復興カフェ スクラム

東日本大震災の復興支援サイト。

心のケア サッカー療法

2012-01-18 23:37:44 | 日記
「心の病 ボールは友達」
  イタリア サッカー治療で効果
        
   朝日新聞 2012年(平成24年)1月8日 日曜日

 ローマ郊外の河川敷で、三つのサッカーチームがリーグを戦っていた。選手は20~50代の男性約30人で、統合失調症やうつ病などを患った人たちだ。病気と闘う″選手″ たちの「カルチョ・ソシャーレ(福祉サッカー) 」リーグが、今季も昨年10月に開幕し、イタリア全土で繰り広げられている。患者の治療と社会復帰に効果があり、各国で急速に広まっている。

 80チーム 年1000人参加

 一緒に駆け回っていた精神科医のサント・ルロさん(50)が、1 9 9 4 年にサッカー好きの患者とチームを作ったのがきっかけだった。患者の回復がよい傾向にあるとすぐに気付いた。スター選手のトッティが普及に力を貸し、今では全国に約80チームがあり、毎年約1 千人がこの治療を受けている。
 6割の患者にはっきり効果が認められるという。理由をルロさんは次のように分析する。① 自分が病気だと認めない人も「サッカー治療」なら受け入れる② 運動で脳が刺激され、薬による意欲の低下を防げる③戦術に従って敵の動きに対応することが、日常生活で問題に対処する鍛錬になる④ 人の輸に入ることを恐れる人にコミュニケーションの機会を与える。
 回復の過程で″選手″ は、9 人が患者、2 人が地域住民のチームから、2 人が患者、9 人が住民のチームヘ移籍する。「ステップアップ」で社会復帰への自信が深まる上、多くの住民が患者と接することで地域の偏見もなくなる。
 ルロさんは、災害による心的外傷後ストレス障害(P T S D ) や自殺予防へのサッカーの利用も勧める。P T S D が長引く原因となるうつの併発が抑えられるし、集まって練習することで互いに自殺のサインに気付きやすくなるからだという。不登校の子どもの学校復帰、虐待をする人の攻撃性を抑えることにも応用できるという。

 復帰支援 日本でも
 日本でもサッカーなどのスポーツを活用した精神疾患患者の社会復帰支援が、一部で始まっている。
大阪府高槻市の男性(36)は、アパレル会社の管理職だった2 0 0 6 年、激務と社内の人間関係の悪化でうつになった。他人が怖くなり、家にこもった半年は、「消えたい」という思いにも襲われた。職場復帰しては再発を繰り返す状況が変わったのは、08年にフットサルを始めてから。仲間と協力して達成感を味わい、「人と話ができるようになり、否定し続けた自分の存在を肯定できた」と話す。
 現在は、障害者就労支援のカフェを運営するN P O 法人で、経営戦略を担う。06年からフットサルを活用する新阿武山病院企局槻市) の医師、岡村武彦さんによると、当時32人中1 人しか就労していなかった患者が、今は半数が就労か進学。「患者がよりよい状態に一戻るのに、スポーツが活用できると証明されつつある」。日本は5 年で60チーム以上ができ、英国、北欧でも取り組みが始まった。  (後藤太輔)

建築家 坂 茂(参考情報)

2012-01-18 23:18:12 | 日記
建築家 坂 茂
 
 押しかけて
 とことんしゃべる。
 理詰めを貫き
 紙の館を現実に


 引用 The Asahi Shimbun GLOBE
         January 18 , 2012

http://globe.asahi.com/breakthrough/100308/01_01.html

.
両腕を広げたキリスト像が見守る中庭に香ばしいカレーのにおいが広がる。
神戸市長田区のカトリックたかとり教会の食堂では毎昼、ここを拠点に活動する地域FM局や地元の女性や外国人を支援する団体などが、交代で炊き出しをしている。
冬の柔らかい陽光下のランチ。スタッフやボランティアの会話がはずむ。


神父の神田裕(51)は、15年前の冬を思い出す。阪神大震災で、教会はキリスト像と司祭館を残して焼け落ちた。焼け跡で青空ミサが開かれた日曜の朝。建築家と名乗る大柄の男がリュック姿で現れた。
「『紙』で教会を建てませんか」
意表をついた申し出に、神田は「火事場に紙の建物なんてふざけている」と思った。「街の復興が先。教会の再建は後からでいい」と引き取ってもらった。
男は次の日曜日も、その次の日曜日もやってきた。
「木材はパチパチ燃えるけど、本は違うでしょう。紙だから燃えやすいということはないんです」
「重機がなくても組み立てられます」
あきらめず教会に通いつめる男に「教会ではなく、住民が集まれるコミュニティーホールなら」と、神田は折れた。
高さ5mの紙管58本を長円形に配したホールは「ペーパードーム」の愛称で復興のシンボルになった。紙管を壁材にした仮設住宅も区内の公園にできた。


