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ゆったり山登り

北海道で暮らす自然が好きで、山登りやカヌーを楽しんでいるのんびり者です。
日々の自然や人との触合いを書いて行きます。

思い入れの落とし穴

2012-02-28 10:36:13 | 感想
 最近は考古学とアイヌの本を適当に選んで読んでいます。あまりに何も知らないのでどれを選んでも問題はないのですが学術書等は途中で放棄することも度々です。年を取ってからは記憶することを諦めています。ですからすべてが初めてと思えば新鮮な気持ちで接することが出来て楽しいこともあります。
 私がユーカラに嵌って色々と読んでいてずっと気に掛かっていたことがあります。
それはあの知里幸恵さん有名なオイナにもあるように、
 「金の滴が降る降る私の周りに、銀の滴が降る降る私の周りにと歌いながら私は」は明らかに宝と言う財産のことを題材としています。
その幸恵さんでさえアイヌ神謡集には
「その昔この広い北海道は私たちの祖先の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽のしく生活していた彼らは」で始まる美しい文章を残しています。
私も彼女と同じ思いで自由で身分の違いのない暮らし振りをイメージしていました。
ですから金の滴のような財産意識が生まれたのはつい最近の事と信じていました。

そこで巡り会ったのが瀬川拓郎氏の「アイヌの歴史」(海と宝のノマド)でした。
氏は現在旭川博物館学芸員 専門は日本考古学 と言うれっきとした考古学者です。
その氏が素人にも解りやすくアイヌに宝のと言う観念が生まれてどう身分制度が生まれたかを説明しています。
正に私の知りたいことでした。そしてそれは私がかってに夢想していたこととは違っていました。

縄文後期に周堤墓と呼ばれる大きな竪穴の周りに土を盛り上げた中に複数のお墓が発掘されています。
その一つに富良野市無頭川(ずなしがわ)遺跡の周堤墓があります。そのお墓からは沢山の石器が出土しています。この遺跡だけで2000点以上あってこの様な例は本州にはない事例なのだそうです。それで中央のお墓が首長では無いかと思われますが大きな身分の差と言えるものでは無かったようです。

それが続縄文になると様相が一変します。
明らかに首長と解るお墓からは数々の財宝と言われる品々が出土しています。この時代には完全に身分の差が出来上がっていました。
和人達と交易をして財産の観念が生まれると和人に隷属する前にアイヌがアイヌを使用人とする風習はもうこのころから出来ていたのです。

私があこがれた自由の天地を謳歌したアイヌは縄文時代で終っていたのです。
私は乙女のようなあまりな思い込みに真実を都合の良いように変えて見ていたのかもしれません。

よく解からん

2012-02-16 10:17:16 | 感想
貯金というのを長いこと預けておいて緊急の場合にのみ下ろすものだとばかり思っていた。

先日、国がいきなり10年以上使用していない貯金を使用すると言い出した。

私はそう言う決まりがあることさえ知らなかった。

自分のお金なのに遣わないからと云って勝手に取られる理不順な理屈がよく分からない。

私の知らない間に国や世の中はお金は使うもので貯めるものでは無いと決まっていたらしい。

しかし、多くの国民はそう思っているのだろうか。

特に老後を他人に面倒を掛けたくないと思う良識のある人間はその為の貯金をしているはずである。

国が財政に困ったからと云ってそのようなお金に手を付けて良いはずはない。

それでは「宵越しの銭は持たね~」と江戸っ子ばりの消費をした場合に万全の老後を送れるのだろうか。

そんなはずは無いのである何時の世でも最小限の保証となるものは用意しておくのが良識であろう。

まして、今国のあり方を明確に示せないでいる国家の状況であれば尚更であろう。

現実に世界で一番の赤字を持つ国がこれだけの信用を得ているのはひとえにそれに相当する金額の貯金があるからであろう。

それにさえ手を出さざる得ない状況だというのか、使用しないが為に確かに銀行の利益になっているだけのお金もあるだろう。

テレビのインタビューを受け答える庶民の多くは賛成だと言っている。

しかし、これは問題のすり替えではないだろうか。

他にしなければならない大切なことが沢山あるのに目の前の安易なお金に手を出すというを許す事になるのでは。

そこだけを質問するマスコミのありかたに大変な問題があると思う。

「蟻とキリギリス」の教えを親は私にこうしなさいとは言わなかったが自然に社会認識としてきた。

このことを今更違うと言われても私はキリギリスにはなれない。

少なくとも消費に関して少なからず罪悪感を持って生活しているからである。

欲しいものがあればお金を貯めてから買うのではいけないのであろうか。

今の子供は生まれた時から国や地方の借金を背負っている。

その上に自立すると同時に幾多のローンを背負い尚且つ、毎月パソコンや携帯電話の通信費を払うことになる。

これでは貯金どころか謝金のために未来の設計どころではなくなるだろう。

だからと云って私は若者に確かな指標を与える事は出来ない。

しかし、間違いなく今の世の中を作ってきた世代の人間には違いない。

どう責任の取りようもないがどうしても今の有り様は違うと思う。

だけどどうすれば良いかは解らない。




危険の匂いが

2012-02-07 16:46:04 | 感想
 最近よくテレビで太平洋戦争のCDのコマーシャルを見かけます。
可成りしつこくやっていますがあの少しだけ流れる映像を不気味な思いで見ています。
それにしても何故今なんだろうとか考えてしまう。特別な意図はないと思いますが…

