ヘルンの趣味日記

好きなもののことを書いていきます。

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2017年07月30日 | ブログについて


仕事で時々ホームページの更新作業をします。
簡単な更新程度ですが、ブラウザによっては表示が違ってきます。
私は普段、firefoxを使用しているのですが、他のブラウザでは違って見えたりします。

どのブラウザにも対応しないとダメです。
指摘されて修正したりすることもあります。

ブログはそういったことをすべて人まかせで記事の内容だけ考えていればOKで楽です。
そのかわり運営の都合でサービス停止になったら自分で移行しないとダメですからそれはそれで大変かもしれません。

困るのは、ブログでは歌詞の引用が自由にできないことです。
著作権の問題です。
別のブログでは自由にできるところがあるようで、しまったと思いました。

でも、逆に制約の中で、どれだけ伝えられるか。
それはそれで面白いので、しばらくはこのままやってみようかと思います。

ギャオスとヒッチコック

2017年07月28日 | 映画


映画「ガメラ」平成版をかなり前にテレビでみました。
途中からみて、夢中になって最後までみてしまい、翌日にレンタルショップに走りました。

これはすごいとワクワクしました。
SF映画の好きな人は続編のほうがいいといいますが(そちらもテレビでみました)私はこちらが好きです。

ヒッチコックの「鳥」の怖さをもっています。

ハリウッドでは「鳥」成功のあと、パニック作品の流行があったみたいです。
何かが襲来して人間がパニック状態になるという点は成功したようです。
でも、鳥にみられるサスペンスの怖さ。
映画の前半では恐怖がちらちらとしかみえない、本体がみえない怖さ
被害は出ているのですが、鳥が集団で襲い掛かる場面がなかなか出ません。なにかがおきている、でもわからない。
そうした不気味さが支配します。
そしてとうとう鳥の集団が襲ってきてからは畳み掛けるような感じです。

この前半の、恐怖の本体を見せないでサスペンスを盛り上げる呼吸はアメリカの監督は下手みたいです。成功例があるのかもしれませんが、私はみたことがありません。

映画ガメラでは前半、ギャオスの痕跡があるのにギャオスの本体は姿をみせません。
そして姿をみせると鳥の怖さをみせます。
生物の中でもっとも移動が効率的といわれる飛行生物です。
福岡も東京も蹂躙します。中央線をおそって人間をくらうシーンは本当に血も凍るような怖さでした。
そして東京タワーに卵を産み付け繁殖しかけます。
このあたりではっきりしますが、この映画はガメラというタイトルですが、主役はギャオスで、怪獣映画版「鳥」に見えます。

ギャオスが繁殖したらもう被害を食い止められません。
一羽でも日本全国を軽々と移動しますから世界が滅びるでしょう。
それはガメラによって阻止されますが、本当に危機一髪だったわけです。

移動効率のよさと繁殖による個体増加という2点があわさると、鳥はとても怖いのです。
この怖さはヒッチコックにもありませんでした。SFであることの強みです。

科学的に怖いのです。

見終わってから、本当にほっとしました。
もしギャオスの「渡り」があったらどうしようと、かなり真剣に考えるくらいでした。
実在のアナウンサーを起用したのも上手い。
時代が違うので(たとえばまだスカイツリーがなかった)今ではそれほどのリアリティは感じないでしょうが、東京に住んだり通勤したりする人にはかなり真に迫った怖さです。


「鳥」の前半の怖さを出す映画はみたことがありません。
それを平成版ガメラでみつけてすごいと思いました。
特撮、CGといった技術の使い方はスピルバーグとかハリウッドの映画監督が上手いのですが、脚本と演出によるサスペンス効果はこの映画に及ばないように思います。




カラオケ

2017年07月25日 | 日記


最近はあまり行きませんが、カラオケは好きです。

歌は上手くないのですが、スマホなどに入れて聞いているうちに覚えて、それなりに歌えるようになります。

カラオケバトルの番組があって、よくみていました。
難しい曲をカバーして他の歌手が歌い、カラオケ採点の得点を競うというものです。

番組をみて、オリジナル曲を歌うのと、カバーすることの違い、その難しさを感じました。
別の歌手が歌うとたしかに違った感じで面白い。
でも、やっぱり最初に歌った人の歌い方を原型として自分の個性を足しているだけなのです。

だからここで上手くなった歌手はあまり成功しません。
オリジナルを歌って、新しいものを作り出せないからです。


昔のヒット曲を歌ってカバー曲を流行らせたのは井上陽水のようです。
この人はオリジナル曲を歌って素晴らしいのですが、その彼があえてカバーしたアルバムの歌は元の歌とまったく別のものです。
元の歌を聴いて真似たのではなくスコアをみて歌ったのでは?
という気がするくらい独創的です。