トルコ、インド、スリランカ、中国、イタリア。いらい地震や津波、洪水が起きると男は現れ、仮設の住宅や学校、ホールの建設に携わることになる。
男は、坂茂という。阪神大震災は、〈紙の建築家〉として地歩を築きつつあった坂が、〈行動する建築家〉シゲル・バンとして世界の被災地に活動を広げる起点になった。


なぜ「紙」にこだわり、「被災地の救援」に執念を燃やすのか。
幾何学的な設計で知られた米建築家ヘイダックにあこがれ、高校を卒業すると単身、米国に渡った。日本の大学で建築を学び、建築事務所で修業を積んで独立――。そんな定番コースを歩まず、米国という強烈な個性のジャングルでもまれた。
特定の「師」の影響も受けなかった。異色の経歴が「建築家としての自分のスタイルをどう築くか」をより強く意識させることになった。
「はやりの建築をまねるだけでは歴史は変わらない。自分独自の『構造』と『材料』を見つけねば」。「材料」との出会いは帰国後ほどなくやってきた。


86年、展覧会を企画構成する仕事で内装用の材料を探していた坂の目に、ふと別の展覧会で使った反物の芯が事務所の隅に転がっているのがとまった。
再生紙で作られた芯には木に通じる温かみがあった。それでいてコストが安く加工も簡単。強度は木に劣るが、そこは「構造」で補えないか。実験を重ね、建築材としての認可を得た。
気鋭の若手建築家として評価が次第に高まっても、坂のもやもやした気持ちは晴れないでいた。

タクシーに乗って気になる建物を見つけ、運転手に尋ねても、「ああ、○○建設さんね」と、施工したゼネコンの名前しか返ってこない。日本で建築家は尊敬されていないのではないか。そんな疑念にとらわれた。
〈すばらしいモニュメントを作ればその街の誇りになるはず〉〈しょせん金持ち、政治家、宗教団体など特権層の富と権力を視覚化しているにすぎない〉
自問自答を繰り返していた94年、雨期のアフリカで毛布にくるまり震えるルワンダ難民の写真を見て、ひらめいた。
「紙の出番だ」

ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)本部に、アポなしで押しかけた。
「紙管なら断熱性があるし、現地調達も難しくない」。坂の提案を聞きながら担当官は別の点に着目した。UNHCRは当時、配給されたシートの支柱にするため難民たちが森林を伐採するのに頭を悩ませていた。紙管があれば伐採を防げる。廃棄処分もしやすい――。


95年、UNHCRは坂を仮設シェルターの設計コンサルタントに迎えた。
その年、神戸ではペーパードームが大勢のボランティアたちの手で組み上がった。
「建築家として歩む方向がこれで定まった」と坂は思った。
その後、米国が与えてくれたもうひとつの「力」の意味を、坂はかみしめることになる。


仏北東部の都市メッスに今年5月に開館する美術館ポンピドーセンターの分館は、コンペで優勝した坂らが設計した。
展示室の上に巨大な編み笠のような木組みの屋根を覆いかぶせる構造。
西洋伝統の「堅固な壁で囲いこむ」建築ではなく、建物の「内」と「外」が連続する空間を目指した。
だが着工段階になって市当局が「経費がかかりすぎる」と鉄骨屋根への変更を求めてきた。ゼネコンが建築家の支援を惜しまない日本と違い、欧米では建築家が、予算を抑えたい施工主や彼らの側に立って設計理念を骨抜きにしようとする建設会社と対立することは珍しくない。


坂はあえて「美観」を理由に対抗する戦略は採らず、かわりに、どう木でコストを抑えられるか、いかに建築も容易で機能的か、知人の専門家の手も借りてデータを集め、説明を重ねた。そして設計通りの「木の屋根」を守りぬいた。


