昨日思いついて、早速描いてやっぱり顔がキモくなった家族写真の天然色版。
目がね、どうしてもキモいので、アニメっぽくしようと思ったんだけど、それもできなかった(爆)
とりあえずこれはこれで。なんで、目だけ描けないんだろう。顔にとっていのちなのに。
昨日の写真と比べないでね。私と母の洋服は、ほぼ間違いないと思うんです。
まあ、描こうかなと思うこと自体が素晴らしい事だということで、勘弁してもらう。
そんな昨日、弟のFBを見て驚いたのは、弟が「生まれてきてよかった」という言葉を書いていた事。
よい話ばかりではなく、弟と父には長い間確執がありました。
娘と父親、息子と父親では、その関係にも違いがあるでしょう。
しかし、最期の頃は、時間を惜しんで父を訪ね、長い時は半日以上もそばに寄り添ってくれました。
私に聞いて、父の好きだった音楽やYouTubeを流したり、ビデオ通話でつなげてくれたり。
そして、最期の息は弟が見届けました。
コロナじゃなかったら、私は父の臨終に立ち会えることができたのでしょうが、その場に私がいたら、今の弟の意識は違ったものになっていたかもしれないな、と感じます。
弟はこれまでの人生で初めて、心から父に寄り添える時間を持てたのだろうと。
それは、男として突っ走ってきて、今も戦い続けている弟が、父と、そして自分と向き合える、安らかな時間だったのだろうと。
そんな弟に、この素晴らしい季節が寄り添ってくれて、空も花も虫も蛇も、すべての命が愛おしく感じ、生まれてきてよかった、と思わせてくれる。
すっかりおじさんになった弟ですが、私にとってはいつまでも弟。
そんな風な気持ちになれた事は、姉として本当にうれしいことです。
先日書いたように、私はまだ「うまれてきてよかった」の域には到達していませんが、弟がそんな風に感じていると知り、色々あったけど、父や母が私たちをこんな風に育ててくれたのだなと感謝しました。
最期の時間を父と息子が二人で過ごせたことは、神の計らいだと思います。
何度も言いますが、ここで使う「神」というものは、ジーザスのことではないです。
投稿には、あのエドヒガンが葉桜になった写真を添えていましたが、他人の画像は使えないので、以前私が撮ったものを探してきました。
いまより少し季節が進んだ時の物だったかなと思います。
父が亡くなった日のエドヒガンの夜桜を見上げて、なんと微笑んでいる私。
だって、父が見せてくれた素晴らしい景色だったのですから。
ライトアップは、この翌日で終了の予定だったようです。
翌日は通夜で見に行くことは出来ませんでしたから、父はすごいよ、やっぱり。
きっと一緒に見たよね。ありがとう。
生まれてきてよかったと思えることは、最高のしあわせですね。
俺が私が、ではなくて、命というものの尊さに気づく事だと思うから。
ご訪問いただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