神の道を歩む:神を畏れ、悪を避けよ
心に留めるべき格言がある。この格言は極めて重要だと思う。なぜなら、わたしはこの格言を毎日何度も思い出すからである。それは何故であろうか。それは、誰かと会う度、そして誰かの経験談や神への信仰の証しを聞く度、必ずわたしはこの格言を用いて、その者が、神が求め、好むような人間であるかを測るからである。それでは、その格言とは何であろうか。皆それを聞こうと気が早るであろう。わたしがこの格言を述べると、あなた方はおそらく落胆するであろう。なぜなら、今までこの格言を口先だけで言う者が多数いたからである。しかし、わたしは口先だけでこの格言を述べることは決して無い。この格言はわたしの心の中で生きている。その格言とは何であろうか。それは「神の道を歩みなさい。神を畏れ、悪を避けよ」である。これは極めて簡潔な言葉ではないだろうか。しかし、この格言は簡潔でありながら、この格言を深く理解する者は、この格言は非常に重みがあり、実践する際に価値が高く、真理の現実が含まれるいのちの言葉であり、神に満足してほしいと望む者にとって一生涯の努力目標であり、神の趣意を配慮する全ての者にとって一生涯の道である、と感じるであろう。あなた方はどう思うだろうか。この格言は真理であろうか。この格言にはそうした重要性があるであろうか。おそらく、この格言について、考えて理解しようとする者と、疑念を抱く者がいるであろう。この格言は極めて重要であろうか。これは極めて重要であろうか。この格言は、強調する必要と価値のあるものであろうか。おそらく、神の道をこのひと言の格言に集約するというのは簡略化しすぎであると考え、それが理由でこの格言がそれほど好きでは無い者もいるであろう。神の言葉全てをひと言に集約するというのは、神を軽視しすぎでは無かろうか。この格言は、そうしたものであろうか。あなた方のうち、殆どの者がこの言葉に隠された重大な意味を完全に理解していないかも知れない。あなた方はこの格言を書き留めたが、この格言を心に留めるつもりはなく、単に書き留め、後で時間があるときに、もう一度よく考える程度だ。この格言を覚えようともせず、ましてや活用しようと努力することなど無いという者もいる。しかし、わたしがこの格言について話をするのは、何故であろうか。あなた方の観点や、あなた方が何を考えるかを問わず、この格言について話をする必要がある。なぜなら、この格言は神が人間の結末を決定する方法に極めて密接に関係しているからである。あなた方が現在この格言をどのように理解し、取り扱っているかを問わず、あなた方に伝えることがある。ある者がこの格言を正しく実践して神を畏れ悪を避ける基準を満たすことが出来るとしたら、その者の生存と好ましい結末は保証される。この格言で定められた基準に達せなかった場合、あなた方の結末は不明であると言える。したがって、心の準備をするため、また神があなた方を評価する時に用いる基準を知ることが出来るようになるために、あなた方にこの格言を伝える。たった今述べた通り、この格言は神による人間の救いと人間の結末の決定方法に極めて関連性が深い。その関連性はどこにあるであろうか。あなた方は心から知りたいと思っているので、本日はそれについて伝える。
神は様々な試練により、人間が神を畏れ、悪を避けているか否かを試す
何時の時代においても、神はこの世で業を行う時、真理を伝える言葉を人間に与える。こうした真理は、人間が守るべき道、通るべき道、神を畏れ、悪を避けられるようにする道、生活や人生の旅路の中で実践し、そして遵守すべき道として機能する。これが、神がこれらの言葉を与える理由である。神に由来するこれらの言葉は、人間が守るべきものであり、人間にとって、それを守ることはいのちを授かることを意味する。人間がそうした言葉を守らず、実行せず、人生を神の言葉通りに生きなかった場合、その者は真理を実行していないことになる。そして、人間が真理を実行しなかった場合、人間は神を畏れず、悪を避けておらず、神に満足してもらうことは出来ない。ある者が神に満足してもらえない場合、その者は神の賞賛を得られないので、その者には良い結末が無い。それでは、神は、どのようにして業のなかで人間の結末を決めるのであろうか。人間の結末を決める際に神が採る方法は何であろうか。おそらくあなた方は、今この問題について明確に理解していないであろうが、その過程をわたしが伝えた後は、明瞭に理解できるであろう。それは、多くの人々が既にそれを自ら経験しているからである。
