風に吹かれて マメタロウ

途中下車した看護師のつれづれです。癌治療の後遺症と付き合ってきた母の介護を中心に書いてあります。

自分の重さを感じる

2011年08月23日 | キネステティクス

8月21日は群馬に足を延ばして、キネステテイクスのベーシック研修に飛び入り参加。

9月にプラクティショナーコースがあるのでその準備も兼ねてのお勉強でした。

多くの人は、自分の動きに問題を感じていないだろう、私もそうだった。

だって意識しなくても動けているのだから、考える必要もない。

それに、自分の動きを本当に知ることは難しい。だから、体を壊してしまうんだ。

「肩こり腰痛は生活習慣病だよ」とある整形外科医が患者さんに話していた。

自分を振り返ってそう思う。いつも肩をあげ、緊張姿勢で仕事をしていた。

仕事以外でも同じような体の使い方をしていたのだと思う。

 

動きの理解は、自分が動いて感じてみないとわからない。

そうは言っても、初めは、動いてみてもなんだかわからないもので、、、

初めてベーシック研修を受ける生徒さんと話していて、

やりはじめたころの自分と重なる部分があり、「そうそうそこでわかんなくなるのよねー」と

思うことがあった。

ちょっぴりアドバイスなんぞしてみたりして、私も進歩したもんだと、心の中で自画自賛した

ちょっと浮かれていたら、すかさず「基本体位が違うよ」「つなぎを持ったらダメ」と指摘を受けちゃった

でも、「こんな感じで、少しずつわかってくるのだろう」ということがわかってきた今日この頃

バイト帰りの電車の中で、自分の重さがどこにかかっているかをじっくり感じながら帰ってきたのでした。

少し、キネステが体に入ってきたのかな←跳んだら怪我するよ、移動は歩いて!

 

澤口先生の言葉メモ

動きを介助する前に 3つだけ考えなさい。

 1. この人は何をしたいのだろうか?

 2. この人は何をしているのだろうか?

 3. この人は何を感じているのだろうか?

 そして、自分の考えたことを相手に問うてみなさい。

 そうすると 介助は「接触と動きによるカウンセリング」になるかもしれません


緩和ケアの集いIN 横浜

2011年08月22日 | HANAナーシングセラピー、フットケア

8月20日に瀬谷区のめぐみ在宅クリニックで開催の「緩和ケアの集い」に参加させていただきました。
緩和ケアに関する仕事には従事していないのですが、快く受け入れていただいて感謝です。

薬科大学の学生さんたちもたくさん参加されていて、若いパワーが輝いていました。

小澤先生の基調講演やその後の分科会ではいろいろなテーマがかたられました。
・苦しみの本質は期待と現実のギャップ
・苦しみの中で見つける支え、関係、希望。
・援助者の出来ること、出来ないこと
・支えているあなたにこそ、支えが必要なこと

最も強く感じ、心に残ったのは

この集いで話し合われたことは、「緩和ケア」を受けている人にとどまらず、
苦しみを持つすべての人への、応援メッセージなんだと感じました。
そして、誰しも、何かの苦しみは持っているのだから、
すべての人への応援ということになるんですね。(私なりの勝手な結論)

そう思ったら、なんだかうれしくて家に帰ってからも話したくてしょうがなかったから、娘といろいろおしゃべりしました。

生きること、死にゆくことを話すことで、娘がこれからのことを何か感じてくれたらいいなと願いつつ、、、

 

 


わんちゃんがお風呂で暴れて困ったら、、、

2011年07月25日 | やんちゃな白いぬラン(ウエスティー)

わんちゃんがお風呂で暴れて困ったら、、、

 

たのしそうに泳ぐわんちゃんの写真や動画を見るとうらやましいなーと思います。

らんちゃんは水が苦手なようで、お風呂の度に大暴れ、、、

トリミングで「しんのうえん」さんに行くときは、いい子みたいなんだけど、、、

暴れてこちらもびっしょりになったり、引っかかれたりでお風呂に入らないと

きれいな白が茶色になってしまうし、、、、

 

