
岩野泡鳴、さほど高名ではないこの作家は徳田秋声とほぼ同時代人だ。
独自の文学理論で、近代日本文学史上、そこそこスペースが割かれる御仁であり、泡鳴の作物を激賞する文壇関係者が思いの外、居る。
芸術即実行を体現した、自然主義作家の極北といえる存在だ。一般的には、出世作『耽溺』や『毒薬を飲む女』が知られている。
両作(は関連があるのだが)で繰り広げられる、主人公である田村義雄の、今風で言うDVやネグレクトなどの行状は、非倫理的、不道徳的なのだが、かかる尺度に価値を認めぬのが泡鳴。徹底したミーイズムというか、そもそも他者がいないのかもしれぬ。
そのうえ、義雄が手を出す吉彌も、お鳥も、割れ鍋に閉じ蓋という体(てい)で、さほど魅力的とは思えない。
しかし、妻千代子や関係者を巻き込んだ夫婦喧嘩の描写は、上方の夫婦漫才のようでまるで喜劇だ。真面目に書かれているがゆえに余計笑ってしまう。(当時は一体どう読まれていたんだろうか?)
実は『毒薬を飲む女』は、「泡鳴五部作」として評価されている連作のひとつであり、二作目に当たる。
「泡鳴五部作」は、「自己の発展」を目指す『事業(樺太での蟹(かに)の缶詰製造)』と『恋愛(清水鳥)』を描いている。
一作目の『発展』は清水鳥(お鳥)との出会から妾として囲うまでを描くが、先に触れた喧嘩の面白さは、本作が一番だ。
三作目の『放浪』は、事業失敗による金策と、義雄の北海道見聞録であり、私には面白くなかった。
だが、お鳥が義雄を追って来道してくる『断橋』から俄然面白さが増してくる。義雄は如何にしてお鳥と別れるかに腐心するのだが、なかなか成就しない。(そのくせ、自分が移した下(しも)の病気は治してやらねばという妙な倫理観はあるのだ。)
ありふれた腐れ縁というのではなく、あの義雄が知らぬまにお鳥に食い込まれているかと思わせる不思議な二人の関係だ。
さながら常人らしくしおらしい義雄には、おいおいどうした、と読者として声をかけたくすらなってしまう。最終作の『憑き物』とはその辺りを現しているのだろう。
しかし、帰京してきたお鳥の背信が露見して、我にかえってしっぺ返しをする義雄の姿で終わるラストシーンは、何だか痛快な感さえする。
現状では「泡鳴五部作」は一冊で読むのは容易とは言えないようだ。(私は昭和40年版講談社日本現代文学全集で読んだ。)
『耽溺』と『毒薬を飲む女』のみ読んで、人でなし!という感想だけで終わるのはちょっと惜しい作家という気がする。(まぁ、ちょっとだけよ。)
「裂かるるを拒みつ今宵解れゆくややしどけなきかに風味かまぼこ(新作)」
決して不良品でも賞味期限切れでもありません。(汗)
作中のお鳥(清水鳥)を意識して少し艶っぽく詠んだ。、、(苦笑)
不尽
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