parsleyな日々

ちょっくら移ってみました。

移転はしつつもスタンス変わらず

2005年08月18日 | Weblog
 向こうが10万に届きそうなので、ちょっくらブログに逃げてみました。さるさるに愛着はあるものの、視覚的にちょっと読みにくいかなと思ったのも理由のひとつです。「勝手に将棋アンテナ」さんで記事読み込みしたときの読みやすさに驚いて、自分の日記をそこ経由でチェックするようになるなんてちょっと尋常じゃないよ(笑)

 さて本日の本題に参ります。『読解力についての考察』。

 そもそも書き手が「ここはこう読んでもらわなきゃやってられない」とか「こういう意図で書いたのに曲解された」なんて嘆くのは論外だと思うんです。書き手の手のひらに全部乗っている文章なんて本当にくだらない。
 まあ報道は別にして(本当の本質的には報道でも変わらないけれど、現状では収拾がつかなくなるので別物として扱います)、読み物として書く文章は書き手の力だけでは完成しないというのが僕の持論。なんか偉そうですねぇ。

 書き手が提示した文章。それを読む人は不特定多数で、その時点の知識も感性も、読む状況も全てがまちまちですよね。同じ文章を同じ人が読んでも、そのときの環境や心境で受け取り方や感じ方が違う。それは誰がなんと言おうと絶対に間違いない。あるときは「意味わからない」「くだらない」と感じたとしても、1年後に読んだとき「そうか、こういうことだったのか」っていうこともあるかもしれないし。
 書き手の意図を読み取る、文章に表れない行間を汲み取るため一所懸命読む。それはそれで書き手としてはとてもありがたいことです。でもたかだか一個人である書き手の意図がその文章の全てじゃない。
 僕が理想としているのは、文章の主役を書き手じゃなく読み手に預けられる文章。それを実現するため書き手に求められるのは、最低限の知識と情報と、読み手に預けることができるだけの文章自体の伸びだと思っています。
 読解力なんてそんなものは一次的なもので、本当は別に読み解かなくてもいいんです。それよりもその時々の状況で感じる読感力の方が何倍も何十倍も比べようもないほど重要で貴重で大事。
 でもね、読感力なんてものは実はそんな難しいものでもないんですよ。読んで、何かを感じたらそれがそのまま読感力。だから感動しても、もちろんくだらなくて読んだことを後悔してもいい。背伸びも規制も制約も何もない。ほんと簡単で単純なんです。
 
 最近メディアリテラシー(読み手の理解、知識のレベル)の低下なんて偉そうに嘆いている人が多いけど、僕に言わせると「どうして読み手に今すぐ理解を求めようとしてるんだろう。多分書き手に自信が無いんだろうな」って感じです。
 繰り返し読んでもらえるような時間を越えたものを書けないことへの不安の裏返しにしか見えない。いいじゃんどっちも身の丈で。