米国の大学教育では、なぜそこに直線をひいたのか、曲面を配したのか、合理的な説明をひとつひとつ求められた。最終的には「感性」が出来栄えを左右する。とはいえ、プロに必要な理論構築力は訓練でしか身につかないという思想が徹底していた。だから、日本の大学で教えた時、学生が「この方がカッコいいと思ったから」と平然と答えるのにあぜんとした。
「人種、文化、価値観が異なる相手を説得し、動かすには、客観的に理論を自分の口で説明するしか術はない。世界という舞台では、『有言実行』しかありえない」


坂は得意の「説明力」を被災地でも発揮する。中国・四川では、まず地元の大学でシンポジウムを開いて被災者に紙の建築を説明。それから紙管を用いた仮設の学校に取りかかった。今年2月、坂は紙管のサンプルを持ってハイチに乗り込み、仮設住宅の構想を説いて回った。


神戸のペーパードームは08年、99年の地震で被災した台湾の村に移設された。
その跡地にできた教会も、坂が設計した。紙は聖堂の内装に使われている。
「被災地にかかわること」で建築家の理想像をしゃにむに追い求める坂と、日々の地道な活動とチームワークこそ大切だと考える住民やボランティアたちとの関係は、しばしばぎくしゃくした。
「坂さんにはこりごりですわ」。その板挟みになった神田は言う。だが、にぎやかな中庭を見るその目は笑っていた。
「でも、なんやかやいって、結局みなここに集まってくる。坂さんはシンボルをつくる天才や」

                                         (文中敬称略)


坂 茂(ばん・しげる)
1957年、東京都生まれ。
成蹊高校を卒業後、80年、建築家ヘイダックが建築学部長を務めるニューヨークの大学クーパーユニオンに入学。途中1年間休学して磯崎新氏の事務所に在籍。85年、東京で坂茂建築設計設立。89年、名古屋の世界デザイン博で初の「紙の建築」を手がける。2003年、仏ポンピドーセンター分館の建築設計コンペで最優秀。10年2月、大地震に見舞われたハイチ。仮設住宅千節のための寄付を各国でアピール。現在、世界約20カ国で建築プロジェクトや建築コンペに参加するほか、米ハーバード大学で教鞭を執る。


被災地の子どもたちにサッカーを

2012-01-17 17:26:24 | 日記

クラブは子どもたちに何ができるのか?被災地の未来に向けた新たな夢2011年12月20日
  引用 自分で考えるサッカーを子どもたちに。ジュニアサッカー(少年サッカー)の保護者向け情報サイト。
    http://sakaiku.jp/series/sendai/2011/001483.html


「仙台だより」はこれまで震災後の様々な少年サッカーチームの様子について伝えてきました。今年最後となる第9回は、ベガルタ仙台、塩釜FC、コバルトーレ女川という宮城県のサッカークラブのトップが一同に会したシンポジウムの模様をお伝えします。震災後の各クラブの様々な取り組みが話された中、未来に向けた壮大な夢も語り合われました。宮城のサッカークラブが子どもたちにできることは何なのでしょうか。

石巻の人工芝グラウンドを活用し継続的な支援を行うコバルトーレ女川

 今回のシンポジウムは東北大学で行われた日本体育学会東北支部のパネルディスカッションとして行われ、「大震災と地域スポーツクラブ」と題し、中島信博東北大学大学院教育学研究科教授(写真:左端)がコーディネーターとなり、パネラーとして白幡洋一ベガルタ仙台代表取締役社長(写真:右端)、小幡忠義塩釜FC理事長・宮城県サッカー協会会長・東北サッカー協会会長(写真:右から2人目)、近江弘一コバルトーレ女川取締役社長・石巻日日新聞社長(写真:左から2人目)という宮城県のサッカークラブトップが一同に会し、震災後の各サッカークラブのこれまで、そしてこれからの取り組みについて語り合われました。
どのクラブのトップも真剣に考えていたのは、子どもたちへの支援。宮城のサッカークラブが子どもたちにできることは何なのか、どのトップからも熱いお話を伺うことができました。

 東北社会人リーグ2部で、今シーズンはトップチームの活動を休止したコバルトーレ女川の近江社長は、「石巻にある施設(人工芝グラウンドなど)で、自分たちのスクールの子どもたちだけでなく、他のチームも支援していきたい」と語り、石巻の人工芝グラウンドを有効活用した支援の取り組みを説明しました。

 すぐ近くまで仮設住宅が建ち、砂ぼこりが立つなどの問題が出たため、夏に人工芝化したグラウンドを多くのチームに使ってもらえるように、マイクロバスで女川や南三陸、気仙沼の子どもたちをこのグラウンドに招待し、思い切りサッカーを楽しんでもらう試みを行っています。今回、支援金でマイクロバスを増やせたことで、「これをフル活用して招待を行っていきたい」とさらに招待の機会を増やしていきたいそうです。

