昨日の「国籍と民族」のお話の続きです。在日というのは、どんなに心情的に日本人に限りなく近かろうと、永住資格を持っていようと、外国人です。ということで、外国人は「家主」のところに住んでいる「ゲスト」であって、「養子」ではない、と言う議論が「らーさん」のblogでなされていました。一般の外国人の場合、これでよいでしょう。しかし在日の場合には、完全に異なった歴史的いきさつがあります。この歴史的いきさつは、べつに戦前・戦中の植民地支配のことを言っているのではありません。戦後どういういきさつで、在日というねじれまくった存在が誕生したのか、ということです。以下に、上で述べた「家主・ゲスト・養子論」に当てはめて、分かりやすく話を作ってみます(たとえ話なので、大雑把に成ることご了承ください)。
「昔、ある貧しい家の家主A(李氏朝鮮)が商売に失敗して、近所の裕福な家主B(清帝国)・家主C(日本帝国)が、自分の子分にするいい機会だとばかり、争って助けようとしました(日清戦争)。勝ったほうの家主C(日本帝国)は影響力を強めて家主Aの家を再興させようとしました(大韓帝国成立)。」
「ところが不良債権やら構造上の問題だらけで思ったほどうまく進まず、もっと裕福な家主D(ロシア帝国)が家主A(大韓帝国)を助けてやろう、と申し出てきました。自分の思ったことができない家主A(大韓帝国)も、家主Dに期待するようになってきます。当然争いがおこり(日露戦争)、ここでも家主C(日本帝国)は勝ちます。」
「家主C(日本帝国)はその後、家主A(大韓帝国)の商売を立て直すには、小手先の融資ではだめで徹底した構造改革が必要だということで、家主A(大韓帝国)やその子供たちの意見とは関係なく、その家を吸収合併しました(韓国保護化・日韓併合)。」
「当然家を失った家主Aの子供たち(旧朝鮮人)は、家主C(日本帝国)に完全に養われることになり、ゲストから養子になりました。養子になりたい人もいれば、なりたくない人もいたでしょう。またもう一度家を復興したいと言う人もいたでしょう(三・一独立運動など)。しかし、新たな家の養子になったからには勝手は許さん、ということで、新しい家主に厳しく怒られたり嫌われたりした養子もいました(武断政治など)。」
「ともかくゲストは皆養子になり、家主の子供(旧日本人)達といっしょに、仲良くしよう、ということになりました。しかし、養子は一般にとてもやせ細っていて(貧しかったから)、子供たちの習慣や生活についていけないものもいました。子供たちの中には、そんな養子を見て差別するやつもいれば、手を差し伸べて本当に仲良くするやつもいました。」
「さて長い年月が経ち、家主は商売に行き詰まり始め、生活が苦しくなってきました(戦争への過程と突入)。当然子供・養子に働けと言う(徴用・徴兵など)。子供はしゃあないなあ、と思い、いやでも働く。もともと養子になりたかったやつも、しゃあないな、と思う。養子にいやいやなったやつは、働きたくないとごねる。そして、ついに家主の会社が倒産してしまう(旧日本敗戦)。」
「当然家主は子供を養いきれない。こうして養子は違う家を持つことになった(韓国・北朝鮮独立)。一方、違う家に住むのは嫌で、住み慣れたこの家に住みたいという養子もいた(在日の始まり)。さらにこの中に、今までどおり養子でいたい、というやつと、つぶれた家主の養子なんて嫌だ、という2種類がいた。声がでかかったのは、つぶれた家主の養子なんて嫌だ、というやつら(民団・総連の結成)で、家主は彼らと取引し、結局養子は皆ゲストに成った。」
「さらに紆余曲折がありゲストは特別ゲスト(特別永住者)に格上げになった。でも、今までどおり養子でいたかったやつの声は、家主に届かず、再度養子になるためには、かなり高いハードルが課されることになった(帰化の条件)。今までどおり養子でいたかったやつにとっては、不幸なことである。このハードルは現在ではずいぶん低くなっているが、ハードルがあることには変わらない。」
こんな感じでしょうか。なるだけ左にも右にもぶれすぎないように書いたつもりです(中立なんていうのは完全に幻想なんですが、どちらかにぶれすぎるのは嫌いなので)。戦前の日帝時代にはさまざまな意見があるでしょうから、また後日、詳しく書いてみようと思います。ただ確実にいえるのは、私の祖父母の話を聞くと、終戦当初から上記のように様々な在日がいたようです。このBlogの「生い立ち」にも書きましたが、父方の祖父母は帰国しようとし、母方の祖父母は始めから日本人として生きていくつもりだったようです。次回は、国籍取得条件である、出生地主義と血統主義とからめて、書いていこうと思います。(ここがもっとも大事な話だと思います)
