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織内将男の日 光 讃 歌 

世界遺産の二社一寺などの歴史、文化を育んだ、日光の自然や地域を訪ねます。

東北紀行(5)いわき湯本 「湯本温泉」

2011年01月19日 11時20分58秒 | いわき湯本、二本松
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東北紀行(5)いわき湯本 「湯本温泉」  、








湯本駅と湯本駅前、温泉施設「さはこ湯」


一方、炭鉱にとって煙たい(石炭だから・・?)存在だった湧出する温泉は、逆に脚光を浴びた。
元より「湯本温泉」は、平安初期には開湯されたと言われる。
湯本温泉は「三箱の御湯」と呼ばれ道後温泉、有馬温泉と共に日本の三古泉として名が知られていた。 
但し、一般にいわれる日本の三古泉は、「万葉集」「日本書紀」「古事記」など歴史上の文献に数多く登場している有馬温泉(兵庫)・白浜温泉(和歌山)・道後温泉(愛媛)とされている。

湯本温泉で最も古い記録は、平安中期の延長5年(927年)、延喜式神名帳に「陸奥国石城郡小七座・温泉(ゆ)神社」(通称・おんせん神社)と記してある。 しかし、奈良時代に石城国が設置された時に、その名が記されていることから、開湯はそれ以前の奈良時代に遡るとも言われる。
中世には戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は陸奥・浜街道唯一の温泉宿場町として、来遊が絶えなかったという。 当時、岩城、佐竹、田村氏などの戦国領主が湯本に湯治に来ていたことが記録されている。
また、江戸期には鳥居・内藤氏の所領であった時期、浜に街道が整備されたとき唯一の温泉宿場として大いに栄え、年間約2万人前後の浴客で賑わったともいう。 

当時の温泉は、地表に勢い良く湧出していたとされる。 
だが、明治期になると常磐地区で大規模な石炭採掘が始められ、坑内に湧出する温泉を汲み上げため温泉面の低下を来し、大正期には湯脈が断たれ温泉町として機能を失ってしまったという。 そして石炭産業が斜陽になってからは、再び、温泉揚湯会社を設立し、毎分5トンの揚湯を確保したという。

幸いなことに現在は揚湯にも拘らず、年々温泉面は上昇しているとのこと。
源泉は、石炭採掘の為の後遺症で現在自噴箇所はないが、地下数十メートルぐらいまで湯面が上がってきているといわれ、 揚湯量は毎分5トンを超え、町内の地下パイプを通し各施設に配湯し、浴槽の吐湯口で50度以上を保っているという。 
今で言う、「源泉純粋かけ流し」であろう・・!。
泉質は全国的にも珍しい「含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉」俗称、硫黄泉で、「美人の湯」(美肌作用・解毒作用・末梢血管拡張作用)、「心臓の湯」(血圧を低下させる~動脈硬化、高血圧に効く)、「熱の湯」(高齢者向き~保温効果が高い)を始め数々の効能を併せ持っているといわれる。


湯本駅前から温泉通り沿い、温泉神社前通りに温泉街が広がる。 
旅館、ホテルは駅前地区と御幸山地区に軒を並べ、その数およそ30軒、その他の宿泊施設を合わせると50数件にもなる。 共同浴場は3軒存在し、足湯もある。
その中で温泉神社前にある「さはこの湯」は、日帰り入浴施設として町民や観光客親しまれている。

その絶え間なく噴き出る源泉は、レジャー・保養施設、宿泊施設のみならず、今は一般家庭にまで引湯され、昨今の温泉ブームにのって街は活況を呈しているとか。
特に、炭鉱閉山の後は、同経営母体・常磐興産が大量湧出する温泉に眼をつけ、常磐ハワイアンセンター(現、スパリゾート・ハワイアンズ)なる常夏の大温泉レジャーセンターを設立し、全国にその名を知らしめた。

スパリゾートハワイアンズ」は遊び感覚いっぱいの温泉リゾート施設であ、ウォーターパークといわれる大プール、流れるプール、ワンダーホルンなどの施設があり、特に、中央メーンステージでは、ここの一番の呼び物のその名の如く「フラダンスショー」が定時的の演ぜられる。 
建物は、鉄骨ガラス張りの大ドームが特徴的である。主な施設としては、水着で入るスプリングタウンには中世の南ヨーロッパ風ドームの男女別共同風呂を中心にジャグジー、ミスト、打たせなど各種の風呂もある。 
屋外へも繋がっていて、そこには温泉の川や洞窟プロムナード、パノラマサウナがあって木々や岩などが配され南国ムードを一層盛り上げている。
又、「江戸情話与市」は、ギネスブックに登録されたといわれる世界一広い露天風呂であるとのこと。

