金田一京助氏に関して以前に少しだけ述べたたことがある。氏の人間性に少なからず疑問がある旨の内容だった。
それでも学問でアイヌ文化に寄与したのであれば良しとするべきとの結論であった。
しかし、ここのところアイヌのフチの自伝などを読んでいると果たして本当に学問に熱心な研究の徒であったのか疑問が出てきた。
まずは杉沢クラフチの自伝の中で幸恵さんの東京での死亡の無念。これは幸恵さん自身が書いた文の中で金田一氏に言われて書いて送ったユーカラを氏が紛失してしまったこと。その為に上京せざるえなくなった事情。
クラフチの母親、ムイサシマットフチのユーカラを録音していながら記録が失われた事実。
学問をする立場から考えてもあまりに資料に関する扱いが杜撰すぎる。
そして、また人間性の問題になるが、
これは金田一氏が監修した「金成まつユーカラ集」で氏自身が書いていることなので間違いないことだが。
氏が始めて金成まつフチに近文で会った日のことを書いている。その日も遅くなったので帰りの交通機関も無いので泊りを勧めながらも金田一に粗末な食べ物の心配をしているので自分はジャガイモで大丈夫と言った寛容さを自慢している。
そして朝、起きてから三人(まつフチと母親と幸恵さん)が何処で寝たのかを何回も尋ねて聞き出したことを自慢している。
文章に書かれていない部分を読み取れば女三人暮らしの所に泊まり込み三人が土間で座って夜を過ごしたのである。それも年寄りとまつフチは子供の頃に怪我をして松葉杖の生活をしているのである。寝る部屋が一部屋しかないのが解らない筈は無くそれを書く訳にも行かなかったのだろう。
彼女達はあくまでも善意でしたのだからそれに対して感謝の強要をするものでは無い、が少しは言葉にして欲しかったものである。
幸恵さんが志半ばで亡くなってその後を継ぐべく教会を退職後上京して金田一氏の為にユーカラを伝えようとしてしたのだが十日過ぎても氏が忙しくて何しないでいた。そこでまつフチ自身でノートに書き進み現在の膨大なユーカラ集が残ることになった。
ではアイヌ文化にとって金田一と言う男は何だったのか。
氏の自伝にはこう書かれている。「アイヌは野蛮人だ」これが本音であったのだろう。
だからアイヌから受けた沢山の好意が伝わる訳はなかった。
だったら何故私は偉い人だと思っていたのだろうか。
それは三省堂の国語辞典を作った人だからだった。
そこで氏の事跡を調べてみた。
なんとあれだけ国語辞典に名前があるのに一つも監修に関係していなかったらしい。
それを息子(春彦)さんは「父は人が良かったから」誰にでも名前を貸したと言っている。
本当にそんな問題なのか岩波の辞書は見坊豪紀氏が作製したのだが教授である金田一氏の名前を付けざる得なかったのが事実とか。
結局、世に残る本人の研究成果はよく分からなかった。
それでも学問でアイヌ文化に寄与したのであれば良しとするべきとの結論であった。
しかし、ここのところアイヌのフチの自伝などを読んでいると果たして本当に学問に熱心な研究の徒であったのか疑問が出てきた。
まずは杉沢クラフチの自伝の中で幸恵さんの東京での死亡の無念。これは幸恵さん自身が書いた文の中で金田一氏に言われて書いて送ったユーカラを氏が紛失してしまったこと。その為に上京せざるえなくなった事情。
クラフチの母親、ムイサシマットフチのユーカラを録音していながら記録が失われた事実。
学問をする立場から考えてもあまりに資料に関する扱いが杜撰すぎる。
そして、また人間性の問題になるが、
これは金田一氏が監修した「金成まつユーカラ集」で氏自身が書いていることなので間違いないことだが。
氏が始めて金成まつフチに近文で会った日のことを書いている。その日も遅くなったので帰りの交通機関も無いので泊りを勧めながらも金田一に粗末な食べ物の心配をしているので自分はジャガイモで大丈夫と言った寛容さを自慢している。
そして朝、起きてから三人(まつフチと母親と幸恵さん)が何処で寝たのかを何回も尋ねて聞き出したことを自慢している。
文章に書かれていない部分を読み取れば女三人暮らしの所に泊まり込み三人が土間で座って夜を過ごしたのである。それも年寄りとまつフチは子供の頃に怪我をして松葉杖の生活をしているのである。寝る部屋が一部屋しかないのが解らない筈は無くそれを書く訳にも行かなかったのだろう。
彼女達はあくまでも善意でしたのだからそれに対して感謝の強要をするものでは無い、が少しは言葉にして欲しかったものである。
幸恵さんが志半ばで亡くなってその後を継ぐべく教会を退職後上京して金田一氏の為にユーカラを伝えようとしてしたのだが十日過ぎても氏が忙しくて何しないでいた。そこでまつフチ自身でノートに書き進み現在の膨大なユーカラ集が残ることになった。
ではアイヌ文化にとって金田一と言う男は何だったのか。
氏の自伝にはこう書かれている。「アイヌは野蛮人だ」これが本音であったのだろう。
だからアイヌから受けた沢山の好意が伝わる訳はなかった。
だったら何故私は偉い人だと思っていたのだろうか。
それは三省堂の国語辞典を作った人だからだった。
そこで氏の事跡を調べてみた。
なんとあれだけ国語辞典に名前があるのに一つも監修に関係していなかったらしい。
それを息子(春彦)さんは「父は人が良かったから」誰にでも名前を貸したと言っている。
本当にそんな問題なのか岩波の辞書は見坊豪紀氏が作製したのだが教授である金田一氏の名前を付けざる得なかったのが事実とか。
結局、世に残る本人の研究成果はよく分からなかった。