アジアニュース

アジアの裏側

「二百ドルで売られた少女」

2006-12-23 14:20:26 | 児童買春、児童労働
タイ・カンボジア国境の町アランヤープラテートの取材協力者から連絡が入った。
「国境線から三キロ手前の民家にベトナム人・カンボジア人の十歳から十六歳の少女売春婦がいる」
早朝私とアシスタント二人で国境の町アランヤープラテートに向かった。

1979年1月7日のポル・ポト政権の崩壊により、ベトナムの後援を受けた新政権とポル・ポト派、シハヌーク派、ソン・サン派などの歴代政権を担った派閥ゲリラとの間で内戦が始まり何万人、何十万人というカンボジア人が殺された。そしてここアランヤープラテートにはカンボジアからの難民が何百万人 という数に膨れ上がっていった。
最後の難民帰還は1993年に終わり現在は陸路でアンコールワットに行く観光客、ビザ更新の外国人、カンボジア側のカジノで遊ぶタイ人が利用する町として知られている。

夜我々三人は協力者のアドバイスで旅行者のフリをしないとまずいといってホテルの前から力車に乗り隠しカメラを持って目的地に向かった。
街をはずれて二十分ぐらい行ったところ暗い闇の中にピンクや緑のネオンが見えてきた。
道筋に何件かその類の置屋らしいものがある。協力者は目をつけてあった置屋を目指して力車の運転手に指示している。中に案内されると三十畳ほどのガランとした部屋に、あどけない女の子が壁に背をつけて客待ちをしていた。
四十人ぐらいだろうか、平均年齢は十二~十四歳ぐらいのカンボジア人・ベトナム人少女達。色の白い子はベトナム人だろう。中では十数人の男性客が物色しはじめていた。ほとんどが中国人観光客で日本人客がいなかったのが救いだった。中国人は少女とセックスすると長生きできる、と言い伝えられている。そういえば中国の毛沢東主席も文革当時数十人の少女を囲っていた話は有名だ。
我々はひと通り少女を物色するフリをして客を装った。どうやら隠しカメラは見つかっていないようだが置屋の男は執拗に我々の後を追う。我々が狭い置屋の中を一周する頃、かなりいたはずの少女が先に来ていた男どもと姿を消して、そこは単なる物置小屋に変わろうとしていた。
協力者が一人の少女を指差し「この子を連れて行く」といった。置屋の男はうれしそうに「二時間だったら千バーツ、泊まるのだったら二千バーツ渡してくれ」と協力者に説明している。
帰りは四人で力車に乗りインタビュー撮りのホテルを目指した。
ホテルに着くと同時に矢継ぎ早の質問が飛んだ。女の子はカンボジア系ベトナム人。我々を警察関係と疑っておびえている。「年は?」「十一歳」「どこからきたの?」「カンボジアのシェムリアップ」「いつから売春の仕事をしているの?」「一年ぐらい前から」「何故この仕事をしているの?」「親が二百ドルの借金をして払えないから売られてきたの」「たった二百ドルか、ひどい話だね。時々親のところへ帰っているの?」「借金を返し終えるまでは、あそこから離れられない。あとどのくらいで返せるかも分からない」両親に恨みがあるふうでもでもなかった。
一身に両親の借金のかたを受けている感じだった。そういうものだと思っているようでもある。
美人ではない彼女。女ではない、ただの少女だ。ただ借金のために売られてきたのが良く分かる。
汚いホテルの一室のベットの上に、少女はハンカチを手でもみながらどう身を処していいのか困っているふうであった。二十四時近くひと通り話を聞き終えた協力者は「このことは誰にも言うんじゃないよ。客を取ったふりをして帰るんだよ」といってポケットから二千バーツを少女の両手に押し込んだ。少女は「ありがとう」と消えいるような小声で両手を合わせて礼を言い出て行った。
東南アジアの国では娘の売買が成立すると、両親は世話人から三百ドルから五百ドルの範囲で前借が出来る。その後、娘が働きに出たら、その娘は前借の二倍の額を世話人に返さなければならないシステムになっている。
だいたい二~三年ぐらい働くと借金を返し終えて自由の身になるが、その後は家に帰らず再びブローカーを通して売春の道に走るのが常だという。
十一歳。小学校五年生の売春婦。ランドセルを背負っているほうがはるかに似合う年齢だ。勉学は絶たれる。親は何故働かないんだ。同情と怒りがこみ上げてくる。