 また、人工芝グラウンドに加えて塾・教育施設を持っており、「コーチ陣には教員免許を持っている者もいる。子どもたちが集まる時間を統一して効率的なシステムを作りたい」とスクールに集まるサッカー少年の学習支援も行っています。

 その他東松島、女川、南三陸、気仙沼でのスタッフ・選手によるボランティア活動やスポーツ指導、女川の小学校におけるバスでの集団移動の空き時間を使ったサッカー教室といった試みも紹介されました。近江社長からベガルタ仙台白幡社長へのお願いとして「ベガルタの看板の下で我々の指導者を使って、サッカースクールを高頻度でやらせてもらえないか」という話があり、白幡社長も前向きな姿勢を見せていました。各クラブが連係して、被災地で高頻度のサッカースクールが実現できれば、大変素晴らしいことです。

 「女川町はほぼ壊滅した中で、希望の持てるものを作らねばならない。今後陸上競技場で復興記念試合を行うが、町民の皆さんよりも半歩でも先に進むため、いち早くスポーツ施設を作ってもらえればと思っている」と語る近江社長。大きな被害を受けた町のクラブが、町民そして子どもたちに夢を与えられるようになることを期待したいです。

クラブへの支援金を有効活用、ホームタウン活動を精力的に行うベガルタ仙台

 J1リーグベガルタ仙台白幡洋一社長は、トップチームの活動再開日となった3月28日に、チームスタッフ・選手全員で石巻市の慰問、ボランティア活動を行うようチームに依頼。「選手達は言葉がなかった。そこで思いが変わり、『負けない気持ち』を被災地からもらった」と白幡社長が語る通り、負けない気持ちを持ったトップチームはJ1リーグで4位と大躍進。こうしたトップチームの活躍も、被災地の子どもたちに大きな勇気を与えたことでしょう。

 ベガルタ仙台は3月11日以降、ホームタウン活動を津波被災地に的を絞って行い、サッカースクールや慰問などを行ってきたことや、宮城・仙台ドリームプロジェクトと題し、14市町の子どもたちをベガルタ仙台のホームゲームへの招待、また「発表の場を失った子どもたちに合唱・演奏を試合前にやってもらった」ということで、コンクールの出場が震災で叶わなくなった仙台市立八軒中学校の吹奏楽・合唱部を招待し、試合前に演奏をしてもらった試みについて語りました。

 ベガルタ仙台には多くの人・団体からクラブに対し多くの支援金が届いたそうです。ベガルタ仙台のファンクラブ組織であるソシオクラブは、年間の公式戦が2試合少なくなったため、年間チケット代金の2試合分を払い戻しするか、クラブへの支援金にしてもらうか、クラブ会員に選んでもらう形にしたところ、会員の半分がクラブ支援金としたそうです。白幡社長はこうして集まった支援金を有効活用したいという意向を示しました。

 「地域の祭りや町おこし、被災地支援をしたい団体への支援などをしていきたい。遠征をしようにもお金がないといった少年サッカーチームへの支援もしていきたい」と、様々な用途の中で、子どもたちの支援にもクラブ支援金を活用していきたい意向を明らかにしました。

子どもたちを支える親への心配りをする塩釜FC

 小幡忠義塩釜FC理事長・宮城県サッカー協会会長・東北サッカー協会会長は震災直後から自宅の喫茶店を私設避難所とし、震災の翌日から行われる予定だったチビリンピック東北大会用に用意していた水や食糧を提供したり、物資集積を行ったりと地域の復興に尽力してきました。盛岡商業高等学校の齋藤重信総監督から「ピンポイントに困っているところにお金を集める仕組みを作って欲しい」という依頼を受け、「東北サッカー未来募金」を設立し、11月末までで6,000万円を越える金額を集めたそうです。

 小幡理事長が気にかけたのは被災地の子どもたちのみならず、その親です。4月にチームのある子どもの親が小幡理事長の下を訪れ、「サッカーどころではないのでチームを辞めたい」と言ってきたそうです。「楽しいことだけじゃなくて苦しいことも共有するのがクラブだよ」と小幡理事長は子どもたちのためにサッカー用具などを持って行くよう促したそうです。たまたまその時小幡理事長と会っていた東京の指導者から「震災がたとえなかったとしても、お金がなくてサッカーを続けられないというのはどの地域でもあるのではないか」という提案を受けたことから、「学問の奨学金はあるけれど、スポーツの奨学金はない。スポーツの奨学金のようなものができないかどうかと今動いている」と小幡理事長は、新たな支援も考えていることを明かしました。

