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ゆったり山登り

北海道で暮らす自然が好きで、山登りやカヌーを楽しんでいるのんびり者です。
日々の自然や人との触合いを書いて行きます。

思い込みだった?

2012-05-25 12:54:13 | 感想
 金田一京助氏に関して以前に少しだけ述べたたことがある。氏の人間性に少なからず疑問がある旨の内容だった。
それでも学問でアイヌ文化に寄与したのであれば良しとするべきとの結論であった。

しかし、ここのところアイヌのフチの自伝などを読んでいると果たして本当に学問に熱心な研究の徒であったのか疑問が出てきた。
まずは杉沢クラフチの自伝の中で幸恵さんの東京での死亡の無念。これは幸恵さん自身が書いた文の中で金田一氏に言われて書いて送ったユーカラを氏が紛失してしまったこと。その為に上京せざるえなくなった事情。
クラフチの母親、ムイサシマットフチのユーカラを録音していながら記録が失われた事実。

学問をする立場から考えてもあまりに資料に関する扱いが杜撰すぎる。

そして、また人間性の問題になるが、
これは金田一氏が監修した「金成まつユーカラ集」で氏自身が書いていることなので間違いないことだが。
氏が始めて金成まつフチに近文で会った日のことを書いている。その日も遅くなったので帰りの交通機関も無いので泊りを勧めながらも金田一に粗末な食べ物の心配をしているので自分はジャガイモで大丈夫と言った寛容さを自慢している。
そして朝、起きてから三人(まつフチと母親と幸恵さん)が何処で寝たのかを何回も尋ねて聞き出したことを自慢している。
文章に書かれていない部分を読み取れば女三人暮らしの所に泊まり込み三人が土間で座って夜を過ごしたのである。それも年寄りとまつフチは子供の頃に怪我をして松葉杖の生活をしているのである。寝る部屋が一部屋しかないのが解らない筈は無くそれを書く訳にも行かなかったのだろう。
彼女達はあくまでも善意でしたのだからそれに対して感謝の強要をするものでは無い、が少しは言葉にして欲しかったものである。

幸恵さんが志半ばで亡くなってその後を継ぐべく教会を退職後上京して金田一氏の為にユーカラを伝えようとしてしたのだが十日過ぎても氏が忙しくて何しないでいた。そこでまつフチ自身でノートに書き進み現在の膨大なユーカラ集が残ることになった。

ではアイヌ文化にとって金田一と言う男は何だったのか。
氏の自伝にはこう書かれている。「アイヌは野蛮人だ」これが本音であったのだろう。
だからアイヌから受けた沢山の好意が伝わる訳はなかった。

だったら何故私は偉い人だと思っていたのだろうか。
それは三省堂の国語辞典を作った人だからだった。

そこで氏の事跡を調べてみた。
なんとあれだけ国語辞典に名前があるのに一つも監修に関係していなかったらしい。
それを息子(春彦)さんは「父は人が良かったから」誰にでも名前を貸したと言っている。
本当にそんな問題なのか岩波の辞書は見坊豪紀氏が作製したのだが教授である金田一氏の名前を付けざる得なかったのが事実とか。

結局、世に残る本人の研究成果はよく分からなかった。

やはり

2012-05-18 17:07:12 | 感想
 今、鈴木光司氏の「鋼鉄の叫び」を読んでいます。
鈴木氏と云えばリンクのような怪奇小説をイメージしてしまいがちですがこの本を読んで見るとまったく勘違いしていたことに気付きます。

話の内容はと云えば
主人公はテレビ会社のデレクター。戦後60年の記念番組の構想として心に秘めた思いがありました。
それは父親の戦時の思い出話の中に出てくる命恩人からの思い付きでありました。

現在、過去に関しても日本人の特徴として一方向に向かうと全員が同じ方向に向かう国民性がありそれに危険を感じている。
そこで果たして戦時に特攻隊であり自身の意志で帰って来た人物がいるかどうかに期待してその様な人物を捜します。
そして、その人物を捜し当てます。偶然にもその人は父親を助けた人物でした。