「夜の子供に失業なし1」

2006-12-22 09:49:42 | 児童買春、児童労働
最近また売春少年がバンコクの町に目立ち始めてきた。
「ヘイ!ユー」と暗闇から声が飛ぶ。年齢は十代前半から十七~十八歳の少年。
自分の指で自分を指差し、客の気を引こうとする少年たち。
一言二言言葉を交わして外国人男性と少年は夜に消えていく。
毎晩市内の大手ショッピングセンター(シーロム通りロビンソンデパート)前などにたむろして性に飢えた外国人をキャッチする。少年の名前はデン15歳、バンコク・クロントイ出身。路上生活三年、シンナー遊び歴二年という彼は飢餓少年のようにやせ細っている。 13歳のとき父親から「町に出てお金を稼いでこい」と言われ友達二人と交差点で花を売っていたが交通整理の警察官から「手っ取り早く稼ぐ方法がある。外国人とホテルに行けば一回1000バーツもらえる」といわれ客を誘う方法を教えられて稼ぎの30パーセントを渡す。 コンドームを使わず口とアナルでサービスしエイズに感染するのも時間の問題だろう。デンも数多くのタイ少年のように貧困・麻薬・急激に変化する社会の犠牲者だった。未成年の子供売春の数は推定で全国で二十万と人権活動家は見る。
逮捕を巧みに逃れている子も多いからもっと数字は伸びるかもしれない。
商業主義が地方まではびこり始め、車・バイク・ビデオなどの新製品が不可欠のものと大人が思い始めている。買いたいが金がない。土地を売れば、あとは子供を売りに出すしか道はないし体を売るしかない。中国人街の安宿の外で客を待つ幼い顔をした少年少女たち。

[この項バンコク週報の記事からの引用]
16年間に渡ってタイ人少年445人以上に性的虐待を繰返してきたフィンランド人(43)が逮捕された。445人買ったオヤジもイカレテいるが、商品にされている子供たちがそんなにいたのにも驚きだ。タイでの児童買春は減ったというが、未だにあるところにはあるようだ。
大人は自分の身体を、自分の意志で〃売る〃〃売らない〃を決められるが、子供たちは、自分の意思とは関係なく大人の都合で売られてしまうから地獄だ。タイでは、出稼ぎのために姉に子供預けたら、知らない間に売られちゃった、という話が実際にある。今の自分の生活をほんのちょっとラクにするために子供を売る社会、そして子供を売買するマーケットが存在する社会。
物欲に眩んで、子供たちの酷い未来を想像できない、その貧弱な想像力しか育めない社会を改善すること。そして、増殖するイカレタ趣味を持った大人たちの数=需要を規制するために法律むちゃくちゃ厳しくして、取り締まりも厳しくすれば、救われる子供たちの数は増えると思う。