相談したり工夫をして、台所にあったラックの引き出しを浴槽に使ってみたらばっちりでした。

ペットボトルをストックするサイズの引き出しが5kgのランにはぴったり。

 


母の旅立ち・ありがとう

2011年07月11日 | 母の癌治療の後遺症と介護

大きな息を一つ、ほーっとついてそれが旅立ちの合図のようでした。

眉間にしわを寄せることもなく、穏やかな表情で眠るような姿です。

2010年の初めに介護保険の利用を始め、秋ごろには在宅が厳しくなる中でショートステイや入院。

介護者の私は、仕事(夜勤もあり)と介護の調整に悩んだ。

結局、公的な介護施設ではサービスが受けられないため、10月にケア付き住宅を選択し入居した。

(母は医療的なケアがあるため、受け入れてくれる施設がなかった。病院という選択をすると、生活感のない日常になり、

母は、混乱をきたすことが予測できた。)

私は、母のもとにこまめに通えるように2011年3月に退職した。

その住宅に入ってからは、担当医や施設の職員さんたちと、健康状態や対応について相談しながら、亡くなるまで過ごすことが出来た。

おかげで、私自身が母の最期を看取ることが出来て本当にありがたいことだと思う。

一生に一度の経験で、いろいろなことを感じた。看護師である私に、母が学ばせたのかな、、、と思うくらいに。

いくつかのテーマで感じたことを残したいと思う。

≪栄養のこと≫認知症が進んでも、食べることは上手にできてむせることも少なかった。呼吸音もずっときれいだったので、誤嚥性肺炎も起こしていなかった。最後の数週間は固形物は食べなかったが、好きなものを食べられる分だけ少量食べていた。コーラが好きで亡くなる前日も介護士さんに飲ませてもらっていた。

栄養が低下した原因は、放射線治療による晩期後遺症で慢性の下痢になったことと思う。栄養が吸収されない状況となってしまった。嚥下の問題であれば、胃瘻の選択があったが放射線の後遺症での下痢なので、腸に問題があるから、胃瘻の適応はなかった(そうでなくとも、胃瘻は選択しなかったように思う)。静脈栄養は、選択しなかった。チューブにつながれるのを母は嫌っていた。(極端な脱水症状を緩和するために点滴は行った。)

 

≪介護保険のこと≫介護保険を利用し始めて、大体1年半で母は亡くなった。

在宅介護が出来ているうちはほぼ問題は無かった。担当のケアマネさんや在宅スタッフの方は本当に熱心にかかわってくれて、「ケアを受け入れるのが難しい」状態だったのに、私が仕事をつづけながらのスケジュールを組んでもらった。気難しい母も、嫌がらないようになった。

しかし、認知症が進行し、「1人ではおいておけない」状態になると、打つ手は無くなった。上にも書いたように、医療ケアがあると「病院で」となり、認知症があると「病院では難しい」となる。認知症ケアのある病院では「医療ケアは十分にはできないので、、、」と。

悩みに悩んで、母がどんな毎日を過ごしたいか、、、と考えたとき、「普通に暮らしたい」だろうとおもった。「医療ケア」は確かにあるが、本人にしてみれば排泄のための処置で、日常生活そのものである、病的な状態ではない。それを理由に選択の幅が狭まるのはいかがなものなんだろうと疑問に思う。

母がそのような状態なのに、介護者が夜勤もしていて「仕事は続けたい」と言っているんだから、かなりレアなケースだったのだろう。レアなケースだから、通常の介護保険の枠から外れても仕方がないことなのだろうか、、、。

最後にお世話になった場は、日常に一番近い場所で過ごすことが出来た。きっと「大変なケース」だったと思うが、、、。本当に感謝している。

 