その人物の回顧録の中で特攻に関して疑問を持ちながら自身の本当の心を探して結局、見つかった言葉が学生時代に読んだニーチェの「肉体を信じることは、精神を信じることよりも、ずっとしっかりした根拠を持っている」の言葉でした。

私も常々、死ぬまで生きる努力をすることを方針にしています。しかし、機械などでは生きていたくはありません。
やはり他の動物を見ても最後までは生きる努力をしています。それが自然のような気がします。

棄民

2012-03-24 08:18:49 | 感想
 私の待ちにはかって「東京疎開」と云われた開拓者が住んでいた地がある。たまに訪れるのだがこんな狭いところでよく生活していたものだと行くたびに感心する。そして、日本の景気が良くなるにつれ殆どの人は町に仕事を見つけて離れてしまった。
彼らは戦争で家を焼かれその後、生活の場が無くなり国の政策に従って北海道にやってきたのだ。
何の縁故も土地も仕事もなければそこえ帰ることさえ出来ない。従って自然とその地に住み続けることになる。
今の東北の人達にも同じ事が起こるであろうことは推察できる。

何処の国も昔からは意識しているかどうか解らないが時々それを承知で行ってきた。
これが国外であればどうなるのか。
「棄民政策」という言葉何処にも見あたら無い。が、時の政府と役所と経済界が意識して行っていたとしたらこれは間違いなく政策と言えるだろう。
国家は国民感情とは別なところで判断を下すものなのである。

やはり、戦後日本の国は日本人を希望という見せかけの荷物を持たせてブラジルに多くの若者を送り込んだ。
一種の人減らし政策だと言う説があるが戦争で失われた多くの若者の代わりになる働き手を他の国に出すものだろうか。
そこが私に解らない。もし、政策だと言うのであればあまりにお粗末ではないのか。
戦争の責任者でもある世代がまたも戦後になって若者を他国の無益な労働にかり出したことになる。

私が何故今頃になってこんな事を言い出したか。最近、始めてその実態を知ったからだ。
単純に野心を持った連中が成功を夢見て旅立ったのだと。確かにその一面はある。
しかし、国家事業というのであれば移住先での開墾の可能性、バックの体制等を相手国と協議しているべきであろう。
ところが開墾地は強酸性と言う赤土地帯で尚且つ雨季には土地が川に飲み込まれる所なのである。
地元の人間でさえ行かない土地に入った日本人を彼らは「アマゾン牢人」と呼んでいた。
彼らには牢屋に等しい土地であったのだ。それも逃げることの出来ない「意地」と云う鎖の為に。
殆どの人達がマラリヤ等の風土病で亡くなったという。土地を離れた人達も町で野垂れ死にをしたのである。
その人達は戦争という国難を無事に生き残った若者達なのだ。
それをむざむざ死に追いやるような政策を国が取ったのだ。
そしてこの責任を誰も取っていない。何故ならそれが国の意志だったからである。

国家とは意識せずに時々この「棄民」を行っている。
今、アメリカには職が無い若者が溢れている。彼らは言う「しかないから軍隊に入る」と国は期せずして若い軍人を手に入れることが出来た。これは本当に偶然なのかと深読みをしたくなる。

地球上の生命体は種を存続させる為に弱者を犠牲にするように出来ている。
しかし、人間の場合はこれとは違った理由のように思える。
人類という「種」を守るのではなく「個」という狭い範囲の保守としか思えない。


神の限界

2012-03-22 06:42:25 | 感想
 昨夜はドラマ相棒での神戸尊との最終回を見た。
前宣伝で重いテーマであることを話していたのでどんな内容でどうこなすかを楽しみにしていた。
「人間のクローン」がテーマであった。確かに重い内容でありドラマの進行もそれに応じたシリアスな雰囲気であった。
それに加え何時もの政治判断と云う複雑な内容も含んで面白さを増していた。
矢張り期待を裏切らないドラマ運びにワクワクドキドキしながら終わりを迎えた感があった。
やはり劇中での会話にもあったように「神への冒涜」ではないかが本題であろう。