「タイ-日混血児の村」

2006-12-19 12:40:21 | 児童買春、児童労働
チェンライ県メーサイ郡、ウィエンチャイ郡、それにムアン郡には、タイ人と日本人との混血児が沢山いる。海外に出稼ぎに出る女性の待遇改善センターの調べによると89の村で一村平均3人のタイ-日の混血児が、北部の女性の海外出稼ぎの結果として暮らしている。
7歳になるノックちゃんも“桜の国”から来た子供の一人で、現在は祖父母と共に、メーサイで暮らしており、母親が毎月仕送りをしてくれている。彼女の母親は、再び日本に出稼ぎに行ったのではない。ノックちゃんの母親は、ノックちゃんを生んでからタイに帰国し、ノックちゃんを祖父母に預けて直ぐにバーレーンに出稼ぎに行ってしまった。もし仕送りをしてくれるお母さんが居なかったらノックちゃんは勉強したり食事をしたり出来ただろうか?祖父母の家は貧しく、ノックちゃんの母親からの仕送り以外の収入は無いのである。
次は、ノックちゃんと年齢が近いマリカの村。マリカは髪が薄く黄白色の肌をした8歳の女の子。彼女も祖父母に育てられている。マリカのお母さんは、マリカを背負ってタイに帰国後、エイズで亡くなってしまった。
マリカの祖父母は、『孫は生まれて僅か9ヶ月の時にメーサイに来たんだ。肌が黄白色で目が小さく、村の人気者だったさ。』と語った。しかし、マリカは父親がどんな顔の人なのか知らない。父親について知っているのは、“日本に居る”と言う事だけ。それにマリカは日本に行った事も無ければ、父親から連絡を貰った事も一度も無い。
最近のマリカは元気がない。満足な食事をしていないからか、いつも病気がちである。更に重要なことに、マリカは生まれるときから病気気味であった。母親が生きていたときには、薬を買うお金も有ったが、母親が亡くなってからはずっと今の様な状況が続いている。
これら記憶のある内に日本から帰ってきた混血の子供達の多くは、タイ語が話せなかったが、タイでの暮らしが長くなるに従ってタイ語を理解するようになる。
タイ語が話せるようになっても発音がはっきりしない。
言葉の問題の他に、これらの混血児はタイの子供達と同じ暮らしをせねばならない。生活様式、勉強、食事(日本料理とタイ料理とは大きく異なっている。)にも慣れなければいけない。祖父母は味の濃いタイ料理に慣れ親しんでいるが、孫達は、薄味の日本料理が好みのようだ。
将来の為、混血児にタイ料理を食べる様にするのも親族の役割。簡単で安上がり、便利な食べ物と言えば、卵料理は欠かせない。
上記2人の暮らしぶりは北部タイの社会で見られるほんの一例である。チェンライ県は、村の若い女性達が、“収入がイイ”との理由で日本に出稼ぎに行く女性が多い地域である。“収入がイイ”との話の他に、日本に出稼ぎに行って帰ってきた女性からの経験談が、まだ行ったことのない女性に行く決心をさせる大きな決め手となっている。日本に出稼ぎに行き、帰る時には子供連れで帰る事になるとは、考えもつかない事である。
両親が共に揃っている幸せな子供も沢山居るが、これらの子供達は父親の居ない子供である他、顔つき、肌の色、も異なる。中には親族から出来る限りの養育を受けている子供も居るが、心の深いところでは、これらの子供達も“愛情”や“温かさ”に飢えている。

