オーバーアクトを排し挙動や表情で感情を語らないところは脱サイレントだがトーキーとしての音声の主張は最小限に止められる。幻想映像で語りきるのかと思えば過剰な文字で展開を説明する。結果、イリュージョン作品としても怪奇もの映画としても成立しておらずもどかし。
果敢なトライアルなのだろが、この"観ごごちの悪さ"は表現として成功しているように思えない。
余談ですがWikipediaにこんな記載があったので引用しておきます。もし、これが事実ならドライヤー監督、お気の毒なことです。
以下、転載「1930年に製作されたこの映画が2年後に公開されることになったのは、美術的欠陥があったからだとされる。この映画はナレーションを付け加えた配給会社によって短くされたため、ドライヤーはひどく落ち込み、『怒りの日』で制作活動を再開するまでに10年かかった。」
(1月11日/イメージフォーラム)
★★