今年の元旦は名古屋港水族館へ行ってきた。
昨年、母を亡くし、正月にちなんだお祝いは
ほとんど行っていない。
この記事を書いている今もまだ初詣に行っていない。
時代の流れと共に、こういった行事に対する価値観が薄れていく。
これを嘆かわしいと思う人もいるし、何とも思わない人もいるだろう。
僕の考えとしては、300年前の人が250年前の人の振る舞いを見て
嘆かわしいと思っていることとなんら本質的には変わっていないと思う。
ジェネレーションギャップというのは時代の変遷であり、
その時々の情勢を反映するものだ。
肉体を形成する要素に対して、
文化や伝統、知識などの精神的な遺物を
模倣子というらしいが
新しい風習が生まれたり古い習慣が廃れたりすることを
遺伝子の振る舞いになぞっているようだ。
何らかの経験から始まった風習が人々に根付き、
それが広がったということで、遺伝的な広がりに似ている。
初詣も、そうだし
水族館へ遊びに行くことも同様。
もしかしたら、はるか未来の世界では、
水族館へ遊びに行くという行為が廃れていることだって
あるかもしれない。
動物愛護の人には賛成できない意見だろうが、
水族館がいつまでも楽しい場所であることを、僕は願う。
昨年、母を亡くし、正月にちなんだお祝いは
ほとんど行っていない。
この記事を書いている今もまだ初詣に行っていない。
時代の流れと共に、こういった行事に対する価値観が薄れていく。
これを嘆かわしいと思う人もいるし、何とも思わない人もいるだろう。
僕の考えとしては、300年前の人が250年前の人の振る舞いを見て
嘆かわしいと思っていることとなんら本質的には変わっていないと思う。
ジェネレーションギャップというのは時代の変遷であり、
その時々の情勢を反映するものだ。
肉体を形成する要素に対して、
文化や伝統、知識などの精神的な遺物を
模倣子というらしいが
新しい風習が生まれたり古い習慣が廃れたりすることを
遺伝子の振る舞いになぞっているようだ。
何らかの経験から始まった風習が人々に根付き、
それが広がったということで、遺伝的な広がりに似ている。
初詣も、そうだし
水族館へ遊びに行くことも同様。
もしかしたら、はるか未来の世界では、
水族館へ遊びに行くという行為が廃れていることだって
あるかもしれない。
動物愛護の人には賛成できない意見だろうが、
水族館がいつまでも楽しい場所であることを、僕は願う。
