復興カフェ スクラム

東日本大震災の復興支援サイト。

建築家 坂 茂(参考情報)

2012-01-18 23:18:12 | 日記
建築家 坂 茂
 
 押しかけて
 とことんしゃべる。
 理詰めを貫き
 紙の館を現実に


 引用 The Asahi Shimbun GLOBE
         January 18 , 2012

http://globe.asahi.com/breakthrough/100308/01_01.html

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両腕を広げたキリスト像が見守る中庭に香ばしいカレーのにおいが広がる。
神戸市長田区のカトリックたかとり教会の食堂では毎昼、ここを拠点に活動する地域FM局や地元の女性や外国人を支援する団体などが、交代で炊き出しをしている。
冬の柔らかい陽光下のランチ。スタッフやボランティアの会話がはずむ。


神父の神田裕(51)は、15年前の冬を思い出す。阪神大震災で、教会はキリスト像と司祭館を残して焼け落ちた。焼け跡で青空ミサが開かれた日曜の朝。建築家と名乗る大柄の男がリュック姿で現れた。
「『紙』で教会を建てませんか」
意表をついた申し出に、神田は「火事場に紙の建物なんてふざけている」と思った。「街の復興が先。教会の再建は後からでいい」と引き取ってもらった。
男は次の日曜日も、その次の日曜日もやってきた。
「木材はパチパチ燃えるけど、本は違うでしょう。紙だから燃えやすいということはないんです」
「重機がなくても組み立てられます」
あきらめず教会に通いつめる男に「教会ではなく、住民が集まれるコミュニティーホールなら」と、神田は折れた。
高さ5mの紙管58本を長円形に配したホールは「ペーパードーム」の愛称で復興のシンボルになった。紙管を壁材にした仮設住宅も区内の公園にできた。


トルコ、インド、スリランカ、中国、イタリア。いらい地震や津波、洪水が起きると男は現れ、仮設の住宅や学校、ホールの建設に携わることになる。
男は、坂茂という。阪神大震災は、〈紙の建築家〉として地歩を築きつつあった坂が、〈行動する建築家〉シゲル・バンとして世界の被災地に活動を広げる起点になった。


なぜ「紙」にこだわり、「被災地の救援」に執念を燃やすのか。
幾何学的な設計で知られた米建築家ヘイダックにあこがれ、高校を卒業すると単身、米国に渡った。日本の大学で建築を学び、建築事務所で修業を積んで独立――。そんな定番コースを歩まず、米国という強烈な個性のジャングルでもまれた。
特定の「師」の影響も受けなかった。異色の経歴が「建築家としての自分のスタイルをどう築くか」をより強く意識させることになった。
「はやりの建築をまねるだけでは歴史は変わらない。自分独自の『構造』と『材料』を見つけねば」。「材料」との出会いは帰国後ほどなくやってきた。


86年、展覧会を企画構成する仕事で内装用の材料を探していた坂の目に、ふと別の展覧会で使った反物の芯が事務所の隅に転がっているのがとまった。
再生紙で作られた芯には木に通じる温かみがあった。それでいてコストが安く加工も簡単。強度は木に劣るが、そこは「構造」で補えないか。実験を重ね、建築材としての認可を得た。
気鋭の若手建築家として評価が次第に高まっても、坂のもやもやした気持ちは晴れないでいた。

タクシーに乗って気になる建物を見つけ、運転手に尋ねても、「ああ、○○建設さんね」と、施工したゼネコンの名前しか返ってこない。日本で建築家は尊敬されていないのではないか。そんな疑念にとらわれた。
〈すばらしいモニュメントを作ればその街の誇りになるはず〉〈しょせん金持ち、政治家、宗教団体など特権層の富と権力を視覚化しているにすぎない〉
自問自答を繰り返していた94年、雨期のアフリカで毛布にくるまり震えるルワンダ難民の写真を見て、ひらめいた。
「紙の出番だ」