同じような話が、
I'll be here(2005-02-06)
にも出ています。
また、ここの話と少しずれるのですが、在日コリアンと日系アメリカ人の活動について、どこが似ていてどこが根本的に違うのか、ということに対して、とても面白い考察をされている方がいますので、リンクを貼っておきます。
日系米国人の活動と在日韓国・朝鮮人の活動
「昔、ある貧しい家の家主A(李氏朝鮮)が商売に失敗して、近所の裕福な家主B(清帝国)・家主C(日本帝国)が、自分の子分にするいい機会だとばかり、争って助けようとしました(日清戦争)。勝ったほうの家主C(日本帝国)は影響力を強めて家主Aの家を再興させようとしました(大韓帝国成立)。」
「ところが不良債権やら構造上の問題だらけで思ったほどうまく進まず、もっと裕福な家主D(ロシア帝国)が家主A(大韓帝国)を助けてやろう、と申し出てきました。自分の思ったことができない家主A(大韓帝国)も、家主Dに期待するようになってきます。当然争いがおこり(日露戦争)、ここでも家主C(日本帝国)は勝ちます。」
「家主C(日本帝国)はその後、家主A(大韓帝国)の商売を立て直すには、小手先の融資ではだめで徹底した構造改革が必要だということで、家主A(大韓帝国)やその子供たちの意見とは関係なく、その家を吸収合併しました(韓国保護化・日韓併合)。」
「当然家を失った家主Aの子供たち(旧朝鮮人)は、家主C(日本帝国)に完全に養われることになり、ゲストから養子になりました。養子になりたい人もいれば、なりたくない人もいたでしょう。またもう一度家を復興したいと言う人もいたでしょう(三・一独立運動など)。しかし、新たな家の養子になったからには勝手は許さん、ということで、新しい家主に厳しく怒られたり嫌われたりした養子もいました(武断政治など)。」
「ともかくゲストは皆養子になり、家主の子供(旧日本人)達といっしょに、仲良くしよう、ということになりました。しかし、養子は一般にとてもやせ細っていて(貧しかったから)、子供たちの習慣や生活についていけないものもいました。子供たちの中には、そんな養子を見て差別するやつもいれば、手を差し伸べて本当に仲良くするやつもいました。」
「さて長い年月が経ち、家主は商売に行き詰まり始め、生活が苦しくなってきました(戦争への過程と突入)。当然子供・養子に働けと言う(徴用・徴兵など)。子供はしゃあないなあ、と思い、いやでも働く。もともと養子になりたかったやつも、しゃあないな、と思う。養子にいやいやなったやつは、働きたくないとごねる。そして、ついに家主の会社が倒産してしまう(旧日本敗戦)。」
「当然家主は子供を養いきれない。こうして養子は違う家を持つことになった(韓国・北朝鮮独立)。一方、違う家に住むのは嫌で、住み慣れたこの家に住みたいという養子もいた(在日の始まり)。さらにこの中に、今までどおり養子でいたい、というやつと、つぶれた家主の養子なんて嫌だ、という2種類がいた。声がでかかったのは、つぶれた家主の養子なんて嫌だ、というやつら(民団・総連の結成)で、家主は彼らと取引し、結局養子は皆ゲストに成った。」
「さらに紆余曲折がありゲストは特別ゲスト(特別永住者)に格上げになった。でも、今までどおり養子でいたかったやつの声は、家主に届かず、再度養子になるためには、かなり高いハードルが課されることになった(帰化の条件)。今までどおり養子でいたかったやつにとっては、不幸なことである。このハードルは現在ではずいぶん低くなっているが、ハードルがあることには変わらない。」
こんな感じでしょうか。なるだけ左にも右にもぶれすぎないように書いたつもりです(中立なんていうのは完全に幻想なんですが、どちらかにぶれすぎるのは嫌いなので)。戦前の日帝時代にはさまざまな意見があるでしょうから、また後日、詳しく書いてみようと思います。ただ確実にいえるのは、私の祖父母の話を聞くと、終戦当初から上記のように様々な在日がいたようです。このBlogの「生い立ち」にも書きましたが、父方の祖父母は帰国しようとし、母方の祖父母は始めから日本人として生きていくつもりだったようです。次回は、国籍取得条件である、出生地主義と血統主義とからめて、書いていこうと思います。(ここがもっとも大事な話だと思います)
同じような話が、
I'll be here(2005-02-06)
にも出ています。
また、ここの話と少しずれるのですが、在日コリアンと日系アメリカ人の活動について、どこが似ていてどこが根本的に違うのか、ということに対して、とても面白い考察をされている方がいますので、リンクを貼っておきます。
日系米国人の活動と在日韓国・朝鮮人の活動