 また、被災地の少年サッカーチームはさまざまな大会やサッカースクールに招待されましたが「招待疲れがあって、お父さんお母さんはとても疲れていたのでスポーツバイキングといった様々なスポーツを楽しめる機会を用意した」と各種招待による家族の疲れを癒す機会を小幡理事長は提案しました。

 様々な形で子どもたちを支援していくのは勿論ですが、小幡理事長のご指摘通り子どもたちの親が疲れてしまったり、子どもたちを支えていけなかったり、といったことにも目を配らなければなりません。今後の支援にはそうした様々な気配りが必要になってくるでしょう。

夢は防災センターを含んだスポーツセンターの設立

 小幡理事長は震災からの復興に向けて、様々な夢を語りました。小幡理事長はかねてからドイツのスポーツ環境に深い感銘を受け、総合型スポーツクラブ・施設をつくりたいという夢を持ってきました。今回震災が起こったことを受けて、「防災センターを含めたスポーツセンターを計画したい」という強い意欲を見せました。

 サッカー少年団一つ取っても、現在津波被災地ではグラウンドに仮設住宅が建ち、満足な活動環境がなく「スポーツの活動環境を与えたい」という思いがある小幡理事長。サッカーのみならず多くのスポーツを楽しめるスポーツセンターづくりという長年の夢の実現に大きく期待したいです。

 「震災からの復興には3A、あせらず あわてず あきらめずといった気持ちが必要。宮城で亡くなった2万人の供養のためにも負けてはいけない。ピンチをチャンスに変えたい。東北サッカー未来募金は子どもや指導者の教育など人づくり、スポーツの環境づくりに使っていきたい」と復興、そしてその先の夢を小幡理事長は熱く語りました。

 宮城県の3つのサッカークラブトップは、それぞれの形で子どもたちを支援していきたいと考えています。被災地の復興はこれからも長く続いていきます。日本全国、さらには世界から大きな支援を受けた中、被災地の子どもたちにサッカーの楽しさを伝え、サッカーを楽しめる環境を与え、そして心身共に健やかでたくましい人間に育ってもらうため、3つのクラブが協力して、復興に向けて歩みを進めることを心から期待しています。

復興バブル?

2012-01-16 16:29:41 | 日記
<東日本大震災>復興バブルに困惑 工事費上昇1.5倍
毎日新聞 1月16日(月)13時30分配信


 東日本大震災の被災地で建設工事費が高騰し、復興の足かせになっている。建設バブルで人件費や資材費が上昇、複数の建設業界関係者が「工事費は震災前の水準の1.5倍になった」と話す。被災した中小企業が、工場再建を図ろうとして計画以上に膨らんだ自己負担に苦しむ一方で、公共工事は震災前と同水準の価格で推移しているため、建設業者が敬遠している。被災地では「これでは復興が進まない」と危惧する声が強まっている。

 宮城県南三陸町で水産加工業を営む会社社長は津波で工場を失い、鉄骨2階建ての新工場建設を決めた。設計会社と相談し、建築費を2億9000万円と見込み、昨年6月、うち75%の補助を受けられる県の制度に申請して認められた。

 ところが、同10月に建設業者3社に見積もりを頼んだところ、全社から4億円以上を提示された。業者からは「震災で人件費や資材価格が高騰している」と説明された。建材節約などで3億3000万円に圧縮したが、「高騰分」の4000万円は補助対象外で、自己負担となる。「ある程度の高騰は予想していたが、ここまでとは……。再建に二の足を踏む業者もあるはずだ」と社長は嘆く。補助が決まったのに建設費高騰などで「着工を延期したい」などと県に相談してくる被災企業もあるほどだ。

 同県内の建設業者によると、建材やトラックのチャーター代、作業員の賃金など建設にかかわる「人」「もの」すべてが値上がりし、集めるのに苦労しているという。ある業者は「建設費を決め、工事をする数カ月の間にも価格高騰は進む。その分うちがかぶらざるを得ない。高騰が急すぎる」と話し、建設業者側も困惑している。