日本が太平洋戦争に突入するきっかけの一つに2.26事件を挙げることが出来ます。
しかし、この事件が起きるきっかけは今と同じように政治が混迷していたことにあります。
あまりに不甲斐ない内閣に苛立った青年将校達が事件を起こすこととなったのでした。
それを世相は後押ししたような所があります。
現在も同じような世情ですから軍人が動くことはないにしても行動を起こしてくれる政治家が出れば応援するでしょう。
現実に橋本大阪市長のような方が国政に打って出れば大きく偏ることも考えられます。

昔からの日本人気質でしょうか知識人と言われる人でさえ先頭に立って片方向に押し進むところがあります。
議論下手の国民だから反対意見に耳を傾けることが悪であるかのようになってしまいます。
確かに今、日本は強硬な手段が必要な時だと考えます。しかし、それを任せるにはあまりにお粗末な政治家ばかりです。

民主党の代議士の数々の失言やGKB47のネーミングにしても自民党の石原議員の発言(植物人間の管を見てエイリアンと言ったこと)にしてもその職責以前の人としての思いやりに欠けています。
彼らの仕事は日本を守ること延いては日本人を守る事だあるはずです。その人達が人間を良く理解していないのでは人を幸せに出来る筈はないのです。

日本はそんな情けない国ではないはずです。
これほどの民度の高い国もないはずです。
何れ立ち直ると確信しています。
それでも早く方向を示してくると良いのですが。
そうなれば幾らでも辛抱することも可能です。

信じ方の問題か

2012-02-05 11:19:58 | 感想
昨日、ピンポーンの音にドアを開けるとそこに二人の若い男性が立っていました。

見るからにお決まりの宗教の勧誘スタイルです。

「士別市の末日聖徒から来ました。」と確かに言ったようです。

どの様な字を書くのか解らなかったが一人が外国人のようだからキリスト系の団体とは想像したのだが。

当地に無い団体であるならどんな宗教か知りたくなり何度か確認したらどうやらモルモン教が名称を変えたようだった。

確か当地にもあったはずだがその辺のことを尋ねると彼らは短い期間で交代するから解らないようだ。

私は先祖代々の仏様を預かっているので変更は出来ない旨を話し帰って貰った。

それども小さなパンフを置いていったので一応は読んでみた。

私は無信教のくせに宗教が好きなのです。

で、何時も感じることですが私は「終末思想が嫌いです。」

どの宗教にもあります。それをどう扱うかはそれぞれのようですが殆どが大前提のようです。

私は地球上のことですから何れそれはあると思います。

しかし、だからその時に自分だけ助かりたかったらどうすれば良いかを問うのはお門違いな話と思ってしまう。

この手法は悪質な販売業者が使う方法と同じなのです。相手の弱い部分を脅してからこちらの話に引き込むのですから。

それが宗教の場合は死んでからのことですか尚更悪質とも言えます。

その為に生きている間は色々な制限をクリアしなければ駄目だと言う。

これは逆なのではないかと私は思うのだが、今を大切に生きる為に守らなければならない制約が生まれてくるのだと。

おそらく基本はそうなのであろうが私の偏見でどうしてもその様な見方をしていまう。

と云うのは人はどうしても私だけは私の子供だけはと行動する生き物であるのだからやむを得ないのである。

どうきれい事を並べてもこの本能からは逃れられない事だけは自覚しておいた方がよいだろう。

てっきり、漁師言葉と思っていた。

2012-01-28 20:36:58 | 感想
杉村キナラブックさんのオイナを録音筆記している大塚一美氏がフチとの対談も著書に載せている。
その中にウサギの事を氏がキナフチに尋ねている会話が載っている。
氏はアイヌ語辞典の動物編を開いて質問する。
「ウサギは神語なので、沙流では六つの国のあると云うそうだが」
「顔がそうだべ」
「静内の方では海に立つ白波を兎が跳ねるのと同じなので、沖では折って(カイクマ)火にくべる木と言うそうだが。」
「カイクマは柴だべ、浜のことは知らない」
「白老では二つ耳付いてると言うそうだが」
「あたりまえだべや。」

会話はもう少し続くのだが概略はこんなところである。
キナフチは内陸育ちなので海など見たこともない。
しかし、兎のことは知っている。
遠い町の海の話をされて「知らない」と一蹴したようだ。
知っていることと知らないこと明白に答えているのは性格なのかしっかりした方の様だ。
その海の村での話だが少し離れた村ながら白波のことを同じような解釈をしている。
私は釣り好きな友達に連れられて海へ行った時に海が荒れていると兎が跳んでいると教えられた。
この情緒豊かな表現がアイヌ語から来ていると思うと納得した。