 推理ものでは少ない命題かもしれないがSFものではお馴染みである。
映画の題名は忘れたがこんな内容のもを思い出した。
ある大きな施設に主人公の男性がいた。そこでは沢山の男女が普通に生活していた。ただ年寄りはいなかった。そしてそこでは突然に抽選があり結果を発表する。それに当たると表の世界に行けるので周りの友人に祝福されて施設の出るのである。
ところが主人公は事実を疑い一人で施設を抜け出すとそこは砂漠の真中にあった。そこで自分が行く予定だった家になんとか辿り着きく。
そしてそこには自分と同じ顔をした人物がいることを知る。そこで自分が彼のクローンであって彼の為に育てられ彼の病気の部分を提供する為にだけ造られたことを知るのである。
結末は主人公が親主を殺して入れ替わるというシニカルな終わり方をしていた。
これもやはり「神への冒涜」を命題にしていると思う。

しかし、何故何時もここで必ず神の意志を訪ねる方法をとるのか疑問に思う。
ここで言う神とはどんな存在なのかと…
地球上の生命体は本来は植物連鎖で成り立っているものであろう。
それは連鎖である以上は繋がった円形でなければならない。ところが現在この円形は端が切れた状態にある。
何故かそれは人間が連鎖の端にあって唯一、他の生命体の為に生命を使用していない存在だからだ。
では人間はどう考えたか。それは自分達をピラミットの頂点的存在と考えた。だから他の生命体からは与えらるだけで良いことになる。

 神は人間だけの為にある。が結論である。そしてそれが「神の限界」なのである。
そうでなければ他の生命体の遺伝子を変えた時点で本来あるべき姿を冒涜しているからだ。
それどころか本来地球上にあるはずのない物を作り出しその過程ですでに自然界を変化させ尚且つ自分達で操作も出来ない物質まで作っていまった。

人間の存在自体に問題があってもう自身の力でコントロールできなのではないだろうか。
人間のエゴが無くならない限りにおいて近い将来「人間のクローン」は作られであろう。
キリスト教は皮肉にも「原罪」を説いているが全くその通りだとしか言いようがない。
返って古代の宗教の方が人間の在り方としての真実を見抜いていたのかもしれない。

ステップファーザー・ステップ

2012-03-13 06:59:52 | 感想
 毎週月曜日夜8時からの1時間場組 原作宮部みゆき
(継父)と訳すそうだ。
みゆき氏の作品はすべて読んでいると思っていたのにテレビの予告編の原作を見てショックだった。
それくらい好きな作家なのに。私の知らない間にこそっと書きやがっての感があった。
しかし、予告編を見る限りみゆきワールド満点のようだったので楽しみにしていた。

案の定、予想通りの楽しい構成には原作を読んでいない私にとって最高の出来だった。
まず、俳優が適訳であった。俺役の上川隆也の渋さ加減がよい。宗野哲、直の双子も良い。
灘尾礼子役の小西真奈美さんがちょっと小作りな顔が気に入らなかったが少々きつい教師役を考えれば納得した。
そして一番の適役が柳瀬豪遊役の伊東四朗さんだろう。いい加減な弁護士にはうってつけの役所だった。
私は今まで小説を原作とした映画なりドラマには期待を散々に裏切られてきた。
それが小説とは違った演出が必要だからやむを得ない事情であることは理解できる。
その分を割引したにしても作者の本意を変えてまでも観客を意識しすぎた演出が稚拙すぎた。
だからこのドラマが面白いのはみゆき氏の作品がドラマに適していたのだろうと考えていた。

ところが私は最終回を残して原作を読んでしまった。
なんとやはり原作とは違うではないか。それも構成や年齢設定、おまけに原作にいない人物を沢山出演させている。
秋山ナオや脇坂などは原作にはいないのだ。それがドラマでは微妙にはまり役で脇をしっかり固めている。
原作にはみやべ氏流の洒脱な面白さがあってやはりみゆきさんだと安心させて貰った。
しかし、テレビドラマが原作を超えたような錯覚を覚えたのは事実でこれは演出家の力量の差だったのだろうか。
兎に角、原作にはなかった最終回も期待したい。