ジュネーブの国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)本部に、アポなしで押しかけた。
「紙管なら断熱性があるし、現地調達も難しくない」。坂の提案を聞きながら担当官は別の点に着目した。UNHCRは当時、配給されたシートの支柱にするため難民たちが森林を伐採するのに頭を悩ませていた。紙管があれば伐採を防げる。廃棄処分もしやすい――。


95年、UNHCRは坂を仮設シェルターの設計コンサルタントに迎えた。
その年、神戸ではペーパードームが大勢のボランティアたちの手で組み上がった。
「建築家として歩む方向がこれで定まった」と坂は思った。
その後、米国が与えてくれたもうひとつの「力」の意味を、坂はかみしめることになる。


仏北東部の都市メッスに今年5月に開館する美術館ポンピドーセンターの分館は、コンペで優勝した坂らが設計した。
展示室の上に巨大な編み笠のような木組みの屋根を覆いかぶせる構造。
西洋伝統の「堅固な壁で囲いこむ」建築ではなく、建物の「内」と「外」が連続する空間を目指した。
だが着工段階になって市当局が「経費がかかりすぎる」と鉄骨屋根への変更を求めてきた。ゼネコンが建築家の支援を惜しまない日本と違い、欧米では建築家が、予算を抑えたい施工主や彼らの側に立って設計理念を骨抜きにしようとする建設会社と対立することは珍しくない。


坂はあえて「美観」を理由に対抗する戦略は採らず、かわりに、どう木でコストを抑えられるか、いかに建築も容易で機能的か、知人の専門家の手も借りてデータを集め、説明を重ねた。そして設計通りの「木の屋根」を守りぬいた。


米国の大学教育では、なぜそこに直線をひいたのか、曲面を配したのか、合理的な説明をひとつひとつ求められた。最終的には「感性」が出来栄えを左右する。とはいえ、プロに必要な理論構築力は訓練でしか身につかないという思想が徹底していた。だから、日本の大学で教えた時、学生が「この方がカッコいいと思ったから」と平然と答えるのにあぜんとした。
「人種、文化、価値観が異なる相手を説得し、動かすには、客観的に理論を自分の口で説明するしか術はない。世界という舞台では、『有言実行』しかありえない」


坂は得意の「説明力」を被災地でも発揮する。中国・四川では、まず地元の大学でシンポジウムを開いて被災者に紙の建築を説明。それから紙管を用いた仮設の学校に取りかかった。今年2月、坂は紙管のサンプルを持ってハイチに乗り込み、仮設住宅の構想を説いて回った。


神戸のペーパードームは08年、99年の地震で被災した台湾の村に移設された。
その跡地にできた教会も、坂が設計した。紙は聖堂の内装に使われている。
「被災地にかかわること」で建築家の理想像をしゃにむに追い求める坂と、日々の地道な活動とチームワークこそ大切だと考える住民やボランティアたちとの関係は、しばしばぎくしゃくした。
「坂さんにはこりごりですわ」。その板挟みになった神田は言う。だが、にぎやかな中庭を見るその目は笑っていた。
「でも、なんやかやいって、結局みなここに集まってくる。坂さんはシンボルをつくる天才や」

                                         (文中敬称略)


坂 茂(ばん・しげる)
1957年、東京都生まれ。
成蹊高校を卒業後、80年、建築家ヘイダックが建築学部長を務めるニューヨークの大学クーパーユニオンに入学。途中1年間休学して磯崎新氏の事務所に在籍。85年、東京で坂茂建築設計設立。89年、名古屋の世界デザイン博で初の「紙の建築」を手がける。2003年、仏ポンピドーセンター分館の建築設計コンペで最優秀。10年2月、大地震に見舞われたハイチ。仮設住宅千節のための寄付を各国でアピール。現在、世界約20カ国で建築プロジェクトや建築コンペに参加するほか、米ハーバード大学で教鞭を執る。


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