労働者民衆の「憲法」をつくろう!

現行憲法の思想と決別し、労働者の自立した思想を勝ち取ろう。タイトルを変更しました。

森の問題発言は、個人の問題では無い。根はより深い。

2021年02月13日 | 政治社会
森喜朗の女性蔑視の問題発言は、森の個人的な発言で片付けてはいけない。森は以前「日本は神の国」と発言したことがある。ジョークでは無く本気でそう考えて発言していた。
 この森をオリンピック・パラリンピック組織委員会会長に推薦したのは安倍である。その時の官房長官は現首相の菅である。安倍と森は価値観を共有していると考えて差し支えない。ただ、安倍は上手に自己の価値観をカムフラージュし、失言しないようにしていた。安倍が靖国神社の例大祭には、必ず参拝か玉串料を払っているのを見ても分かる。彼らは、天皇主義者である。
 そして、それは彼ら二人だけでは無く、自民党の中にはかなり大勢いるし、それ以外にもかなりいる。
 戦前の国家社会を評価する人間は、自民党だけでは無く、一般に右翼や保守層の中にかなり存在している。神社本庁に集まっている人間はそうである。森友学園の篭池もそうである。
 戦前の価値観、国家主義思想を保持している人間は無視できない勢力を保持している。
 戦後日本は、憲法が大幅に変えられ民主化されたが、それは表面的なものであった。なぜなら、天皇制が存続していたからである。象徴制であれ天皇制が存続したことは、天皇主義者の拠り所となっている。天皇が、現行憲法を尊重し遵守する市制を明らかにしても、天皇が存在するだけで、天皇主義者にとっては、充分拠り所となる。森が「日本は神の国」という時の根拠になる。天皇が「自分は神ではなく人間である」と宣言したとしても。
 それは又、皇室神道の祭祀が国家行事的扱いされている現実(天皇代替わりの儀式)を見ればわかる。皇室神道の祭祀は、天皇家の私的祭祀である。それが国家行事として扱われていて、国の予算が付いている。それは明らかに憲法違反。それを自民党政府は容認している。これだけ見ても、自民党が天皇を元首扱いしていることが分かる。いやそれ以上の存在として考えている。
 だから、森の発言は彼個人の問題では無く、日本の構造的な問題である。その構造は、戦前の国家社会の有り様を戦後も引き継いでいる人々が国家社会の中枢にいて、そのような考えに基づいて政治や行政を動かしている。
 勿論、今回の森発言を批判する多く人々が声を上げたが、一方自民党は森を擁護した。特に二階は公然と擁護し批判を浴びた。森を推薦した自民党がその任命責任を自覚し率先して森を止めさせることが出来なかったのは、自民党も又森と同じ価値観思想を持っているからである。
 この問題が突き出したのは、戦後民主主義=憲法の脆弱性である。森のような発言が、イギリスやフランスドイツアメリカであったら、則辞任させられるだろう。辞任まで時間がかかったことは、日本の民主度の低さを示している。
 そこ根源は、戦後憲法=民主主義の脆弱性にある。それは安倍政権時代、憲法を軽視あるいは無視した政策が平然と行われたことに現われている。
 では、私たちの闘いのターゲットは憲法擁護となるのだろうか?憲法が戦後一貫して、支配階級によって利用されてきたにすぎない。それは、表面的な秩序の根幹ではあった。
 憲法の本質は何か?戦後憲法は、労働者民衆の闘いの結果形成されたものではない事は明白である。戦前の近代天皇制資本主義国家が他国を侵略し、最後にアメリカとの戦争に突入し敗北し、連合国(実態は米軍)の占領を許し、連合国の対日占領政策としての「民主化、戦争放棄」を受け入れた。それを具体化した憲法を当時の支配階級は、否応なく認めざるを得なかった結果である。
 戦後憲法の政治的意味は、戦後世界秩序(米ソの対立と依存の関係)の一方の側(アメリカ)に組み込まれたことを意味するのである。それ故、憲法を擁護することはまた、戦後秩序に取り込まれるのである。それは、戦後秩序を打破することは出来ない。また、前述したように、現憲法に天皇制存続を明記したので、戦前の国家社会の統治システムは解体したが、極端な国粋主義者は除かれたが、官僚たちは多く残った。彼らは自己の思想を民主主義に改良したかは定かでは無い。森や安倍は、戦後育ちだが、その思想は戦前のそれを引きずっている。
 
 この思想との闘いが必要なのである。その武器として憲法は役に立たない。私たちが武器にするのは、戦後世界秩序=憲法と天皇制=戦前の価値観から完全に独立した思想である。それを勝ち取らなければならない。
 

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