次回、映画「フラガール


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東北紀行(4)いわき湯本 「常磐炭鉱」

2011年01月18日 11時21分07秒 | いわき湯本、二本松
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 東北紀行(4)いわき湯本 「常磐炭鉱」  ,


我が故郷「いわき湯本」は本格的な温泉場として全国的にも著名になっている。 そして昔は常磐炭鉱で栄えた街でもあった。
小生はこの街で幼少より20代前半まで、こちらで営々としていたのだが。
ただ、生まれは満州国・奉天市(今の中国東北部・瀋陽)であり、終戦後、引揚げてきて父の故郷である「いわき湯本」へ住み着いたのであった。

いわき湯本の地方は東北地方でも降雪が少なく、比較的温暖な地域で、古くから温泉を抱える保養地として発展した。
又、炭鉱の町として一時期黄金時代を築いたが、1970年代に完全閉山している。 その跡地には1966年に常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)などが建設され、「常磐のハワイ」として人気を誇っているのは周知である。
その過去のものとなった懐古・常磐炭鉱と湯本温泉についてチョッと詳しくのべてみよう。


常磐炭鉱

湯本」は文字通り古い温泉の街である。
そして、克ってはあの「常磐炭鉱」で賑わった炭鉱の街で、日本のエネルギー産業の柱であった「黒いダイヤ」と云われた石炭産出の街であった。
明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。 これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目、期待されたためでもあった。 
昭和中期の頃は、石炭はいくら掘っても間に合わぬ好況ともいわれた。
常磐炭田の鉱山は、常磐地方(常陸:ひたちと磐城:いわきの頭文字を合わせた地名)一帯に広がり、関連会社60社、大小あわせて130の炭砿が稼働し、一時は年間産出量400万トン以上、貯炭は450万トンに達していたという。 

国内の採炭分布では北海道、九州が大勢しかを占めているが、本州では常磐炭田が唯一大規模の採炭量を誇ったという。 
しかし、北海道や九州に比べて硫黄分の多い炭質という不利な条件があり、更に地層が激しい褶曲(堆積当時は水平であった地層が地殻変動のため波状に曲る現象)を受けていた掘削は石炭層を求めて地下へ地下へと掘り下げる必要があり、特別な技術を要する炭鉱でもあった。
遂には次第にコスト的に負担がかかり、各鉱は採算が次第に悪化していったともいう。 
しかも、この石炭を掘り出す際、この湯本地区は同時に温泉が湧き出てきて、掘り出すのに相当に難儀をしたらしい。
その後、化石燃料の変化にともない石炭は次第に斜陽の追い込まれ、経営的にも苦難を強いられ次々と閉鎖していった。 最後まで残った常磐炭砿(後の常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、国内の石炭業自体も1985年に全面撤退している。



写真:石炭化石館

今は、「石炭化石館」として、往時の常磐炭田の採掘の歴史や産出化石をはじめ、地球の歴史を物語るといわれる諸外国の化石資料などを展示している。  
中でも、中生代の「フタバスズキリュウ」という海に住んでいた首長竜の化石がこの町から出土し、原形を復元された姿での化石が展示されている。 その巨大なモニュメントが玄関前に設置されている。

次回、いわき湯本 「湯本温泉


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東北紀行(3)いわき湯本 「白鳥山・龍勝寺」

2011年01月17日 09時21分09秒 | いわき湯本、二本松
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 東北紀行(3)いわき湯本 「白鳥山・龍勝寺」  、






我が家の龍勝寺墓地と阿弥陀堂


序ながら、わが菩提寺・龍勝寺についてチョッと述べてみよう。
いかにも田舎の風情漂う静観な山間に、境内・寺院が在る。 寺院は当地区、旧湯長谷藩の菩提寺でもあったらしい。
「龍勝寺」と同系の寺院で、同地区内の藤原町に「建徳寺」があり、何れも臨済宗の狭義をもち、大本山は京都の妙心寺に置いている。 
臨済宗」(宗祖・栄西)とは禅宗の一派で同系に「曹洞宗」(宗祖・道元)があるが、特に、鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(ぜんでら、禅宗寺院)が建てられるようになったという。
この二つ宗派には広がり方に特徴があるといい、曹洞宗が地方豪族や一般民衆に中心に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権や武士に支持され、政治・文化に重んじられた。
両宗派とも平安末期から鎌倉期に始まり鎌倉、室町に絶頂期を迎えるが一時衰退し、その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。

禅宗とは、一般に座禅を組んで悟りを開くといわれるように、実践的宗教観に裏打ちされたものという。 教義の説明はいくらでも可能であるが、実践がなければ机上の空論という教えだ。
実践的というのは、例えば詩歌や絵画を始めとした芸術的な表現の上にある「悟り」や、芸術以外にも茶の湯や生け花を始めとした立ち居、振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、「悟り」の世界を味わうという手段も生まれているとされる。  つまり、この「悟り」こそ武士道に通じるものとされ、武士の信仰対象として臨済宗が重宝がられたという。 
京の妙心寺各派の寺院もそうであるが、日本でも最初に興ったとされる武士の府である鎌倉には、ご存知、建長寺(建長寺派)や円覚寺(円覚寺派)といった大寺院に代表される鎌倉五山に禅宗文化の華が開いた。


