「うち、狭いんだよね」というセリフはよく聞く。
私も1年半前くらいまでよく言っていた。
最近私はよく「うち、広いんだよね」と言っていることがあって、ふと気が付く。
「うち、広いんだよね」というのは東京ではあまり聞かない。
実際40平米あって、とても縦長のスペースが玄関を開けた途端に迎えるので「広い!」という感じがある。
まあ確かに狭いより広い方がいいのだけれど、寒いとか、閉め切れないとか、掃除が大変とか、音楽が散るとか、そんなことはある。
でも、やっぱりそれらを加味しても広い方がいい。
確かに一人暮らしにしては贅沢すぎる広さだけれど、ここでないと私は今の少しの書道の仕事は始めることも発想できなかっただろう。
とにかく広さを求めて、1か月半ほど、土日を全て使って予算少しだけ超えるくらいの家賃で掘り出した。
引っ越して1年半と、今書いていて、そう言えばここは通常必ずある2年スパンの更新料がないことを改めて思い出す。
身に迫ってくると、途端にそのことのありがたみが増す。
しかし逆に、身に迫らないとそんなことは思い出せもしない。
建物が古いから、この1年半の間にも、いきなり停電したり、入り口のドアがきちんと閉まらなくなったりしている。
それらは早急に対処されたけれど、これから致命的な何かが起こらないといいなと思う。
出先のカフェで俳句を作る。
言葉遊びの新鮮さを求めるという点において、やはり家よりは出先で作った方が良いなと思う。
最近は俳句に使えそうな単語やフレーズは都度メモをしていたりするけれど、実際にどこか新しい場所であたりを見回せば、自ずと新鮮な単語が目について発想が膨らむ。
私は想像力に富んでいる方ではなく、その場の雰囲気、その時の気持ち以外のものを発想することが下手だ。
まあ多かれ少なかれみんなそういうものだとは思うけれど。
ルノアールは机も空間も広いから、何かを書いたり広げたりがとてもやりやすい。
しかしルノアールばかりで作っていたら俳句に煙草の匂いが染み付いたものがばかりができそうである。
それに、新しい空間、というのが発想元として重要なのであればカフェという大きな括りもいずれ使えなくなる。
あとやっぱり日常的な筋トレは本当に重要なことだなと実感する。
あるタイミングでは、筋トレそのものが上手くなったりもする。
師匠がよく使う句またぎへの憧れもちょっとできるようになってきた。
また、何かを作ろうと思ったらまとまった時間と手間をかける必要がある。
ポッと浮かんでくるのなんて、頻度的に1年に1回あればいい方で、いやポッと浮かんできたってそれを形にまとめ上げるのには時間と手間が要る。
手をかける、というのはそのものに対する愛情だな、としみじみ思ったりする。
8時に起きる、8時に起きる、と念じながら5時に寝ると当然ながらよく眠れない。
帰宅して、本物の昼の時間にお昼寝をしたりして、しかしながら本格的に寝るわけではないので、身体はしゃっきりとはしない。
自律神経が強靭なことのが私の健康を司っていると思われるが、これを続けているとさすがに自律神経がおかしくなりそうである。
また逆に、自律神経が強いことがある面においての私の枷になっているような気もしている。
短日に明日と歩きたい公園

私も1年半前くらいまでよく言っていた。
最近私はよく「うち、広いんだよね」と言っていることがあって、ふと気が付く。
「うち、広いんだよね」というのは東京ではあまり聞かない。
実際40平米あって、とても縦長のスペースが玄関を開けた途端に迎えるので「広い!」という感じがある。
まあ確かに狭いより広い方がいいのだけれど、寒いとか、閉め切れないとか、掃除が大変とか、音楽が散るとか、そんなことはある。
でも、やっぱりそれらを加味しても広い方がいい。
確かに一人暮らしにしては贅沢すぎる広さだけれど、ここでないと私は今の少しの書道の仕事は始めることも発想できなかっただろう。
とにかく広さを求めて、1か月半ほど、土日を全て使って予算少しだけ超えるくらいの家賃で掘り出した。
引っ越して1年半と、今書いていて、そう言えばここは通常必ずある2年スパンの更新料がないことを改めて思い出す。
身に迫ってくると、途端にそのことのありがたみが増す。
しかし逆に、身に迫らないとそんなことは思い出せもしない。
建物が古いから、この1年半の間にも、いきなり停電したり、入り口のドアがきちんと閉まらなくなったりしている。
それらは早急に対処されたけれど、これから致命的な何かが起こらないといいなと思う。
出先のカフェで俳句を作る。
言葉遊びの新鮮さを求めるという点において、やはり家よりは出先で作った方が良いなと思う。
最近は俳句に使えそうな単語やフレーズは都度メモをしていたりするけれど、実際にどこか新しい場所であたりを見回せば、自ずと新鮮な単語が目について発想が膨らむ。
私は想像力に富んでいる方ではなく、その場の雰囲気、その時の気持ち以外のものを発想することが下手だ。
まあ多かれ少なかれみんなそういうものだとは思うけれど。
ルノアールは机も空間も広いから、何かを書いたり広げたりがとてもやりやすい。
しかしルノアールばかりで作っていたら俳句に煙草の匂いが染み付いたものがばかりができそうである。
それに、新しい空間、というのが発想元として重要なのであればカフェという大きな括りもいずれ使えなくなる。
あとやっぱり日常的な筋トレは本当に重要なことだなと実感する。
あるタイミングでは、筋トレそのものが上手くなったりもする。
師匠がよく使う句またぎへの憧れもちょっとできるようになってきた。
また、何かを作ろうと思ったらまとまった時間と手間をかける必要がある。
ポッと浮かんでくるのなんて、頻度的に1年に1回あればいい方で、いやポッと浮かんできたってそれを形にまとめ上げるのには時間と手間が要る。
手をかける、というのはそのものに対する愛情だな、としみじみ思ったりする。
8時に起きる、8時に起きる、と念じながら5時に寝ると当然ながらよく眠れない。
帰宅して、本物の昼の時間にお昼寝をしたりして、しかしながら本格的に寝るわけではないので、身体はしゃっきりとはしない。
自律神経が強靭なことのが私の健康を司っていると思われるが、これを続けているとさすがに自律神経がおかしくなりそうである。
また逆に、自律神経が強いことがある面においての私の枷になっているような気もしている。
短日に明日と歩きたい公園

