蕪と葱とジャガイモと鶏肉とえのきとしめじを適当に切って、塩を少し入れて、ごま油で汗をかかせるように炒める。
水と和風顆粒だしを入れてぐつぐつ。
冷蔵庫の中に野菜がたくさんあったので、着地地点を見通さないまま始めたただの煮込み。
ついでに言うと、全然お腹は空いていない。
とてもお腹が空いているとき、多少時間がかかる煮込み料理は作らない。
待てないからだ。
そんなときは、10分でできるお味噌汁か、焼きうどんか焼きそばか、ときどきよく分からない感じのちぢみやお好み焼きも作る。
だから煮込み料理は、たいてい深夜も深夜に煮込むことになる。
明日のブレックファストのために。
何の気なしにごま油と和風顆粒だしを入れてしまったけれど、ぐつぐつ沸いている表面の灰汁をとりながら、おそらく牛乳を入れるとおいしそうだ、と思った。
けれどあいにく牛乳は切らしていた。
味噌を入れることにする、いつもの赤ではなくて、一応ある白。
スプーンで山盛り味噌をすくって、スープに溶く。
赤味噌はもろもろと溶けていくのだけれど、白味噌はしなやかに溶けていく。
如何せんお腹が空いていないので味見も気が進まない。
まあ明日調整すれば良いかと、一旦完成とする。
結局、名前としては定番のお味噌汁が、カレーで言うところ4皿分くらい、小さな鍋いっぱいにできた。
ただ白味噌のお味噌汁は私にとって全然定番ではない。
澄まし汁やけんちん汁やコンソメスープのような、味噌汁ではない「別のスープ」扱い。
名付けて、具だくさんすぎる白味噌汁スープ。
白味噌汁スープ。
最近、何か表現物が持つ“ニュアンス”についてよく考えていて、なぜかその説明しがたい“ニュアンス”に重きを置くようになっている。
“ニュアンス”、“テクスチャー”、“雰囲気”、あと“香り”とか。
どうにもこうにも説明が付かない、全体感として醸される“何か、それ”。
“それっぽい”ということ。
意味がありそうでなさそうで、ありそうでなさそうな。
これまで私は自分の中では、圧倒的に記号としての言葉やその意味を重んじてきた。
それに支配されてきたと言ってもいい。
ミュージシャンが時々、「歌詞に意味なんてない」と発言することがあると思うけれど、私はそれを「そんなの全くの嘘だ」と思ってきた。
作詞者の意図が正しく伝わらなかったとしても、極端に言えば少なくとも作詞者はすべての言葉を事細かに背負っている、というような見方をしてきた。
作詞者の紡ぐ言葉に完全な意味があると信じたかったのかもしれない。
しかしながら、「歌詞に意味なんてない」というのは、あながち嘘でもないのかもしれない、と最近よく思う。
もちろんそれは極論だし、全部の歌詞に意味なんて全くない、なんてことも到底あり得ないけれど、ある程度言葉がどうでも良い領域というのが音楽にはあるんだろうなと思う。
というか、作詞者本人であっても、言葉通りに全く正しいもの、を描くことは多くの場合困難であろうと思う。
まあだから音楽を借りるのだろうし。
音楽の付いていないポエムだったとしても、それを発音したときの音やリズムや、見た目の行間、一見関わりのなさそうな言葉のイメージの連想など、そんなものが全体の“ニュアンス”を司っていることもあるだろう。
そして私自身、書で何かを表現しようとしたら、その“ニュアンス”や“それっぽさ”を滲ませたいと思っている。
全然掴み切れない、言い表せない“ニュアンス”というものの存在を、音楽でも音楽以外でも最近よく目の当たりにするのである。
というか、私が言っている“ロックンロール”の瞬間というのも、考えてみればこの“ニュアンス”から起こされていたことは明らかである。
それは確かに、そうなのである。
「カイジ」の第1シーズンを読み終えたと思ったら、同じ福本伸行さんの漫画 「天」を貸し出された。
こんなに言いたいことが恐ろしいほど的確な言葉になっているこの漫画でさえも、なんだかその言葉の上位にある“ニュアンス”をとても感じてしまうのである。
この一連の話を、私はたぶん知識としても体感としても知っていたのだけれど、よく分かってなかったのだなと思う。
今思うと、そりゃそうだ、という当然さに満ちている感じもする。
ただ、説明しがたい“ニュアンス”という言葉に頼り過ぎて思考を止めてしまうこともまた好ましくない、と一歩戻しておくことにする。
