ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ 響-HIBIKI- (2018)

2018年09月25日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
何と心地の良い106分間だろう。響のようなキャラは精神のリハビリに最適である。いかに私たちは、妥協し、折り合いを付け、我慢することを強いらえれ、日々をやり過ごしているかを痛感させられる。現実からの“逃避”という映画の効用を久しぶりに思い出した。

あり得ない響というリトルモンスターの突飛な言動が、コミカルにもファンタジックにもならず、本来の理想の姿として爽快に感じるのは、平手友梨奈のどこか作り物めいたマンガ的容姿が醸す潔癖性と月川翔演出の「嘘」を嘘に見せない疑似リアルの絶妙なサジ加減のたまもの。

端的に言ってしまうと一滴の血も流れないこと。

(9月22日/TOHOシネマズ)

★★★★
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■ 愛しのアイリーン (2018)

2018年09月23日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
復元能力なき過疎化。青息吐息の地縁神話。歪に肥大化した母性愛。困ったときの金権発動。婚姻名目の性欲処理契約。潜在的な異物排他の露見。フィリピン娘は異国の僻地で制度(公)と心情(私)の矛盾のはけ口となり、手作りの十字架を握りしめ一心に般若心経を唱える。

彼女が願った“浄化”をニッポンはかなえることができたのだろうか。

以前、日本の過疎地の農家に嫁いだフィリピンの花嫁たちのその後を追ったドキュメンタリーを見たことがある。ほとんどの嫁は子育てが終わった後、離婚して村を出て自活していたと記憶している。

原作のコミックは1995年の作だそうだ。2018年の現在、厚生労働省が実施している技能実習制度や外国人研修制度、外国人福祉士の学習支援制度も、一時的な労働力として彼らを使えばペイするが、移民として定住されると社会的コストが増加して割に合わないという前提にたっている。

公の制度と言いながら、発想は金で当面の労働力を確保し、その後の個人の意志や生活はなし崩しでウヤムヤにという点で、結果的にフィリピン妻たちが日本の家族制度から離反してしまった東南アジアの嫁探しツアーと発想は五十歩百歩だ。

母国に残した家族の幸福と、異国での自らの幸せを夢みたアイリーン(ナッツ・シトイ)が祈った“浄化”は、いまだかなっていないのだろう。そんなことを考えた。

(9月20日/TOHOシネマズシャンティ)

★★★
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■ SUNNY 強い気持ち・強い愛 (2018)

2018年09月18日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
一見、“感動”の安易な再生産に見えながら、出しゃばらず狂言回しに徹した篠原涼子の善良ぶりと、オーバーアクトでケレンに徹する広瀬すずのウブという時空を超えた奈美の「生真面目」の軸が、客観的で冷静な視点となって過剰な“感動”のぜい肉を上手く削いでいる。

そもそも、おばさんたちの話は本家韓国版『サニー 永遠の仲間たち』(2011)から大きく改変するのは難しく、その部分に仕込まれた“感動”のレベルはすでに織り込み済み。あの摩訶不思議なの女子高生の90年代の狂騒にスポットを当て、青春映画としての華やぎと、躍動と、非理性を戯画化したところに「日本版アメリカン・グラフティ」とでも言いたくなるクロニクル的意義を感じる。

1990年代、特に後半の5年間は大人たちにとって決して良い時代ではなかった。少し前に「日本のどの時代に行ってみたいですか?」というアンケートを見かけた。1位は高度経済成長期(1955~73年)。2位は僅差でバブル期(1987~91年)。20位まで挙げられたリストには幕末やら奈良時代や旧石器時代まであるのに、1990年代は影も形もなかった。

バブル経済崩壊で抱え込んだ多額の不良債権に、日本社会全体が身動きがとれず、戦後の成長神話を支えてきた大手金融機関が成すすべなく破たんした。神戸の震災。松本、地下鉄サリン事件。酒鬼薔薇事件。東電OL殺人事件。和歌山カレー殺人。池袋通り魔や桶川ストーカー殺人。そんな不穏きわまりない事件がこの時代の年表に並ぶ。映画ファンなら記憶にあるだろう『もののけ姫』の大ヒットや『HANA-BI』のヴェネツィア受賞と渥美清や黒澤明の死去なんていう新旧交代もあった、あの世紀末だ。

