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 森部の戦

2013-09-25 14:35:33 | 日記
尾張に進軍してくる今川勢に対し桶狭間での奇襲を牛太郎が進言し、馬廻衆毛利新助が総大将今川義元を討ち取って勝利。牛太郎はこの勲功で沓掛城及び、政綱の名を信長から拝領する。

 森部の戦い(1561年?永録四年 織田 対 斎藤)
 美濃に侵攻した織田勢の前に脛取り足立が立ちはだかるも、前田利家の参加により形勢逆転。利家はこの活躍によって織田家帰参が許される。なお、牛太郎の活躍はなし。

 稲葉山城の戦い(1567年?永録十年 織田 対 斎藤)
 難攻不落の稲葉山城。弱点が搦め手であることを事前に竹中半兵衛から聞いていた牛太郎だが、佐々成政と木下秀吉の邪魔が入り、この二人が喧嘩をしている間に稲葉山城は落城。親衛隊を勝手に動かした軍紀違反により成政は謹慎処分。牛太郎の活躍はなし。

 観音寺城(箕作城)の戦い(1568年?永録十一年 織田浅井徳川連合 対 六角)
 牛太郎がさゆりに吹き込んだ流言と、竹中半兵衛が想定した作戦と奇策により六角勢は一日で敗退。上洛を目前にし、織田軍を天下にしらしめる。なお、牛太郎は戦場のどさくさで山内一豊を私情で殺そうとしたが失敗し、活躍もなし。

 池田城の戦い(1568年?永録十一年 織田 対 池田)
 信長に命じられて摂津豪族衆の説得に回っていた牛太郎だったが、摂津池田を訪ねたさい、急遽織田軍が池田に攻め入ってきて、牛太郎は投獄される。攻防の最中、太郎に助けられるが、信長に口ごたえをしてしまって怒りを買い、再び池田勝正の説得へ。黒連雀とともに激戦の中を本丸まで一騎で駆け上がり伝説を作るも、降伏と引き換えに池田家の所領安堵を勝手に申し渡してしまい、信長が再び激怒。ぼこぼこにされたうえ、謹慎処分をくらう。

 本國寺の変(1569年?永録十二年 織田足利連合 対 三好三人衆)
 謹慎処分が解かれた牛太郎は摂津池田の目付け役に。その折、信長の岐阜帰陣を見計らって、将軍足利義昭が仮御所としていた本國寺に三好三人衆が攻め上がり、池田勢は急遽本國寺の援軍に向かい三好三人衆は桂川へと退散。のち、岐阜から駆け付けた織田本隊により三好三人衆は蹴散らされる。なお牛太郎は見ていただけで活躍はなし。

 金ヶ崎の退き口(1570年?元亀元年 織田徳川連合 対 朝倉浅井連合)
 火縄銃百五十丁を今井宗久から借り受けた牛太郎が意気揚々と越前侵攻に加わるも、浅井長政の裏切りにより一転窮地へ。木下秀吉、徳川家康、明智光秀、池田勝正とともに退却軍のしんがり役を務め、朝倉勢の猛攻を食い止めるも牛太郎率いる沓掛勢は五百人から百人と壊滅状態へ。

 姉川の戦い(1570年?元亀元年 織田徳川連合 対 浅井朝倉連合)
 馬廻衆から侍大将に昇進した太郎とともに柴田隊傘下で参戦。牛太郎は一撃必殺で敵将磯野員昌を火縄銃で狙うも失敗。押されっぱなしの織田軍を見て一度はあきらめかけるも、援軍の到着に奮起。牛太郎の栗綱、太郎の黒連雀が先頭に立って沓掛勢は斜行突撃を行い、混乱を誘う大活躍をするものの、部隊から勝手に離れた軍紀違反により勲功はなし。

 野田?福島城の戦い(1570年?元亀元年 織田 対 三好三人衆石山本願寺連合)
 三好三人衆殲滅のために摂津を襲いかかった織田軍。初めは連戦連勝だったが、本願寺顕如が全国本願寺門徒衆に織田追討の檄文を発したため、一転、苦境に立たされ、織田包囲網構築のきっかけに。さらに浅井朝倉連合軍が琵琶湖西岸を南下して京へ進軍。信長は摂津から急遽退却。なお、牛太郎は後ろめたさから戦場にやって来るも、森可成が討ち取られたことを知って大泣き。太郎にぶん殴られ、堺に帰って終わり。

 比叡山焼き討ち(1571年?元亀二年 織田 対 延暦寺)
 浅井朝

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