行かないでと言わせてお願い冬の昼

水と和風顆粒だしを入れてぐつぐつ。
冷蔵庫の中に野菜がたくさんあったので、着地地点を見通さないまま始めたただの煮込み。
ついでに言うと、全然お腹は空いていない。
とてもお腹が空いているとき、多少時間がかかる煮込み料理は作らない。
待てないからだ。
そんなときは、10分でできるお味噌汁か、焼きうどんか焼きそばか、ときどきよく分からない感じのちぢみやお好み焼きも作る。
だから煮込み料理は、たいてい深夜も深夜に煮込むことになる。
明日のブレックファストのために。
何の気なしにごま油と和風顆粒だしを入れてしまったけれど、ぐつぐつ沸いている表面の灰汁をとりながら、おそらく牛乳を入れるとおいしそうだ、と思った。
けれどあいにく牛乳は切らしていた。
味噌を入れることにする、いつもの赤ではなくて、一応ある白。
スプーンで山盛り味噌をすくって、スープに溶く。
赤味噌はもろもろと溶けていくのだけれど、白味噌はしなやかに溶けていく。
如何せんお腹が空いていないので味見も気が進まない。
まあ明日調整すれば良いかと、一旦完成とする。
結局、名前としては定番のお味噌汁が、カレーで言うところ4皿分くらい、小さな鍋いっぱいにできた。
ただ白味噌のお味噌汁は私にとって全然定番ではない。
澄まし汁やけんちん汁やコンソメスープのような、味噌汁ではない「別のスープ」扱い。
名付けて、具だくさんすぎる白味噌汁スープ。
白味噌汁スープ。
最近、何か表現物が持つ“ニュアンス”についてよく考えていて、なぜかその説明しがたい“ニュアンス”に重きを置くようになっている。
“ニュアンス”、“テクスチャー”、“雰囲気”、あと“香り”とか。
どうにもこうにも説明が付かない、全体感として醸される“何か、それ”。
“それっぽい”ということ。
意味がありそうでなさそうで、ありそうでなさそうな。
これまで私は自分の中では、圧倒的に記号としての言葉やその意味を重んじてきた。
それに支配されてきたと言ってもいい。
ミュージシャンが時々、「歌詞に意味なんてない」と発言することがあると思うけれど、私はそれを「そんなの全くの嘘だ」と思ってきた。
作詞者の意図が正しく伝わらなかったとしても、極端に言えば少なくとも作詞者はすべての言葉を事細かに背負っている、というような見方をしてきた。
作詞者の紡ぐ言葉に完全な意味があると信じたかったのかもしれない。
しかしながら、「歌詞に意味なんてない」というのは、あながち嘘でもないのかもしれない、と最近よく思う。
もちろんそれは極論だし、全部の歌詞に意味なんて全くない、なんてことも到底あり得ないけれど、ある程度言葉がどうでも良い領域というのが音楽にはあるんだろうなと思う。
というか、作詞者本人であっても、言葉通りに全く正しいもの、を描くことは多くの場合困難であろうと思う。
まあだから音楽を借りるのだろうし。
音楽の付いていないポエムだったとしても、それを発音したときの音やリズムや、見た目の行間、一見関わりのなさそうな言葉のイメージの連想など、そんなものが全体の“ニュアンス”を司っていることもあるだろう。
そして私自身、書で何かを表現しようとしたら、その“ニュアンス”や“それっぽさ”を滲ませたいと思っている。
全然掴み切れない、言い表せない“ニュアンス”というものの存在を、音楽でも音楽以外でも最近よく目の当たりにするのである。
というか、私が言っている“ロックンロール”の瞬間というのも、考えてみればこの“ニュアンス”から起こされていたことは明らかである。
それは確かに、そうなのである。
「カイジ」の第1シーズンを読み終えたと思ったら、同じ福本伸行さんの漫画 「天」を貸し出された。
こんなに言いたいことが恐ろしいほど的確な言葉になっているこの漫画でさえも、なんだかその言葉の上位にある“ニュアンス”をとても感じてしまうのである。
この一連の話を、私はたぶん知識としても体感としても知っていたのだけれど、よく分かってなかったのだなと思う。
今思うと、そりゃそうだ、という当然さに満ちている感じもする。
ただ、説明しがたい“ニュアンス”という言葉に頼り過ぎて思考を止めてしまうこともまた好ましくない、と一歩戻しておくことにする。
行かないでと言わせてお願い冬の昼