前置きはさておき・・! 、
しかしながら、我が家の菩提寺・妙心寺派の龍勝寺を檀那寺に選んでいるのは臨済宗を特別信仰しているのではなかった。(・・と思われる)それは江戸期に発布された「寺請制度」(檀家制度ともいう)によるものと推察される。

「寺請制度」とは、江戸初期の頃の徳川幕府の施策であり、当初はキリスト教禁制を徹底させる目的で、人々を寺院に帰属させ、証明させた制度であった。 従って、発令された後は、必ずどこかの寺院の檀家に属さなければならず、葬式も仏式を強制させられた。
寺院では現在の戸籍に当たる「宗門人別帳」が作成され、併せて出生・死亡・旅行・移転・婚姻・奉公などの今で云う戸籍届けや変更も義務付けられた。 つまり、これら個人情報を寺院が管理し、生活をも監視するシステムであった。
これらによって各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院には一定の信徒と収入を保証される形となった。

しかしながら一方では、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教示を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団(未だ神仏習合の時代)が幕府の統治体制の一翼を担うこととなる。 僧侶を通じた民衆管理が、法制化され事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなってしまったともいわれる。(現代で言う官僚機構の腐敗)  この事が、明治維新時に極端なまでの「廃仏毀釈」を招く結果になったともいわれる。

しかし民衆は、「寺請制度」が先祖代々その家の宗教として受け継がれ、現代でもお葬式の約8割は仏式で行なっているという。 元々日本は神の国であり、本来は神式の葬式が仏式よりも多くなければおかしいが、現代でも仏式が圧倒的に多いのは江戸時代より供養は仏式という構図が出来上がってしまっているからだという。
つまり我が家を含めて一般に、檀那寺と檀家の関係は信仰心に関係なく、或は、半強制的に入信させられて、その地域の寺院に帰属したのであった。


参道から山門をくぐった左手に「阿弥陀堂」が在り、ご本尊は珍しく胎内に納めた「腹ごもりの阿弥陀尊」という弥陀三尊が安置されている。 
阿弥陀堂の建立は明治42年といわれるので決して古くはないが、この小さな「胎内仏」そのものは作者、年代ともに定かではなく、かなり古いものだと推測されている。 
一般的に胎内仏は、亡くなった人の冥福を祈って仏像を造るとき、故人がいつも祈っていた小さい仏像をその中に納めるもので、平安時代以降にそれらの傾向がみられるという。 
彫像のほかに摺仏(すりぼとけ:仏・菩薩などの絵を、紙や布に木版刷したもの)、画仏を納めた例もあるらしい。

この寺の胎内仏には、「見ると目がつぶれる」という奇妙な言い伝えがあるとも言われる。
その訳は何となく判るような気もするが・・?。 
やはりというか、普段は堂内の安置所は閉ざされ、仏像を見ることはできない。

因みに、阿弥陀三尊とは阿弥陀如来を中尊とし、観音菩薩を左脇侍、勢至菩薩を右脇侍とする三尊形式である。 観音菩薩は阿弥陀如来の慈悲をあらわす化身であり、勢至菩薩は知恵をあらわす化身とされる。 
なお、この場合の「左」「右」とは中尊から見た「左」「右」を指す。
お寺は臨済宗妙心寺派で、本山は「京都・妙心寺」である。

その菩提寺・「龍勝寺」からほんの2km足らず、5分ほどで湯本名物・「スパリゾートハワイアンズ」が丘陵地の一角に、華やかな別世界を形造っている。 これは後ほど
 
次回、「湯本温泉と常磐炭鉱



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東北紀行(2)いわき湯本 「最近の霊墓事情」

2011年01月16日 09時32分30秒 | いわき湯本、二本松
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 東北紀行(2)いわき湯本 「最近の霊墓事情」  ,


墓地、墓標といえば、しばしば寺院、霊園などの広告に永代供養を謳うものが多い。 だが、「永代」という言葉の使用によっては誤解やトラブルが多いらしい。 実際には10回忌、30回忌や50回忌までといった内規制限がある場合が多く注意が必要ともいわれる。 又、霊園の倒産、寺院の廃寺などによりこの「永代」も保証される訳ではもちろんない。
元来が永代供養というのが、江戸時代に檀家の減少を補う目的で僧侶が発案した商業手法であり、本来は毎月の命日に小額ずつ受け取っていたお布施をまとめて集金する当時の新システムなのであった。
現在の永代供養もその名残であるが、商品である以上、言語表現の誤認防止や費用の表示の透明化など早急な法の整備が望まれているという。