最初の時から現在に至るまでの、神の業全体を通して、神は各人(神に付き従う者全てと言ってもよいだろう)に試練を定めており、それらの試練の大きさは様々である。自分の家族から拒否される試練を経験した者もいれば、逆境の試練を経験した者や、拉致されて拷問される試練を経験した者、選択に迫られる試練を経験した者、金銭や地位の試練を経験した者もいる。概して、あなた方は、それぞれこうした試練を受けたことがある。神がこのように業を行うのは、何故だろうか。神が各人をこのように扱うのは、何故だろうか。神はどのような結果を望んでいるのであろうか。わたしの話の要点はこのことである。すなわち、神は、その者が神を畏れ、悪を避けるような人間であるかを知ることを望んでいる。これは、神があなた方に試練を与え、ある一定の状況に直面させる時、神はあなた方が神を畏れ、悪を避ける人間であるかどうかを試したいのだということを意味する。ある者が捧げ物を守る役割になり、神の捧げ物に接する事になった場合、あなた方は、それが神の采配であると思うだろうか。もちろんその通りである。あなた方が直面するあらゆる物事は神の采配である。あなた方がこのような物事に直面した時、神はあなた方を隠れて観察し、あなた方の選択や行動、思考がどのようなものであるかを見ている。神が最も高い関心を寄せるのは、その結果である。なぜなら、その結果により、神はあなた方がその試練で神の基準に達したかどうかを評価できるようになるからである。しかし、人々は、ある物事に直面した時、その物事に直面している理由や、神により求められている基準について考えないことが多い。こうした人々は、神が自分の何を評価したいのか、自分から何を得たいと思っているのかを考えない。この捧げものに関する問題に直面したとき、こうした人々は、「これが目下の問題か。不注意にならず、よく注意する必要がある。それが何であれ、それは神の捧げ物だから、触れてはならない。」と考えるだけである。こうした人々は、そうした安易な考えで自分の責任を果たせると考えている。神はその試練の結果に満足するであろうか。あるいは、満足しないであろうか。あなた方の意見を述べて欲しい。(ある者が神を心から畏れているとすれば、神の捧げ物に触れることの出来る任務に直面した場合、神の性質が如何に侵害されやすいかを考えるので、間違いなく注意して取り組むであろう。)その考え方は正しいが、正解に達していない。神の道を歩むことは、表面的な規則に従うことではない。それは、ある物事に直面した時、まず、それを神の采配によるもの、神から与えられた責任、あるいは神から委ねられた物事であることを認識し、また直面したその物事に対し、それを神の試練であるとすら捉える必要がある、ということである。この問題に直面する時、あなたには一定の基準がなくてはならず、それが神から与えられたものであると考える必要がある。自分の責任を果たし、神に忠誠を尽くすために、その問題をどう扱うかを考慮する必要がある。神の怒りを買ったり、神の性質を侵害したりせずにそれを実行する方法を考慮する必要がある。つい先ほど、捧げ物を守る事について話をした。この問題には、捧げ物のほかに、あなたの任務、責任が関係する。あなたは、その責任について任務が課せられている。しかし、あなたがこの問題に直面した時、何らかの誘惑はあるか、というと、誘惑がある。その誘惑は何に起因するであろうか。その誘惑はサタンと、人間の邪悪で腐敗した性質に起因する。誘惑があるので、証しに立つことが関与する。証しに立つこともまた、あなたの責任であり、任務である。一部の人々は、「それは些細なことだ。それほど深刻に捉える必要が本当にあるのだろうか」と言うが、その必要は本当にある。