「買春側の言い訳」

2006-12-17 11:05:21 | 児童買春、児童労働
私は某週刊誌の依頼でプノンペンの日本人少女買春実態取材に来た。
次の日少女売春婦が多くいるサムダッチ・ソテールゥ通りとトゥールコック通りに行くと昼間なのに日本人のおじさん、若い人が店の椅子に座ってビールを飲んでいたり中には客引きしている若い日本人がいたのには驚いた。
そして情報収集のためバックパッカーに有名なキャピタルホテルのコーヒーショップに行き安部進(仮名)52才と知り会い取材の趣旨を説明し協力を求めた。
彼は「私と今一緒に住んでいる人、アパートの外観の写真は絶対に撮らないこと」で話が決まった。
彼は栃木県(この部分茨城県から栃木県に訂正しました)小山市でかなり手広く農機具販売店を経営し年数回カンボジアのプノンペンに来る少女買春常習者。
次の日、私は取材場所である阿部氏のアパートに日越通訳を連れて行きインタビューを始めた。
ここに取材時のメモがあるので一問一答を書きます。
「あなたはいつから何故買春をするようになったのか?」「40代の時、農機具メーカーの招待旅行でタイに行った。そのとき10代後半の女性を買った、タイ人女性はきれいでスタイルも抜群、そして、日本で買うより安かったのでその後二ヶ月に一度ぐらいタイで買春していた」「少女買春したきっかけは?」「3年前の12月、成田空港の本屋でカンボジア女性との遊び方を書いた本に『プノンペンはタイよりも買春の値段安い、殆どが少女』と書いてあった。来た当初はスワイパーに毎日通いました1回5ドルだから」「その子は何才?横にいる人は誰?母親?」「おとといトゥールコック通りにある行きつけ店でオーナーから『新しい経験のない15歳の子が入ったから連れて行かないか、一週間泊り込みで1000ドル。ただし母親も一緒に連れて行くことが条件』といわれここに連れて来た。」母親が一緒に来たのは客が足抜けさせるのを防止するためだ。
「15才って犯罪じゃないの?」「犯罪?ベトナムの田舎じゃ13才ぐらいで結婚すると聞いているよ。俺は彼女を助けてんだよ、ベトナムで1000ドル稼ぐのに何年かかるかあんた知っているのか?母親も一緒にいるから問題ないんだよ」と突っかかってくる。「カンボジアは例え親の了解を取っても未成年買春は重罪ですよ、警察に捕まったらどうするの?」彼はふてくされた様子で「店が警察のトップに賄賂払っているから心配ないとオーナーが言っているよ、他の日本人も買っているんだ、お前にお説教されるいわれはないよ」これ以上のインタビューは無理だと思い私はソンの母親に通訳を通して話を聞いた「なぜ娘を売ることになったんですか?」母親は小声で「だれも自分のお腹を痛めて産んだ子を売ろうとする親はいない。でも祖父が病気になって高利貸しから借金をしてしまった。娘には申し訳ないと思うが1年間我慢してもらうしかない。私も10代のときベトナム戦争当時米兵相手に売春をしていた、家族を養っていくために。でも娘の始めての客が日本人で好かった沢山チップくれるし」。
ベトナム人少女ソン15歳は5日前母親と一緒にベトナム・ホーチミンからバイクでカンボジア・プノンペンにあるトゥールコック通りの売春街に来た。
家は中部ベトナム・プレイクの村で畑仕事を手伝って生活している。家族は祖父母、両親、兄弟5人の末っ子。
はじめソンの母親はホーチミンの売春ブローカーに会った。「プノンペンに行けばいい稼ぎになるよ、娘はまだ若いし500ドルを今払います。客からのチップが毎月200ドル以上入り奉公は1年間」もちろん母親は仕事の内容が売春と知っている。
でも、ソンの家は約1700ドルの借金をしているので500ドルでは足りない。
それで母親は直接プノンペンの売春宿に行って娘を売ることにした。
そして、通りでは中堅クラスの店のオーナー(中国人)に母親は800ドルで娘を売った。ソンが15才になって一週間後のことである。
取材が終わりバンコクに帰って2週間後、日越通訳から電話があった「安部が未成年者買春で逮捕された」。
次の日私はプノンペンに行き警察署で彼に面会した。
阿部は私に「助けてください、反省しています。お金は払いますからここから出れるよう警察と取引してくれませんか。」と悲願した。
「若い日本人と少女の取り合いになり阿部の事を警察に通報した」と取調官は話してくれた。
*スワイパー
おもにベトナム人女性が売春に従事し、少女売春が公然と行われていることで知られています。一部の外国人旅行者にとって楽園的存在だったようで、日本人同士のいざこざが絶えなく現在は閉鎖されています。