 一方、宮城県の公共工事は昨年4~11月に入札した建設工事591件のうち137件が応募がないなどの理由で不成立だった。不成立の割合は23%で前年度(3%)から大幅に上昇し、工事費が民間発注より低水準に抑えられていることも背景にあるという。

 小規模工事ほど応札がなく、県は複数工事を組み合わせて大規模にしたり、参加資格を広げたりして入札を繰り返している。4回目でも決まらなければ特例として随意契約に切り替えることも決めた。

 このままだと被災地の復旧に支障をきたす恐れもあり、県契約課は「工事急増で建設会社も混乱している。多くの業者が入札に参入しやすくなるよう規制緩和を国にも求めていきたい」としている。




東北は空前の建設好景気――蠢くゼネコン、復興バブルの足音
東洋経済オンライン 2011年12月1日(木)10時56分配信


「6月から新車の販売が動き出した。多かったのは、土建屋、コンクリ屋、ゼネコンの下請け。7~8月にはこれら中小企業のオーナーが買い始めている。東日本大震災の復興需要で仕事が入り、ずいぶんカネ回りがいい。節税対策も兼ねているようだ」。仙台市内にある自動車ディーラーの支店長は熱く語る。

 輸入車販売最大手のヤナセ。仙台支店の販売は、2011年9月期の上期が49台、下期が現時点で104台だった。10年9月期が上期46台、下期63台だったのを考えると、いかに前下期から膨らんだかがわかるだろう。グループの他の拠点と比べても伸び率は最高だ。売れ筋は1台500万円前後で、ボリュームゾーンのベンツ「C」クラスだという。

 自動車だけではない。仙台三越は8~10月、高額品の販売金額が1・5倍から、モノによっては3倍もハネ上がった。5月から前年実績を上回り、結婚式や銀婚式などのメモリアル・ジュエリーを求める“絆消費”は目立っていたが、夏以降は特に動きが顕著だ。同じ市内の百貨店、さくら野や藤崎でも、高額品の販売は好調に推移している。

 日本百貨店協会によれば、仙台地区の10月の売上高は前年同月比9・7%増と、5月から6カ月連続プラスだ。美術・宝飾・貴金属に限っても6.5%で、「大震災後の生活が落ち着き、ぜいたく品に目が向いてきた」(さくら野百貨店幹部)。全国では10月が0.5%減だからやはり際立つ。ある宝飾製造品卸は「富裕層は店頭ではおおっぴらに買わない。だが外商ルートが中心の展示会では100万円以上の品を買っていく」と打ち明けた。

 一説には、旺盛な消費には「義捐金や保険金が充てられているのでは」との指摘もあるが、定かではない。むしろ目立つのは、復興に伴う建築・土木や産廃など、本業が儲かっている業者だ。被災地といっても一律でなく、津波が襲った沿岸部とは対照的に、好況なのはインフラ復旧の早かった都市部である。仙台市内のホテルは目下、建設関係などの長期滞在者でフル稼働が続く。

 「特に仙台は完全にバブル。水商売のお姉さん方は手が回らず、休む暇もないと悲鳴を上げている」。大震災から半年後の9月、被災地を訪ねたある消費コンサルタントは、その光景に自分の目を疑った。

■「ガレキ」「原発」「除染」、 ゼネコンが得られる果実

 ところ変わって東京・永田町。

 11月21日、11年度第3次補正予算案がやっと成立した。歳出総額は12兆1025億円と、リーマンショック後の09年度第1次補正に次ぐ規模だ。このうち大震災の復興経費は、年金財源への補填をのぞく、9兆2438億円に上る(表参照)。

 ここから業界の受注対象になる金額は、ざっと6兆円と推測される。「復興はガレキの片付け、原発補強、土壌汚染処理が三本柱」(水谷敏也・三菱UFJモルガン・スタンレー証券アナリスト)。他の公共工事と違い、復興関連は業者の言い値で支払われる例も目立ち、価格競争に陥るリスクも比較的少ないという。

 実際に公共事業は東北地方から動き出している。5月の受注は宮城県が前年同月比78%増、福島県が23%増。東北全体でも6月にはプラスに転じた。

 復興事業の三本柱で、最も早く着手されたのがガレキ処理だ。7月から業者の選定が始まり、宮城県の石巻ブロックでは2000億円近い計画が始動。いずれもメインで選ばれたのは鹿島などスーパーゼネコンだった。基本は地元業者優先だが、膨大なガレキを分別し、焼却処理やリサイクル、搬出入まで考えれば、「調整力ある超大手でないと務まらない」(川嶋宏樹・SMBC日興証券アナリスト)。

