杜の里から

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金魚放流イベントは「文化的イベント」なのか?

2016年08月05日 | 雑感
7月16日と30日、大阪府泉佐野市の犬鳴山渓流で行われる予定だった「金魚の放流イベント」に、ネット内から多くの批判が寄せられて炎上し、16日の放流イベントが中止となるという騒動がありました。
この件はマスコミやワイドショーでも取り上げられる事となりましたが、今度はこの批判に対する批判が集中して再び炎上し、最終的に30日のイベントでは、金魚が逃げぬ様下流に網を張ったうえで開催という運びとなりました(→産経新聞より)。

この件に付いて、「生態系への影響」の観点から詳しく解説されたAsayさんのブログと、今回発端となったツイートをされたMistirさんのブログが公開されていて私もじっくり読ませてもらいましたが、自分としては両者ともしごくごもっともという感想を持った次第です。

ただ今回、イベント批判に対しての賛否の意見を見た時に、自分としてどうしても引っかかる部分があり、それについてAsayさんのブログにコメントもしたのですが、そこで語りきれなかった事もあって、それについて改めてこちらで述べてみたいと思います。

イベントへの意見では「生態系への影響」についての批判が特に多かったのですが、中には、「かわいそう」とか「虐待では」という、どちらかというと感情的・情緒的な部分での批判もあり、それを受けて今度はそういう批判に対して「では金魚すくいはどうなの?」という反論も湧き上がりました。
この意見について、先に紹介したMistirさんのブログの中では、ご本人が正直にこう述べています。
「金魚掬いは伝統だからOK、金魚放流はNG」というのは、「金魚の虐待」という観点で切り込むには少々分が悪い気はしています。
Mistirさん自身は、「金魚すくい」も虐待ではという意見に対して異を唱える事は難しい(分が悪い)という立場でいられますが、私がずっと引っかかっていて今回取り上げようとしてるのはまさにこの部分なのです。
ここでは『「金魚すくい」は虐待なのか? なぜ放流イベントはNGなのか?』という問題を、「文化的側面」から自分なりに考えていきたいと思います。


まず結論から申しますと、

 「金魚すくい」は虐待ではありません。

今回の件に限らず、「金魚すくい」が残酷だとか虐待だという意見はしばしば目にします。
確かに、金魚の水槽に網を入れて金魚を追いかけ回すという姿は、批判の目を向けている人から見れば確かに金魚を虐待している様にも見えるでしょう。
しかしながらそもそも「金魚すくい」とは、魚を捕らえる「狩り」や「漁」などではなく、金魚がいる水槽から別の水槽への、金魚の「移し替え作業」なのです。
普通金魚屋などでは、お客さんが水槽にいるたくさんの金魚の中から、
「あの金魚がいい」
と言って注文し、金魚屋さんが金魚をすくって小鉢などに移し替えるという作業を行う訳ですが、それをお客さん自ら行える様にしたのが「金魚すくい」という訳です。
もちろん金魚屋さんも商売ですから、売り物の金魚が手荒に扱われて金魚が傷付いたり、その時のストレスなどですぐに弱ってしまっては困る訳です。
そこで生み出されたのが、すぐに破けてしまう金魚網(ポイ)という専用アイテムです。
これによって必然的に、金魚をすくうには出来るだけ金魚にストレスを与えない様に扱わなければならなくなり、同時にポイが破れるか金魚をすくえるかというドキドキ感が、ただの移し替え作業の中に遊戯としての面白さを加味してくれる訳です。
でもこうした遊び感覚のためにいつしか見過ごされてしまいがちですが、「金魚すくい」の本質とは「いかに優しく金魚を扱うか」であり、「金魚すくい」とはその事自体が問われる「作業」なのですから、よってそこには本来虐待や残酷さなどは存在しないし、また存在してはならないものなのです。
もしこれが虐待だというのなら、水槽の水を交換するために金魚を別の水槽に移すという行為すら虐待だという事になってしまいますが、勿論そうでない事は言わずとも明らかです。

そもそも「金魚」というものは元々観賞用に産み出されたもので、それは自然環境の中ではなく、すべて人の手で管理された人工の環境下で飼育されて、その一生を全うする魚です。
そしてまたこの「金魚鑑賞」というのは、日本独特の「文化」でもあります。