やっぱりこの点がカラオケバトルの歌手たちと違います。
誰かの歌をきいて覚えて自分が歌う。
これは結局はカラオケでしかないのでしょう。

カラオケバトルに出る人たちはアイドル歌手よりはるかに歌は上手ですが、それでも歌手としていまひとつ、という場合が多いような気がします。
歌の下手なアイドルでも歌手として成立しているのは歌を作り出しているから。
歌詞と曲があっても、そこから歌を作り出すのは一つの創作です。
プロの歌手が歌を歌うというのは、音程が正確で声量があるだけでは十分ではない。
スコアから自分の解釈と個性で苦心しながら歌を作り出すことなのだと思います。


トニオ・クレエゲルの記事で、芸術家でないことが幸せかもしれない。
とかきました。
創作活動より、 ただ綺麗だと眺めるほうが、素晴らしい歌や絵を鑑賞するほうが、楽ではあります。

でも創作することは大変な作業でも、喜びもとても大きいのだろうと思います。
楽な道を選んでいる以上、その喜びがわからないのは仕方ない。
小説を読んで楽しみ、カラオケで満足していますが、それはそのレベルの喜びで満足することです。

楽な方の道を選択した以上、やはり創作する人たちには一歩道を譲らなければいけないかなと思います。

チャーリー・ヘラーの復讐

2017年07月22日 | 日記
ロバート・リテルの作品で原題は"The Amateur"です。
スパイスリラーでしょうか。分類が難しい。
映画化もされています。

あまりネタバレにならないように書いているのですが、今回は結構内容を書きますので(できるだけ伏せますが)愉しみをとっておきたい方は読まないほうがお勧めです。

私は出版後かなり後に絶版の本を借りて読みました。
アマゾンなど古本で購入できます。

タイトルの訳はよくないかもしれません。
タイトルについてはそれほどこだわらないですが、ミスリードするようなのはちょっとダメかもしれません。
これでは復讐譚のようです。
たしかにチャーリー・ヘラーという男の復讐なのですが、その復讐は一般的な意味と少し違います。

殺された人のためのかたき討ちではありません。
ヘラーはCIAに勤務するコンピュータ技術者です。
彼は婚約者を殺されますが、その後その人の父親にあいます。
その父親からかつて家族を殺した男に復讐を果たした話をききます。
そしてヘラーは「でもそれで死んだ家族が生き返るわけじゃないでしょう」といいます。
すると父親はまだわからんのか、という感じで怒鳴ります。
「生き返ったのは家族じゃない、私だ」

それでヘラーは復讐に着手します。それは自分が生き返るためです。
チャーリー・ヘラーが再生するというテーマなのです。

だからタイトルはちょっとな、と感じます。

彼は復讐を完成させる前に、一人の女性と出会って復讐をやめようと思います。
その人は自分の命がかかっているときに、飼っている鳥を逃がします。
復讐にむなしさを感じていたヘラーはその器量に感服して彼女と一緒なら人生をやり直せると思います。
結局、その人がさらわれたので復讐を決行しなければならなくなりますが。

彼にとっての復讐という行為は死者のためではなく自分がいきるための復讐でした。
復讐譚にありがちな恨みの動機があまりないのです。

そして明るく終わります。
巨大組織に個人が挑戦して勝つというのはとても痛快です。

ヘラーは仕事も人生も再生させます。

この作品ではヒロインがいいのです。
しょっちゅう英語の諺を間違えるチェコの女性です。
この作品で英語の諺ってこんなのがあるんだ、と思いました。

訳が古いのですが、面白い小説です。

トニオ・クレエゲル

2017年07月19日 | 日記


あまり純文学は読みませんが
学生時代、レポートをかくために、トーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」を読んだことがあります。
その中で印象的だったのは、芸術家で詩人(の卵)トニオが俗人の美しいハンスに憧れるところです。

芸術について考えることのなさそうな人がトニオの芸術的衝動をかきたてるらしいです(これであっているかちょっと自信がないです)。

中島敦の「悟浄歎異」という西遊記をもとにした短編小説では
トニオみたいな沙悟浄が悟空に憧れます。
悟空の何も考えないような本能的な戦い方、戦う姿の美しさ。
これらを賞賛します。
トニオがハンスに憧れる気持ちに通じるような気がします。

トニオを読んだときは共感できることはあまりなかったのですが、悟浄の話を読んだときは少しわかると思いました。

私が鳥をみて美しいと思うのと似ているように思います。
都心でも時々野鳥をみかけます。
何も考えないシンプルな美しさ。
飛ぶためにある美しい姿。
努力して身に着けたものではなく、生まれながらの美しさ。
優美な尾。胸のカーブ。
鳥たちはみとれている内に飛び去っていきます。みとれている人間のことなんてまったく気にも留めません。

クレエゲルの気持ちとは違うような感じですが。
彼の気持ちはあんな風になりたいという気持ちと自分は違うという気持ちが入り混じっていたようです。

沙悟浄はトニオと違っていて、悟空を驚嘆の気持ちでながめていて、憧れるけれど自分がそうでないことに複雑な気持ちをもったりしません。
たぶんこちらのほうが自分には近いと思います。
鳥になりたいとか飛びたいとか思わないので。


こうした葛藤の欠如がトニオのような詩人、芸術家と一般人の違いなのかもと思います。
綺麗だなあとのんきにみていることができるのは幸せなのでしょう。