神の道を歩むためには、自分自身に関する事柄や、自分の周囲で起こる事柄は、小さいことでも、すべてないがしろには出来ない。自分がそれに注意すべきであるかどうかを問わず、問題に直面している限り、それを無視してはならない。そうした事柄は、全て神からの試験であるとみなす必要がある。こうした姿勢は、どのようなものであろうか。あなたが、こうした姿勢をとっている場合、それにより、ある事実が確認される。すなわち、あなたの心が神を畏れていること、そして悪を避けることを望んでいるということである。あなたに、神に満足してほしいという願望があるなら、あなたが実行する事柄は神を畏れ、悪を避ける基準とかけ離れていることは無い。
人間がそれほど気にかけない事柄、通常は話題とならない事柄は、取るに足らない些細な事柄であり、真理を実行することとは無関係であると考える人々が往々にしている。そうした人々がこのような物事に直面した場合、そうした人々は、それほど考慮することなく放置する。しかし、事実としては、こうした事柄は、あなたが学ぶべき教訓、どのように神を畏れ、悪を避けるかに関する教訓である。さらに、それ以上に配慮すべきことは、その問題が発生して自分が直面した時、神は何をしているかを知る事である。神は、あなたのすぐ側で共にいて、あなたの言うことなすことを観察し、あなたの行動を観察し、心の動きを観察している。これが神の業である。一部の人々は、「それでは、私がそれを感じないのは何故だろうか」と言う。あなたがそれを感じないのは、神を畏れ、悪を避ける道が、守るべき道として、あなたにとって最も大切な道となっていないからである。したがって、あなたは、人間の様々な考え方や行動に従って示される、神の人間に対する微妙な業を感じることが出来ない。あなたは注意力散漫である。大きな問題は何であろうか。小さな問題は何であろうか。神の道を歩むことが関与する問題は、大小の区別が無い。そのことが理解できるであろうか。(理解できる。)日常の問題に関しては、人間が重大な問題であると捉える問題と、些細であるとみなす問題がある。人間はこうした大きな問題を極めて重要な問題と考え、それが神により与えられたものと考える。しかし、こうした大問題が発生する過程においては、人間の未熟な背丈が原因となり、また人間の貧弱な力量が原因となって、神の趣意に従うことが出来ず、神の啓示や、価値のある実質的認識が全く得られないことが往々にしてある。些細な問題については、人間に軽視され、放置されて徐々に意識からなくなることが多い。そのようにして、人間は神の前で神に検証され、試される数多くの機会を逃している。このような、神があなたのために計画した人々、出来事、物事や状況を常に軽視したとしたら、どのような結果になるであろうか。その結果、あなたは、あなたを全き者とする日々のそして瞬間瞬間の神の業と神の指揮を、常に放棄することとなる。神があなたのために一定の状況を計画する時は、毎回あなたの心、思いや思想、考え方、行動のしかたを、常に神が隠れて観察している。あなたが不注意な場合、すなわち神の道、神の言葉、真理に真剣に取り組んだことが無い場合、神がその状況をあなたのために計画した際に、神が完全にしたい物事や神があなたに要求している物事に、注意することも配慮することも無いであろう。また、こうした人々、出来事や物事が真理や神の趣意にどのように関連するかを知ることも無いであろう。繰り返し起こる状況や試練に遭遇しても、あなたが何かを達成するのを神が見ることがなかったら、神はどのように事態を進行させるであろうか。何度試練に遭遇しても、あなた方の心は神を賛美せず、神があなたのために計画した状況を、神からの試練もしくは試験としてそのまま受け入れない。そして、神があなたに与えた機会を次々と拒否し、何度も逃す。それは人間の大いなる反抗ではないだろうか。(その通りである。)神はそれを悲しむであろうか。(悲しむ。)神は悲しまない。わたしがこう言うのを聞いて、あなた方は再び驚いたであろう。