に生きることを意味する。もはやサタンの堕落がなく、不義な事も起こらない。人類はみな地上で正常に生活し、神の加護のもとで生きるようになるだろう。神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされてしまったこと、人類に関する神の仕事が全部終わってしまったことを意味する。神はもはや人類の間で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神は彼のもとの位置に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間では住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神は全人類を導く者であり、全人類は神の経営が結実した結果である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、それは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、しかも正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダム、エバの生活に復する。これが、神と人が安息の中に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が彼の全経営計画を終えた後に安息に入ることと人が完全に救済され安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で、残りの人類を導く。彼は地上から導くのではなくて、天から導くのである。神は依然として霊であり、一方、人は、依然として肉である。神と人にはおのおの異なる安息の仕方がある。神は安息するが、彼は人の間に来て人に現れる。人は安息するが、神に導かれて天を訪ね、天上で人生を楽しむこともある。神と人が安息の中に入った後、サタンはもはや存在せず、サタンと同様な不道徳者も、もはや存在しない。神と人が安息の中に入る前に、かつて地上で神を迫害したことのある不道徳者たち、地上で神に不従順だった敵たちはすでに滅ぼされている。彼らは終わりの日の大きな災難によって滅ぼされている。そのような不道徳者たちが徹底的に滅ぼされた後、地上でサタンの妨害を見ることはなくなる。人は完全な救いを与えられ、その後神の仕事が完全に終わる。これは神と人が安息の中に入る前提である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より


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