 「われわれがメインで受注した石巻の分は916億円ある」。11月10日の中間決算発表で、鹿島の山内秀幸・常務執行役員は説明した。鹿島は12年3月期の受注高(単体)について、700億円増の1兆1350億円に上積み。東北地方に限ると上期は前期比6.4倍だ。

 鹿島に限らない。スーパーゼネコン5社(鹿島・清水建設・大成建設・大林組・竹中工務店)のうち、今期は4社が営業増益見込み。21%増益を見込む大林組も、「期末に閉めれば想定通り」と白石達社長は自信を隠さない。自動車や電機が軒並み総崩れの中、ゼネコンは健闘しているといっていい。

 業界の主要指標である建設投資も上向いてきた。1992年度の84兆円をピークに、10年度は41兆円まで半減。それが11年度は44.6兆円、12年度も45.9兆円と2年連続増の見込みだ(建設経済研究所調べ)。「第3次補正で足りなければ、12年度予算は結構な額になりうる」(丸谷浩明・同研究所研究理事)。高台移転で人工地盤を造るようになれば、膨大な土木工事も必要で、こうした“カンフル剤”が各社を潤すのは間違いない。

■震災で目覚めた天災需要、カンフル剤はいつまで効く

 これまで建設業界は文字通り、瀕死に喘いでいた。09年に準大手のフジタが米ゴールドマン・サックスの傘下に入るなど、かつての“危機モード”は脱したものの、それも市場に合わせてリストラを進めて縮小均衡を保ってきたに過ぎない。

 その代償として、建設業の許可業者数は60万社から49万社へ、就業者数は685万人から498万人まで減少。相次ぐ談合事件に加え、いわゆる3K(きつい・汚い・危険)のイメージ悪化から、若年層が就職を敬遠し、現場では高齢化も進んだ。いまや3人に1人が55歳以上だ。

 だが、幸か不幸か、大震災が風向きを変えるかもしれない。

 地震や津波による未曾有の被害は、防災への意識を日本中に浸透させた。液状化対策から防潮堤の建設まで、「いざという時」の備えは改めて注目されている。高度成長期に造られた道路や橋が老朽化を迎え、維持・更新の投資も必要性を増す。「今後は全国的に防災機能の強化が高まろう」(有馬長郎・日本建設業連合会事務総長)。

 ただ業界の構造改革が簡単でないのもまた事実。公共事業の低入札に見直しの機運が上がるほど、叩き合いの体質は課題になっている。ボリューム自体も減り、11年度予算では復興財源を確保するため、当初5%の執行留保がかけられた(10月に解除)。「西日本では予算が止められたことで『なぜ東北だけ優先するのか』と本音もあった」(業界関係者)。官需に頼る地方の景気は悪いままで、東北と東北以外の格差も窺える。

 建築中心の民需も甘くない。東京駅周辺では大規模再開発が進行中だが、デベロッパーからの条件は厳しく、請け負うゼネコンにとって、決して採算はよくない。それでも、「シンボリックな超高層ビルは名誉だから獲る。儲からなくてもやめられない」と、清水建設の幹部は苦笑いする。

 ここ20年近く、雌伏していたゼネコン各社。果たして復興バブルは本物か。それとも徒花か。

音楽療法(心のケア参考情報)

2012-01-14 16:24:14 | 日記
 (音楽療法とは)
 
 あなたの好きな音楽は、何でしょうか。そして、あなたは、その音楽を聴いて、どんな気分になりますか?好きな音楽を聴いて、楽しい気持ちになったり、スッキリした気持ちになったというような経験は、は誰にでもあると思います。

その気持ちの通り、音楽には、不思議な力が秘められています。この力を最大限に利用して、心身共に健康に導いていく治療法のことを、音楽療法と言います。また、音楽を聴くだけでなく、楽器を弾いてみたり、歌を歌ってみたりすることも、音楽療法に含まれます。音楽療法は、最近、いろいろな医療現場において、取り入られており、大変注目されている治療法の1つです。

しかし、音楽が癒しに使われた歴史は、かなり古く、3000年前のユダヤ王サウルのうつ病を、ダビデという羊飼いの若者が、ハーブの調べで治したことは、現代でも語り継がれている話です。古代ギリシャのアリストテレスは、音楽には、身体に溜まった悩みやもやもやを吐き出してスッキリさせる効果があり、それをカタルシス効果と名付けていました。