結局のところ、神はいつも悲しむと既に聞いているではないか。神は悲しまないであろうか。それでは神は何時悲しむであろうか。いずれにせよ、神はこの状況が原因で悲しむことはない。それでは、上記のような行動に対して、神はどのような姿勢を取るであろうか。神が人間に与えた試練、試験を人間が拒否した場合や、人間がそれらを回避した場合、神のそうした人々に対する姿勢はただひとつである。その姿勢とは何であろうか。神はそうした人々を心の底から拒否する。ここでは「拒否」という言葉の意味には2つの階層がある。それをどのようにして説明すればよいだろうか。この言葉の深層には、嫌がる、嫌悪する含意がある。それではもうひとつの階層についてはどうだろうか。もうひとつの階層は、何かを諦めるという含意である。「諦める」の意味は、皆知っているであろう。つまり、拒否されるとは、このような行動をとる人間に対する神の最終的な反応を意味する。それは、極端な憎しみと嫌悪であり、見捨てられるという決断である。これが、神の道を一切歩んだことの無い者や、神を畏れ、悪を避けた事の無い者に対する、神の最終的な判断である。これで、皆わたしが説明した格言の重要性が理解できたであろうか。
これで、人間の結末を決める際に神が採る方法を理解できたであろうか。(毎日、様々な状況を計画することである。)毎日、様々な状況を計画することであるというのは、人々が感じ取り、認識可能な事柄である。そうした神の業の動機は何であろうか。それは、神が各人にそれぞれ異なる時期に、異なる場所で、異なる試練を与えたいと考えているということである。この試練では、人間のどの側面が試されるのであろうか。それは、あなたが遭遇したり、聞いたり、見たり、個人的に経験したりする物事すべてにおいて神を畏れ、悪を避けるような者であるかどうか、である。あらゆる者が、こうした試練を経験する。なぜなら、神は万人に対して平等であるからである。一部の人々は、「私は長年にわたって神を信仰しているが、未だに試練に遭遇しないのは何故だろうか」と言う。あなたが試練に遭遇したことが無いというのは、あなたのために神がある状況を計画した時、あなたは常にそれを真剣に捉えたことが無く、神の道を歩むことを望まなかったからである。そうしたわけで、単にあなたが神の試練に気付かなかっただけである。一部の人々は、「数回の試練に遭遇したが、適切な実行方法が分からない。私は実行したが、自分が試練の中で固く立っていたかどうか、未だに分からない。」と言う。こうした状況にある者は少なからずいる。それでは、神が人間を評価する際の基準は何であろうか。それは先ほど述べた通りである。すなわち、あなたのする事柄、考える事柄、表現する事柄は、全て、神を畏れ、悪を避けるようなものであるか、である。これが、あなたが神を畏れ、悪を避ける人間であるかどうかを判断する方法である。この概念は簡素であろうか。言葉で表現すると簡素であるが、実行するのは容易であろうか。(あまり容易ではない。)あまり容易でないのは何故であろうか。(人間は神や、神が人間を全きものにする方法を知らないので、物事に対処する時に、問題解決のために真理を求める方法を知らないからである。人間が現実として神を畏れるようになるには、様々な試練、洗練、刑罰、裁きを経験する必要がある。)あなた方はそう言うが、あなた方にとって、神を畏れ、悪を避けることは、今すぐ容易に出来るように思える。わたしがこう述べるのは何故であろうか。それは、あなた方が何度も説教を聞き、真理の現実に関して沢山受け取っているからである。そのことにより、理論や概念に関しては、神を畏れ、悪を避ける方法を理解することが出来ている。あなた方が神を畏れ、悪を避けることを実行することに関しては、そうした理論や概念は極めて効果的であり、容易に実行出来るように感じさせる。それでは、実際には人々がそれを実行出来ないのは何故であろうか。それは、人間の本質は、神を畏れず、悪を好むからである。それが本当の理由である。
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