「叔父に売られた12才の少女」

2006-12-15 09:52:30 | 児童買春、児童労働
カムノーィ12才は祖母・両親・弟妹の6人でミャンマー・シャン州ラオス国境の小さな村に住んでいた。 
この地方では子供も一人の労働力とみなし学校には行かせてもらえない、毎日畑仕事の手伝いをしていた。
両親が畑仕事をしている時、叔父に「タイのメーサイでウエイトレスの仕事をすれば月八千バーツになる親孝行しなさい、仕事が嫌ならいつでも帰ることができる」と言われ叔父とバイクでタチレクの町に行った。
国境のメーサイ川に着くとミャンマー人の男と二人のモン族の女の子が待っていて叔父は男からお金を受け取っていた。
(私がNGOから聞いたところ彼女の叔父はミャンマー人ブローカーにカムノーィを2万バーツで売ったそうです。)
夜10時ごろ4人で歩いて川を渡りタイ側のメーサイに着くとタイ人の男が待っていた。
そして、ワゴン車に乗り13時間かけてバンコク・ヤワラー(中国人街)の置屋(冷気茶室)に着いた後、タイ人は置屋の主人から金をもらい帰っていった。
途中一緒に来た二人の女の子は別の店で下ろされたが場所は覚えてはいない。
置屋には15才から25才ぐらいまでの売春婦が17人いた、18才以上の女性はタイ人、それ以下は全員少数民族だったが彼女達はラフー族の為言葉が全く通じなかった。
カムノーィは幼かったのですぐ客がついた、初めての客は中国人(タイで少女買春するのは中国人が圧倒的に多い、処女とセックスすると長生きできると言い伝えられている)。
彼女はまさかここが売春宿とは思わなかった「店の男に連れられ大きなベットのある部屋に行くと60才ぐらいの中国人が待っていた。服を脱がされ水で体を洗われてベットに寝かされた、そして激痛、そのまま気を失った」。
店の中で彼女は一番若かったので次の日の朝から客がついた。その日は夜12時まで8人の客を取らされた。泣いて逃げようとしたが店の男に連れ戻され鞭で殴られた。
店では午後1時ごろ起きて昼食兼夕食、洗濯、化粧をし客を待つ、客は中国人、インド人、タイ人、時々若い日本人も来た。
お客が来ると女の子3人で部屋に行き客に顔見せする、サービス料は2時間で300バーツ、でもカムノーィには全くお金を渡さず客から貰ったチップも店の主人に取られた。
彼女達の控え室はサービスする部屋と同じで大きなベットに10人で寝ていた。
客が帰ると部屋に戻り他の女の子とテレビを見たりして次の客が来るのを待つが彼女はアカ語だけしか分からないのでテレビを見ても面白くなかったという。
店に来て5日後、店に警察の手入れが入りカムノーィを除く18歳未満の子は店の男に連れられていった。カムノーィは主人の車で北バスターミナルへ行きチケットを買ってもらいチェンライ行きのバスに乗せられた(現在タイの法律では売春させる相手が15歳以下の場合、本人の同意に関わらず厳しく罰せられる。子供を売った親・中間業者・店のオーナー・客引き・買春当事者は一回10年、五回だと50年の懲役刑。)店のオーナーはこの法律を知っていたのでカムノーィを店から追い出したのだ。
「バスターミナルで主人からもらった300バーツの中からお腹がすいていたのでパック入りの牛乳一つと菓子パン一つ買って食べた。バスが出発すると排気ガスが車内に入って来て気持ち悪くなり全部吐いてしまった。夜行バスなので怖くて眠れなかった、昼ごろチェンライ・バスターミナルに着いたが何も分からずベンチに一人で座っていたところ老夫婦が来て私に話しかけてきたがタイ語の分からない私を警察に連れて行つてくれ1時間後NGOのオーイお姉さんが迎えに来た」。
オーイは「チェンライ警察から電話があり署に行ってみると汚い服を着て頭がシラミだらけの小さな女の子が椅子に座っていた。私は彼女がアカ族だとスグに分かりました、私と同じお守りを持っていたからです。そして、タイ語アカ語で話しかけても何も答えない。警察官が袋菓子を渡そうとして近寄ると怯えて体をガタガタ震わす、男の人が怖かったのでしょう。そしてとりあえずNGOの宿舎に連れて行きました。」「宿舎に来て3日後、カムノーィは少しずつチェンライ・バスターミナルに来るまでの事を話したのです。」
オーイの両親はアカ族でチェンライNGOアカ族担当者(ダーを保護したのもオーイです)。そこには約20人の少数民族の少女(全員NGOに保護された少女達)がいてカムノーィは性病検査とエイズ検査を受けた。エイズは陰性、性病は淋病と診断された。
オーイはミャンマー側NGOに連絡取りカムノーィをメーサイの国境まで迎えに来るよう要請をした。
20日後、国境で彼女を引き渡した。その後ミャンマー側NGOにオーイが聞いたところ「カムノーィを家まで連れて行ったところ両親と祖母が彼女を抱きしめて長い時間泣いていたそうで何故家を出て行ったのか全く分からなかった」そうです。
叔父が彼女の親に内緒で売ったのだ。
カムノーィは運が良かった、エイズにも感染しなかったし早期に親元のところに帰る事ができた。
約10年ぐらい前、パタヤの売春宿から保護されたミャンマー人少女売春婦8名は北タイの国境でタイ警察からミャンマー軍に引き渡された。
そして数日後、野犬が銜えてた頭髪の付いた洋服を調べたところミャンマー軍に引き渡した少女達のものと分かり国境周辺を探した結果、8名の少女達の頭部に銃弾痕がある白骨が見つかった。
ミャンマー軍は国内にエイズが広がることを恐れタイ警察から引き渡された後、射殺したとタイの新聞に出ていた。
勿論、ミャンマー政府はこの事を否定しています。