金魚飼育の歴史は古く、それは室町時代に始まり、「金魚すくい」が始まったのは江戸の中頃とも言われています(→参考)。
現在、町内会で開催される様な小さな夏祭りでも必ず見られる「金魚すくい」というイベントは、あまりにも身近で当たり前過ぎる存在なのでつい忘れがちですが、実は「伝統文化」でもあるのです。
昔の風習が次世代に受け継がれ、やがて生活の中に根ざした形になったものを「文化」と呼ぶならば、そういう意味では「金魚すくい」は今や立派な日本文化であるとも言えます。
また、夏の風物詩として根付いていると言えば、「線香花火」も「金魚すくい」と同様お馴染みのもので、多分日本人ならばほとんどの人が子供の頃やった事があるであろうこの「線香花火」もまた、立派な「日本独自の文化」です。
か弱いものに対する思いやりとか、はかないものを愛しむなどという感性は、子供の頃のこうした体験が大きく影響すると思いますし、そういう感性を育む様大人達が子供達に伝えていくのは大切な事で、そういう意味からも「金魚すくい」は「文化的イベント」であり、金魚養殖は「文化産業」としてこれからも継続していくのだと思います。

では今回の金魚放流イベントはどうでしょうか。
本来人工の環境で飼育すべき金魚を自然環境の中に放ち、そこに大勢の人間が入り乱れて、逃げ惑う金魚達を丈夫な網ですくい上げています。
これはまさに「金魚狩り」の姿であって、やってる事は「金魚すくい」とは間逆の行為であると私は感じます。
試しにこれを、人の管理下でしか生きられない室内犬のチワワに置き換えて考えてみましょう。
室内にたくさんいるチワワの中から一匹を選び、おいでおいでしてそれを呼び寄せ、近づいてきたチワワを優しく抱き上げるというのが「金魚すくい」です。
では放流イベントの方はと言うと、突如チワワの群れをサバンナの中に放り出し、それを大声で追い掛け回しながら投げ網で捕獲するという「狩り」の姿と言えます。
イベントに対して「残酷」とか「可愛そう」という感情を抱いた人は多分、あのイベント告知写真を見て思わずこういう状況を思い描いたのではないでしょうか。そして私自身も、その感情は充分理解出来るものです。
このイベントには「優しさ」が感じられません。
日本の文化である金魚を用いているとしても、それがたとえ40年以上続いているとしても、私にはどうしてもこれが「文化的イベント」には見えないのです。


様々なイベントには始まりがあります。
なぜこのイベントが始まったのか。
どんな思いでイベントは行われるのか。
そしてこのイベントは「良き文化」となるのか。

この金魚放流イベントは40年以上も継続されているといいますが、ではそもそも、このイベントを始めようとしたきっかけは一体何だったのでしょうか?
子供達と金魚を戯れさせたかったから?
それならば昔から行われている「金魚すくい」があります。
綺麗になった川と戯れさせたかったから?
それならば放流するのは金魚である必然性はありません。
同じ放流するならば、元々の川魚であるイワナやヤマメなどを放流し、捕まえた魚はありがたく食すとした方が、子供達はより自然の摂理を学ぶ事になるのではないでしょうか(→参考ポスター)。
勿論、それを教えるのは大人の役目であるのは言うまでもありませんが。

今回は、ネットのクレームにより長年続いているイベントが中止させられたという構図が形作られていますが、ではなぜこのような多くの批判が沸きあがったのか、主催者である行政の方は、その背景にぜひ目を向けていただければと思います。
始めに紹介したブログ管理人のAsayさんは、ブログの中でこう述べています。
本イベントは、子供に自然と触れ合う機会をつくる環境教育の場としても見ることができます。企画・主催側にそういった意図があるのかは不明ですが、「池や水槽の中にいる金魚を自然の川に放してもいい、と思わせてしまう」という観点から、環境教育としては悪手だと考えます。
何の疑問もなく40年もイベントが続けられてきたというのは、子どもに伝えるべき大人の人達の方がいつしか、自然にこう思わせられてしまったからなのでしょうか。
しかし一方、Asayさんはまたこうも述べています。
僕が望むのは、主催者である観光協会内や市役所担当課内で「放流イベントの何が問題だったのか」「なぜ抗議が来たのか」「どういったイベントなら環境に配慮しつつ楽しんでもらえるか」……といった建設的な話が進むことです。
この意見には私も深く同意するものです。
長年続いてきたからと言って、それが悪しき伝統となってしまっては何にもなりません。
地元で培われてきた伝統を「良き文化」として後世に伝える事こそが、大人の責任ではないでしょうか。
Asayさんのブログに投稿した私のコメントをここに再掲して、このエントリーを終りたいと思います。
今回の騒動で、温泉街活性化のためのイベントのあり方というものを、今一度考え直す良いきっかけになってくれればと切に願います。