また、中世時代は、いろいろな面で、キリスト教に強く支配されていた時代です。病気に対する考え方も同様でした。それが、ルネッサンス期に移ると、画家達による解剖図といった美術と医療、そして坐骨神経痛の患者の患部の上で、フルートを演奏し治癒したなど、音楽の総合的な活動が注目され始めます。

そして、近代、音楽療法の主役は、アメリカへと移り、当時の大統領のジョージワシントンも音楽療法に興味を示し、軍隊などにも使われ始めました。現代では、医療において、軍隊だけでなく、精神疾患をもつ患者のレクリエーションとして、楽器を演奏や発声訓練をしたりするなど、うつ病・精神不安定な状態の患者の治療に、積極的に取り入れられています。

また、最近では、重度心身障害児の精神発達のための治療方法としても取り入れられているなど、補助的療法として認知されるほど、その注目度は高まっています。

日本でも、音楽療法は、心と身体を健康に導くという研究が、20世紀に入ってから進み、現在では、全音連認定の音楽療法士が、たくさん誕生している程、注目されている治療法となりました

(音楽療法の取り組み)

兵庫県では、十数年前の阪神・淡路大震災、そして、最近頻発するようになった、青少年の命に関わる事件といった、経験と教訓によって、人間一人一人が、人間らしく生き、いのちの尊厳と生きる喜びを実感し、また、同時に、心身を癒すことができるよう、保健・医療・福祉分野だけでなく、宗教、哲学、文化等、様々な分野を統合し、融合したアプローチで、「ヒューマンケア」の理念に基づく施策を展開しているそうです。

兵庫県音楽療法士の養成、及び認定は、音楽療法の実践に係る専門的知識・技能と適性を有する者に与えれるもので、対象者へのアプローチを通じ、ヒューマンケアの実践を目的として、平成11年度から開始しています。

また、平成9年には、音楽療法士の養成・認定に関した検討を開始し、平成11年の8月に音楽療法講座の20時間の「基礎講座」を、12年の7月には、200時間の「専門講座」を開設し、専門講座を修了して、所定の実践経験を積んだ人を対象に審査を実施しました。そして平成14年2月に、27名が「兵庫県音楽療法士」として、初めて認定されるに至りました。

講座は、その後も引き続き実施され、平成15年3月には、新たに45名が、「兵庫県音楽療法士」として認定を受けました。その後、平成14年2月に、兵庫県音楽療法士に認定された27名に対して、2ヶ月後の14年4月に実施した調査結果では、1人当たり、約4施設において活動を実施しており、兵庫県音楽療法士が音楽療法を実施している施設数は、104施設にものぼるとのことでした。

(音楽療法のコンサート)

最近、音楽療法は、代替・補完療法の1つとして注目を浴びるようになってきました。日本音楽療法学会による認定制度も、今年で、11年目を迎えます。しかし、実は、実際には、音楽療法について、どのような形で、医療現場に音楽が導入されているのかについては、あまり詳細には知られていません。

さまざまなミュージシャンを招いて、毎週土曜日に、30分ほどのステージを2回、「土曜コンサート」を行っているというところがあります。1回は、ホスピスの患者とその家族に向けて、もう1回は、病院のロビーにおいて、入院患者と地域住民に向けて行われており、すべて無料で鑑賞することができるそうです。

その日、コンサートで演奏をしていたのは、ピアニストの重松壮一郎氏でした。彼は、即興演奏家で、コンセプトは、「生きとし生けるものすべてとの共鳴から音を紡ぐ」だそうで、1年の半分を、日本全国ツアーで過ごしているという、素晴らしい音楽家です。

ホスピス患者を対象としたコンサートは、ホスピス病棟内のラウンジに、比較的、体調のよい入院患者と家族が集まり、行われました。他にも、患者様の中には、車椅子、さらには可動式ベッドで演奏に耳を傾ける人もいたそうです。

演奏を終えた後、重松氏は、「人生の最期に聴く音楽が僕の演奏になるかもしれないと考え、精一杯弾きました。僕と患者さんでは、時間の重みがまったく違うし、演奏家として、死にものぐるいで精進しなければいけないということを再確認した30分間でした」と語ったそうです。

そして、その後、行われた二回目の病院ロビーでのコンサートには、入院患者を始め、地域住民ら50名近くが集い、重松氏の奏でる即興演奏に聞き入っていたそうです。

   引用 音楽療法WEBガイド http://www.daisakukawahara.net/060/0027.html