「タイのVISA事情」

2006-12-12 08:23:02 | 児童買春、児童労働
バスの中は日本人・韓国人・フィリピン人・白人約30名、皆タイで不法就労、ロングスティをしている人達だ。
朝6時15分、スクンビット通りの集合場所に集まりカンボジア国境行きのバスを待つ。
バスに乗り込むと添乗員が来てパスポート・写真一枚・費用2000バーツ(カンボジア・ビザ代、他経費)を集める。
このバスはワンディ・リターン専用バス、国境まで約4時間(アランヤープテテート)から4時間半(バンレム)
で着く。
ここで添乗員に旅券を返してもらいタイ出国スタンプを押してもらいまた添乗員に旅券を渡す、そのまま歩いてカンボジアに入り国境にあるカジノで無料ビュッフェを食べている間、添乗員はカンボジア・ビザ、入国、出国のスタンプをもらい旅券を本人に返す。
30分後今度は歩いてタイに入国しスタンプをもらい、これで終わり。
ようするにタイ出入国以外は全て添乗員が代行してくれる、そしてまた30日間タイに滞在できる。
勿論このスタンプでは就労は出来ない、観光目的のビザである。
「カンボジア側としては30分滞在しただけでビザ代800バーツが入り、タイは賄賂として一人100バーツほどがイミグレに入ります。皆さんハッピー」と添乗員は言っている。
大阪出身の塩見康子さん(25歳)は30日に一度ビザ延長のためカンボジア国境に行く常連客、周りを見ると知っている顔もいる。
康子さんは某神戸市にある女子大在学中卒業が決まりタイに旅行に来た。
就職は内定していたが旅行で来たタイが好きになり就職を断って再度バンコクに来て仕事を探した、がなかなか良い条件の仕事は見つからない。
そんなある日、タイ語学校で知り合った日本人主婦から日系企業を紹介された、仕事は貿易事務。
会社は貿易関係と言っても小さな会社で社長を含めて8名、資本金が300万バーツなので外国人の労働許可証は1名だけしか取れない、そのため康子さんは30日に一度カンボジア国境に行ってビザの延長をし不法就労を3年間続けている。
ノン・ビザ
タイ入国日から30日間(日本国籍30日間、韓国国籍90日のタイ滞在が許される)10日間の延長可(1800バーツ)オーバースティは1日200バーツの罰金、最高2万バーツ。
最近タイ入国時タバコの持込が厳しくなっています、1カートン(200本)までは無税。
知人が日本からタバコ2カートン持ち込み税関を通りタクシー乗り場で空港警察官に捕まり罰金2万バーツ取られました、気をつけてください。
空路、陸路カンボジアからでも同じです。