≪最後のケア≫私が5月から学んでいるHANAナーシングセラピーの山口晴美さんに、「お母さんにたくさん甘えなよ!自己満足でいいから、楽になるようにサポートをしてあげて。」と励ましてもらい、習ったケアをずっと母で練習していた。低栄養でるい痩もひどかったのに、むくみはなく、肌がきれいだった。全身のタッチングケアで、循環・呼吸・代謝が母のレベルなりにうまくいっていたんだろうと感じている。

看取るときも呼吸をサポートし、耳元に話しかけ、楽しかったことをたくさん伝えた。ありがとうの言葉とともに。

お顔のマッサージをし死化粧(エンゼルメイク)を行った。85歳の母はきれいで穏やかな表情で、そばにいた介護士さんたちが「いいお顔だね」と涙してくれたり、ナースたちが「きれいだね」と、わたしを抱きしめながら、ほめてくれたりした。

「少しでも母の体を楽に」と思ってHANAを習いはじめ、母に対する最後のケアをすることが出来てよかった。これは同時に私自身に対するグリーフケアになっていると思う。

 


フェルデンクライスメソッド

2011年01月24日 | 仕事のあれこれ

フェルデンクライスメソッドをいくつか教えてもらったので、とりくんでいます。腰椎骨盤、胸郭、肩。ゆっくりと、体の動きを感じながら動く。呼吸は止めない。疲れたら休む。無理はしない。頑張らない。痛みで筋肉が硬くなる感じがわかっってきた。ということは周囲が緩んできたからなんだろうな。

理学療法を受けてみて、心底思ったのは「この人たちやっぱりプロだー!」ってこと。まあ、当たり前のことなんだけど、実感しました。

もうひとつの話題はtwitterで出会った言葉。とても感銘を受けたので記しておきたいと思います。(以下転載)

大事にしたい人がいるなら、大事にできるうちに大事にした方がいいよ。

仲良くしたい人がいるなら、仲良く出来るうちに仲良くしておいた方がいいよ。

人間なんて、本当に、ふとしたきっかけで二度と会えなくなったりしてしまうものだから。

吃驚するほど簡単に、どこか ...


理学療法を受けて

2011年01月19日 | 仕事のあれこれ

ストレッチ、マッサージをしてもらっても、次の時にはまた緊張しちゃってる。

なんだか、やっていただくPTさんに申し訳ないみたい、、、

力を抜いてるつもりだけど、触れられるとまた、一段階力が抜けていくのがわかる。

やっぱり筋肉が緊張してるんだな。習慣ってこわい。

今日は、肩甲帯を柔らかくする体操を習った。自主トレだ!

 

 


頚椎症性神経根症

2010年12月21日 | 仕事のあれこれ

肩と腕が痛くなってから、「体の動き」に改めて関心を持った。

体の硬さはもともと感じていたし、運動も経験無し。でも、健康には自信があって、「元気だけがとりえ」だったのだ。長年の動きの結果で体を痛めてしまった。「頚椎症性脊髄根症」で、左腕が痛くて痺れて使えない。

麻痺のある方の介助を長年してきた。基本的には「ボディメカニクス」を教わり、実践してた。腰痛もなかったし、昔は「一人でやる」風土だったけど今は、二人でやるのが基本だから体は楽に介助してるつもりだった。でも現実は自分の体に現れてしまった。
「自分の体を守れていなかった」---

 そして、母の介護をしていても、寝かせたり起こしたり、つい、反射的に介助しちゃう。「今の母にできること」は何かを感じられない自分がいた。

まず、自分の体と向き合うことが必要だと感じる。

体の動きについて知りたい。

 