(参考)
・ブログ「紺色のひと」より『「なぜ金魚を川に放流してはいけないの?」から外来生物問題を考える』
・ブログ「MistiRoom」より『金魚の放流は、何故あってはならなかったのか』
・togetterより『泉佐野市「犬鳴山納涼カーニバルの金魚放流」についてのつぶやきまとめ(1)(困惑と驚き編)』
・  〃  『泉佐野市「犬鳴山納涼カーニバルの金魚放流」についてのつぶやきまとめ(2)炎上を受けた感想編』
・  〃  『2016/7/30 大盛況!泉佐野市「犬鳴山納涼カーニバルの金魚放流」イベント当日のまとめ3』
・ブログ「垣屋源八朗の身皮物語」より『金魚すくい今昔』
・「にっぽん てならい堂」より『金魚はどこから来た?!歴史を紐解く「金魚のススメ」』


2 コメント

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Unknown (もも)
2016-08-08 14:47:11
なんか問題になってるなー、と思いつつニュースを見ました。
最初、「放流」と見て、仏教的な放生会とか?でも今はダメでしょー、と思ったらとんでもなかったでした。もちろん反対です。
まず、イヌネコ魚を含めてペットは、ひとのエゴだと思います。ワタクシもエゴで熱帯魚飼ってます。その上で、金魚掬い自体もきわどい風物詩だと思うんですねえ。
イベントは、そもそも獲って帰って飼う前提じゃなかったのか!?という衝撃。いまさら金魚の飼い方とは…。獲った数を自慢するの?密集して口上げしてる魚あわれです。どうせ数日で全滅か、さらなるリリースしかないような。
実はペットショップバイトの経験ありですが。小赤は餌用で流通してるし、生き物扱うならどこかで割り切るしかないとは思いますが、繊細な人には無理です。だから情操教育と言われてもなー、見えないことは幸せね。表向きはソレを感じさせずにお客さんに楽しんでもらうのが本来のショップのあり方。
お祭りなどの金魚掬いの金魚は、普通の観賞用とは別。問屋さんから買うにしても、届くまでの死亡率が○○パーセント、と折り込み済みで買うんです。問屋の質によって死亡率も異なり、値段も上下。命じゃないんですよねえ。あくまで商品。地方のお祭りだとテキ屋さんとかアチラ関係も絡んでくるから、シロートの出番じゃないんですよね。ああいう自治体主催のイベントはどうなんでしょうね。邪推すると、ドタキャン食らった納入業者が(これはこれで大打撃)、せめて後半はやってくれ、と頼み込んだかねじこんだか、諸事的な経緯だったのでは。
悲観的ですが、法律なんかで上から仕切らないとムリだと思います。ひと昔前は縁日のヒヨコ、ふた昔は奇形の見世物も普通だったし、世情に合わせて変わっていくんだと思います。今はペットショップでも、生体販売時には説明義務もあるんだから、放流した金魚獲っただけお持ち帰り、タダでラッキー!は、無くなっても然るべきだと思います。
と、環境への影響とは別に、一所感でした。
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大人の責任 (OSATO)
2016-08-08 22:13:17
いらっしゃいませ、ももさん、お久しぶりです。

仰るとおり、金魚すくいなどで使われる金魚達が実際は餌用のものであるのは私も知っています。
実は近所の夏祭りで、金魚すくいイベントのスタッフをした事があり、その時流通の方と色々お話しし、ある程度の内情は理解しました。

でもたとえそれが餌用だったとしても、金魚すくいはあくまで「飼育」を前提として行うもので、業者の人だって獲った子供達には
「大事に育ててね。」
と言いますし、
「ちゃんとネコにあげてね。」
とは言いません。
安い餌用だろうと高い観賞用だろうと、『大事に育てる』という心は同じはずで、それを教えるのが大人の役目であり責任なのですね。

そして、人の食用となる川魚などに対しては、食べるという行為は他の命を分けてもらう行為だという事、それに感謝するという事をしっかり教えるべきだと思っています(記事中、『ありがたく食す』の部分です)。

これらの観点からも、今回の金魚放流イベントについては、
「意味分からない」
というのが正直な感想です。
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