『チャンネル・ゼロ』 / CHANNEL ZERO (REALITY)
私たちはそれをテレビと呼ぶ。
それはいま存続する情報を大量に伝達する最大の表現形式として利用されている。
とはいえ、わたしたちが画面で見ていることは、
「自分の」情報不足のために信じ込んでしまう人間の道や、
いくぶん常道を逸脱した存在を真に受けたりする人間の進路を単に抜け目なく感じやすい影にしたものに過ぎない。
人類の進歩よりも前に位置する努力の一部を排除する分野においてはこの驚くべき発明を産み落としてきた知識や科学技術が、
一向に利用されてこなかった。
たとえば周囲を取り巻くものと本当につながりのある生活を身につける一方で、貧困や不平等や強欲に対する責任を取り除いている。
あたかも他の多くの人文科学という実践における「前進」のように全くテレビは退化する一面においてのみ利用され続けている。
生活の質の向上を図るどころか反対にその恩恵の可能性をたいてい見逃している。
後に残されることといえば、薄っぺらな一般概念を再現したり、
わたしたちがおもしろがったりすすり泣いたりまたは憎悪や慈悲を感じるこの偽りのつまらない「憂き世」を模倣したりすることである。
すなわち画面に映された特性に感化されてしまうので、
仮に一歩でも横に動いたとしても、自分たちを個別の存在として明確に理解することができない。
多くの人々にとってテレビは教養や啓蒙の実現のひとつというより楽しい気晴らしの拠り所として重要視されている。
わたしたちは自分たちが創造的思考力を失っていくのを許し、好みを別なところへ転化させていく。
つまりテレビは私たち自身の欠点を全体的につかむことができないのである。
ブラウン管を追っ払ってしまえ。
現実を直視するんだ。
貪欲で見せかけの世界や恐怖に悲観という事柄を‥‥。
ものの見方の中心に、
この現実逃避という方法しかなければこの問題を実感するまではテレビ番組が同じ「たれ蔵」状態である。
ゼロ・チャンネルの実況中継。
虚空間。
まぶたに広がる重々しくも、
打ち負かされた狂気———
ANTI-SECT 'IN DARKNESS, THERE IS NO CHOICE' CD SOUTHERN RECORDS 18524-2