介護とお金

2010年10月08日 | 母の癌治療の後遺症と介護
母が介護保険をめいっぱい活用するようになって、とても助かっています。ケアマネさんが窓口になり相談に乗ってくれるし、関わる施設の人同士を調整してくれます。
それとは別に、やはり経済的な負担がかかってくるのも事実。
ブログや知人からのアドバイスで「世帯分離」の手続きを行いました。母と同居をするときに、同一世帯にしていたのでそれを分けて、二世帯にすると言うことです。
それに伴って、費用の負担が変わってくることを知りました。特に、介護保険を利用したときの「負担限度額」が下がることがおおきいです。長く続く介護になりますし、負担しきれないと途方に暮れていたのが少し楽になりました。
ほかに変わるのは、介護保険料です。
介護保険料は4月1日の時点で計算されるので、来年度からは母の介護保険料も変わってくるようです。
お金のことは、なかなか人にいえないし、でも時には深刻なことになります。介護のために仕事をやめたり、変えたりするときはなおさらです。
テレビコマーシャルや新聞広告には、素敵な老人ホームが流れますが、経済的にうちの母が入れるものではありません。
実際に親の介護が必要になって、高齢者政策は高齢者のためだけでなく、その下の世代のためにもあると感じました。豊かではない老人のためにもいい政策を考えてほしいです。

安心とさみしさと

2010年09月27日 | 母の癌治療の後遺症と介護
今日、ショートステイに母を送っていきました。

新しくてきれいな施設。個室も広くてゆったり出来そうです。
窓からは緑が見え、職員さんの部屋?からも近いみたい。

急遽受け入れてもらったから、引継ぎもそこそこって感じでしたが、8月に長崎に行った時に
利用した施設なので、ある程度はわかってもらっていると思う。

ただ、自発性とか判断力とか急に悪くなっているから、うまく環境になじんでくれるといいな。

しかし、お願いした以上はお任せするしかありません。
自分が出来ないから母の安全のための措置なんだし。

出来るだけ面会に行って、私自身も施設の雰囲気がつかめるようになれば
安心できるだろうと思います。
今回のショートの後も、おそらくショートと訪問介護やデイを利用していくことになると思うから
場に慣れていくのも大切だなと思います。それは母だけでなく私にとってもおんなじこと。
「自分から、中に入っていくようにしよう。なじめるようにして行こう。」
そう考えたら、なんとなく、「手を離してあずけた」というより「一緒に介護に参加する」ような気になってきた。
考え方ひとつで単純だなー、私って。相変わらず、これがB型チックなんだろうかwww





一緒に寝ていた母のベッドを散らかったままにしています。
なんとなく片付けられない。
母のいない部屋を見るとさみしい気持ち。


認知症の経過(アルツハイマー)

2010年09月24日 | 母の癌治療の後遺症と介護

アルツハイマーと診断され、症状は悪化していくんだと現実を突きつけられ、かなりショックで狼狽し、落ち込みました。そんなときに、探し当てた介護当事者のブログで、励まされ、癒され、笑顔の介護が待ってると思えるようになりました。あたたかいつながりをここでも感じました。感謝です。「当事者でしか分からないこと」って大事だナーと思いました。


今日、母を担当しているケアマネさん、介護の管理者、ショートの方、訪看の管理者、デイの方、と私が集まり、今後の介護サービスについての担当者会議を開きました。
1時間超、みなさんが仲間みたいに話し合ってくれてありがたかったです。
結局の所、私の夜勤がネックになり(利用者にも、事業所にも)訪問介護とデイケアでつなぐのは困難だろうという事になりました。
たまたま、ショートがあいていて利用できるため、今回はまずそちらを利用することになりました。その後は、母の様子を見て、私が日勤の勤務とし、在宅に戻る予定です。
「日勤の勤務とする」のが、また難しいのですがネ^^

母の急な認知面の悪化を受けて今回の話し合いがあったので、経過をまとめました。
 



2年前・・・母が「物忘れがひどい」と心配していたので、CT検査が出来る脳外科クリニックを受診し「年齢相応だから気にするな」といわれる。CTと、会話だけだった。(このときにHDS-Rをすれば早期発見できたのかと今となっては思う。先日のアルツハイマーデイでは、早期発見を盛んにPRされていて、判ってあげられなくて悪かったなーと辛かったです。)
この頃、歩くのが億劫になってきていたので、介護申請だけでもと申請し
2008/8「要支援」となる。散歩とか連れ出してくれる人がいるといいなーと思っていたが、そんな支援はないし、仮にあったとしても本人は拒否したと思いますがww買い物や近所の公園に連れ出したりしていました。

