世の終わりのキリスト全能神

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人の子は安息日の主である

2019-01-24 18:21:56 | 聖書の奥義を開く

 

 1.そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。(マタイによる福音書12:1)

 2.「あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。人の子は安息日の主である。」(マタイによる福音書12:6-8)

 まず、「そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。」という聖句を検討する

 この聖句を選んだのは何故か。この聖句と神の性質には、どのような関連があるだろうか。この聖句で最初に気付くのは、これが安息日であるにもかかわらず、主イエスは外出し、弟子達を率いて麦畑を歩いていることである。さらに「法外」なこととして、「穂を摘んで食べはじめた」のである。律法時代において、ヤーウェ神の律法では、安息日に何気なく外出したり、何らかの活動に参加したりすることはできなかった。安息日にしてはならないことが沢山あったのである。主イエスのこうした行動は、長く律法の下で生活していた者にとっては不可解であり、非難に値するものでさえあった。ここでは人々の困惑や、イエスの行動について人々がどのように語ったかについては検討せず、まず主イエスがとりわけ安息日にこうした行動を取ったのは何故か、またそうした行動により、律法に従って生活していた人々に伝えたかったことは何かについて検討する。ここで議論したい神の性質とこの聖句の関連性が、ここにある。

  主イエスが来た時、イエスは実践的行動により人々と対話した。神は律法の時代を離れ、新たな業を開始し、その新たな業では、安息日を守る必要がなかった。神が安息日の制限から解放された時、それは神の新たな業の前兆でしかなく、神の真に偉大な業は、引き続きその後に行われた。主イエスが業を始めた時、イエスは律法時代の制約を既に過去のものとし、律法時代の規制と原則を破っていた。イエスには、律法に関連する部分が全く見られなかった。イエスは律法を完全に捨て去り、それを守ることはなく、律法を守ることを人間に要求しなかった。そうしたわけで、ここでは主イエスが安息日に麦畑を歩いていた、すなわち休まずに外出して活動していたのである。こうしたイエスの行動により人々の考え方に対して衝撃が与えられ、イエスはもはや律法に従っていないこと、神は安息日の制限を破棄し、新たな印象と新たな業の実行方法とともに人間の前に現れたことが伝えられた。こうしたイエスの行動により、神は律法や安息日から解放されることから始まる、新たな業を人々に伝えた。神が新たな業を行った時、神は過去に固執せず、神は律法時代の規則を懸念することがなかった。また、神は従前の時代の業に影響されることもなく、安息日に通常通り活動し、弟子たちは空腹となった時、麦の穂を摘んで食べることができた。こうしたことは、神にとって至って普通であると考えられた。神は、行うことを望んでいた業や、伝えるべき沢山の言葉に対して、新たな始まりを迎えることができた。神は、新たな始まりを迎えた後には、従前の業について述べることも、それを継続することもない。神の業には原則がある。神が新たな業を始めることを望んだ時は、神が人間を新たな業へと移行させることを望み、神の業が一層高度な段階に達している時である。人々が旧来の言い習わしや規則に従って行動を続けたり、そうした事柄を守り続けたりした場合、神はそれを祝福することも讃えることもないであろう。なぜなら、神は既に新たな業を行っており、業の新たな段階へと移行しているからである。神が新たな業を開始したとき、神の性質や神の中にある物事、神の存在に関する様々な側面を人々が理解できるように、神は人間に対して全く新しい側面から、全く新たな印象とともに、全く新しい方法で現れる。これが、神の新たな業の目的のひとつである。神は従来の常套的方法に留まることがなく、神が業を行い、言葉を伝える時、神は人間が想像するほど制約的ではない。神においては、全てが自由であり、開放されており、阻害的な要因や束縛は全く存在しない。神が人間に授ける物事は、すべて自由であり、開放されている。神は生きている神であり、実際に存在する存在である。神は操り人形でも粘土像でもなく、人間が祭る偶像とは全く異なる存在である。神は生きており、活気に満ち、神の言葉や業により人間に授けるのは、命と光、自由と開放である。なぜなら、神は真理、命、そして道を持っており、神は神の業において、いかなる物事にも制約されないからである。人間が何を言おうと、神の新たな業を人間がどう見るか、どう評価するかを問わず、神は何ら不安に感じることなく、業を行う。神は、神の業や言葉に対する人間の考えや批判、さらに強い反感や反抗を懸念することはない。人間的な理由や想像、知識、倫理により、神の業の評価や定義をしたり、神の業に対する信頼性を傷つけたり、混乱させたり、妨害を行うことができる者は、誰も居ない。神の業に制約的部分は一切なく、また業が人間や物事による阻害を受けることはなく、また神と敵対する勢力により混乱させられることもない。神の新たな業において、神は永遠に勝利を続ける王であり、敵対する勢力や、異端の者、人間による詭弁は、すべて神の足台の下で踏みにじられる。神が、業のどの段階を新たに行っているかを問わず、その段階は神の大いなる業が完了するまで、必ず人間界において展開され、拡張され、さらに全宇宙において妨害されることなく必ず実行されなければならない。これが神の全能と知恵、そして権威と力である。したがって主イエスは安息日に隠し立てすることなく外出して活動することが可能であった。なぜなら、主の心には規則が皆無であり、また人間から出た知識も教義も皆無だからである。イエスにあったのは新たな業と新たな方法であり、またイエスの業は、人間を自由にし、解放し、人間が光のなかに存在できるようにし、生きることができるようにする道であった。そして、偶像や偽の神を崇拝する者は、サタンの呪縛を受け、様々な規則や禁忌の制約を受けながら日々を過ごす。今日は何かが禁止されているが、明日はまた別の何かが禁止され、こうした者の生活に自由はない。こうした者は手かせ、足かせをされ、喜びについて何ら語ることがない、囚人さながらである。「禁制」とは何であろうか。それは、制約、束縛、そして邪悪である。ある者が偶像を崇拝するということは、とりもなおさず偽の神を崇拝し、悪霊を崇拝することである。そうした崇拝には制約が伴う。あれとこれを食べてはいけない、今日は外出できない、明日はコンロを点けてはならない、その翌日は転居してはならない、婚礼や葬儀、さらにお産まで、特定の日を選ぶ必要がある。こうした状況を何というか。こうした状況を「禁制」という。禁制は人間による呪縛であり、サタンの手かせ、足かせであり、邪悪な霊がそれを支配し、人間の心身を束縛する。こうした禁制が、神に存在するであろうか。神の聖なる存在について述べる場合、神には禁制が皆無であることを、まず考える必要がある。神の言葉と業には原則があるが、禁制はない。なぜなら、神こそが真理であり、道であり、いのちだからである。


 

 

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