ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ バッド・ジーニアス 危険な天才たち (2017)

2018年10月15日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
たかが娯楽映画とはえカンニングに挑む若者たちの「良心」について、肯定的にせよ否定的にせよ説得力が足りないので、彼らの動機と行為にまったく共感がわかずスクリーン上の狂騒にサスペンスを感じません。製作者たちによって人格を無視された若者たちが哀れ。

始めから終わりまでこんなに不快な映画は久しぶりに見た。作り手たちが登場人物をゲームの“コマ”程度にしか思っていないからだろう。この映画の製作者や脚本家や監督には、そもそも拝金主義や富裕格差や権威主義教育について、何か語ろうなどという気は(そぶりはするくせに)さらさらなく、ひたすら観客ウケしか狙っていない。そんな底の浅さが透けて見えるのだ。

若者たちのルール違反の背景として、家庭環境や境遇への不満や鬱屈が描かれるのだが、その扱いはおざなりで、とても「良心」に反してカンニングという不正に手をそめる動機として機能していない。それどころか、作り手たちの脳内に(自分を含めた)人が人としてあるための拠り所である「良心」に対しての敬意がまったくないのが、この映画の不快さの原因となっている。

嬉々として不正に走る若者たち全員が、ルール違反に対する良心の呵責や葛藤など微塵もないプライドなきただのアホどもに見えてしまうのだ。可哀そうに当然、若い役者さんたちに罪はないのに。

この「良心」への無関心ぶりは、必然的に映画の良心の欠落へと連鎖する。その罪に気づかないまま、TVバラエティの再現ドラマのような大仰な芝居と音で“サスペンス”を演出したような気になっているカンニングシーンや、どこまでが本気か分からない『ターミネーター』のパロディみたいなハリウッド映画の焼き直しクライマックスにも、辟易。

うわべのカタチのかっこ良さだげで、観客を共感させた(誤魔化せた)ような気になっているところに、作者の浅知恵と傲慢さが溢れだしていてる。

2Bエンピツ握りしめ、一心不乱にマークシート用紙を塗りつぶす、若い頃の檀ふみさん似のサウスポー娘チュティモン・ジョンジャルーンスックジンちゃんの生真面目な仏頂面と長い脚は、素敵でした。

(10月12日/新宿武蔵野館)

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