parsleyな日々

ちょっくら移ってみました。

少し余裕ができたのでまとめて更新

2005年08月31日 | Weblog
 25日は夜から出かけて、少し遊んだあと飯野先生、スカさん、祐介さんと軽く飲み。テンションフラットなまったり飲みでした。終電が無くなったので予定通り漫画喫茶に宿泊。明け方までゲームコーナーのスロットで「スロッター金太郎」と戯れる。

 26日は前日泊り込みから出勤。結果は残念。スカさん一緒に日雇いでもやりますか(笑)

 27日は桃鉄竜王戦最終日。某駅で待ち合わせて明邸へ。
 残り10年からスタートし、1年で3着→1着。残り1年の時点で、2着のmt氏がキングデビル地獄(陰陽師カードでキングデビルをダビングしてあげました)で脱落し楽勝ムードだったんですが、僕もマッドおじさんのイベントで3連続失敗して150億ドルの損失。98年目に目的地ではなくマッドおじさんの研究室を目指したのが敗着でしたね。しかもリニアカードまで使って馳せ参じる茶番。笑うしかないです。
 結局は漁夫の利ノリノリで明氏が優勝。MVPは僕選考委員により僕に決まりました。
 桃鉄終了後mt氏が帰り、台風娘氏を加え4人(明嫁台風僕)でトランプなど。
大貧民】これは僕の圧勝。ビリ橋さん圧敗。頭を使うゲームなら負けませんぜ。
 大貧民が終わったところで台風親子が帰宅。冷静です。

ブラックジャック】これは明氏と嫁がいい勝負。僕はヒキの弱さで負け。

インディアンポーカー】明氏圧勝。このゲームは駆け引きと洞察力が問われるので、まあ竜王たるもの当然でしょう。日付が変わる頃になると皆テンションがおかしくなっております。僕がふざけておでこにカードを貼り付けると、嫁氏もペタリ。明氏もペタリ。
 ふと我に返った明氏が「おでこにつけたらカードに油がつく!」と怒り出す。でもしばらくするとペタペタペタッ。結局午前2時くらいまで遊びそのまま就寝。

 長くなったので続きはまたあとで書きます。

景色として吉

2005年08月25日 | Weblog
 昨日、というか今日に日付が変わるくらいの時間。最終1本前の電車に乗りこんだ僕が何気なく座った席はたまたま優先席。MP3で森山直太朗のベストを聞きつつ「ジャッカルの日」を読んでいたら、とある駅で男2人(一人が二枚目、もう一人は三枚目)女1人の3人組が乗り込んできた。
 3人掛けの席の右端に僕、まず女の人が左端、三枚目は二枚目に真ん中の席を勧めたけれど二枚目は笑って手を振り吊革に手を掛けた。とても仲が良い雰囲気で、大げさなくらいの身振り手振りを交えて話をする3人。たぶん会社の同僚か学生時代の友人だろう。ビルの設計図らしきものを取り出し、嬉々として意見をぶつけあっているように見える。
 
 しばらくして異変に気付いた。気付いたのはMP3の電池が切れて周囲の話し声が耳に入ったせい。すぐ近くにいる3人組は、口を動かしているものの声が出ていない。3人が3人とも。驚いた。一瞬だけチャップリンの映画を思い出した。大きなアクションは手話だったようだ。僕は本を読みつつも、どしたもんだろと考えた。
 3人席は僕と女の人と三枚目の人。目の前に二枚目の人が立っている。ここは優先席で、でも二枚目の人はそんなこと気にする様子も見せず話をしている。手話をしている姿は自然で、僕が席を譲るのもちょっと変な感じで。
 結局、譲るでもなく席を立つことにした。優先席だからじゃなく、すごくいい感じの3人が並んで座っているところを見てみたくなったから。
 次の駅に着いたとき、車両を変えるため何気なくフラフラと席を立った。ホームに降りて、外から3人が並んで座っている後ろ姿を眺めた。景色として吉。
 ぽやーと見ていたらシューッと扉が閉まり、次に来る終電を20分ほど待つ羽目になったのはご愛嬌。そのときその状況でしか沁みないものもある。
 MP3の電池を入れ替えたら「陽は西から昇る」が流れてきた。自分の他に誰もいない小さな駅のホームで、うろ覚えの歌詞を耳で追いながら歌ってみた。

ここ2、3日

2005年08月20日 | Weblog
 おととい自転車の後ろタイヤが破裂しました。チューブ取り替え1800円。昨日、携帯電話の充電器をなくしました。この携帯の余命はいかほどか。おとといは徹夜で仕事。昨日は終電まで仕事。ふいー。

 というわけで2,3日旅に出てきます。

移転はしつつもスタンス変わらず

2005年08月18日 | Weblog
 向こうが10万に届きそうなので、ちょっくらブログに逃げてみました。さるさるに愛着はあるものの、視覚的にちょっと読みにくいかなと思ったのも理由のひとつです。「勝手に将棋アンテナ」さんで記事読み込みしたときの読みやすさに驚いて、自分の日記をそこ経由でチェックするようになるなんてちょっと尋常じゃないよ(笑)

 さて本日の本題に参ります。『読解力についての考察』。

 そもそも書き手が「ここはこう読んでもらわなきゃやってられない」とか「こういう意図で書いたのに曲解された」なんて嘆くのは論外だと思うんです。書き手の手のひらに全部乗っている文章なんて本当にくだらない。
 まあ報道は別にして(本当の本質的には報道でも変わらないけれど、現状では収拾がつかなくなるので別物として扱います)、読み物として書く文章は書き手の力だけでは完成しないというのが僕の持論。なんか偉そうですねぇ。

 書き手が提示した文章。それを読む人は不特定多数で、その時点の知識も感性も、読む状況も全てがまちまちですよね。同じ文章を同じ人が読んでも、そのときの環境や心境で受け取り方や感じ方が違う。それは誰がなんと言おうと絶対に間違いない。あるときは「意味わからない」「くだらない」と感じたとしても、1年後に読んだとき「そうか、こういうことだったのか」っていうこともあるかもしれないし。
 書き手の意図を読み取る、文章に表れない行間を汲み取るため一所懸命読む。それはそれで書き手としてはとてもありがたいことです。でもたかだか一個人である書き手の意図がその文章の全てじゃない。
 僕が理想としているのは、文章の主役を書き手じゃなく読み手に預けられる文章。それを実現するため書き手に求められるのは、最低限の知識と情報と、読み手に預けることができるだけの文章自体の伸びだと思っています。
 読解力なんてそんなものは一次的なもので、本当は別に読み解かなくてもいいんです。それよりもその時々の状況で感じる読感力の方が何倍も何十倍も比べようもないほど重要で貴重で大事。
 でもね、読感力なんてものは実はそんな難しいものでもないんですよ。読んで、何かを感じたらそれがそのまま読感力。だから感動しても、もちろんくだらなくて読んだことを後悔してもいい。背伸びも規制も制約も何もない。ほんと簡単で単純なんです。
 
 最近メディアリテラシー(読み手の理解、知識のレベル)の低下なんて偉そうに嘆いている人が多いけど、僕に言わせると「どうして読み手に今すぐ理解を求めようとしてるんだろう。多分書き手に自信が無いんだろうな」って感じです。
 繰り返し読んでもらえるような時間を越えたものを書けないことへの不安の裏返しにしか見えない。いいじゃんどっちも身の丈で。