2009/1「要介護1」となり、制度の関係でケアマネが変わった。(要支援は介護予防サービスで、介護予防支援事業者がかかわり、要介護は介護サービスで、居宅介護支援事業者が関わる。一人の人間を継続してケアできない制度になっていることに驚いた。しかし、今のケアマネさんになって良かったと思っていますけど。)
要介護となっても、母自体に変化はなく、他者が家に入るのを嫌う傾向があるので、この頃の目標は「僕(ケアマネ)が訪問するのを受け入れてもらえるようにしよう」でした。明るく楽しく接してくれるので、拒否はなく受け入れていました。ケアマネであるとかは理解してないと思いますが。
今思えば、出来ないことが徐々に増えていた。「諸手帳類の管理」「ストマパウチの交換」「整理整頓」姉には、たまに遊びに来ても「どなた?」といっていたらしいが、姉は冗談だと受け止めていたらしい。

「一人で過ごす時間が多いし、これからのことを考えたら徐々に介護ケアに慣れておくほうがいいよね」っていう事でデイサービスを週に1回利用する計画を立てたが、意欲が出ず、2ヶ所試し、結局デイケア利用に変更する。私としては歩行能力や体力アップのきっかけ作りと保清目的だったが、デイケアはある程度流れに乗れる対象者でないと無理みたいでした。
2010/2 週に1回デイケアに通い始める。なじめず家に戻ると、疲れる。いやだ。の発言が多い。

2010/6 週に1回の訪問介護、看護を追加。
血尿や、発熱があり体力的にかなり低下したり入院をしたのもあり、サービスを増やすことに。ケアの拒否は結構あって、ご苦労をかけていた。
2010/8 長崎の父を見舞いに行く関係で、初のショートステイ体験6日間。。「家に帰る」とは、言っていたみたいだけど、心配していたせん妄症状もなく、大過なく過ごした。
(私の夜勤と関係なく規則正しい生活が功を奏したようで、その後から日中の覚醒度がアップしたようだとヘルパーさんたちから言われる。ケアの拒否も少なくなってきた。)

このところ、「食事を忘れる」「尿パットを裏返しに当てる」「服をでたらめに着る」「ここに入られないと荷物をまとめようとする」「気分の波、表情が極端に違う」に加え、まじまじと私と話しながら「あなたを生んで育てた気がしないんだけどね、私の娘なの?」と言うので、ケアマネに相談したら認知症の専門に見てもらうほうがいいとアドバイスしてくれたので、近い所の「物忘れ外来」をネットで見つけた。
2010/9 物忘れ外来受診。中から重度のアルツハイマー型認知症と診断。一人で自宅にいさせるのは無理、危ないですよといわれる。アリセプトが処方されるが、あくまでも進行が遅くなればイイナ、くらいですよと念を押された。




そして今日に至るが、「今思えばあれは症状、、、」と思うことが多くあり、気付いてあげられなくてごめんなさいと反省。仕事中心の生活が長く続いていたから、母が家にいてくれればよしで、SOSが分からなかった(言い訳ですが)。
今、急に悪くなったと感じているけど、母が頑張って頑張ってやっていた部分が、破綻したということなんだろうな、、、人に頼ることを是とせず、生きてきた人だからなおさら無理していたのだろうか?


母の混乱が始まったころ、
私が仕事から深夜に帰宅し、母の失敗したパウチの処理やおむつ交換、着替えをした時に
つい大きなため息で、「もうやってられんなー」と言ってしまった日、
いらいらしても仕方ないと、母を相手に夜中いろんな話をした。
昔話、仕事の話、、、ちゃんとした対話には、なってないんだけど、何かのときに
母が「もう頑張らなくてもいいんじゃない、らくにすれば」と言った。
あの言葉は、私だけじゃなく自分自身に贈った言葉なのかもしれません。


長文を読んでくださった方有難うございました。