尚、墓苑、墳墓、墓石は遺体や遺骨を埋葬する場所は「築く」といい、その位置や故人の名を刻んだ墓石や塔は「建てる」という。
これを建てた人という意味で建立者の名を刻む場合は、ほとんどが「建之」の字を当てられる。 何れにしても、墓地は生前を明かす、故人となった記念の碑でもある。

日本では、墓前の法要や年中行事になっているお彼岸やお盆といった風習があり、周回の法要や時の春秋の中日を境に墓参して霊を祀ったり、「霊が先祖帰りして子孫と交流する」といった行事が古来から存在する。
特に、春分の日・秋分の日がそれぞれ国民の祝日となっているように、日本独自の仏教行事であり、「国民の休日に関する法律」には、「先祖を敬い、亡き人を偲ぶ日」とされ、本来一家揃ってお墓参りをすることが行事の一つとなっている。
この祭り事を現代人は国民の休日は忘れないが、これら行事についてはつい忘れがちか、故意に葬り去ってしまう傾向があるようだ、大事にしたいものである。

何れにしてもお墓参りをする機会があり、それを実行することは個人やご先祖を懐かしみ、亡き人の徳を追憶し、冥福を祈ることである。(追善供養) そして、合わせて「己の功徳を積む」ことにもなる。 
それは仏教界の教えばかりではない。
日本人として霊の証しとなる墓碑を持ち、定期的にその地へ訪れ、霊を祀る心だけは失いたくないのである。

次回、白鳥山・龍勝寺



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東北紀行(1)いわき湯本 「田舎墓参」

2011年01月15日 08時41分25秒 | いわき湯本、二本松
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 東北紀行(1)いわき湯本 「田舎墓参」  ,

在住が神奈川県厚木市であるため福島県の「いわき」へマイカーで向かうのには、東名高速、都心首都高速、そして常磐高速が一般的である。 ただし、東京都心が渋滞する場合は、最近(2010年)完成した大橋JCTから中央環状線を利用して三郷JCTへ迂回するルートもある。
今日は日曜日の早朝でもあり前者がよかろうと思い、無事渋滞も無く通過することができた。

6時過ぎに自宅を出発し途中、常磐道のS・Aでゆっくり朝食を摂りながら、我が故郷・いわき市湯本へ着いたのが午前11時前には着いてしまった。 
いわき湯本ICから10分もしないで本家(父親の出生地)に到着、仏前と主人へ挨拶、少々の談話を交わす。 その後、白鳥町の菩提寺・龍勝寺の墓地へ向かい、簡単な清掃と献花、焼香、拝礼を行った。

田舎の墓地、墓参 ,
年に最低一度と心得て、田舎の地への墓参であった。
我家の両親と兄弟が眠る墓、墓地は福島県いわき市白鳥町の寺院にある。 だが現在、我が家族は神奈川県周辺に在住していて、墓地と在住地は遠隔の地である。 従って、お墓の管理とお墓参りは疎遠になりやすいが、最低でも年に一度は参ろうと心に決めている。

ただ、有難いことに我が家の親類縁者(従兄)がお寺の近隣に在住しているので、お墓の管理などの面についてはチョッと甘やいでいるのだが。
しかし、何れも高齢の身になりつつあり、次世代になって遠隔地にある墓地はどうなるのか、些か思案するところでもある。 遠地にある墓苑、墓地は年月が経るに従って、無縁仏に成るようなことも最近では報じられていて、そのようなことは余りにも忍びないのである。

因みに、一般に死者は火葬され、墓に葬られ、子供や兄弟など親類縁者によって供養されるが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅などによって無縁化する場合が出てくる。
こうして埋葬者が無縁仏となった墓は大都市の霊園では約10%を超えるほどあるともいわれ、供養塔や無縁仏のみを集めた無縁墓地に合祀されたりする。
無縁仏は、「三界萬霊塔(さんかいばんれいとう)」という石塔に埋葬されているところもあるという。
たとえ数代は供養する子孫が続いたとしても、縁者が遠方に移転したり、代が途切れたりすればいずれ無縁仏と化す。 確率論的には子々孫々まで供養される可能性の方がはるかに低く、全ての墓はいずれ無縁化する運命をたどるともいわれる。
一部にはこうした考えを背景に墓など作らず、自然葬や海洋散骨などの方法で、直接遺骨を海、山などの大自然の循環の中に返させようとする人々もあるようだ。
これは都市部などに見られる墓地不足、墓園や宗教団体の商業主義に対する反感、宗教観の変化、核家族化、少子化による管理維持への不安なども背景にはあるのだろう。

次回、最近の霊墓事情



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