世の終わりのキリスト全能神

終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられます。考察したい者は全能神教会にご連絡してください。

「神の性質と神の業の結果を知る方法 」 その1

2019-02-22 19:57:57 | 全能神教会御言葉朗読

   あなた方の心には、自分が歩むべき道について何らかの考えがあり、それについてかなり把握し、理解しているようである。しかし、あなた方の言葉が空虚なものとなるか、事実となるかは、日々実践する事柄において、あなた方が何に注意しているかにより決まる。あなた方は真理の教義と内容の両方について、長年にわたり真理のあらゆる側面から収穫を得てきた。それにより証明されるのは、現在の人間は真理を求める事に重点を置いている、ということである。その結果、真理のあらゆる側面と事項が、一部の人々の心に、確実に根ざしている。しかし、わたしが最も恐れていることは何であろうか。それは、あなた方の心では、真理という事項とその理論が根ざしていても、実際の内容にそれほど重点が置かれていないことである。あなた方が問題や試練に遭遇したとき、選択に迫られた時、そうした真理の事実をどの程度活用できるであろうか。そうした事実は、あなた方が困難を乗り越える際や、神の趣意を満たして試練を乗り越える際に役立つであろうか。あなた方は試練に耐え、はっきりと大声で神の証しをするであろうか。あなたは、それらの問題に関心を持ったことがあるであろうか。あなた方に尋ねるが、あなた方の日々の考えや思いにおいて、自分にとって最も大事な物事は何であろうか。あなた方は、このことについて結論に達しているだろうか。あなた方は何が最も重要であると考えているであろうか。「真理を実践することが最も重要である」という者もいれば、「当然ながら、神の言葉を毎日読むことが最も重要である」という者や、「当然ながら、毎日神の前に出て、神に祈ることが最も重要である」という者、「当然ながら、毎日きちんと自分の本分を尽くすことが最も重要である」という者もいる。さらに、神に満足してもらう方法、あらゆる物事において神に従う方法、神の心に沿って行動する方法について、ひたすら考えているだけであると言う者もいる。そうであろうか。それが全てであろうか。たとえば、「常に神に服従したいが、何かあると神に服従出来ない。」という者がいる。「神に満足してほしいと常に思っている。神にただ一度だけでも満足してもらえればよいのだが、神に満足してもらうことは決して出来ない。」と言う者もいる。「神に服従したいと常に思っている。試練の時、何も不満を言わず要求もせずに、神の采配にゆだね、神の統治と計画に従いたいと常に思っている。しかしほぼ毎回、従うことができない。」と言う者もいる。「決断に迫られると、どうしても真理を実践することを選べない。私は常に肉の欲を満たしたい、自分の勝手な願望を満たしたいと思う。」と言う者もいる。その原因は何であろうか。あなた方は、神の試練が起こる前に、何度も自分自身に挑んだり、試したり、試練を課した事はないだろうか。本当に神に従い、神に満足してもらえるか、絶対に神を裏切らないようにすることが出来るか、試してみよ。自分自身や自分の勝手な願望を満足させずに、自分の個人的な選択をせずに、ただ神に満足してもらうように出来るか、試してみよ。このように出来る者はいるだろうか。実際には、あなた方の目の前にある真実はただひとつである。それはあなた方全員にとって関心が最も高く、最も知りたい事、つまり自分自身の結末と終着点に関する事柄である。あなた方は気付いていないかも知れないが、それは誰も否定出来ないことである。人間の結末、神の人間に対する約束、神が人間を進ませようとする終末に関する真理に関しては、それに関連する神の言葉を既に何度か研究している者がいることを、わたしは知っている。その一方で、自分の心の中で何度もそれを探し、考えるが、何の結果も得られなかったり、曖昧な結論に達したりする者もいる。結局、こうした者は自分を待ち受けている結末はどのようなものかについて確信していない。真理に関する交わりや教会の生活を受け入れ、自分の本分を尽くす時、常に殆どの者が、自分の結末はどうなるだろうか、最期までその道を歩き続けられるだろうか、人間に対する神の姿勢はどのようなものだろうか、といった疑問の答えを知りたいと思う。自分には、過去に神が喜ばない言動があった、自分は神に不従順だった、神を裏切る行為をした、神に満足してもらえないことをした、神の心を傷つけ、神を落胆させた、神に忌み嫌われることをした、だから、おそらく自分の結末は不明であろう、と懸念する者さえいる。大部分の人間が自分の結末に不安を感じていると言えるであろう。「自分は大丈夫だと100%確信している。自分は神の趣意を満足できると100%確信している。自分は神の心に叶う者であって、神の賞讃を受ける者である。」などと、敢えて言う者はいない。神の道に従うことはことさらに困難であり、真理を実践するのは何よりも難しいと考える者もいる。最終的に、こうした人々は、自分が救いようの無い者であると考え、敢えて良い結末に期待することは無い。あるいは、こうした人々は神の趣意を満たして救われることが出来ないと考えているので、自分に結末は無く、好ましい終着点に到達できないと言う。人々が正確にはどのように考えるかを問わず、皆自分の結末について何度も疑問を抱いている。自分の将来に関する疑問や、神が業を終えた時に自分が何を得るかに関する疑問について、こうした人々は常に計算し、計画を立てている。人一倍犠牲を払う人もいる。自分の家族や職業を捨てる者や、結婚生活を諦める者、辞職して神のために生活する者、本分を尽くすために自宅を去る者、困難な道を選び、最も過酷で骨の折れる務めに取り組む者、富や持っている物の全てを捧げる者、真理や神を知ることを求める者もいる。自分が何をするかを決める方法を問わず、行動時の作法は重要であろうか。(重要では無い。)それでは、それが重要でない理由は、どのようにして説明されるであろうか。作法が重要でないとしたら、何が重要であろうか。(表面上の良い行いは、真理を実践していることを表すものではない。)(皆が考えている物事は重要ではない。重要なのは、真理を実践しているかどうか、自分が神を愛しているかどうかである。)(反キリストと偽の長の没落から、表面上の行いが最も重要ではないことが分かる。彼らは表面的に多くの物事を捨て去り、代償を厭わないように思われるが、詳しく検討すると、彼らには神を畏れる心が無く、あらゆる面で神に反抗している。彼らは重要な時常にサタンと共にあり、神の業を阻害する。したがって、ここで主に検討すべきことは、終わりの時に自分がどちらの立場に立つか、そして自分の観点がどのようなものであるかである。)皆素晴らしい意見を持っている。また、既にあなた方は真理の実践や神の趣意、神の人間に対する要求に関する基本的認識を備え、その基準を満たしている。そのような意見を聞いて、極めて感心している。あなた方の意見は、不適切な言葉も所々にあるが、真理に相応しい説明内容に近い。それは、あなた方が、自分の周囲の人々や物事、神が定めた環境、自分が見るもの全てに関して、独自の真の認識を得ているということである。その認識は、真理に近い。あなた方の意見は完全に理解可能なものではなく、極めて妥当とは言えない言葉もいくつかあるが、あなた方の認識は、既に真理の現実に近い。そうした意見を聞いて、わたしは気持が良い。

 

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