2023年の7月末。
脳梗塞で倒れた母は、早期発見と早い段階の緊急搬送で入院1週間目には後遺症もなく病室を歩いていた
その間に出張中だった親父が肺炎になり、別の病院で入院すると言う事態になっていた行ってたのだが、それをまた別の話である。
入院中にコロナに感染し、入院期間が伸びたが、脳梗塞になった患者として後遺症も無くはかなり幸運な状態で退院できることになった。
急性期の病院からの退院に当たって、リハビリ専門の病院に転院することと言う話もあった。
経済的に余裕もなく、親父と私と引きこもりの甥っ子と言う人数的には恵まれていたので、結局は家で見ることになった。
要介護認定結果が出ており要介護1だった。
もちろんそれは脳梗塞で倒れる前の判定だったのは入院前とほとんど変わらなかったのでそのままとなった。
ケアマネジャーもついて、介護保険の利用について病院側と話し合ったが、親父の方が彼ばっかり取りやがって、どんだけむしりとるんだと怒り心頭で、デイサービスなどの利用は見送られることとなった。
食事介助し、トイレ誘導行い、通院をして見守る。
昼夜逆転気味なので、すぐ横に寝てトイレ対応も行う。
私が仕事でしていることを家でも行うこととなった。
私と親父は仕事に行く時は自宅警備の甥っ子に任せた。
施設でもそうだが、それでも限界はある。
次第に落ちていき、介護度が上がっていく。
今はそう言う状況。
オムツも1日に5枚は使い、失禁も増えた。
施設なら寝具の替えも潤沢にあるが、家庭で敷布団まで汚染されてしまうとなかなかの負担である。
入浴介助は親父が行っている。
ふと思うのだが、親父と母親の息子として52年。
おそらく夫婦仲は今が一番いいのではないかと思う。
親父が子供をあやす様に声をかけているのを見ると、息子としては異様に見える。
そんな親父が「もう限界だな」と言った。
だから介護保険でディサービスなど使った方がいいと言ったとは言わなかった。
2023年7月末。
特別養護老人ホームで働く私はシフトで遅番だったので家に着いたのは23時過ぎだった。
職場から家まで車で7分。
私が47歳で勤めていた印刷会社が倒産し、無職になり、就職するにあたって1番重要視したのが通勤時間だった。
に電話雪の積もる冬になると、職場まで車で2時間かかることもあったから、夏も冬も交通量が少ないので、車で7分と言う工条件で、私は今の職場に決めたと言っていいもちろん研修2週間ほど働いた時に職場の雰囲気が良かったと言うこともあるけれど、やはり通勤時間が短いと言うのは何事にも変え難い。
その日、私が家に帰ってきたのは23時過ぎだった。
飯を食いネット動画を見ているとドスンと言う音が聞こえた。
母親がトイレに行こうとしてソファーベッドから降りたときに、そのまま床に転倒した。
母は2023年の2月まで晩飯を作り、家事をして買い物に出かけたりしていた。
最初の異変は晩御飯の味付けだった。
おそらく豚汁を作ったのだと思うが、味噌が入っておらず、醤油ベースをなんだかわからない。野菜スープが出てきた。
認知症の初期の兆候として、料理の味付けがおかしくなるということがあるらしいと言うのは、新施設の上司から聞いたことがある。
状態は悪化し、深夜の徘徊や不安定な歩行による転倒があったりした。
紙おむつも必要となり、本格的な介護が始まったのである。
要介護認定を申請したのは7月に入ってからだった。
その結果を待っていた7月末の出来事だったのである。
ソファーベットから落ちて転倒している母親を抱えて椅子に座らせると、傾きがひどくそのまま落ちそうになる。
何とか支えようとするが様子がおかしい。
左手に力が入っておらず、立ち上がろうとしても左足は全く機能しない様子だった
母の左手を握り力強く握ってくれるように頼んだが、右手では握れるのに左手は全く力が入らなかった。
これはもう脳梗塞であると判断した。
すぐに救急車を呼ぶ。
救急車が来るまでに保険証の用意と頭痛体が家に入った時に作業しやすいように、母親の周りの荷物を数けた。
玄関の扉を開けて救急車が着するのが待つ。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
救急車がつき救急車状況を説明する。
救急隊の方でも左側の麻痺を確認。
すぐに搬送される。
改行病院に着いたのは、午前3時過ぎ位。
そこから検査が始まり、脳梗塞と確定され処置が始まった。
その後、なんやかんやで処置が終わって、医師の話を聞き、一旦家に帰って本時点で飲んでいた薬や入院準備をして病院に戻り、全てが終わったのは17時だった。
こっちの方が倒れるわ。