そんな時代、確かに女子高生たちは異常にはしゃいでいた。茶髪、ルーズソックス、超ミニスカート、プリクラ、ガングロ。彼女たちの「風俗」をメディアはさかんに煽った。煽られた彼女たちもタガが外れたように、頭に乗った。ブルセラショップだ、援助交際だと始めは興味本位に取り上げられた(たぶんほんの一部の)彼女たちの不道徳を、社会学者や宗教家がしたり顔で論じ合っていた。いったい、あれは何だったのだろう。

世紀末の気配に無意識に反応した10代の少女たちの陽性の集団ヒステリー。町の住民に裏切られた笛吹き男の笛の音に、100数十人の少年少女たちが夢遊病者のように導かれ姿を消してしまったという、ハメルーンの笛吹き男の話しを思い出した。

あの女子高校生たちも、時代の節目の見えない不穏な気配に導かれ、思わず踊りだしたのかもしれない。不穏な気配から逃避、あるいは反発する少女たち。そんな不穏な気配は、大人たちが作りだし、右往左往し、増幅させたのだが・・・。そういえば「ええじゃないか」の騒動が発生したのも江戸時代が幕を閉じようとする時期だった。そんなことを考えた。

あと、大根監督、とりあえず淡路島の人たちには謝っておいた方がいいと思う。

(9月15日/TOHOシネマズ)

★★★★
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■ きみの鳥はうたえる (2018)

2018年09月16日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
なんと心優しい青年たちだろう。自分では気づいていないが愛おしいほど真面目で不器用だ。男二人に女が一人。アメリカン・ニューシネマやヌーベルバーグの青春を思い出す。いや、彼らは背伸びし“未熟さ”を露呈し権威に圧倒された。殻に籠ったこの日本の若者たちは互いの“優しさ”に戸惑いすれ違う。

おそらくアドリブを多用したのだろう。柄本、石橋、染谷の予測のつかない仕草や表情、会話が素晴らしい。惰性や停滞から解放された三人の悪気のない行き当たりばったりの、つかのまの「時間」の浪費。彼らの笑い顔が、明るければ明るいほど切なさが滲む。そこから立ち上がる屈託のなさは型にはまった芝居からは決して生まれないだろう。

その浪費は、まるで彼らが互いに口には出さない、いや口に出せない“優しさ”を探りあい、確かめ合うための儀式のようだ。そんな無意識に「ひと」を求め合う葛藤が、彼らの一見無為に見えるひと夏の儀式(交感)に薄らと浮かび上がる。特に石橋静河が素晴らしい。彼女の「オリビアを聴きながら」に、私は涙してしまった。

余談だが、顔立ちはそうでもないが、石橋は、ぶらぶらと、あるいは颯爽と髪をなびかせ歩く姿がお母さん(原田美枝子)の若い頃によく似ている。

それにしても佐藤泰志の小説の映画化は、どうしてこんなに秀作ぞろいなのだろう。本作の三宅唱監督は34歳。熊切和嘉、呉美保、山下敦弘、他の作品も監督はみな40歳代だ。


(9月12日/新宿武蔵野館)

★★★★★
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■ 寝ても覚めても (2018)

2018年09月14日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
現実を夢うつつで彷徨う朝子(唐田えりか)に“朝”はもう訪れたのだろうか。許されなくても側にいるだけでいい。それは究極の愛情表現なのだろうか。ただの自己中心的な感情の逃避ではないのか。だって本来、人を好きになるということは身勝手でエゴイスティックな行為なのだから。

麦(ばく)(東出昌大)という男は、まるで亡霊か幻のように描かれる。麦をひと目見た朝子の友人春代(伊藤沙莉)は、この男を悪霊のように危険だと宣言する。麦と一緒に暮らす母子家庭らしき友人の岡崎(渡辺大知)とその母(田中美佐子)は、この男を家に居ついた良性の妖怪のように容認する。

そして、麦に魅せられた朝子は一瞬にして現実から引き離され、夢の途中に置き去りにされる。朝子は終始、感情の抑揚に乏しく(唐田えりかの好演?あるいは無演?)それだけに行動の唐突さが、現実世界に居る者(映画内、そして私たち観客)の意表を突く。朝子をふたたび現実から引き離す麦に至ってはまるで(黒沢清の)ホラーの様相だ。

『ハッピー・アワー』(05)のときにも感じたが濱口竜介という映画作家は、映画内の登場人物だけでなく観客の「現実(日常)」と「夢想(無意識)」の境界線を消してしまう術を心得た“越境の演出家”として、私は認識した。

(9月9日/テアトル新宿)

★★★★
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